07/16/12

Exposition « Joue le jeu » @Gaîté Lyrique, Paris

ゲームの展覧会がアートの領域で市民権を得るのが難しいなんて議論は、もはや時代遅れですらある。ゲームやメディア・アートを芸術の中にどう位置づけるか、それが従来のアートカテゴリーに対してどのような存在であるか、難しい議論を繰り広げているうちに、アーティスティックなゲームは多くの人の目に触れ、経験され、いずれは当たり前のものになってゆく。そう、こういったものは、人がどうにかして収まるべき場所を与えるというよりもむしろ、現象として蔓延し、浸透するなかでむしろ我々が中に取り巻かれていくというふうに、肩の力を抜いて受け止めたほうが楽ちんだ。

ゲームは、任天堂などの大手の世界的活躍や携帯ゲームの目を見張る発展の具体例をあげるまでもなく、日本が世界の注目を集めながら今日まで飛躍的にヴァリエーションを作りあげてきた分野である。日本でゲームがアートとして認められようと、そうでなかろうと、世界が各国のゲーム史のなかで、日本の果たした重要な仕事を最大限にリスペクトしながら受け止めていることは事実として間違いないのである。その日本で、学術的視点を豊かに備えた大規模な「ゲームの展覧会」が未だ実現されてこなかったことは、ある意味、奇妙なことであるようにすら感じられる。

パリでは昨年(2011年)11月から、グランパレで開かれたGame Story( site here )という、どちらかというと歴史的・回顧展的な大規模な展覧会が2ヶ月に渡って開催され、5.7万人の鑑賞者を集めた。(はっきりいって、この入場者数は、たとえばParis Game Weeksが5日間で18万人、ジャパン・エクスポが4日間で20万人を動員することを鑑みれば勿論微妙な数字ではある。) TVゲームの始まりの、非常にプリミティブなゲームカセットがその場で遊べるようになっており、歴代のゲーム機やコントローラの展示、ゲームボーイやもっと簡単なポータブルゲーム機がコレクションされていた。あるいはたまごっちのような変わり種、戦士モノやポケモンのフィギュアもちゃっかり展示され、そこは自分の子供時代過ごしたゲーム環境がくまなく復元されているかのような空間であった。ふと我に返ってみると、化石のような古めかしいルールに難色を示す現代の子供たちを尻目に、夢中になっているのはもちろん懐かしいオブジェに数十年ぶりに対面した大人たちの方だ。(blog de mimi)

 

game, street fighter 2で遊ぶ少年とわたし。

この展覧会は全体として、歴史、思い出、ノスタルジーを大人のヴィジターが共有し、子供たちがその隙間を走り回りながら、設置されたゲーム機で遊びまくるような展覧会であった。

 

さて、今回2012年6月21日~8月12日、パリのGaîté Lyriqueで開催される展覧会”Joue le jeu »はどうだろう。Gaîté Lyriqueはパリの中心、Arts des métiersの近くにある非常に新しいメディア・アートのための展示空間。現代アートのポンピドゥー・センターからも歩いていけるくらいよい場所に、昔のテアートルを改装する形で昨年オープンした。petite salleやgrande salleといった独立した展示室・イヴェントルームの他、図書館やオープンゲームスペースでは会館中常にゲーム機が開放されており、そこで遊ぶこともできる、まだまだ若くて注目の施設である。


7月には子供たちが夏休みに入ってしまうフランスなので、この展覧会はもちろん、子供の夏休みアトラクションを念頭に構成されている。展覧会のサブタイトルはParcours(小旅行)、スタンプラリー的な4つのアトラクションが用意されており、子供たちはそこで、Gaîté Lyriqueという擬人化された巨大な構造物と電話をしたり、音楽を奏でたり、見つめたり、触れたりする。子供たちのパフォーマンスがどれくらいGaîté Lyriqueをわくわくさせることができたかによって、ポイントが与えられ、次のステージに進んでいく。展覧会自体を一つのゲームコースに見立てるという発想だ。

parcoursを攻略するために渡されるカード。

上述の、グランパレにおける展覧会が、テレビゲームとディヴァイスの歴史をたどるゲームの回顧展であったとすれば、今回のjoue le jeuはゲームの中でもまだ市場に発表されていないもの、実験的なもの、アーティスティックな色彩が強いもの、あるいは複数の人が参加することの出来るインタラクティブ・インスタレーションとしてのゲームなどにポイントを絞って作品選びがなされたようだ。(blog de mimi:more pictures)

Gaîté Lyriqueに電話してみる?

Parcours一つ目のインタラクティブゲームはGaité Lyriqueに電話をかけ、何か言葉を投げかけるというもの。個人の携帯電話から定められた電話番号に電話する。最近、アートと名乗ったり、名乗らなかったりだが、ソーシャルアプリといってメールアドレスをその場で簡単に登録させたり、smsで画像がゲットできるといって携帯電話番号を登録させたり、Gaîté Lyrique内に来ているというのに、Gaîté Lyriqueに電話をかけろというのは何事か。とは言わず、仕方ないのでかけてみる。

さて一番下の階には、Fred & Companyの光と音のインタラクティブ作品が。光のプロジェクションと音楽が、鑑賞者の足が触れた場所によって反応する。動きの速さや性質によって反応するのではなく、それぞれのプロジェクションの前に敷かれたカーペットが幾つもの正方形に区切られており、それぞれが音楽のリズムと光り方に対応している。未来的なイメージのインタラクティブ楽器を構想したようだ。

Electricity Comes From Other Planets, Fred & Company

繰り返しになるが、今回の展覧会のあるべきところは、展示されたゲームがまだ市場にでていないということ。ゲーム市場に出ることを目前にエンジニアがパブリックオピニオンを得て、改善・修正するために展示しているものや、どちらかと言うと非商業的な実験的インタラクティブ作品として、鑑賞者を歓迎しているゲームもあった。下の写真のゲームは、4人用。4人のキャラクターがそれぞれシステムに認識されると、動物の被り物がとれて、人間になる。この状態でやっとキャラクターを自分の動きとシンクロさせることができるようになる。この4人のキャラクターのうちの一人は、ブロックにつっかかっていて前に動くことができない。4人で力を合わせて一旦後ろに下がり、彼の動きを自由にしてやらなければならない。なるほど、2Dのパズルよりも肉体的で、面白そうではある。この他にも、一人や二人でできるTVゲームも幾つかは並べられており、自由に体験できるようになっている。

Games of Interactivity for 4 persons

一番下の階の、音と光のインスタレーションのすぐ近くに、Petite Salleの入り口がある。ここは、音とプロジェクションのインスタレーションをやるのに最も適した部屋となっており、天井も高く、すべての壁は格子状に区切られているので、ピクセル的にも使用出来るし、全面スクリーンとして利用できるようになっている。パフォーマンスなどもここでしばしば行われてきた。今回は、Opéretteのインスタレーションだ。実は歴史的にGaîté Lyrique、1862年に劇場としてオープンした。沢山のお芝居やオペラがここで上演された。その歴史にインスピレーションを受けたDaily tous les joursとKrista Muirは、この会場内を体験オペレッタ劇場に作り変えてしまった。鑑賞者はもはや鑑賞者ではなく、役者となり、舞台でダンスをし、コスチュームを身につけ、歌い、オペレッタを構成する一員となるのだ。
このインスタレーションでは、アイテムが多く、場所も広いため、10人以上で同時に体験することが可能になっている。(もちろん鑑賞するためには何十人も入ることができる。)

Opérette/ Daily tous les jours

体験する展覧会。展覧会の一つの在り方が変わっていく、その途中に私達はいるのかもしれない。これを見ろと言われるのでもなく、このビデオを3分間じっと鑑賞しろ押し付けられるのでもなく、触らないでくださいと怒られるためのマテリアルもなく、必要なルールを与えられることなく。いや、本当は、ゲームのルールは私達のどうすることもできない根本的な段階で、すでに与えられているのかもしれない。私達が、あたかも自由であるなどと錯覚してしまうほどに。

07/16/12

ひとびとの距離/ la distance entre personnes

良くも悪くも、驚きのすくない時代になったようだ。はじめて誰かと会うという時に、その人の容貌は愚か、これまでどんなことをしてきた人なのか、何を作り、どんなことを書き、どこで仕事してきた人なのかということをだいたい知っていることが多いのが、こんにちの初対面の真実である。

 

たった数年前にはまだ、所属先やキャリアなどを含む個人情報がウェブ上に流出してしまうことや、顔写真がネット上にアップされることはひとえにネガティブに捉えられ、迂闊にそんなものを駄々漏れさせてしまう人は、自己管理の行き届いていない人であるかのように見なされる傾向があったに違いない。

ところが現在ではだいたい、人に会うのも、お店に行くのも、旅行に行くのですら、いつもなんとなくデジャヴュである。デジャヴュというのは、必ずしも否定的なニュアンスではない。たとえば、私は初対面の人と、とりわけエライ人とか面接とかで誰かと会うようなとき、だいたい始めものすごく楽しみにして、その後非常に緊張して、しまいには定期考査の試験問題を予想するように、面接シミュレーションをしてしまったりするのだが、事前に多くの情報を知っていれば知っているほど、シミュレーションのシナリオが作りやすいのは事実だ。対面の恐怖みたいなものが軽減されるのも事実だし、写真を通じて顔や姿のイメージが何となくあるので、待ち合わせ場所で通りすがるすべての人に対してそわそわしなくてよいというのも素晴らしい点だ。ただしこのストラテジーの最大の弱点は、変化球に対して、情報開示されていない場合よりもさらにビビってしまう可能性が多いということだ。そして、人との出会いとは往々にしてそういうことが起こりやすくできている。

自分が安心するためという極めて小規模な幸せの追求を除けば、こんなにつまらない試験問題予想の方法はないように思える。与えられた材料からの、話題の再構築。例外的にアクティブな性質をもつ個体を除いて、人はみなある程度平穏な物事の成り行きを好むにしても、である。

デジャヴュ的出会いのもう一つの特徴は、そのつまらなさに比べものにならないほどクリティカルな問題である。それは、デジャヴュ感の一方通行性だ。ある人のブログを長年に渡って愛読しており、その人が日々綴る日常の出来事、家族の話、仕事の悩みや小さな愚痴、感傷的なことばの端々を通じて、読者は十分にその人を知っている錯覚に陥ることができる。ブログというのは(ブログにもよるが)、日記の盗み読みなのである。ウェブ上に、読まれるために書いておいて、盗み読みとは何事か、と思われる人もいるかもしれないが、世の中の多くのブロガー(職業的肩書きを背負ったブログであったとしても)が綴っているのは、本人は露出に無頓着なつもりでもそれが現実にどういうことかを真摯に受け止めていない程度に、限られた読者しか、実は想定していないのである。

そんなわけで、この親密な言葉で書かれた日記を、その人を思いながら長年読み続けてきた読者と、勝手な想定のもと言葉を発し続ける作者の間に、平行な2つのベクトルがあらわれることになる。平行なベクトルは決して交わることのできないベクトルだ。こんなふうにしてかわいそうな読者は、長年見守ってきてよく知っている書き手に対して、つい、非常に馴れ馴れしい言葉をかけ、ゼロから人間関係を築く代わりに、これまで一方的に積み上げてきた個人経験をもとにして、関係を築こうとしてしまうのだ。

この悲劇的なシナリオは、小説家とその読者の間では決して起こらない。小説家は自分が出版という特別な段取りを通して、自分の手から書いたものが世界に旅立っていく過程を意識的に経験しているし、小説の読者は、それが間違っても自分に当てて書かれたものではなく、本を手に取れば誰にでも受け取る事のできる客観的な媒体であることを知っているからだ。したがって、こっそりと作者の言葉を盗み読んでいるという感覚がここには介在し得ない。

 

なるほど、ひとびとの距離を図ることが、とてもむずかしいというのは、色々な原因を伴って、どうやらあながち嘘ではないようだ。たしかに誰かに出会う際、その人がどんな風かを少しだけ知っているのとそうでないのとでは、心にかかる負担が違うのは事実だろう。しかし一方で、ひとりの人間ともう一人の人間の間で築かれるべき「関係」というものに対して、自分の勝手な枠組みを押し付けるのはとても暴力的な行為だ。ひとびとがどうやって出会って、つまらない試験問題予想をするのではなく、おたがいが面白くぶつかり合えるのか。

知らない誰かとせっかく出会った時、わたしが彼(彼女)に対して同じ事を思い、彼(彼女)がわたしに、「思ってたとおりの人ですね」と言うほど、つまらなすぎて嫌気がさすことはないのだ。