04/8/12

みえるもの/みえないもの(visible / invisible) 豊田市美術館

みえるもの/みえないもの
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2012年1月7日~3月25日

豊田市美術館に訪れたのは初めてのことであった。3月半ば、とても晴れた暖かい日で、駐車場の向かいの民家のお庭には梅が咲き誇っていた。1995年にオープンしたこの美術館は江戸末期の七州城の跡地に当たるらしい。少しだけ上り坂になっている道を進んでいくと、谷口吉生の代表的建築の一つである豊田市美術館の建物が見えてくる。乳白色と反射すると淡い緑色に見えるガラス張りがとても印象的な建築で、メインエントランス前の広場には噴水があり、陽の光を照り返す水しぶきが殊の外美しく感じられた。

3月25日まで豊田市美術館で行われていた「みえるもの/みえないもの」展は本美術館のコレクション展であり、現代アーティストの中でも写真を手法として活躍する15人の作家の作品によって構成された。写真というメディアがもつリアルな側面とフィクションの側面、あるいは写真にはじまる新しいメディアが常に含有している複製可能性や模倣性の問題を浮き上がらせる重要な作品を目にすることができた。

「みえるもの/みえないもの」は反射的に興味がそそられる展覧会タイトルだ。その訳はひとつには、現象学を発展させて両義性の哲学を大成し、興味深い身体論を展開したモーリス•メルロポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の重要な著作のタイトルが「見えるもの、見えないもの」(Le visible et l’invisible, 1964)という事情がある。そしてもう一点は、この展覧会の主旨で述べられているように、写真というメディアの現実であるようで虚構であるような性質、オリジナルとコピーの境界が溶けていくような性質、これらは写真以降の現代芸術を考える上でとても重要な問題を投げかけ続けており、「みえるもの/みえないもの」は確かにこのような問題提起にぴったりなタイトルであるように思われる。

したがって、この展覧会では、
窃視症:ミケランジェロ•ピストレット、アルマン
私写真:ナン•ゴールデン、荒木経惟
日常性:中西伸洋、川内倫子
時間•記憶:クリスティアン•ボルタンスキー、ボリス•ミハイノフ、ローマン•オパルカ
永遠•巨視的視点:杉本博司、松江泰治
みえるもの/みえないもの:中川幸夫、志賀理恵子、ソフィ•カル、曽根裕
……という顔ぶれで構成されたのだから、どうにか3月末に間に合って訪れることができて良かった。個々の作家や作品は別の機会に目にしたことがあるものがほとんどであったが、展覧会としてこのような形でストーリーづけられ、そのコンテクストにおいて作品を見ることは、別の体験であるということを実感した。

 

Christian Boltanski, 聖遺物箱,1990

クリスティアン•ボルタンスキーの《聖遺物箱(プーリムの祭り)》(1990)も幾度かこれまで出会ってきた作品の一つである。
クリスティアン•ボルタンスキーは、1944年パリ生れユダヤ人として、人間の命と記憶に関わる強いメッセージをもった作品を数多く発表してきた。美術の正規教育を受けていないが(ギャラリーでのインタビューについてはこちら)、15歳の頃には既にアーティストになることを決意していたという。クリスティアン•ボルタンスキーが用いる方法はもちろん写真だけではない。匿名のポートレートは、殺されたユダヤ人の顔写真や子どものポートレート写真で使われた手法だが、同様に人間の生死とその記憶に関わる作品を制作する中で、着古された衣服を用いたこともあった。さらには、日本でも2010年7月に開催された瀬戸内国際芸術祭において発表された心音プロジェクトは心音を録音したデータがメディアなのである。

なるほどクリスティアン•ボルタンスキーの制作において、いつも一貫しているのは表現するべきテーマの方であり表現方法ではないのだろう。だが敢えて今回彼の写真に注目してみるとき、これらのポートレートは戦前にユダヤ人の祭りであるプーリム祭にたまたま集まった子どもの写真であり、彼らが果たして虐殺にあったのかその前に何らかの原因でなくなってしまったのか、生き延びたかわからないのだが、祭壇の前に遺影のようにして彼らのイメージが飾られることによって、彼らの肖像はもはや個人のものでも日常を切り取ったイメージでもなく、ひとりひとりの人間の生を超越した、もっと普遍的なイメージとして現れることになる。創り出された写真の意味は嘘かもしれないのだが、彼がここで行った最も重要なことは、イメージの意味を普遍化したということであるのだと思う。

 

Sophie Calle, 盲目の人々,1986

もうひとり、同じくパリ生まれ(1953年)のフランス人作家ソフィ・カルの《盲目の人々》(1986)という作品をみてみよう。ソフィ•カルは1980年前後から自分のベッドに友人や知人を招待して眠っているところを撮影したり、街の人々を尾行して写真を撮影するという、一風変わったコンセプチュアルな表現活動を開始する。彼女の作品は、ボルタンスキーが人間の生死や人類全体の記憶といった普遍的なテーマを目指したのとは対極的に、きわめて個人的でインティミットな主題が選ばれる。ソフィ•カル自身の想い出話、他人のとりとめもない語り、家族との幼少期の思い出、恋人とのストーリー。それらは多くの場合、写真とテクスト、思い出の品などと合わせて展示され、人々は個人的な体験を追体験するように作品を鑑賞する。

彼女の表現を理解する上で重要なのは、本当であることと本当でないことがまぜこぜになっていて、物事の虚実を明確にすることがまったくもって重要ではないということではないだろうか。写真はリアルを映し出すだろうか。答えは勿論否である。物語の真実性をうらづける証拠写真のように逐一提示される写真は、誰がいつどこでどのように撮影したか、わからない適当なものだ。実は写真とはそういうものなのだ。いや、もっと言えば、ひとびとの物語や想い出などというのは本質的に、うそでもほんとうでもない、いわゆる「たったひとつの真実」と呼ばれるものとはまったく似ても似つかないものなのではないだろうか。私は彼女の物語はそのようなことを私たちに伝えてくれるものだと理解している。

さて、《盲目の人々》はスキャンダラスな作品であった。1986年につくられたこの作品は、ソフィ•カルが生まれつき盲目の人に「美のイメージとはなにか」と質問し、彼らに答えてもらったことばをもとにソフィ•カルが写真を撮影するという一連のやりとりである。

J’ai rencontré des gens qui sont nés aveugles. Qui n’ont jamais vu. Je leur ai demandé quelle est pour eux l’image de la beauté.
私は生まれつき盲目の人々に出会った。生まれてから一度も見たことのない人々だ。私は彼らに、彼らにとって「美」のイメージとは何かをたずねた。

どこまでも続く海のイメージを語る人や、見たことがないけれど美しいと思う自分の子どもや家族が自分にとっての美のイメージだと答える人々がいた。たしかに、イメージというのは目で見るものなのだと改めて気がつく。好ましいとか気持ちがよいとか、愛しているとか、嫌いだとか、何かを感じるために視覚は必ずしも必要条件ではない。触りごごちで美しいものだと感じることもできるに違いない。しかし、「美のイメージ」はなるほど、きわめて視覚的なものなのかもしれない。彼女がインタビューを行った結果得られた彼らの答えから出発し、一枚のイメージを撮影したという行為は、けっこう素敵な協働だと思う。たしかにそれは彼らが想像したものとは同一であるはずがないし、その点で彼らの美のイメージとしては「噓」の写真であるけれども、視覚も触覚や聴覚や嗅覚と同様に絶対的でない感覚の一つとして還元することが出来るのなら、みえるかみえないか、それがどう見えたかそれが真実であるかなんて、ちっとも重要じゃないのではないかと思える。《盲目の人々》は「美」について考えるための小さな足がかりを私たちに提案する。

 

other pictures

荒木経惟, 冬の旅, 1989-90

中西伸洋, Layer Drawing, 2004-2005

志賀理恵子, カナリア, 2006