11/12/12

« Leurs lumières » Exposition, interview à Jean-Louis BOISSIER / キュレーター•インタビュー

“Leurs Lumières”, Exposition @ Abbaye De Saint-Riquier
“leurs lumières”
exposition du 13 octobre au 16 décembre 2012
Abbaye de Saint-Riquier Baie de Somme
site de l’exposition
Abbaye de Saint-Ruquier

本展覧会のキュレーターであるJean-Louis Boissierが展覧会カタログに寄せたテクストの題名は、 »Leurs lumières » : illumination et aveuglement (「彼らの光」:イリュミナシオンとアヴーグルモン)。(本テクストは、こちらからご覧になれます。

フランス語のイリュミナシオン/ illuminationにはいくつかの意味がある。一つ目はもちろん照明によって照らされること、日本語においてカタカナで使われるイリュミネーション、つまり人工的な光を発する電飾を意味する。なるほど、私たちが普段「ひかり」というとき、それは自然光であるか人工光であるかは比較的重要な光の属性であるが、イリュミナシオンと言った時、これは人工的に作り出された光をさす。本展覧会においてアーティストそれぞれによって作り出された光を見てみると、純粋なイリュミナシオンは、Jakob Gautel & Jason KaraïndrosのDétecteur d’angesと、Tomek JarolimのFermer les yeux、およびMichaël SellamのBlind Testの3作品のみである。その他の作品は、たとえばMayumi OkuraのLa petite fille aux allumettesでは、マッチが作り出すあたたかい光は自然光であるけれども、それが正面のスクリーンに映し出されて「マッチ売りの少女」のテクストを浮かび上がらせる時、それはもはやマッチの火そのものではない。Donald AbadのS’abstraireでは明らかに日没や夜の闇、昼間の太陽の光というものが盲目の猫とアーティスト、その全体のイメージにとって重要な役割を演じている。後述する、Félicie d’Estienne d’OrvesのEclipse Ⅱは、実際にその黒いスクリーンに映されるのはプロジェクションされた人工光であるけれども、表現されるものは隠された太陽であるという点で重層的だ。EMeRIのLumières de Rousseauはどうか。iPadの画面から発される光はイリュミナシオンである。しかしジャン•ジャック•ルソーJean Jacque Rousseauのテクストには、Les rayons du soleil levant rasaient déjà les plaines, … など、『エミール/ Emile』からの抜粋であるパッセージでは、日の出の太陽の光が平原に広がってゆく様子が描写されており、テクストを読む者に自然光をイメージさせる。

あるいは、イリュミナシオンには、ひらめきやインスピレーション、天啓という形而上的な意味もある。天啓というと、神という超越的存在の声を聞くという良い意味であるかのようにしばしば誤解されがちだが、イリュミナシオンがもつ「天啓」のニュアンスは、宗教的に「過剰な光を得てしまった状態」を言う。似たような意味を持つ言葉にenlightment(啓蒙)があるが、これは光のないところに光を当てて明るくする、という意味であって、光の過剰を意味するイリュミナシオンとは根本的に異なる。本展覧会でJean-Louis BOISSIERによって解釈される光はイリュミナシオンであり、このことは、展覧会で展示される作品たちがただ穏やかに自然の中に調和するようなものではなく、少なからず危険性や不安を呼び起こす光であるという解釈を暗示する。

さて、アヴーグルモン(盲目であること)に関して与えられる説明は前者よりずっとわかりやすい。この展覧会にもたくさんのアヴーグルモンが共存している。Julie MorelのLight my Fireは光のもとではそのテクストが姿を見せることはない。部屋の明かりが全て消された時、闇の中にバタイユのそれが浮かび上がるのだ。私たちが日常過ごしている明るい空間というのがあたかも光の過剰であと言わんばかりである。Donald Abadの飼い猫が盲目であることは既に述べた。盲目の猫が撮影した映像を私たちは視覚によって追体験するのだが、そこには解決されない問題が含まれている。そして、Blind Test の前には警告がある。直接見てはいけない。展覧会に作品を見に来て、見てはいけないとはなにごとか。いかなる好奇心をもっても除いてはならない。私たちの目の代わりに犠牲になったカメラのレンズが捉えた奇妙な像がある。

この二つの重要な概念、illuminationイリュミナシオンとaveuglement アヴーグルモンに関して、ジャン•ルイ=ボワシエはこういう。

「ひとが視野を失うのは、たいていの場合、光によってである。過剰な光は我々の目を失明させる。イリュミナシオンのなかで我々は盲目になる。」

したがって、イリュミナシオンと盲目は表裏一体の関係であるという。

 

ボワシエはまた、本展覧会のシンボル的イメージとして繰り返し私たちの記憶に留められているFélicie d’Estienne d’OrvesのEclipse Ⅱ(日食Ⅱ)について、« Oxymore romantique »(ロマンティックな撞着語法)という表現を用いて語る。撞着語法とは、Make haste slowly. / Hâte-toi lentement. (ゆっくり急げ)のように一件矛盾した二つの事柄を共存させる言い方のこと。自然現象である日食において何がいったい撞着しているのかというと、我々すべての生きとし生けるものを本質的に生かす存在としての太陽を、我々は直接目にすることができない。それが叶うのは逆説的にも太陽が隠されてしまったときのみであるという事実である。このとき、Félicie d’Estienne d’Orvesの作品のおいてよく表現されているが、それは「黒い太陽」になる。「黒い太陽」は世界に存在する光を全てそのténèbre(暗闇)の中に吸収しつづける、ブラックホールのようである。我々に命を与える「太陽」が光を発し続けるなら、「黒い太陽」はその対極にあって、世界の光をその暗闇のなかに奪い続ける。そういった意味で文学においても伝統的に「黒い太陽」は死の象徴としての意味を付与されてきた。

この作品は、フィルムのプロジェクションで、漆黒の円形スクリーン上にぴったりと重なるようにプロジェクターで真っ黒の円が投影されている。漆黒の円の周りには隠されきれなかった光が漏れだし、目を凝らしても捉えきれないような繊細でゆっくりとしたうごめきを見せながら、黒い太陽が果てしなく黒いということを強調する。

太陽を直視してはならない。太陽によって我々はヴィジョンを失うこともできる。Eclipse(日食)は、我々がまっすぐに目を向けることのできる唯一の太陽の姿なのだ。たとえそれが死を象徴する「黒い太陽」であったとしても。

 

そういったコンテクストから、鑑賞者はこの展覧会の次の作品、Blind Testへと導かれる。この作品には予め強い調子で警告が発せられる。光は我々を照らし出し、我々を生かす。しかし、時にはその過剰性の中でヴィジョンを奪い、結局のところ我々を闇の中に陥れるのかもしれない。

 

さて、この展覧会が行われているAbbaye de Saint-Riquier(サン•リキエ修道院)は、フランスの修道院の中でも屈指の規模と歴史を持つ。修道院は、時をさかのぼること7世紀にリシャリュス(Richarius)がフランス北部の都市ポンチュー(Ponthieu)をキリスト教に改宗した時から墓地とともに存在し、カロリング朝のカール大帝(768-814)在位中もっとも宗教的重要性を持っていた。その後、繰り返しの破壊と改築を経て今日に至る。第二次世界大戦中は、さきほどのEclipse Ⅱ(日食Ⅱ)の展示空間等は負傷したドイツ兵が手当を受け、かくまわれていたという記録も残っているそうである。現在では、Centre Culturelle de Rencontre(CCR)の活動によって展覧会会場としてパリのみならずフランス全土からのヴィジターを招いている。

最寄りの国鉄駅Abbeville

Abbeville駅

全体のセノグラフィ(演出法)でキュレーターが選んだ色は青。石造りでいつも少しだけ暗い修道院は、白い壁によって展示室が仕切られている。(セノグラフィはこちらhttp://www.ednm.fr/leurslumieres/?page_id=50)その壁を、この展覧会では青く塗った。展示に使用されている台やテーブル等も青に統一した。ここでキュレーターがいう青とは、所謂ブルースクリーンの青であり、あるいはヴィデオの青画面で我々が目にするあの青である。この青は修道院の中を一つの大きなスクリーン化すると同時に、展示作品が離れた空間にあるばあいには色彩それ自体が記号的役割を果たし、それらもまたExposition « Leurs Lumières »へ帰属しているということをアナウンスする。

Jean-Louis BOISSIERのテクストは、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』(1933)への言及を経て、ドイツ在住の作家である多和田葉子が昨年発表したテクストを引用し、私たちとリュミエールの関係、とりわけ人工的なリュミエールへの問いを投げかけて結ばれている。

「午後、ちょっとでも暗くなると母は蛍光灯に明かりを灯した。私は部屋の隅まで一様に真っ白に明るく照らされたばしょで成長したのです。暗さというものはそれが部分的であれども第二次世界大戦の思い出を人々に連想させるものであるから。日本経済は1970年代、大戦の記憶を呼び起こす「ランプ」は抹消してしまいましょうと、全力で発展してきました。90年代には、バブル崩壊の経済危機に直面しますが、東京の明るさはいっこうに陰ることはありませんでした。(中略)しかし、24時間絶えずきらめきつづけている東京の明るさが福島原発によって可能となっていたという事実、そしてそれが今日私たちの生活をおびやかしている脅威となっているのですが、そのことを知っている人は殆どいませんでした。」(仏語→日本語訳は筆者による)

 

光それ自体は、現代アートのシーンでも数えきれないアーティストにより、様々な方法で用いられている媒体だ。ただそれが使用される時、かならず光自身の外にあるものが表象されている。本質的に »articifiel »な光は存在しない、とキュレーターが語るのはそういった解釈によるのである。