06/23/12

近藤佑子/kondoyuko ーセルフ・プロモーションの手法とパフォーマンスー(self promotion and performance)

近藤佑子/kondoyuko:京大工学部卒、現在東京大学大学院生。彼女の26歳の誕生日に開設した就活サイトが3日で1万いいね!、アクセスは10万PV/日を記録。Twitterでは個人名でトレンド入りし、ネット界のセレブリティとなる。彼女の大胆な就活態度とSNSを利用した新しいタイプの自己実現は、プロフェッショナル・一般人を問わず高い関心を集めた。

もはやヤバすぎて手がつけられなくなってしまった近藤佑子/kondoyuko(ちなみに私は今でも彼女を”ゆうこりん”と呼び続けている)は、京都大学交響楽団の後輩だ。京大オケの金管パートは、私達が在籍しているころ、京大が誇る吉田寮の目の前を練習場所として構えており、霧雨の日も、灼熱の日も、はたまた銀杏が降る日も、私達はそこで楽器を吹き鳴らしていた。私が美学を専攻している話した折に、学部で建築をやっているけど、現代アートや美学に高い関心があるんだといつぞやの酒の席で熱心に語っていたのを覚えている。ドクターマリオを愛してやまないことも聞いたことがある。ひょっとすると気のせいかもしれないけれど。

個人的な話だが、私自身は、彼女がメチャヤバのサイト(メチャクチャにヤバイ就活生 近藤佑子を採用しませんか?)で第一で最大の目的(おそらく!)として掲げている「就職活動」については、プロセスにも経験にも情報にも明るくない人間である。それに、確かに、日本社会における就活システムの在り方の理解は前提条件であるけれど、「就活サイトとしてとしてのメチャヤバがバズったのはなぜか」という視点ではもはや読み切れないほど沢山の素晴らしい記事が世間に発信されてしまったので、私としては、別の切り口から、近藤佑子のセルフ・プロモーションについて分析してみたい。

extrait du site "mechayaba" (kondoyuko.com)

私の彼女の表現活動への関心は、メチャヤバのサイトだけに限定されない。SNSもブログも、そしてリアル世界における彼女の社会生活へのスタンスのようなものも、トータルに見ることなしに、現象の本質をつかむのは不可能というものだ。近藤佑子は、「アマチュアの自己表現の可能性」というテーマに関わる現代のアクティヴィストであり、実験的パフォーマーでもある。

無論、彼女のウェブ上での活動は、メチャヤバずっと以前からとても活発であった。ツイッターやフェイスブックのアクティブユーザーであり、これらのメディアを単なる友人とのコミュニケーションツールとして捉えるのではなく、もっと開かれた可能性やリアルで生き生きとした関係性を追求し、文字通り積極的にこれらのメディアに向き合っていたように思う。

日本社会のSNS史を語る上で、スマートフォンの超速普及とほぼ同時にやってきたmixiからFacebook・Twitterへの移行現象(2009-2010年)を無視することはできない。近藤佑子も漏れなくmixiユーザーの一人である。mixiはこの世代の多くの日本人に、人に読まれることを前提とした日記のような、エッセイのような、ある程度の長さのあるテクストを日常的に書きまくる訓練をさせたメディアだ。彼女自身も、mixiをひとつのきっかけに、人に読まれるものを書く経験をしたことをインタビューの際に認めている。近藤佑子の発信する(広義の)メッセージの中で、彼女の語る印象的な「ことば」が果たす役割がとても大きいことは自明だろう。

extrait de la page de Twitter, kondoyuko, 2012.6

テクストをおよそ、その目的と長さに応じてカテゴライズすると、ブログがエッセイ調で最も長く、Facebookが文字数に自由度があり報告的内容やリンクを伝え、Twitterは日常的な出来事や個人感情や意見などを選ばれたことばで端的に表現することが求められる。(勿論その他にも沢山のメディアがあるが、今回はこの3つ+mixiを念頭に話をすすめる。より詳細な議論は別の機会に文書化したいと思う。) これらテクストを通じた自己表現に関して、近藤佑子のバランス感覚は卓越している。頻度と印象が重要であるTwitter、コミュニケーションの有用性が問われるFacebook、そしてまとまった思考をわかりやすくかつ話題性をもって表現することが問われるブログ。それぞれのメディアの特性と強みを生かし、しかし一個人としてナチュラルに、ネット上でのヴァーチャル・アイデンティティを確立していたといってよい。

先ほど言及したmixiとFacebookの関係であるが、日本社会では、Facebookが実名制であり、リアルの人間関係をあからさまに持ち込むという性質から、なかなか流行らなかった。身分を明らかにした上で、個人的で他愛ないことをつぶやく習慣がないという文化的背景から、Twitterにも腰が重かった。対して、私の印象では、近藤佑子というセルフ・プロモーターは、かなり早い時期から、この日本的な「もじもじした秘密主義」から脱皮していたのだろうと確信する。

例えば、チェックイン。自分がどこで何をしているのかを、一つには自分のメモリーとして、もう一つには他人と有用な情報をシェアするためにこれをマークする。あるいは、企業説明会のTogetter実況。これも端的にノートを取りながら、それを必要としている誰かとその内容を共有することを意図しての実践であろう。彼女は、自身のブログ、kondoyukoのカルチュラル・ハッカーズにおいて述べているように、「自分の生きづらさの解消」の手段としてのWebやSNSを通じた交流・コミュニケーションへの可能性を実に前向きに認識している。そしてそのモチベーションは、彼女のSNSを介した自己表象に非常に明確に現れている。現代のネット社会において、秘密を守ろうと徒労にも似た努力をするよりも、開き直って正面から世界に対峙し、これらの表現手段を自分のものにするほうがどれだけ面白そうな人生が送れそうかは、言うまでもない。

autoportrait de kondoyuko, photo profil sur Facebook

さて、長くなったがここで近藤佑子分析を終わるわけにはいかない。彼女のセルフ・プロモーションを「成功」させた鍵を握っているのは、実はテクストよりもむしろイメージのほうであるとはっきり述べておこう。

彼女のネットアイデンティティの特徴は、セルフ・イメージの一貫した管理にある。彼女のセルフ・イメージとして知られているのはメチャヤバサイトにあるiPhone自己取り写真が一枚と、メガネをくいっと持ち上げているアップの写真が一枚。それ以外は、例えばブログにおいては毒キノコ風アイコンを使用するなどしており、このたった2つのイメージよりもリアルな近藤佑子について想像できるイメージデータはWebの向こうにいる読者には与えられていない。本人により公表されている誕生日サイト企画案(この企画案はぜひチェック!)を見ると、企画段階ではストリップの写真と近藤佑子の合成写真を織り交ぜたり、ソープランドのぼかした写真を挿入したりと楽しいアイディアがあったことが伺えるが、結果としては、イメージ露出への潔癖な姿勢を保ったことが功を奏した。個人的な見解だが、このイメージに対するハングリー状態が、彼女の心を込めて制作したひとつの作品ともいうべきメチャヤバのサイトの大ヒットに一役を買ったことを忘れてはならないと思う。

「シェア」は近藤佑子を読み解くために一番大切なキーワードだ。彼女はシェアハウスについて日々考えているそうだし、お湯をわかちあう日本の素敵な文化である銭湯を愛している。もちろんWeb上で、思考や情報を共有することは日々ナチュラルに実践している。

最後に、東京・京都を一晩で結ぶゆうこの宅急便で有名なゆうこりんに、超遅配達便となること確実のsalon de mimiにフランスから配達してほしいものを聞いてみた。答えは香水。ナチュラルだけどあの毒キノコのイメージに合うような香水を見つけたいな、なんて考え始めると、夜も眠れなくなりそうであるが、兎にも角にも、これからも近藤佑子が繰り広げる面白い表現の可能性を、愛をこめて詮索していきたいと思う。

謝意:京都滞在中にも関わらず、夜中の1時半まで時差を超えてフランスとのスカイプインタビューにお付き合い頂いた近藤佑子りんに心から感謝いたします。どうもありがとう。(インタビュー:2012年6月20日0:21~1:29)