08/2/16

The modality of contemporary narratives in the digital era

I share another presentation I did in the 20th International Congress of Aesthetics, Seoul National University, on 27th july 2016.
This study concern the act of writing via digital devices such as smartphone or social networking platform such as blogs. I focus on its objectives and utilities or positive impacts on the contemporary society.

If you are interested in the topic and in discussing further more, please contact me (garcone_mk atmark yahoo.co.jp). I will be happy to make collaborative projects or possible experimental works.

Abstract:
The modality of contemporary narratives in the digital era
Miki OKUBO

Narratives written not only by artists but also by amateurs have never been so easy to carry out, exhibit and share. Individual engagement in writing personal narratives has become a mundane, commonplace undertaking. We have a vast array of means available to realize our intimate storytelling, including traditional and modern medias and advanced technologies: keeping a diary or a blog, writing a novel (either traditionally or for Twitter or Smartphones), making notes on Facebook then sharing them with “friends”, “tweeting” frequently via Twitter, creating a visual novel, and so on.

Despite this ease of access to platforms and the disposition of media, authors have no chance of becoming a celebrated author. In our highly information-oriented society, it is extremely difficult for individuals to manage to have their writing read by numerous readers. That is why today ordinary people engage in excessively intimate writing (about family situations, love, illness or mental affliction, etc.) without causing a scandal, making a strong impact nor even embarrassing others. Determined confessions are viewed with indifference by others. All that these ordinary “authors” can expect to gain through their personal, self-centered writings is a kind of auto-therapy or satisfaction for their human narcissistic desire.

In this study, we also observe an important current trend in narrative structure. As Hiroki Azuma mentioned in his book, The birth of realism like games (2007), contemporary literature has been gravely influenced by video games or online games and shares several characteristics: emphasizing characters’ presence, recycling repeatedly stereotypical scenarios, combining fragmented scenes. The novels have been written similarly to games, adopting their dramaturgy and staging. In other words, the changes undergoing modern writing concern not only ordinary, individual people but also the literature domain. The influences are complementary to each other; literary works and digital writing.

Through my presentation, I will construct a new aesthetic theory of contemporary narratives in the digital era, referring to what we observe on the Internet through different realizations via new media in order to understand the utility and the signification of the act of writing.

Keywords: digital, writing, blogs, social media, character, twitter novel, keitai culture, narrative.

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08/2/16

Aesthetics of “robotized body” in the representation of Aidoru’s (popular singers’) costumes

Here I share the abstract of my presentation I did in the 20th ICA july 2016 about the robotized costume regarding of the recent trend of body consciousness. If you are interested in the topic, you are very welcome to contact me for further discussion! (to garcone_mk atmark yahoo.co.jp)

The 20th International Congress of Aesthetics, July 24-29 2016, Seoul National University
Intervention by Miki OKUBO, 26 july 2016

Abstract:

Aesthetics of “robotized body” in the representation of Aidoru’s (popular singers’) costumes
MIKI OUBO

In the new media environment developed over these past few decades, our body consciousness, from ontological, aesthetic and sociological points of view, has been radically modified. Throughout diverse experiments (virtual reality, augmented reality, video games, simulation, avatars, etc.), our body image today differs vastly from that of previous eras. Cyborgs, humanoids and humanlike-robots that were classic imaginations of SF films have become real thanks to advanced technologies.

In my presentation, I would like to investigate one emerging “ideal body” trend in our mass cultural environment. The observation of costumes of popular singers called “Aidoru” will allow us to understand what human beings consider “an ideal” body shape.

“Aidoru” is a Japanese word meaning “young star singer(s).” These performers, strategically staged commercially since the 1970s, are characterized by their particular style of dance, music and costume. One pioneer example of Aidoru wearing a robot-like costume is the female duo, Pink Lady, popular in the second half of 1970s. The metallic colored costume for one of their hits, UFO, featured mechanized body traits reminiscent of a spacesuit. We can also think of cone-shaped bra designed by Jean-Paul Gaultier for Madonna in the 1990s, which brings to mind a strange humanlike robot. As for a more recent example, the dance style of trio Pahyumu (Perfume, is characterized by unique, inhuman, and unnatural mannequin-like movements. Their costume also resembles spacesuits and their music is electro. There is no need to look for particular singers specifically oriented to the robotic style, this costume trend is shared by a large number of Aidoru.

This trend of aspiring towards a robotic-like body is worrisome. It doesn’t just signify an appreciation for simple physical imitation of cyborgs through costume games, but ontological pursuits of self-image. Analyzing these costumes will help us understand the signification of human body representation from aesthetic and anthropological points of view. Throughout my presentation, I will construct a theory of body consciousness and its representation to reveal the strangeness of idealized body image.

Keywords: robotized body, idol, aidoru, cyborg, humanoid, android, Pink Lady, Lady Gaga, costume, cosplay, character, body image, body consciousness.

LadyGaGa-Metropolis Perfume 4 TR-5

05/16/15

少女文字の研究! @日本記号学会 「美少女の記号論」

美少女の記号論、昨日から始まっています!
日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学、今日の朝10時から、少女文字について発表します!

「自己表象としての筆致―書くことと書かれたものへのフェチシズム、現代のスタイルとは何か」
大久保美紀
<要旨>
「書く」行為は、今日の情報化社会において〈電子的に書く〉=〈キーボードを叩いて文字を入力する〉という新たな意味を帯びる以前、長い間、我々の身体的動作と深く結びついていた。研いだ石を用いて石板に傷を付けるのであれ、墨を含ませた筆を木簡に押し付けるのであれ、あるいは、ペンを紙の上に滑らせるのであれ、書く動作は書かれたものを生み出し、書かれる対象は、何らかの不可逆の作用を被る。例えば、ひとたび文字が綴られた石板は何世紀経っても内容を伝え、公的文書が書き記された木簡や巻物は、今日も重要な歴史的資料として保存されている。また、あたかもその不可逆性をキャンセルしてしまう発明のように見える〈鉛筆/消しゴム/紙〉による記述は、なるほど、書いたものを擦り取った後にまたその上から書くことが出来ると言う点で、それ以前の使い捨ての媒体とは一線を画すが、それもまた、鉛筆の筆圧による紙面の物理的変容や消しゴムの摩擦による紙表面の綻びを考慮すれば、伝統的な「書く」行為の枠組みを出ないと言わざるを得ない。

「書く」行為の物理的軌跡である「筆致」がしばしば、個人的で親密な表現と見なされるのは、上に述べたように、この行為が身体性に深く根ざしているためである。日本社会では、個人の筆致(あるいは筆跡)が、ある個人のアイデンティティを確定する一要素であることを越えて、その個人の属するコミュニティーを確定する特徴としての役割を担ってきた。例えば、1980-1990年代に女学生の間で流行した丸文字(丸字)や、2000年代のギャル字、あるいはヤンキー文字やグラフィティー文字。ある特定のコミュニティーのメンバーによって共有されている特定の字体を身体的鍛錬によって習得し、その字体を「書く」ことは、すなわち、自分がそのコミュニティーに属するのだという、外側の世界に向けて意思表明することを意味した。

あるいは、丸文字やギャル字という特定の字体を追求しなくとも、日本社会における個人の「筆致」が、アルファベット言語圏と比較すると、高度にフェティッシュな表現として認識されていることは特筆すべきである。この要因は、日本語の文字の形状的特徴や教育・文化的背景など、様々である。いずれにせよ、個人の「筆致」は、男女問わず、大人になっても自らの字体を恥じ、それを改善しようとペン字を習い、字体を好まぬばかりに筆無精となってしまう状況を生むほど、個人にとってデリケートな問題なのである。さらに、身体的動作によって紡ぎだされた直筆の文章―たとえば手書きの手紙―は、あたかも書く者の肉声を媒介し、その身体的存在を〈いま、ここ〉に具現化するような特別なオブジェとしての役割すら引き受けることができる。字体のみならず、文体(=スタイル)もまた、本来「筆致」の身体性と深く結びついたものであったと考えられる。

本発表では、「筆致」がどのように、書く者の身体的存在を代替するフェティッシュな存在としての役割を与えられ、それを演じて来たのか、伝統的な意味での手書きから、1990~2000年代の丸文字とギャル文字文化における直筆のあり方までを分析しながら明らかにする。そして、今日「書く」行為が引き受けた新たな意味と、それに呼応して起こる、表現としての「書かれたもの」の変容について考察する。

有毒女子通信第16号もでたよ!ここに少女文字について書いてるヨ!
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05/16/15

日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」


日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学
「美術(史)の美少女たち/美少女の美術(史)たち―少女たちの行方」
実施日時:2015年5月17日(日)13:30-15:30 ※当日9:40-10:00の受付が必要
会場:秋田公立美術大学 大講義室
 美術のなかの少女たちはどこに向かうのか?
 2014年から2015年にかけて開催された展覧会『美少女の美術史』は、すでに江戸時代の「美人画」に見られる伝統的「美少女」像から、現代アートやマンガやアニメなどポップ・カルチャーに欠かせないモチーフとしての少女にいたるまで、日本社会において「少女」がどのように描かれ、演出され、鑑賞され、消費されてきたのか、その系譜を明らかにした興味深い試みであった。美術において少女は繰り返し隠れた焦点になっていたのである。それでは現在、彼女たちはどこに向かっているのだろうか? あるいは逆に、「美術」は「少女」を媒介にしてどこへ向かいつつあるのだろうか? これが第一の問いになる。
 もちろん、「美術(史)」と「少女」という問題圏においては、美術を作り出す側の「少女」も見逃すことができないだろう。「超少女たち」と呼ばれる女性アーティストたち、その多様で拡散していく表現はむしろ、先の試みとは逆方向から「美術(史)」という枠組みを揺るがす契機にもなっている。彼女たちはいったいどこへ向かおうとしているのか? 
 また、美術との境界がしだいに曖昧になりつつある広範な文化表象のなかでの美少女像を考えるならば、写真というメディアもこの議論に不可避的にかかわることになるだろう。往々にしてフィクショナルな存在にとどまる、だからこそ特権化されていたはずの美少女が、写真に写しとめられ、交換されるヴァナキュラーで散漫なアイコンになるとき、どのような変容を被っているのか。映像における美少女はいったいどこへ向かおうとしているのか。それは、ここまでの問いとどのように切り結ぶ可能性があるのだろうか。
 以上のような緩やかな枠組みで美術の美少女/美少女の美術を自由に議論してみたい。
登壇者:
工藤健志(青森県立美術館学芸主幹)
藤浩志(十和田市現代美術館館長/秋田公立美術大学教授)
大久保美紀(パリ第8大学非常勤講師)
佐藤守弘(京都精華大学教授)
司会:前川修(神戸大学教授)

 

シンポジウム! 美少女表象のこれからのために喋ります!
美少女表象の反復、変身、受肉–「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」
現代美術において実践されている「美少女表象」には、典型的な二つの立場があります。それは、
(a)美少女崇拝的orポジティブなファム・オブジェ的表現
(b)女性性忌避的orフェミニズム的表現
のふたつです。発表の中では具体例を見ながらその存在と手法を確認します。

相異なる二つの立場から提案される美少女表象の方法について、その目的や効果を鑑みると、両者の間には意識的にも無意識的にも、「歩み寄り放棄/対話への不意志」が深い溝として横たわっていることに気がつきます。これが美少女表象の限界です。実例に基づいて検証し、このプロセスを通じて、現在の「美少女表象」が抱える問題を明らかにしていきます。

このような今日の「美少女」をめぐる状況=行き止り状況を打破するための案として、二つのオルタナティブな見方について提案します。理想少女ファンタジーの現実世界への連れ戻しおよび、女性によるヴァーチャル美少女の内面化という二つの案に焦点を当て、この有用性について考えます。

今日私たちはいい加減、美少女表象の新しい言説に向かっていくべきです。

さて、「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」お楽しみに!
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10/28/14

着ること/脱ぐことの記号論 / Sémiotics de s’habiller et se déshabiller

着ること/脱ぐことの記号論

私が学会員として活動させていただいている日本記号学会編のセミオトポス⑨
「着ること/脱ぐことの記号論」が出ました!
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表紙はどどーん。2012年5月神戸ファッションミュージアムでの記号学会に来て、学会員を新聞まみれ、会長に落書きと新聞ジャケットを贈呈、素敵なお話をしてくれた新聞女がクレーンで釣られている所です。あ、見えないですか?じゃあ要望にお応えして!
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この方は時々クレーンで釣られています。本の中には、彼女についてのテクスト「新聞女―アートは精神の解放」が収録されています!私が書きました。どうか読んでみてください。この記事を書くために、日々大忙しの新聞女に遠方からインタビューもさせていただいて、彼女の師匠である嶋本昭三先生のお話などもお聞きして、彼女がどうやって新聞女になったのか、これから新聞で世界をどうしていくのか、いろいろお聴きしました。ヤマモトヨシコさんの素敵な写真もご好意でたくさん掲載していただきました。心を込めて書きました。読んでね。

また、人はなぜ外国のファッションに憧れるのか?という問いをめぐる「ガールズ・トーク」を目指した第二部「「憧れ」を纏うこと」では、ファッションをめぐる表象や欲望の構造に着目し、文化や国を越境するファッションはどのように人間の衣服を纏う行為と関わるのかが問われ、高馬さんのファッションとエキゾチズム論、池田さんの大正昭和の映画に見られる「モガ」論、杉本ジェシカさんのゴシック・ロリータ論が面白いです!私は、「キャラ的身体とファッション」という議論で、私たちとアニメキャラの歩み寄り?!について書きました。この論考のために酒出とおるさんに素敵なイラストを書いてもらったんですよ。お礼の気持ちをこめて、ここに掲載しておきますね。ありがとう!

酒出とおる、とりあい、2013

酒出とおる、とりあい、2013

それから、会長の吉岡さんのテクストも冒頭掲載します。会長吉岡さんの落書きされて嬉しそうな写真なども、新聞女論の中でご覧ください!また、目次も以下に添付させていただきます。また、昨年逝去された山口昌男先生の追悼特集では、吉岡 洋さん、室井 尚さん、立花義遼さん、岡本慶一さんが珠玉のエピソードを寄せておられます。

新曜社 web page

着ること/脱ぐことの記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 吉岡 洋

服を着るのは必要なことだろうか? そんなの当たり前じゃないかと、ほとんどの人は答えるだろう。もしも服を着ないで外を歩いたら、たちまち好奇の眼にさらされ、たぶん警察を呼ばれるだろうし、悪くするとテレビや新聞で晒しものになる。だいいち、寒くて風邪をひくではないか。服は必要にきまっている。

でも、ちょっと考えてみてほしい。服が必要不可欠にみえるのは、服を着ることが当たり前とされる社会に私たちが生きているからである。動物は服を着ないし、私たちの遠い祖先も服を着ていなかった。根本的な意味においては、服を着るのは必要ではなく、生きるためには本来しなくてもいいこと、ひとつの「過剰」にほかならないのである。

(… つづきは新曜社HPでどうぞ!)

 

着ること/脱ぐことの記号論 目次


刊行によせて 吉岡 洋



第一部 着ることを脱ぎ捨てること
〈脱ぐこと〉の哲学と美学 鷲田清一 vs 吉岡 洋

新聞女―アートは精神の解放 大久保美紀



第二部 「憧れ」を纏うこと
「なぜ外国のファッションに「憧れ」るのか」を問うということ 高馬京子

表象としての外国のファッション―エキゾチシズムをめぐって 高馬京子

日本映画に見る「モガ」の表象―洋装とアイデンティティ 池田淑子

キャラ的身体のためのファッション 大久保美紀

ヨーロッパの輸入、再生産、そして逆輸入と再々生産
―ゴスロリ・ファッションをめぐって 杉本バウエンス・ジェシカ
「憧れ」とともに生きる―シンポジウムを終えて 大久保美紀



第三部 (人を)着る(という)こと
袈裟とファッション 小野原教子
音を着る―フルクサスの場合 塩見允枝子
ギー・ドゥボールとその「作品」
―映画『サドのための叫び』における「芸術の乗り越え」と「状況の構築」 木下 誠
(人を)着る(という)こと 小野原教子



第四部 日本記号学会と山口昌男

山口昌男先生を偲んで 吉岡 洋・室井 尚・立花義遼・岡本慶一



第五部 記号論の諸相
研究論文
究極的な論理的解釈項としての「習慣」とパースにおける「共感」 佐古仁志
研究報告
家族関係修復のセミオシス─発達記号論ケース・スタディ 外山知徳
ペルシャの青─ホイチン(回青)の壺に現われた形而上の諸々 木戸敏郎

09/13/14

「未熟性」のジャパン・ポップ : 海外における受容について / Development of Japanese-pop infantilism abroad – Observation of contemporary fashion and specialized makeup

「カワイイ」カルチャーで知られる日本現代大衆文化は、これまで、それらのあまりに目を引く流行現象としてのロリータ、コスプレ、ギャル文化についてはしばしば注目をあつめ、研究されて来ました。でも、今回はそのような誰が見ても特出した現象ではなく、「大衆文化」の「大衆」に立ち戻って、もっと一般的に受け入れられているスタイル(ファッションとメイク)について、そこに既に見られる未熟性への憧れと中途半端な大人っぽ願望に着目し、その背後にある、まさに「カワイイ・カルチャー」を流行に導くものについて考えてみることにしました。

9月17日に、ブルガリアの国際記号学会で、室井尚さんがチェアをするこちらのラウンドテーブル »SEMIOTICS OF POP-CULTURE Focusing on the analysis and effects of the JAPAN POP« で、参加されるみなさんといっしょに発表します。わくわく。
http://semio2014.org/en/semiotics-of-pop-culture-japan-pop

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Development of Japanese-pop infantilism abroad – Observation of contemporary fashion and specialized makeup

Introduction:
I will analyze Japanese contemporary fashion and makeup observed among today’s youth, especially on girls. Japanese-pop fashion characterized as « Kawaii » (“very cute” in Japanese) embraces an infantilism, or babyishness. Its influence has taken a profound hold in some European countries. I will present a theory of universal characteristics in Japanese contemporary fashion.

I am especially interested in the remarkable crossing over of bizarre Japanese pop culture into western populations who don’t share any cultural background. Foreigners who take special interest in this original culture have brought attention to it in their own countries, where it takes hold progressively and develops in different manners in different places. European countries have a completely different geological context in comparison to Japan. Japan is an isolated island while European countries are loosely connected to one other. This geological difference affects cultural issues. The surpassing of cultural frontiers and international acceptance of the specialized universe of Japanese pop means the potential to become something universal and ubiquitous.

Several years ago, in my class of Univesrity Paris 8 (France), I introduced emoticons (Kaomoji, in Japanese, ex.o(^-^)o ) along with a sociological analysis of the effect of frequent emoticon usage. I suggested that these typographic representations of human facial expressions meant to imitate real human expression and portray emotion could, in turn, affect human gesture and behaviour. To my surprise, at that time, European people found my suggestion ridiculous, declaring these effects relevant only to Japanese people, not to Westerners. However, today, I can point out clear influences from Japanese animations and mangas on various behaviours including gesture, facial expression and onomatopoeia. Emoticons have become very familiar and young people are influenced by their appearance throughout their activities on social medias.

In general, socio-cultural studies focusing on Kawaii culture and the infantility of Japanese contemporary fashion deal with extreme style such as Lolita or Gothique Lolita. Then there are studies of radical or eccentric cultures such as Cosplay. In my opinion, Japanese pop culture is something like “air” surrounding us daily and its penetration into foreign cultures is absolutely significant. In my report, I attempt to theorize a study of traversing cultural borders, focusing not only on extreme style but also a fashion loosely accepted and appreciated by ordinary people.

09/13/14

ジャン=ポール・ゴルチエのファッション / Aesthetic consideration of virtuality and physicality of human body With reference to the fashion designs of Jean-Paul Gaultier

 ジャン=ポール・ゴルチエ(Jean-Paul Gaultier, 1952-)のファションについて、とりわけ身体表象におけるヴァーチャル性とフィジカル性について発表します。9月19日のお昼の発表です!ぜひ聞きに来てください!マドンナ(Madonna)も身につけた歴史的なコーンブラ(Cone Bra)や裸に裸を纏うドレスについて考察します。 

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詳しくはこちら:http://semio2014.org 

Aesthetic consideration of virtuality and physicality of human body
With reference to the fashion designs of Jean-Paul Gaultier

Jean-Paul Gaultier, born in 1952, French Haute Couture and Pret-a-Porter couturier, never received formal training for his profession. His diverse, innovative, provoking fashion, radically explores critical issues like sexuality when putting up against conventional Haut Couture. Unfortunately his works have not been correctly evaluated partly because of an excessively provocative slogan. People lose sight of the most interesting aspects of Gaultier’s expression. What I attempt to revaluate is his designs concerns his manner of representing the human body as a way to radically influence our body consciousness.

In his work, the human body is often both abstracted and concretized. These strong, opposite expressions are present simultaneously. “Abstraction” means human body represented as numerical/digital information while “concretization” means vivid existence in a real, physical sense. Today, the human body seems to be becoming an increasingly informational object. People have very detailed numerical knowledge about the body. In addition, technological developments allow us to construct our body image in a way similar to androids or robots.Virtual images settle progressively in our mind. “Skin Series”, where Gaultier used three identical models, illustrate clearly this observation. Each piece represents muscle, blood vessels and bones. His illustration shows a kind of simplification to figure these organs and everyone will understand what he represents. However, in spite of their closeness, these organs will never be visually familiar to us. Our awareness is drawn to them only during specific occasions like an accident or an injury. Advanced medical knowledge and detailed anatomical knowledge have given us a typical human body image. In short, a reconstructed body through new technologies is very different from a real body, accompanied with smell, perspiration and weight.

Furthermore, Gaultier is one of the first couturier to appoint atypical/untraditional fashion models. Today, the an unusual body seen on the catwalk no longer causes sensation because we have become accustomed to this kind of surprise, seeing various models, large, small and different. However, at the time Gaultier first introduced this idea, it caused a scandal amongst the conservative realm of Haut Couture.

What I attempt to theorize in my presentation is the modern relationship between virtual image and the true, physical human body in order to understand the reality of contemporary fashion concerning body consciousness and physical perception.

09/13/14

エルヴェ・ギベールの文学創作について / Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

フランス人のジャーナリスト/写真家/日記作家/小説家であるエルヴェ・ギベール(Hervé Guibert, 1955-1991)の文学について、現代の電子テキストによる私たちの書く行為を視野に入れて、日記を基軸にして私小説を書くという彼の文学創作の方法について、その着想や意味を考察します。9月18日に発表します!ぜひ聞きにきてください〜。

詳しくは:http://semio2014.org

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Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

Quant à l’écriture contemporaine, nous sommes fréquemment témoins d’une attitude audacieuse de ceux qui écrivent, même plutôt exhibitionniste pour dévoiler leur vie personnelle, la confidentialité et l’intimité. Non seulement dans le domaine de la littérature mais aussi dans les activités des amateurs, cette tendance est très présente. Ce constat serait issu de la nouvelle situation environnementale dans notre société de l’information. Concrètement dit, nous avons souvent des moyens pour publier un texte sur un espace virtuel tels le blog et les réseaux sociaux, grâce à l’accès internet. Cette possibilité d’exposition de soi nous encourage de nous engager passionnément dans une activité à la fois ludique à la fois sérieuse : écrire sur le moi, ma vie et mon histoire intime.
Comme genres littéraires, le terme d’« autofiction » n’existait pas avant les années 1970. Ce fut Serge Doubrovsky, écrivain français, qui inventa ce nouveau genre littéraire pour définir sa propre œuvre, intitulée Fils (1977) dans laquelle l’auteur désira distinguer la fiction autobiographique d’avec l’autobiographie. Sa définition simple est celle-ci : l’auteur est aussi le narrateur et le personne principale. L’appellation du protagoniste peut être variée comme « je », « il » ou « elle ». Il y a toujours une complexité pour la déterminer puisque quand le récit basé profondément sur une vie réelle de quelqu’un, il est difficile de justifier si c’est une fiction ou une vérité, il n’est même pas important ni intéressant de le vérifier pour sa qualité littéraire. Dans tous les cas, la nature « autofictionelle » est toujours présente dans les expressions littéraires.
En France, Philippe Lejeune, théoricien de la littérature, notamment spécialiste de l’autobiographie, a réalisé ses recherches riches sur l’activité historiquement répandue en Europe, « tenir un journal intime » dans Le pacte autobiographique (1971). Il est évident que le journal intime n’est pas toujours un recueil des histoires vraies, comme démontra Sophie Calle, artiste française, à travers son ouvrage intitulée Des histoires vraies (2002). En jetant un regard sur les lieux de création littéraire, la relation entre l’écriture sur soi comme le journal intime et la littérature contemporaine est interactive et dynamique. À mon avis, il est temps de considérer une problématique : enjeux esthétiques de l’autofiction afin d’interpréter une dernière tendance puissante dans la littérature.
Dans cette communication, j’analyserai certaines œuvres autobiographiques d’Hervé Guibert son écriture expérimental de l’autofiction afin de réfléchir à la signification de la valeur esthétique de l’écriture de soi.

06/18/12

国際シンポジウム téléphone mobile et création

téléphone mobile et création

2012年6月14日•15日、ケータイ電話とクリエーションに関わる国際シンポジウムがパリ2区のINHAで行われた。主催はIRCAVとパリ第3大学。IRCAV(l’Institut de Recherche en Cinéma et Audiovisuel)の中心人物は、映画とイメージの研究およびケータイなどのニューメディアのコミュニケーション研究のフランスでの先駆者としてパリ第3大学で教鞭をとってきたRoger Odin, そして今回のオーガナイザー、Laurence Allard, Laurent Creton, アーティストでありエンジニアであるBenoit Labourdetteの4名のエキスパートたちだ。ケータイとコミュニケーションに関わる国際シンポということで、今回の討論会の様子はツイッター中継および録画され、近々全貌がMobile Créationのサイトにアップされる予定である。
twitter Facebookはこちら

Roger Odin, Laurent Creton, Benoit Labourdette, Laurence Allard, Maurizio Ferraris

さて、プログラムは以下である。一日目は8時から8時半に受付を済ませて、8時半からイントロダクション開始、17時までというややハードな日程。2日目は9時から13時まで、5人の招待講演者による発表で幕を閉じる。

6/14
8h-8h30/ Accueil et inscriptions
8h30-9h/ Introduction : Laurent Creton, Roger Odin, Laurence Allard, Benoit Labourdette

Session 1/
9h-11h / Mobile, Ecriture et mNovel (Présidence : Roger Odin)
−L’explosion de la documentalité/Explosion of ‘Documentalité’, Maurizio Ferraris (Université de Turin)

−Le SMS entre forme et geste : analyse d’une pratique d’écriture/ Writing onmobile: gesture and forms: SMS/MMS
Joëlle Menrath (Discours et Pratiques) et Anne Jarrigeon (Université Paris Est)
m-Novels en Afrique du Sud : impliquer les lecteurs grâce aux téléphones portables/m-Novels for Africa: Engaging Readers through Mobile Phones, Steve Vosloo (yozaproject.com)

Session 2/
11h-13h / Mobile, politique et formats transmédia / Mobile, Politics and Transmedia (Présidence : Laurence Allard)
−Vidéos mobile et politique : Iranian Stories/Mobile Videos and politics: Iranian Stories, Cyril Cadars et Thibault Lefèvre (iranianstories.org/)

−Vidéos et voix des peuples : Crowdvoice/Videos and People’s Voices: Crowdvoice, Esra’a Al Shafei (crowdvoice.org/)
Session 3/ 15h-17h / Cinéma mobile et création/ Movie, Mobile and Creation (Présidence : Benoit Labourdette)
−Une nouvelle culture de la création/A New Culture of creation
Serge Tisseron (psychiatre)
Alain Fleischer, Le Fresnoy

Ateliers de films mobiles /workshops and video screenings mobile

6/15
Session 4/
9h-13h / Géolocalisation, mobilité, nomadisme et réalité augmentée / Geolocalisation, Mobility, Nomadisme and Augmented Reality (Présidence : Laurent Creton)

−Algorithmic visions: towards a new documentary practice, William Uricchio (MIT/Utrecht)
−Play -Mobile Immuable, Nicolas Nova (Near Future Laboratory-Genève)

−Bollywood’s Rythm’n Games : les adaptations de films indiens sur téléphone mobile/Bollywood on mobile games
Alexis Blanchet (Université Paris 3-IRCAV)

−La musique des portables du désert/Music of Sahara Cellphones Christopher Kirkley (sahelsounds.com/)

−Téléphone mobile et création: une approche conceptuelle/Mobile and Creation: a conceptual approach, Thomas Paris (HEC)

sculpture à INHA, Paris

ケータイ電話とクリエーションというテーマを掲げた今回のシンポジウムであったが、全体の印象として、ケータイ電話を用いたクリエーションに焦点を当てて、ケータイでこそ可能となる表現行為について掘り下げた議論を行ったセッションは無かったように思う。いっぽうで、現代のメディア環境における人々の行動学的特徴や社会学的分析は、「ユビキタス」や「モバイル」といったおなじみのアイディアを下敷きとして展開され、その内容は、2000年以降からスマートフォンの到来以前まで、日本において特殊化した現象として語られた「ケータイ文化」論をもう一度なぞり直したものに近かった。

それもそのはず、ケータイ端末を介して人々が大きなインターネットの世界に接続しつづけるという状況は、日本社会においてはimodeを先駆とする諸処のサービスのおかげで、2007年のiPhoneずっと以前から定着していたが、むしろこれは国際的にみれば特殊な状況である。一般的に、全ての人々が個人が所有する端末を介してネットに接続されたのは、スマートフォンの到来以降なのだ。国際的にみてみたならば、インターネットがパソコンからでなくケータイから一般の人々に普及した国々も実にたくさんある。たとえば近年ソーシャルネットワークを媒介とした政治的アクティヴィストの運動が相次いで起こっている、イランやエジプトといった中東の国々は典型的にそのような国に分類されるだろう。ケータイ電話の普及によってはじめて、インターネットを利用した政治活動が一般の若者に開かれた。さらにはシンポジウムでSteve Voslooによって紹介されたmNovelとは、南アフリカの子ども達にケータイのメールを通じて200語程度に区切られた小説を送り、読書経験を豊かにするための教育プログラムであり、独自のディヴァイスを利用した実験的実践をすでに展開している。読書経験を積むだけでなく、創作意欲のある書き手を育てることも同時に目的としており、この文学形態はまさに、日本社会で2002年ころから起こった、ケータイ小説という新しい文学のあり方にも深く結びつく。ケータイというディバイスは言うまでもなく、表現行為の敷居を取り払う。

Joëlle Menrath, Anne Jarrigeon, Roger Odin, Steve Vosloo, Maurizio Ferraris

2日間に及ぶシンポジウムで、おそらくは外国人としての視点から、あるいは独自のケータイ文化を育ててきた日本において1990年代と2000年代を過ごした世代としての視点から、目に留まったことが一つある。それは、フランスにおいて如何にイメージの問題が重要か、シネマというカテゴリーが重要かということである。つまり、ケータイはたしかに、Joëlle MenrathとAnne Jarrigeonによって社会学的に分析されたように、SMSに代表される「書く行為」を一変させたディバイスである。私の個人的関心の半分は、やはり文章表現のあり方を作り替えた「メール」に情熱的に注がれている。だが、今回のシンポジウムのウエイトは、文章でないもう一つの媒体、「イメージ」のほうにずっしりと据えられていたように思う。mms(写メール)を送れること、録画した画像や動画を即座にインターネット上で共有できること、そして何よりも、ケータイというディヴァイスが電話から録音機あるいはヴィデオカメラに変化したこと。たしかに、この点については、まだまだ色々な意味で分析されずにいる部分が大きい。

私のケータイ電話とその創作への関心は非常に単純だ。だいいちに、全ての人を表現行為に駆り立てることのできるディヴァイスの可能性と、その際生み出される新しくて面白い表現行為の性質や可能性を見極めること。そして、それが人々をどうやってもっとわくわくさせて、もっと幸せにさせることができるのか、考え、話し合い、たくさんの人と一緒にもっとたくさんの人を繋ぐ楽しい「できごと」を創り出すことに尽きる。

le ciel blue à travers le plafond, 天井窓ごしに見える空