02/9/12

Nomadという概念

Nomad/ノマドはギリシャ語のnomas(放牧中の家畜)を表す語幹から来た言葉であるらしい。現在でもノマドはもちろん「遊牧民」のことであるけれども、数年前から、「遊牧民のように生きる人たち」に対してもノマドとかノマド族といった表現が使われるようになった。昔からそういった比喩は存在したのかもしれないが、現代ちょっと特殊なニュアンスを込めて使われるようになったのである。

 

社会問題にもなった漫画喫茶難民とか家に帰らないで放浪する若者の生き方も、ノマドのカテゴリーに入る。一定の場所にとどまる安定した生き方ではなく、右から左へ、北から南へ、定まらずふらふらしているのがノマドの定義みたいな言い方。遊牧民は決して無計画にウロウロしているわけではないのだから、これは非常に失礼な気さえしてくる。

 

さらには、パラサイトシングルとかニートとかいう言葉で象徴されるように、若者の仕事に関する感覚が変化し、彼らの人生設計、すなわち家庭を持ち安定した生活を築いていくという理想も典型的なものではなくなってしまい、多くの人がふらふらするようになってきた。就職して、それを手放して転職して、結婚して、離婚して再婚して、今日人生はオープンに自由になってきたようにすら語られている。こういったこともノマド的要素であるようだ。

 

さらには、2010年8月に出版されたflick!というガジェット特集を組んでいる雑誌の中で、Nomad Working Styleというかっこいい仕事スタイルが松村太郎によって紹介されている。現在だれもがかっこいいと思っている、クラウドとシェアを有効に利用した場所にしばられない仕事スタイルのことだそうだ。(松村氏はDeleuze Gillesが »Mille Plateaux »のなかで提唱した »nomadologie »という概念を参照している)

また、メディア関連で多数本を出している佐々木俊尚の『ノマドワーキングのすすめ〜仕事をするのにオフィスはいらない』のなかでも、デバイスを効果的に使って、身軽に自由に働くスタイルが現代的でかっこいいと賞賛されている。たくさんの本や重いパソコンを持って会社に行って仕事をするのではなく、スタイリッシュなiPadと最小限のBluetoothで、データはすべてクラウドで管理し、どこにいても仕事ができるというあれである。

 

小学生の頃、国語の授業でことわざを習ったとき、[転がる石に苔は生えぬ]の意味について、二通りあると教わった。
1 いつもちょろちょろと動き回っている人は、じっくりと何かを習得することがない。
2 いつも動き回っている人は、身軽で余計なものを身につけていない。

1が本来の意味で、2が時代の変化の中で誤解から生じた新しい意味なのだそうだ。1において、苔はじっくりと身を据え置いていなければ身につけることのできない重みのあるものをさしている。苔が日本の庭を象徴する繊細で風情のあるものであること、そして、じっくり落ち着いて取り組むことによってこそ物事を習得できるというのは、日本らしい精神論であるように感じられる。それに対して、2において、苔は余計なもの、やっかいなものと捉えられており、動き回っている方がよいという新しい価値観に支えられた解釈が見られる。

近年ノマドという言葉を聞くたびに、そして自分がまさに色々な意味でいわゆるノマド的生活を送っているという事実を意識するたびに、小学生のとき教わったこのことわざの意味変化について思う。現代の人が、このことわざの意味を知らずに聞いたならば、ほぼ9割型、苔なんかつけない方がいいと思うのではないだろうか。マイホーム、マイカー、大きなテレビや食器棚、立派な家具に、ピアノ。持ってても大変である。人数分欲しいのはパソコンくらいである。車ですらシェアがかっこいい世の中になってきて、そういう「かっこいい」がメディアによって強制的に浸透させられている。

 

たしかに私たちは身軽になったのかもしれない。自由になったのかもしれない。何も持っていないと、そうか、何も必要なかったのか、ということに気がつく。家中を埋め尽くす本棚と本を所有し続けなくても、アマゾンで注文すれば明日届くし、図書館に行けばすぐに読むことができる。クローゼットにおさまりきらない素敵な洋服をコレクションしなくても、今年の冬の流行を安く購入し、着回せばよいのだし、古着屋も洋服のレンタル屋もあるので飽きたら売れば良い。新聞や雑誌を購入して情報を収集しなくたって、インターネットで検索すれば良い。

 

私たちは、身軽で、そして自由に、ウェブ上を歩き回る。手紙を書かないけどメールをするし、電話はおっくうなのでメッセージのやり取りをする。言いたいことは掲示板に書き、友人との会話はツイッターかFacebookですませ、プライベートな写真を公開し、思いつくことをブログに綴る。その繰り返しである。私たちの日々ウェブ上に残す形跡は膨大である。データがかさばらないと思ったら嘘である。
私たちは何も持っていないかもしれないが、日々たくさんのテキストをウェブ上に残し続け、イメージをアップし続けている。すべての記録が保存され、たわいないやりとりも、心が重くなるような会話も消えてはいない。私たちは、自分の記憶よりもずっと物質的で絶対的な記憶によって取り憑かれてしまう人生を生きている。

 

転がりながら苔なぞつけないはずであった身軽な石は、そもそも転がることなんかできない泥の中でふと我に返るかもしれないのだ。