06/20/18

utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire

Intitulé : « Utilité des approches artistiques pour la sensibilisation sur la philosophie alimentaire : la santé, la sécurité, la saturation ou la pauvreté ? »

Introduction
Dans mon intervention, je souhaiterai mettre en lumière l’utilité des approches artistiques pour nous mener à une meilleure compréhension sur les politiques alimentaires, notamment la mise en œuvre et la présentation pour un grand public l’œuvres médiatiques dont un film documentaire dans le but de sensibiliser le public à la philosophie alimentaire – la santé, la sécurité et la distribution non-équilibrée dans une société de consommation globale. Étant critique d’art et chercheur d’art contemporain, mes approches font face aux problématiques abordées dans ce colloque « Politiques agricoles et alimentaires : trajectoires et réformes » différera des approches basées sur les disciplines principalement concernées ; Nous nous référerons à différents travaux d’artistes réalisés dans le but d’une évocation critique pour leurs spectateurs internationaux.
Le but de mon intervention est donc de réfléchir sur les éventuels moyens par lesquels l’art (soit les approches artistiques, soit l’intervention de l’artiste, soit les expériences esthétiques) peut contribuer aux politiques agricoles pour lutter contre la pauvreté, la sécurité alimentaire (la conservation et le bien-être des animaux) ainsi que le changement climatique afin d’améliorer l’ensemble de la situation alimentaire qui nous entoure quotidiennement ainsi que la conscience publique à propos de toute l’action de la consommation alimentaire dans notre société.
Je souhaiterais souligner la portée considérable d’une telle expérience esthétique auprès d’un grand public ainsi que l’importance de la reconnaissance de son utilité afin de promouvoir la construction d’une infrastructure pour de possibles collaborations avec les artistes, encourager le public non-expert dans les domaines concernés pour qu’il soit mieux informé et contribue à l’amélioration de la situation actuelle. J’aborderai la nécessité de créations des plateformes de communication permettant aux chercheurs, agriculteurs, vendeurs, consommateurs et autres potentiels acteurs de s’exprimer pour une meilleure compréhension mutuelle.
Je me référerai à trois projets différents artistiques et analyserai leurs enjeux ainsi que les portées sociales. À travers la réflexion sur chaque challenge, je mettrai en lumière la contribution des arts aux politiques agricoles en tant que propositions originales pour le futur plan de l’évolution agro-environnementale.
Premièrement, j’introduirai un film intitulé « We feed the world » (2005), réalisé par Erwin Wagenhofer, documentariste autrichien. Deuxièmement, je présenterai le documentaire « Les Glaneurs et la Glaneuse » (2000) d’Agnès Varda. J’aborderai la difficulté de la mise en place de politiques alimentaire face à certains risques alimentaires telle que la pollution environnementale qui impacte sur la sécurité des produits. À ce propos, j’analyserai l’œuvre de Tadashi Takamine, artiste japonais, intitulée « Japan Syndrome » (2013).

Japan Syndrom vers. Yamaguchi extrait: https://www.youtube.com/watch?v=pno2chQGmcM

04/22/18

食生活について考えること1/ pensée sur la manière de vie « alimentaire » 1

最近とても考えていることがあって、最近考え始めたわけではなく遡ればとてもとても長いこと関心を持っているけれどもなかなかどのような形をとるのかが長いことわからなかったという感じです。それは食生活に関することであり、何をどのように摂取して日々暮らしていくかということであり、どのような選択をし、どのように振る舞い、どのような考えを貫くかということに関わります。
あまりに長いこと色々と考えてきた主題なので、一刀両断的なさっくりした物言いで何かを綴ることが今もまだできないのですが、とりあえず、今回はパンを作っていることについて書きます。

パンは私の常食でもあり、ヨーロッパでは日本のお米を頑張って食べようとするよりも美味しい小麦も手に入りやすいように思います。湿度の高い日本より保存に適していて、同様に手に入りやすい他の食材や料理に合うのはもちろんのことです。私は正真正銘のチーズ好きで、パンとチーズがあれば何日も文句を言わず食べ続けることができます、というのも大げさではなく私は14、5年前からほとんど肉を食べない生活をしていて、今でも実家の札幌に行ってあまりに美味しいお魚が食べらられるときとか、どこかに食事に行ってお魚のお店に行ったときとか、招待されてお魚のお料理が振る舞われたときとか、そういうときくらいしか魚の肉も食べません。ただしこれは、世の中の多くのエコ・ベジタリアンの人たちが「動物のため」と語る理由とはなんの関係もなくて、匂いと味が得意じゃないのとうまく消化できないことが多いからです。つまり好みの問題にすぎない。もちろん動物についてあるいは食肉の産業について思っていることはたくさんあって、それはまた別の時に書きます。

パンは古代エジプトの人々が偶然酵母の発酵を発見して以来、サイエンスとしてわからなくてもしゅわしゅわした液種(あるいはすでに粉と混ざった元種)を小麦粉と混ぜて焼いたら膨らんだので、遡ること遥か昔からいろいろなところで作られています。

私がやっているのは自然酵母と呼ばれるつまり野生の酵母を使う作り方で、ドライイーストを使ったりそのほかの膨らし粉的な粉を一切使わないパン作りです。

さらに、パンを作っている目的は色々あるのですが一つに家族の食育というかできるだけ良さそうなものを食べようとする努力があげられます。従って、私たちの満足中枢に訴えかけるありとあらゆる手段を使った美味しいパンはいくらでも作る手段はあるのですが(例えば、塩分の多目のパン、バターやクリームの入ったパン、卵の入ったブリオッシュのようなパン、砂糖の多いふわっとしたパンなどなど)、私はひたすら油脂ゼロで塩分は控えめ、糖分は砂糖を加えるのではなく小麦に任せるようなパンを作りたいと思っています。

私たちは、パン屋の十分にしょっぱくてフワッフワでクラストのパリパリっとしたバゲッドや、甘くてしっとりしたバターの香りのするパンに慣れきっていて、自然酵母の全粒粉の低温長時間発酵のじっくり育ったパンにはひょっとしたら慣れていません。時には味が薄い?と思うことすらあるでしょう。でもその点は妥協したくないと思う。自分が食べたくないものを作りたくないし、食べたくないものを家族や友人に食べさせたくないと思う。かといって、手作りパンというと膨らんでなかったりあるいは無理やり膨らんでいたり、所詮はパン屋のプロのパンより美味しいことはありえないというか、色々具を入れたり(おかずパンとか、揚げパンとか、カレーパンとか)することが多くて生地自体はそんなに追求されていないことが多い。でも先にも書いたけれども、毎日のパンは基本の食事で、それらが糖分塩分油分過多などありえないことですよね。生地自体がすごい美味しくて何も入っていないパンが美味しいというのが良いと思っています。

もう一つは時間のことです。私がパンをある意味で実験的な関心を持って作り始めたのはきっかけは少しまとまった時間を家で見出すことができたからです。色々やってみてうまく行ったり行かなかったり、種類の違う実験を同時に行うにはまとまった時間が必要でした。だからこの機会に感謝しています。ですが、それはそれ。私の食糧に関する実験は同時に芸術的な活動のコンセプトにも繋がっていて、かねてからやりたかったことの一つです。だから実験と経験には時間が必要です。でもそれはそれとして、毎日の食事のパンを作ることとは違う問題です。私は料理を日常的にやっていますが、段取りには気をつけています。特に、同時に多くのことをするように訓練してきたし、パンも同じです。パン作りは、発酵の時間や捏ねの行程などのせいで、すんごい時間がかかってめんどくさいと定評があります。例えば、冷凍食品をチンするより簡単だというつもりはないけど、正直、そんなめんどくさいこともありません。家にいなきゃできないんでしょう、外で働いてたらそんなことできんわ、ということも実はない。発酵は冷蔵庫の中で静かに放っておいたらでき、捏ねの行程もパンによって様々だから、時間のない時のパンを選べば、全く問題にならない。

パン屋でパンを全く買わなくなってしばらく経つのですが、今の所しばらくこのまま続いていくと思っているし、そのことが自分自身の食糧についての考え方にも矛盾のないことが良いことだと思っています。

またこのテーマで記事を書いていこうと思います。

ちなみに、ページ:expérimentation culinaireに写真を少しまとめて載せたのでよかったらご覧ください。

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04/21/18

Bettina Rheims « Vous êtes finies, douces figures »

つい先日にBettina Rheimsの展覧会 »Détenues »についてポストをしたばかりなのですが、Quai Branlyでも6月3日まで彼女の展覧会が見られます。展示スペースのコンパクトさと共存するオブジェとのコミュニケーションを効果的にするため写真は全てポラロイド。

Link:http://www.quaibranly.fr/fr/expositions-evenements/au-musee/expositions/details-de-levenement/e/bettina-rheims-37856/

この展覧会は、Bettina Rheimsが2014年に実現したシリーズ »Heroïne »

展覧会タイトルは « Vous êtes finies, douces figures »、このフレーズはローマ帝国の詩人ペトロニウスの詩からの引用であり、ウクライナで起こったフェミニズム運動フェメンに参加した一人の女の体に刻まれている。シリーズ »Heroïne »では、一つの岩のようなオブジェを巡るポーズをそれぞれの女たちがとっており、それは一つの<カリスマ的信仰を駆り立てる台座>の役割をする。あるいはその岩はまた、 »Détenues »において写真家が浮き彫りにしたような、囚われていること、自由の身ならざること、というテーマを浮かび上がらせる。女たちは皆、岩にまとわりつき、逃れることのできない、逆らうことのできない、何かに取り憑かれたように、ポラロイドの写真に現れる。

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04/21/18

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04/16/18

Sophia Coppola あどけなさの美学 ユリイカ ソフィア・コッポラ特集

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『ユリイカ』の2018年3月号ソフィア・コッポラ特集に、論考を書かせていただいた。論考のタイトルは「ソフィア・コッポラ作品における(美/)少女表象ー少女プロパティとしての<あどけなさ>の美学、あるいはその希望と絶望」。詳しいことを言わないときは、スカーレット・ヨハンソンのあどけないパンツ姿の破壊力について書いた、とはしょって説明することにしている。実際にはもうちょっといろいろなことを書いたつもりだ。

こちら! http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3143

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ソフィア・コッポラ作品といえば、音楽がおしゃれだし、ファッションもおしゃれだし、女優が美人だし、さらには出演する女優たちが少女時代(10代前半とか半ばとか本当の少女時代)からいくつかの作品にまたがって異なる役を演じて行く間に大人になっていく様子を追うのもなかなか魅力的なのだが、実は、小説からの映画化とオリジナルのストーリーと、実話を基にした着想と、異なる性質のオリジンの作品を時代順に見ることで見えてくるものもあるし、やはり違うものとして考えないとわからないこともあるだろうと思う。

小説の映画化ではヴァージン・スーサイズもビーガイルドも本当に共通点が多い。というのもストーリーの性質上そこにソフィア・コッポラ性を織り込むのであればきっとそうだろうなと納得のシーンしかない。そういった意味でビーガイルドはソフィア・コッポラ作品として実はそんなに素晴らしいとは思えずにいる。もちろん、「らしさ」の点で爆発してはいる。

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「マリー・アントワネット」も「The Bling Ring」も実在の人物や実話に基いた話がコッポラ的解釈を通じて語られていくのだが、「マリー・アントワネット」におけるその時代的な王族女性の役割を描いているにも関わらず、それがあたかも今日的な女性の抱える様々な問題にもつながっていくように感じさせる描写は巧みだと感心してしまう。The Blign Ringでは、主人公でスター宅空き巣犯のリーダーであるレベッカの<On>(犯行がうまくいっている期間)と<Off>(身を隠している期間)の落差が素晴らしいと思った。

以上はほとんどユリイカの論考の中では口にしていない事たちだ。たくさんのことが言われることができるだろうし、実際、このユリイカ特集では他の執筆者の方の論考もとても興味深かった。
もしよかったら論考を読んでみていただけるととても嬉しい。
シャルロットのパンツ姿と半開きの口の破壊力についてのテクストであり、ファンタズムを暴いてぎゃふんというのを聞きたいなと思って書いているテクストである。

04/16/18

Banksy / バンクシー @amsterdam 2018

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イースターの週末に、ゴッホ美術館へ行くのが一つの大事な目的でアムステルダムへ赴いた。ゴッホ美術館は、美術館が集まっている地区にあり、全く幸運な巡り合わせで、Mocoで開催中だったBanksyの展覧会を観ることができた。
Link: https://mocomuseum.com/exhibitions/

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バンクシーは、ラクガキ(無断でペイントを行う)「ストリートアーティスト」として今や世界に名を轟かせているがご存知のように個人としてのアイデンティティは隠しまくっていて、今となっては「ストリートアーティスト」と呼ぶにはどうなのかと思うほどの大規模プロジェクトを手がけているにも関わらず、その素性は知られていないことになっている。

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反戦争や政治的なメッセージを込めたラディカルなペインティングで知られるバンクシーだが、美術館での展示となるとそれはまた奇妙なものであって、いうまでもなく美術館で展示するということは、あるいは展示空間で作品として展示するということは、コンクリートの壁を切り取ってきてそれをガラスケースに入れたり、工事の時に用いる三角コーンや道路標識なんかもそこから取り除いてきてしまって「バンクシーのペインティング」として鑑賞するということで、グラフィティとかストリートアートがそれらたることを考えるとなんだかな。とも思わざるを得ない。

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様々なプロジェクトで知られるバンクシーだが、反戦や政治批判に加え、資本主義社会批判や風刺のペインティングも多い。同時に彼のアイディアは世界中で反復され、多種多様なグッズと化して消費のサイクルに取り込まれ、このような大きな美術館での展覧会にで入場料を支払った人々によって鑑賞される。

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文脈からひっぺがしてきたものということを考えると、そもそも我々が鑑賞する多くの彫刻や宗教界がや肖像画なんかももちろん文脈からぴっぺがされて冷静な観衆によってまじまじと見つめられることになったモノたちだ。

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それでもやっぱり、描かれたコンクリの壁を切り取って、それをコンテナで送って、その労働力とか費用とかを思い、アムステルダムの美術館地区にガラスケースに入ってその分厚いコンクリート片が大事に入れられていたりすると、美術は改めてハリボテの遊園地みたいな仕組みで演出されているのかなと思う。いけなかったけど、Banksyが2015年に手がけたイングランドのDismaland、経験してみたかった気もしてくる。

04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

04/15/18

Martin Margiela 1989/2009 @palais galiera

Martin Margielaの回顧展がパリのガリエラ美術館で開催中である。
会期:2018.03.03 – 2018.07.15
本展覧会は、アンチ・ファッション、あるいは異なるファッションを実験し続けたデザイナー、マルタン・マルジェラの30年間(1989年から2009年まで)を包括的に振り返る大変貴重な機会である。マルジェラはメディアにほとんど姿を表さないし、インディヴィジュアルとしてとことん謎めいたアイデンティティを貫いているが、世代としては1957年ヘンク生まれ、アントワープ王立芸術学院に学び、アントワープ・シックスと同期である。そのスタイルには、ボロルックあるいは黒のアンチファッションを作った川久保玲の影響や、フラットの構造にこだわった三宅との共通点を感じさせるアイディアなど、パリのモード界で活躍した日本人デザイナーとのインタラクションが見て取れる。そもそもマルジェラの足袋ブーツは基本ルックといってもいい。履いたことが無いのではき心地がいかなるものかわからないが、硬いブーツで足袋的に足指が割れている履物とはどんな感覚なのか、ちょっと興味がある。

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私がマルジェラに興味を持ったのは、言うわずもがな著名なカビドレスのコンセプトを知ったのがきっかけだ。白いドレスやシャツにバクテリアや菌類が培養されて時間がたつにつれて展示された衣服たちは紫とか茶色とかオレンジとか黄色とか、美的な点から見ても美しい色彩を帯びて朽ちて行く。これはロッテルダムMUSÉE BOIJMANS VAN BEUNINGENで1997年に発表されたコレクションだった。
当時のリベラシオンの記事がこちら:http://next.liberation.fr/culture/1997/08/04/margiela-du-moisi-dans-le-froufroule-couturier-expose-un-vrai-projet-artistique-a-rotterdam-martin-m_213787

また、関心を持ったのは衣服のありうべき形態のラディカルな覆しである。小学生の時、古着リメイクが流行し、いわゆる個性派ファッションというものに憧れて、古くなった服を切り刻んだり縫ったり組み合わせたりした。着られるものもあったが、着れられなくしてしまったものもあり、そんな時は自分の技術と計画の浅はかさに嫌気がさしたが、もっとも深刻だったのは、自分が着られると思っても世間的に社会的に着られない状況に出会った時である。具体的にいえば、着てたら変だといわれ、そこで頑張ればよかったのだろうけれどもそんなに変ならば仕方ないかと折れてしまったこともある。マルジェラの提案するスタイルを改めて見直すと、服を着ることに希望を感じる。

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アメリカの昔のものだそうだが、非常に大きなサイズのトルソ。またマルジェラは梱包に使うビニールシートやスーパーのビニールシートみたいな着心地も目的も無視した、しかし面白い素材を発見し続けた。

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誰がタイツやストッキングは隠されていないといけないと決めたのか。タイツでシャツインするスタイル。

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有名な、靴下から作るセーター。靴下はむしろセーターを作るためにあらかじめ存在していたのではないかと疑いたくなるほどにずば抜けた発見だと思う。マルジェラはこの手の、既に出来上がった形の組み替えや分解、誇張やデフォルメを得意とした。

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イッセイミヤケを思い出させる平面トレンチ。簡単そうに見えるが実際によく考えてみるとやっぱりそんなに簡単にはできそうにない。でもそれを纏う感じは大変きになる。

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どうしても好きなのは袖ずらし(袖の四本ある)トレンチ。袖は腕を通すという目的のためにあり、腕の形をとっていて、我々は腕が二本あって、という全てが身体のために計画されているのが基本的な衣服のあり方である。それを覆そうとする試みには色々なジャンルがあるように思える。例えば、全く見たこともないフォルムを作ってしまおうと頑張るというのは、割と常套手段だろう。マルジェラはそれに対して、何も作らないことを選んだように思える。ポケットとか袖とか、襟とかウエストとか、作り方がわかっていてそれがなんであるかが誰にでもわかるものが急に別の目的で使用されたりあるいは目的が失われたりする。

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新しいものを作ろうとすることの多い芸術的な分野にあって、作らないことを選ぶのはそれだけで反抗的ですらある。リサイクルや既製服の組み合わせのアイディアを提唱しつつも、ある矛盾があるとするとすればそれは、ファッションの提案者としてそれを発表し続けることはそれだけでおぞましい材料を使い、ゴミを出し、労働力を貪って、消費社会に貢献することだろう。

マルジェラの展覧会は、服を着ることや着るものを選ぶこと、着たいものをいかにして得るかを久しぶりに思い出させてくれた気がするし、そして着ている身体が社会に現れることのテンションや摩擦を少しだけ楽にしてくれたような気がする。

04/2/18

Rencontre avec Natsuko Tanihara

IMPOPRTANT (11 avril 2018): Pour les raisons des mouvements à l’Université, j’ai du regret de vous annoncer l’annulation la rencontre avec Natsuko Tanihara qui était prévue aujourd’hui à 19h. Les nouvelles informations (date/lieu) seront communiquées dès possible.

J’ai le plaisir de vous inviter à la rencontre avec Natsuko Tanihara, le 11 avril à 19h à Saint-Denis Université. Nous allons entendre ses concepts artistiques et la présentation de son travail. Entrée libre, tenez moi au courant si vous êtes intéressés de nous joindre.

パリに滞在中の画家、谷原菜摘子さんをお招きしてお話をお伺いします。4月11日19時よりパリ第8大学にて。どなたでもお越しください。ご質問、ご連絡は大久保までお願いいたします。

homepage:http://taniharanatsuko.wixsite.com/tanihara-natsuko

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