01/31/13

石内都「絹の夢」/ Miyako ISHIUCHI « Silken Dreams » @MIMOCA

石内都 絹の夢 / Miyako ISHIUCHI « Silken Dreams »

丸亀市猪熊源一郎現代美術館(MIMOCA)
2012/10/07→2013/01/06

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2013年1月6日、石内都さんの展覧会「絹の夢」を訪れた。この日は本展覧会の最終日で、美術評論家の光田由里さんと石内都さんとの対談も予定されていた。石内都さんの作品は、おそらく中学生か高校生の時だと思うが、1995年に出版された『手・足・肉・体』の写真集をどこかで目にしたのが初めての出会いであったと記憶している。はっきりと覚えているのは『キズアト』(2005年)以降の作品、『マザーズ』や『ひろしま』には、見たことのないものを目にしたときに感じる強い衝撃を受けたし、彼女が被写体を選択するその方法や切り取り方というものに心を動かされた。とはいえ、写真集を見ることは何度もあったが、展覧会に実際に足を運ぶ機会には頻繁には恵まれなかったので、今回初めて丸亀のMIMOCAに訪れ、ここでの石内さんの展覧会を観ることができ、ましてやご本人のお話を拝聴することが出来たのはものすごく幸せなことだった。

展覧会のタイトルは「絹の夢」。本展覧会では石内さん自身が幼少期を過ごされた群馬県桐生市(織物の産地)で2010年から撮影した織物工場や製糸工場の写真とともに、明治•大正•昭和にかけて日本の若い女性たちがお洒落に纏った一代限りの絹織物である「銘仙」に焦点が当てられていた。『ひろしま』から『マザーズ』をへて『絹の夢』にいたる石内さん自身の経験や物語が絹の道にやさしく導かれながら、その奇跡を感じ取ることができるような展覧会であった。

「ひろしま」から始まった、あるひとつの絹の道。(略)広島で出会った絹織物は故郷の土地を呼びおこし、導かれるように桐生に向かう。
遠い日に聞いた蚕が桑の葉を食べる音、蚕棚がびっしりと天井まである部屋の空気の匂い、赤黒い桑の実の甘ずっぱい香り、機械織機の規則正しい音のする小道、そんな土地に生まれたことを初めて意識する。そして銘仙というきもの。… (「石内都:絹の夢」青幻舎、2012年)

「ひろしま」で石内さんが撮影した被爆した女性たちの遺品はその八割が絹製であったそうだ。ワンピースやブラウス、花柄のスカートに美しいドレス。彼女の撮影する広島は、もちろん血痕が刻印され、爆風でちぎれてしまっているが、その衣服たちは今日もなお色鮮やかで美しい。この絹で作られた遺品たちが、彼女を故郷の桐生へ赴かせ、製糸工場に足を運ばせ、そして銘仙の撮影に至らせたという。蚕が桑の葉を食べる音とはどんな音だろう、むしゃむしゃという音の一つ一つが重なり合うように広がって聞こえてくるのだろうか。そして、蚕棚の部屋の匂いや、桑の実の香りを私は知らない。私が生まれ育った北海道では、屯田兵入植の明治20年代当初、養蚕が奨励され札幌農学校(現北海道大学)にも養蚕学を学ぶ授業があったそうだが、今よりもずっと寒い気候だった当時の北海道には養蚕はなかなか定着しなかった。私にとって、養蚕にまつわる描写、クワノハ、カイコ、マユといった言葉の響きは、ただそれだけで、見知らぬ関東の農村のある晴れた夏の日、子どもが遊んでいたり母親たちが仕事をしていたりするような、いつも小説で読むたび熱心に想像した風景を私に思い描かせた。

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彼女がこの展覧会で光を当てた「銘仙」という絹織物について、少しだけお話ししたい。絹の着物がふつうは代々受け継がれるものであるのに対して、銘仙は一代限りの絹織物であると言われる。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に組み合わせる平織りの織物で、その歴史は亨保・文政年間に遡り、伊勢崎の太織り(ふとり)という屑絹糸を使った手織りのざっくりした庶民の普段着として愛用された。明治になると糸屋・染屋・機屋などさまざまな専門業者もあらわれ、銘仙となる。織り方に様々な工夫が加わり、生地も丈夫になっていくが、本格的に女性のお洒落普段着として大流行したのは大正時代のことである。大正の時代、女性は前時代に比べて大変お洒落になった、というより、やっと普通の女も時々はおめかしして外に出かける時代になったようだ。銘仙は実は、洋服がもっともハイカラだった大正末期、銀座のギャルズに最も着られていたとする調査もある。こんなにもヴァリエーション豊かで、自由で、想像力豊かな着物がけっして次の世代に受け継がれなかったというのは、一見不思議な気さえする。石内さんは、彼女の母親の遺品の中に銘仙は一枚もなかったことや、着物を彼女に譲った女たちも持っていたに違いないのに絶対に手渡されなかったという事実から、銘仙は、一般的な絹織物のコンテクストにおいて、日本の伝統の本流になったものからおそらく最も遠いところにある着物であったと解釈している。そしてそれが当時の生きた女達による最も本当らしい絹のあり方だったのだろうともおっしゃられた。つまり、元々は屑繭糸で織られた安物で、色や柄は過剰なほど個人趣味で、世代を超えて受け継ぐに値しないもの、と女たちが思ってきたのが銘仙であり、しかし同時にその繊細で大胆な色や柄、そして儚い運命はまさに「絹の夢」と呼ぶにふさわしい存在なのだということが、私の中ですっきりと納得された。

石内さんの凄いのは、彼女の写真それ自体なんですといきなり言ったのでは慕ふ者失格である。私としては、まず被写体が凄いと言わなければならない。彼女の被写体はいつも凄いのである。それは私が石内さんの作品を観るようになってから一貫して変わらない印象の一つだ。写真集が出版されてから何度も見た『キズアト』では、女性の身体に刻まれた時間の記憶としての傷は、古い傷でありそれ自体は傷むことはないのに、その身体が苦しみ、それでもずっと生きて時間を重ねてきたことを物語る。刻まれた傷は少しも風化せず、あたかも傷ついた瞬間をそのまま観るものの目の前に突き出すかのような迫力。それでいて、傷をもつ女性たちの身体は写真の中で美しい。女性たちは、印画紙上で写真として物質化される以前にそもそも、その生きている様が石内都の直観を惹き付けた女性たちなのである。傷ついた身体を被写体に選び取る作品は世界に数えきれないほど存在する。しかし、石内さんの『キズアト』はそれらのどれにも似ていない。

(略)彼女はヒラリと羽衣を天空から引き寄せ、自分のからだにフワリと巻きつけた。何も着ていないからだにまとわりついた羽衣は、しだいに皮膚の一部となり、肌理を整え、からだに染みて、きれいな表層を作り出す。それがいつだったのか思い出すのをやめてしまうと、羽衣が傷だったことも忘れ、そのわずかな痕跡からにじみ出る体液のような密度のある力によって、黒いひと粒の粒子が生まれる。粒子は粒子を呼びおこし、光と影の無彩色が白い印画紙に焼き付き、羽衣は写真の中によみがえる。…(「キズアトの女神たち|石内都」あとがきより)

石内都さんは、1970年代後半に生れ育った横須賀の町を撮影し、『絶唱•横須賀ストーリー』を発表、78年に第四回木村伊兵衛賞を受賞した。この頃から一貫して、35ミリ、自然光、手持ち撮影を貫く。写真は、曖昧なイメージでなく、物質的であることを明確に意識して写真を作ってきた。彼女が写真を語る言葉には、例えば上記のような「黒いひと粒の粒子」という表現がよく登場する。そしてその粒子は「わずかな痕跡からにじみ出る体液」に由来することから解るように、同じくマテリアルである被写体から放たれる生き生きとした力に深く関係があるのである。彼女は撮影よりも暗室作業が好きだときっぱり言う。できるだけ写真は撮りたくないが、暗室で粒子を数え、粒子と粒子の間にあるものを観るのが好きだと語る。この作業の意味するところは、被写体が持つ何らかの力と石内さん自身が暗室で対話することであり、つまりは写真を媒介にした被写体と自己との関係を結ぶ、もっとも本質的な作業なのである。

「絹の夢」において撮影された数々の銘仙も、実はそういった対話の中で生まれてきたマテリアルとしての写真が鑑賞者に提示されているに他ならない。石内さんが撮影した銘仙とは、それをかつて個人趣味で一代限りの絹織物として纏っていた女たちの身体そのものであり、着こなしであり、今は亡き彼女たちの生き物としての質量や温度や、匂いである。石内さんの写真がしばしば、物を撮りながらもそれを観る私たちに別の存在を想起させるのは、そういったわけである。生き物は死に、物はそこに残り、彼女の撮ろうとしているものは、しかし、もうそこには存在しない。

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石内さん自身が述べているように、「絹の夢」は、「ひろしま」から続く絹の道である。そして、第11回宮崎ドキュメンタリー「Mother’sからひろしまへ」という展覧会が象徴しているように、この二作品も一本の道で繋がっている。「マザーズ」は石内さんが自身の母親の遺品を2000年から2005年に渡って撮影した作品で、第51回ヴェネツィア•ビエンナーレで発表した作品である。真っ赤な口紅がつややかに浮かび上がる一枚の写真は、母親の遺品と聞いて普通連想するような「想い出」とか「亡くなった人への思い」というキーワードが全く似合わない。今まさに物を残したその人が、観る人の前で紅を引き、その深紅の瑞々しい唇を微笑ませるでもなく静かにこちらに向けているような、どきっとする写真だ。撮影者が語っているように、化粧品や下着という身体にとても近い物たちを撮影することは、亡くなった母親の「皮膚の断片」を感じる行為である。そして、ここに浮かび上がるのは、「失われた身体ー物」ではなくて、「撮影者ー物の所有者」。つまり、「マザーズ」は、遺品を仲立ちに母との関係を切り取った作品なのだ。この作品は、ヴェネツィア•ビエンナーレおよび国内の展覧会を通じて鑑賞者によって、それぞれに視られ、語られ、解釈され、そしてまた観られることを繰り返す。遺品は、ある娘が撮影したひとりの母の遺品であることを離れ、ある種の普遍的な「遺品」となる。私写真としての私のお母さんの遺品は、共有されるなかで皆の母の遺品、さらには遺品そのものになり、個別性を越えていく。ここにこそ、「マザーズ」から「ひろしま」へ、そして「絹の夢」にまで繋がる主題「遺品」の意味があり、石内都さんの表現する作品がたとえ文脈から切り離されてひとりぼっちで投げ出されたとしても、しっかり自立して存在する表現であることの理由なのだと、私は考えている。さらに、このことは、しばしば個人的な記憶や想い出、個別的な動機から端を発する芸術における表現活動(あるいは、芸術領域におけるそれに限らない)の存在意義それ自体に深く関わると私は考えている。人々は、自分の抱えているとてつもなく大きくて強いものを、物質化し、可視•可触化し、それを独り歩きさせる。そのプロセスを通して、これを表現した人は、別の誰かによって(あるいは何かによって)、救われたり、共感されたり、非難されたりするだろう。しかし、表現活動には当然ながら、表現されたものをうけとった人にとっての意味が生じなければならない。このことは表裏一体かと思われるかもしれないが、決してそうではない。

私にとって、表現行為の存在意義はごく単純でありうる。個別性を越えてそれが共有されること、そしてそのことが表現者と鑑賞者を深い場所で関係させるようなこと。
私が石内都さんの表現されるものが好きなのは、きっとそれらが閉じた孤独の中ではなく開かれた場所にあり、そのことを感じた瞬間、ある種の救いや幸福ともいうべき何かを直観的に感じるためなのだと思う。

 

*「遺品」という被写体について、書きたいこと等もあったのだが、長くなってしまったので、このことについては次回に改めて書きたいと思う。

2013.1.6 MIMOCAにて。興奮し過ぎて手がグーになっています

2013.1.6 MIMOCAにて。興奮し過ぎて手がグーになっています

 

01/28/13

高嶺格のクールジャパン/ TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN @水戸芸術館

高嶺格のクールジャパン/ TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN

2012/12/22 – 2013/2/17
水戸芸術館現代美術ギャラリー/Contemporary Art Gallery, Art Tower Mito

 

昨年末に帰国した折、幸運にも日程がぴったり合い、12月22日から始まったばかりの水戸芸術館における美術家高嶺格さんの展覧会、「高嶺格のクールジャパン(TADASU TAKAMINE’S COOL JAPAN)」(高橋瑞木さんによるキュレーション)を観た。これまでも高嶺氏の作品には非常に興味があって作品が見られる機会があればうかがわせていただいていた。また、展覧会タイトルであるクールジャパンにも惹かれたし、そして3.11以降に撮影された映像作品「ジャパンシンドローム」をどうしても見たかった。そして、長いあいだ戸芸術館はぜひ訪れてみたい場所でもあったので、ついに訪れることが叶った。京都から始発の新幹線に乗り、スーツケースが破壊するなどのアクシデントを経て上野からスーパー常陸に乗って水戸へ。駅からは気持ちよく晴れた空の下を歩き、堂々と魚を盗んでいる猫などを撮影し、水戸芸術館に辿り着いた。

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「高嶺格のクールジャパン」はインパクトのあるタイトルであるが、このパブリシティのデザインも凄い。クールジャパンという言葉は、1990年代のクールなイギリスカルチャーを盛り上げようとブレア首相が名付けたクールブリタニアという言葉がもとになっているらしい。(Wikipediaによる)クールジャパンは、日本のポップカルチャーを « Oh, it’s so cool !! » と手放しに褒めちぎる態度で、それは日本の外側にいる人々がその内側を覗き込む視線によって作り上げたイメージみたいなものだと私は考えてきた。もちろんこの10年間、日本の大人たちが隣国の「パンダ外交」並みに真面目な顔をして、現代日本文化を代表しうるこのソフトパワーを国益のための外交戦略に利用してきたのは人々の知る通りである。ただし、それはフィードバックの一つの結果に過ぎず、外で騒がれている出来事の実態が分からないまま、どこを歩きどこに行くかも決めないまま、現在までなんとなく来てしまったのではないかというのが私の言いたいことである。「かわいい大使」とか、世界コスプレサミットとか、マンガ•アニメ、ケータイ、アイドル、そして、アート。数えきれない雑多で瑣末な物事も、それがともかく日本のタグをつけたポップな存在ならば、なんの熟考を経る必要もない。とにかくクールな現代日本文化の枠組みに突っ込まれればそれだけでうまくいく。19世紀の西欧におけるジャポニズムの大盛況以来の黄金時代を純真無垢に享受し、日本文化と言えばちやほやしてもらえるハッピーな10数年間を我々は眺めてきた。私はこの間、フランスに住んだ4年近くの期間とそれ以前も何度かヨーロッパで知人に会う度に、「クールジャパン効果」というべき無条件なちやほやを体験してきた。以前はそれを、大陸の人たちが小さ過ぎて見えない島国日本の文化の上にロマンティックな幻想色の絵の具を塗り付けた結果に過ぎず、所詮は自分たちの知らないエキゾチックなものを崇め奉るようなものに過ぎないのではないかと、距離を置いて考えていた。一方で、その熱狂的なラブコールは未だ収束するわけでもなく、一次的な流行でもなければ無視してやり過ごせるものでもないことに否が応でも気づかざるを得ない。しかし、それが何であるのか、それを目の当たりに私はどうしたらいいのかについては一向に考えがまとまらぬまま生活を送っていた。

 

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私にとって、この思考の単なる堂々巡りから少しズレるきっかけを与えてくれた文章に、吉岡洋さんがブログに掲載された「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか?」という記事がある。これは非常に多くの人に関心をもって読まれたようで、このことからも、かなりの人々が「クールジャパン」という現象と言葉の響きに対してうまく説明できない不愉快さや気持ち悪さを感じていたことが分かる。私自身、昨年に本ブログに掲載した「ゴスロリ衣装を外国で着ること。」というテクストにおいて、クールジャパン(あるいはジャパン•ポップ)の記号の一つであるコスプレ(ゴシックロリータ)を自分自身が纏うとは何を意味するのかについて書いた。しかし、実はこれは、クールジャパンをどう考え、それとどう向き合うのか、という自分自身への問いであったのだ。(余談だが、この当時私はこれをやはり多少なりとも「恥ずかし」く「不愉快」に感じ、同時にそれを言語化も他の手段でも表現化できないことに焦っていた。とりわけ、私はこのポップカルチャーにかんし、海外でプレゼンする誘いを引き受けて何度かこれについてレクチャーしていたし、2009年にはスペインのコルーニャにおける国際記号学会で、 »Cool Japan »と題されたセッションにも参加した。(Semiotix Cool Japan in Coruna )そういったわけで、この問題について、それがなんであるかを知らないまま無視し続けることはもはやできなかった。)

 

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「高嶺格のクールジャパン」に話を戻そう。そうそう、パブリシティのデザインの話である。アニメ文化のオノマトペ感が骨の芯まで染み渡った世代の人々なら、このレタリングをながめると自ずと、同じ音を内耳に響かせてくださるのではないかと思う。

シャキーン! とか ピキーン! とかいう音である。

シャキーン!もピキーン!も何かが瞬時に凍り付く様子を表すオノマトペであるが、ピキーン!に至ってはものすごく硬くて厚みのある氷がキラリとするような様子を読者に想像させる音である。この「クールジャパン」の字体はつまり、シャキーンとかピキーンの音が聴こえるようになっており、ものすごく平たく言うと、クロネコヤマトの「クール宅急便」的な字体である。この展覧会で問題化される「クールジャパン」は、したがって上述したような、海外からちやほやされ愛されてホカホカのクールジャパンではなくて、美術家高嶺格が自国の問題として、彼の視線を通じて静かに距離をもって観察するクールジャパンなのだと判る。それは中途半端に冷えているのではなく、凍り付いて溶けないほど「クール」なのである。

 

この展覧会のコンセプトについて高嶺格さん本人が書かれたテクストをここに転載したい。(水戸芸術館、高嶺格のクールジャパン

「女は、女に生まれるのではない。女になるのだ」という、ボーヴォワールの有名な言葉があります。自意識が形成される過程で、個人に対しいかに社会の集団意識が影響するかを端的に言い表したこの言葉は、現在の日本でますます大きな意味を持つのではないかと思います。「日本人は、日本人に生まれるのではない。日本人になるのだ」あまりに身近にあったため、意識に上ることのなかった物事。あるいは巧みに操作され、意識に上がることを妨げられてきた物事。これらの物事に対し、私たちがついに当事者となったのが現在の状況だと言えるのではないでしょうか?

自分の中になにがあるのか?自分はどう作られてきたのか?3.11のあと、煙に燻されるように出てきたのはその問いだったように思います。「人はなんのために生きるのか?」古代から途切れることなく思想されてきたこの問いを、自分の生きてきた時間と重ねて、鑑賞者と共に考えてみようと思います。 高嶺格

 

展覧会は、上のコンセプトに従って8つの部屋に分かれていて、一つの部屋から別の部屋へ通過するためには、黒いビニールテープのフサやカーテンをくぐって行かねばならない。フサもカーテンも、其れ自体は一方通行ではないのだが、隣り合う部屋は分厚いフサや重たいカーテンでしっかりと区切られている。とりわけこの黒いフサの厚みは、通り抜ける途中、このままどこにも辿り着かないのではないかと一瞬鑑賞者を不安に陥れるような厚さなのだ。以下が8つの部屋の構成である。

 

クールジャパンの部屋
敗訴の部屋
標語の部屋
ガマンの部屋
自由な発言の部屋
ジャパン•シンドロームの部屋
核•家族の部屋
トランジットの部屋

 

まだご覧になっていない方もいらっしゃると思われるし、具体的な展示物についての言及は必要がないかと思う。何点かだけ、印象や記憶を付け加えさせていただきたいと思う。隣り合う部屋はしっかりとその二つの世界を隔てながらロジックに強く繋がっており、鑑賞にパワーを要する。

標語の部屋では、すべてが皮肉というよりはむしろ空虚に響いてくるように感じられる。日本社会はアナウンスや張り紙や標語だ大好きだが、それは言葉にすればするほど真実から離れていき、言えば言うほどそれが決して実現され得ない何かに変わっていく。よどみなく流れてくるたくさんの標語は、この国にはこんなにもできないことがあったのかと、静かに気がつき納得する。ガマンの部屋では、人々は色々な理由で色々なものを我慢していることが描き出される。他者にあるいは自分に色々なニュアンスで「我慢しなさい!」と言われたり言いながら私たちは生きている。実は、ここで光が当てられるひとつのことは、「我慢しなさい!」と言う人々自身が、さらに何かを我慢しているという冷たい事実だ。その声は苦痛に満ちていて、くるしい。じつは、我慢しているのは、そうするよう言われている子供や弱者などではなく、日本社会に属するすべての人がその中に、相対的な上位者も会社もみんなを取り込み、集合的に我慢をしいるような構造をとっている。それはなぜでそれからどうしようというのか?自由な発言の部屋は、いつも海外でニコニコしている私たちの他者への攻撃性が非常に工夫された方法で提示されていたのだが、やはりその意味するところのあまりの強さに、ジャパンシンドロームの部屋に辿り着く前に、少しだけ呼吸をととのえる必要があった。

トランジットの部屋に身を置いた時、とてつもなくはっきりしたデジャヴュ感に襲われた。その理由はわからない。私はこの直後美術館の階段をものすごい早さで駆け上がっていく高嶺さんの姿を目にした。あまりに驚いて、自分が会釈したかどうかもよく覚えていない。実はこの日、一時間の滞在が予定されている日であったらしい。

01/19/13

現在住んでいる家の隣に当たる敷地は土木工事関係の仕事をしている個人企業を経営している男性が住んでおり、日頃から作業の騒音と3頭もいる猟犬の吠える声に悩まされている。彼はもっと若い時には、とても活字には出来ないような悪いことを沢山したらしく、そのことをときどき誇らしげにご近所に語っている。罪というのはシステムで決められた方法で償いさえすれば、その後の人生において底抜けに楽しく生きることが出来るという奇妙であるが、そのようである。

 

さて、その男性は犬を連れて狩りにいくのが趣味だそうだ。フランスでは免許を持っていて、申告していれば銃を問題なく所持できる。私は釣りには時々行ったが狩りには行ったことが無い。たぶん生涯行かないのではないかと予想している。家族も狩りにいく人はいなかった。ただ、父方の叔父が時期になるとやはり犬を連れて、シカやイノシシなどを捕っていたようだ。記憶の限りで私はそうやって叔父が捕ってきたシカやイノシシを口にしたことはなく、そもそもシカとイノシシは食べたことがないのではないかと思う。馬はある。馬刺というのが非常に貴重であるとか美味いとかいうことで、いつかの新年に親戚が叔父の家で集まっていた折に馬刺を食すという経験をしたのを、味も食感も全く覚えていないにも関わらず、肉の色とその表面が鮮やかに瞼の裏側に蘇ってくることによって、その事実が存在したということが裏付けられる。ちなみに、私はこの8年くらいの間、ほとんど肉を食べていないのだが、それは宗教上の理由にも動物愛護の理由にも体質的な理由にも拠っておらず、なんとなく、ということなのである。合理的な理由はない。なぜなら、私にとって、羊の肉と鯖の肉とイカの肉の間には本質的な違いが何もないのであり、子羊も子鯖も子イカもちっとも可哀想ではない。あるいは、どなたもおしなべて可哀想である。つまり、鯖とイカは食べて羊を食べない理由は、なんとなくでしかないのである。

 

昨年の11月はパリは寒い日が続いた。そんなひんやり澄み渡ったある日、事件は起こった。いや、事件などそうそう起こるものではないので、包み隠さず、一階から大家さんの悲鳴が聞こえた、とでも描写しておこう。悲壮な声である。いやむしろ、この世の悲痛を寄せ集めてしぼったような声である。私はとりあえず、ドキュメントをセーブしてから椅子から立ち上がった。階段から眺めおろすと、身体的に全く異変のない大家さんの姿があったが顔がへんである。というか、殆ど泣いている。これはただ事ではないと思ったのだが、よくみるとポーズも変である。かかしのように立ち、右腕が胴体から全力で離れるような格好になっている。右腕が、激しくつったのであろうか?

 

冗談はこれくらいにしておくが、要するに彼女は例の隣に住む前科者のおっさんから一羽の雉を、撃ち落とされたままプレゼントされたらしかった。雉の羽というのは間近で観るととても美しい。そしてさっきまで元気でいらっしゃったためにやはりつややかに感じられた。彼女は私に殆ど泣きながら雉を袋に入れてくれるように懇願した。私はそのことが非常に滑稽に感じられ、あなたはこの雉を食べるのかとたずねると、彼女は右手に雉を持ちながら、雉は美味しいと答えたので、私はさらに驚いて自分の仕事部屋に戻り、カメラを探してきて記念撮影した。タイトルは、雉とかのじょである。写真はとても良く撮れており、いい表情である。さんざん撮影して満足した後に私は雉を丁寧に袋に入れて、手渡した。あたりまえだが、すでに温かさはなかった。

 

私は魚はさばくが鳥やほかのほ乳類も解体する技術は身につけておらず、羽もむしったことはない。羽をむしれるかと聞かれたので、やったことは一度もないと答えた。彼女は、事件より一時間半くらいたってやっと平常心を取り戻しながら、そういえば友人に出来る人がいるからやってもらって調理してもらうと話した。

 

私は昔から、少しくらいならアニマルに関わるグロテスクなものは平気である。魚を初めてさばいたのも子どもの頃であったが、もちろん平気であった。食べ物はどこからくるの?的なドキュメント番組も凝視しても平気、小学校の理科の実習で牛の眼球の解剖をして、カッターでかなりアグレッシブに切り開かなければならないプロセスなどがあったがこれも平気、猫が捕ってきてしまう鳥を片付けるのも平気。というか、食べるのであれば、それが半身で海を泳いでいないことや、ハムが草原を走っていないことを知っているのは当然だし、そのプロセスを凝視しないまでも、最低限無視しないというか、存在は認めてあげるというか、そのレヴェルのことは感じてしかるべきであるように思ってきた。フランスでは毎年2月ころSalon d’Agriculture というのがあり、その一画で、最優秀賞に選ばれた1600キロくらいある肉牛が誇らしげに(あるいは迷惑そうに)メダルを下げて立派な衣を引っ掛けられて一週間ぼーっとしているのであるが、そのすぐに横ではお肉の販売もしているというタイムスリップ感満載のイベントである。このイベントは、普段食べているステーキがどんなアニマルか予想もつかない都会の子ども達に、これがその牛さんですよ、っていうのを見せてあげることも目的としているらしいのだが、それならばもう少しうまく間をつなぐことが出来そうであると残念にも思う。

 

さて、雉は翌々日幸いにもこれを扱い調理してくれる彼女の友人のおかげで3人の大人に美味しく食されたようである。私は捕られたアニマルがまっとうに被食されるのならそれでいいと思っている。それ以上でもそれ以下でもない。アニマルと食にまつわる、矛盾するようなことやすっきりと割り切れないことなどはヌーの群れの数よりも多く存在するのであろうから、多少滑稽なことや、奇妙なことがあろうとも、プロセスを割愛した断片化した知識であれども、とにかく、それでもいいと思っている。ひとつだけ、望むことがあるとしたら、撃ち落とされた雉は、あなたを襲ったり食べたりしないので、そんなに怖がらないでほしい。それらは少しもあなたを脅かすものではない。

 

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01/13/13

眠ることについて/ about the sleep

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眠ることは気持ちがいい。このことを後ろめたくなく言えるようになったのは、ここ数年のことである。眠ることが気持ちが悪かったのでは決してなく、素直に気持ちがいいと言えなかったのである。

 

私が覚えている限り、あるいは聞いて知っている限り、私は眠らない赤ん坊であったし眠らない子どもであった。赤ん坊は眠るはずであるから、眠らないならばなにか眠れない理由があったからに違いない。子ども時代の思い出としてよく覚えているのは、眠る時間が無駄であるという強烈な信念を小学生の自分が持っていたことであり、あまりに遅く眠ると親に怒られるというので、朝5時に目覚ましを掛けてこっそり起きて本を読んだり、算数の問題集を解いたり理科の資料集や恐竜や生き物の図鑑を眺めたりしていた(むろん、眠いのでそれが目覚ましい効果をあげたとも思えない)。とにかく、5時間以上眠ることは自分の中のルール違反であり、ナマケモノの始まりであり(ちなみに、アニマルとしてのナマケモノは素敵な生態で大好きなのだが)、限られた人生の時間を無駄にする悪いことなのだと思っていた。なぜだか分からないが眠ることへの罪悪感は殊の外深く、昼寝も出来なかった。学校の授業中、殆ど授業を聞いたことがないのは眠っていたからではなく内職(その授業の内容とは異なる単元あるいは教科の自習をすること)をしていたからであり、寝落ちしても自分を責めずに済んだのは、せいぜい、電車や地下鉄の中くらいである。もっぱら、移動手段は自転車だったので、こぎながら居眠りというわけにはいかず、したがってこれもあまり叶わぬルール違反だった。

 

この思い込みと習慣は大学に入って一人暮らしをするようになっても続き、私は引っ越すと凝りもせず実家で使っていたのと同じタイプのロフトベッドを買って、超低い天井なのにこれを組み立てて設置し、ロフトベッドというか、イメージとしてはカプセルホテルの域というか、寝台列車のいちばん低い等級の3段ベッドの真ん中というか、そんな寝床が十代終わりかけの私の日常だった。時々頭をぶつけたし、酔っぱらって帰ってきた日にはよじ登るのが一苦労だ。大学一年生の時いちど、自力で家に辿り着けなくなり友人が搬送してくれたが、さすがにカプセルホテル級の窮屈さを誇るロフトベッドまで私を運ぶことは諦めて、広々とした床に放置してくれたということもあった。(そうそう、いちばん自己への思いやりに欠けた、あるいは自己鍛錬に晒していた経験としては、インテリア的にとてもブサイクに思えて、ハシゴを設置をやめた時期であろう。これはかなりスポーティーな決断で、つまり眠るためには本格的に天井付近までよじ登らねばならない。もちろん、不可能ではないのだが。)この頃私は、それでも少しずつ、眠りを魅力的に語る人々に憧れを抱き始めていたように思う。自分は得体の知れない罪悪感のため、心おきなく眠ることができないので、友人や知人がうっとりしながら彼らの眠りの素晴らしさを語るのを聞くたびに、自分が辿り着けない至高の幸福がそこにあるように感じられて、純粋に、憧れた。

 

そういえば私が出会った人々のうち、かなり多くの人々は、友人、男友達も女友達も、眠るのが好きな人たちだった。眠るのがいちばん好きだと断言する人もおり、趣味は寝ることだと言い放つ人もおり、鼻血が出るほど驚いた。

 

いっぽう、私にも眠りに関して自慢できることがひとつだけあり、それは、私は今まで眠れなくて困ったことがないということだ。それは私に悩みがないからとか本気の心配事がないからだと言われそうだが、私にもそれなりに悩みくらいあり本気で心配している物事も幾つもある。でもぜったい眠れるのである。私は、猫の言葉も社会生活も、亀の欲望もサボテンの体調も手に取るように聴こえてくるのだが、不眠症の方々の苦しみはほんとうに未知なるものである。私はこのことを次のように考えている。

私は眠る時いつでも眠ることが出来る、なぜなら私は眠ってしまうときにならないと眠らないから。

 

。。。

 

人生の、少しずつではあるが、時間が経つにつれ、友人達が言い放った憧れの名ゼリフ、「眠るのは気持ちいい!」に実感を伴って賛同できるような気がしてきた。たしかに、カプセルホテル的ロフトベッドより、しっかりしたお布団とパリっとして同時にちょっとひんやりするシーツとか、固めのマットレスのごろごろ寝返りがうちまくれるベッドとか、身体が垂直から水平になったときに地球にしゅーっと吸い込まれそうになる感じとか、そういった感覚は、たしかに「気持ちいい」。それでもやっぱり私は眠ることそれ自体に興味がない。なぜなら、眠るためには眠る以外の意味が必要であり、その意味が充溢していると感じられるときにのみ、眠ることが幸せに思えるからだ。眠るのに眠る以外の意味があるというのは、たとえば、進まない仕事があって寝てしまえば明日フレッシュなアイディアが思いつくかもしれない、とポジティブに信じられる夜であったり、睡眠時間を確保することによって体調が維持できると思い込める時であったり、あるいは見たい素敵な夢の続きがあるとか、一緒に眠ることによって愛する人と過ぎ去っていく時間を共有することができるとか、そういったことである。常に意味は外側にあり、その何かに身を任せているときにしか、眠りの喜びを享受することが出来ないのである。

 

こういったことは、眠りだけに言えることではない。現代の私たちの生活では様々な行為ー生物的に本質的であるような行為ーがしばしばこのような方法で納得されており、このような方法でしか納得されていない。たとえば、食べることや、セックスをすることなどもその例にもれない。

 

なぜそれ自体に喜べず、なぜそのものの幸福を感じられないのか。あるいは、それをキャッチするレセプタが誰も知らないところでこっそりと破壊されているのかもしれない。

 

私は、すこし仲良くなった猫や犬であれば、どのように触ってあげると最も気持ちがいいかわかる。人間でもわりと、わかる。そうやって触ってもらって喉をごろごろ鳴らしている猫のとても繊細な表情の移り変わるのを見ていると、羨ましく思えた睡眠礼賛の精神も、あるいは、可哀想なアンチ睡眠主義の想い出も、つまりはその猫の細めた目の、切れ目の中に吸収されてしまって、そのディテールはもはや知ることができないということになる。それはほんとうのことで、それで、いい。

01/9/13

Conférence de Masayo Kajimura, le 9 janvier 2013 à Paris

Mercredi 9 janvier 2013 à 18h30, amphi Rodin
École nationale supérieure des Arts Décoratifs, 31, rue d’Ulm, 75005 Paris

 
Masayo Kajimura : « Folding stories into water »

Masayo Kajimura est une artiste japonaise et allemande qui se consacre notamment à la vidéo, née à Berlin en 1976, qui vit et travaille à Berlin. Elle réalise des films expérimentaux,  des installations vidéos et des projets collaboratifs dans les domaines de la danse et de la musique. Ses compositions poétiques d’images rapprochent des nivaux de réalité ordinairement séparés. Des fragments de récit, des scènes et des souvenirs sont tissés en un mouvement à la fois temporel et spatial. Le déplacement de l’eau est un thème constant de son travail et la tactilité de ses images révèle un imaginaire qui replace la réalité dans un continuum plus vaste.

Depuis 2010, elle travaille au projet Aqua Ephemera qui traite l’eau sous diverses apparences, à partir de sa faculté de déplacement. En 2012, avec Maiko Date, chorégraphe et danseuse, elle a entrepris le projet de vidéo-danse Between Islands qui développe l’histoire d’un voyage sur l’océan, suivant des  modèles de déplacement qui intègrent leurs propres expériences de la migration. Dans cette conférence, Masayo Kajimura présente ses œuvres dans le contexte des événements récents au Japon, à propos de l’eau et de sa condition de membre de la « diaspora » qui a développé une relation spécifique à l’idée de traditions culturelles et de sa réinterprétation.

Présentation par Miki Okubo, chercheuse à EnsadLab et chargée de cours en Arts plastiques à l’Université Paris 8

 

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Masayo Kajimura (born1976 in Berlin/Germany) is a Japanese-German video artist who lives and works in Berlin. Masayo Kajimura makes experimental films, videoinstallations, and collaborative projects with dance and music. Her poetic and associative composition of video images has been described as folding layers of reality, bringing distant elements together. Fragments of stories, scenes, and memories are woven into a temporal and spatial movement. The migration of water is a continuous theme in her work, and the tactility of her images evokes an imagination that positions reality in a greater continuum.

Since 2010 she has been working on the ongoing project “AQUA EPHEMERA”, that deals with water in its different forms of appearance and its migrating quality. In 2012 she started the video dance project “between islands” with choreographer and dancer Maiko Date, where the two artists have been developing the story of an ocean journey along movement patterns, integrating their own experiences of migration. In this lecture, Masayo Kajimura will present her works against the backdrop of the current events in Japan, relating to the element of water, and positioning herself as a diasporic person, who has developed a specific relation to the idea of cultural traditions and its re-imagination.

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screenings / exhibitions / performances (selection)
“between islands”
video dance performance at lowave (Paris), Autumn Dance Scene Festival (Gryfino/Poland), 17. Internationales Wandertheaterfestival (Radebeul/Germany), miss hecker (Berlin), Grüntaler9 (Berlin), 2012-2013
“Emotional Elements“
symposium on posthumanist emotionality at Johns Hopkins University (Baltimore/USA), 2012
“How Water – Part II”
exhibition at gallery 38 Wilson (Paris), 2012
“Human Frames”
a touring videoart exhibition and festival at Werkstatt der Kulturen (Berlin), Festival des Cinémas Différents (Paris), KIT (Düsseldorf), the substation (Singapore), 2011-2012
„Fushigi na basho – la place mystérieuse “
video dance piece with Mademoiselle Cinema at Festival Sztukowanie (Gryfino/Poland) Museu Oriente and Teatro Malaposta (Lisbon/Portugal), Session House (Tokyo), Pomplaza (Fukuoka), Nishikawa Ai Plaza (Okayama), Odeon Theater (Vienna/Austria), NAFTA (Sofia/Bulgaria), Sibiu International Theater Festival (Sibiu/Romania), 2006-2011
“Paivascapes #1”
festival and exhibition at Vila Nova de Paiva/Portugal, 2011
“Home Sweet Home Festival”
exhibition and festival atWerkstatt der Kulturen (Berlin), 2010
“Weltbürger – 650 Jahre Neukölln“
exhibition at Galerie Saalbau (Berlin), 2010
“Tapetenwechsel“
exhibition at Neues Kunsthaus Ahrenshoop (Ahrenshoop/Germany), 2010
“EXPERIMENTAL 3”
screening at Ciné Nouveau (Osaka), 2009
“Contemporary Flanerie: Reconfiguring Cities“
exhibition at Oakland University Art Gallery (Rochester/USA), 2009
Spread Videoart Project/SVP (Tokyo), 2008
Ogaki Biennale 2008 (Ogaki/Japan), 2008
Japanese Film Festival “Nippon Connection” (Frankfurt am Main), 2008
Asian Hot Shots Festival (Berlin), 2008
“Amsterdam Film Experience” (Amsterdam/Netherlands), 2007
“Okayama Filmfestival 2006” Okayama City Digital Museum (Okayama/Japan), 2006
“fragmented sequences“ screening at Lichtblick Kino (Berlin), 2006
“Screen Fields” exhibition at gallery Session House Garden (Tokyo), 2005
“Kyoto Media Art Week 2005” screening at Goethe Institut, Studio KINO (Kyoto), 2005
“Borderline” Ladyfest 2004, screening at Arsenal (Berlin), 2004
7th Black Nights Filmfestival at Goethe Institut (Tallinn/Estonia), 2003
49th International Short Film Festival Oberhausen, 2003

 

01/1/13

松田有加里 / Matsuda Yukari, FANTASIA in Gallery サラ(改訂)

松田有加里 FANTASIA ギャラリー•サラ Gallery Sara

松田有加里さんと初めてお会いしたのは、2011年11月にパリ•バスティーユ広場のギャラリー•メゾンダールでの個展においてである。この時、彼女の作品が持つ雰囲気やテクスチャー、幾つかの一貫した主題に個人的関心を抱き、その翌年2012年の3月に大阪でインタビューさせていただいた。この記事は、拙ブログ「松田有加里/Yukari Matsuda, 奏でられるイメージ」に掲載しているのでお読みいただければ幸いです。その後、彼女のシリーズとしての作品、FANTASIAの第三楽章(PARIS)までを包括する展覧会が、滋賀県比良山のふもと、ギャラリー•サラで12月23日まで開催されているということで、こちらにお邪魔し、会期も終盤の在廊でお忙しい中であったにもかかわらず、お話をいただいたことに感謝したい。

Place de la Bastille, Paris

FANTASIAは何よりもまず、インスタレーション的、かつ音楽的に構想されている。沈黙した画廊でのシンプルな写真展示であったことはこれまで一度もない。彼女は写真家として活動を始める以前、ピアニストであったし、そもそも生まれながら活発な表現者である。さて、FANTASIAの展示空間には、音楽が鳴り響いており、それは遠くから聴こえるようでもあり、時々はっきりと意味を紡ぐようでもある。FANTASIAは現在、三楽章までが発表されているのだが、今回のギャラリー•サラにおける展覧会では、その全貌が一挙に公開されたという点で、彼女がこれまで対峙してきた被写体とそれを表現する方法を結ぶ松田自身の問題意識、さらには、全体的な世界観を一望することが出来る貴重な機会であったといえよう。

FANTASIAの森に足を踏み入れるその前に、今回私自身も初めてお邪魔させていただいたギャラリー•サラという展示空間がアーティストに提供している特殊性について少しだけご紹介させていただきたい。ギャラリー•サラは、滋賀県比良山の麓に数年前にリニューアルオープンした趣のある展示空間で、ロッジ風のお洒落な扉を備えた建築がとても可愛らしいギャラリーである。お庭はギャラリーをぐるりと囲み、春や夏には草花がにぎやかに茂り、秋と冬は葉を落とし引き締まった木々の凛とした表情が美しい。当ギャラリーの代表で陶芸家であられる塚原さんがデザインした陶器のリュミエールが印象的だ。中に一歩入れば、ガラス張りの四角い中庭に明るい色の苔の丘が我々を出迎えてくれる。丘の麓は断片となった陶器で飾られていて、様々な模様や色に楽しいきぶんになる。この中庭を一周するように展示空間が与えられている。そして、入り口の正面に位置する一つ奥まった畳のお部屋があり、このギャラリーの特徴的な鑑賞ルートを作り出す。私が訪れたその日は、展覧会も終盤で多くの鑑賞者で賑わっていたのだが、この不思議な空間では人々はすれ違うけれども干渉せず、それでいて一緒に一人の作家の作品を見ているような温かい連帯感がただよう。

本ギャラリーは、湖西線比良駅と近江舞子駅の間に位置し、近江舞子駅からの送迎もしてくださる。近隣の山並みもほんとうに素晴らしいのでぜひ一度訪れていただきたい。

gallery サラ


FANTASIA : A Song born from fantasy, not limited by form.

形式が重要視される西洋音楽の中心に身を置きながら幻想的で自由である歌、これを彼女が自分の作品テーマとして選び取ったことは、必然のようにさえ思われる。彼女が暗室で浮かび上がらせる色と形は、いつも不思議な印象でその表面を覆っている。前回紹介したように、彼女の被写体は、取り壊しが決まった明治時代のレジデンスや、今は立ち入りが禁じられているような老朽化した建造物、現存する最古の学生寮として知られる京都大学の吉田寮など、かつてそこにあった人々の生活を記憶するものや現在も記憶を上塗りし続けているもの。実は、消え行くそれらを写真に残すことと、デジタル化する写真の危機に直面しながら直観的な手焼きにしか実現できない表現を守ることは彼女の中でパラレルなミッションとして認識されている。人々がどんどんデジタル写真へと移行して行く中で、今日上質の印画紙を手に入れることすら簡単ではなくなってきていると言う。彼女が主に使用している紙はドイツ製のトーション紙だが、過度ではない光沢と深みがあり、確かに彼女の浮かび上がらせる色調を引き立てる効果がある。彼女は、一貫して暗室で手焼き写真を作り続けてきた。学校ではデジタル写真についても学んだし、デジタルカメラを使って出来ることの可能性はもちろん肯定的に受け止めている。ただし、技術革新によってあらゆることが平均化されてしまい、あるいは非常に器用にできるようになったために、本来作りたいものがあるはずのアーティスト自身が、技術の海の中で視野を失ってしまうことが問題だと言う。ただテクノロジーの可能性を追求することに終始してしまう今日ではありふれた現実を目の当たりにしながら、それでも彼女の作りたいものは、有無を言わせない数学の計算だけではすべてをクリアーに説明することの出来ない感覚的な音楽である。

 

「 »内なる目で見た写真 »を表現するとどうなるか、ということに興味があるのです。」

 

ある対象にじっと目を凝らすとき、あるいは、目を凝らしているようで自己の内側では感情が溢れ出すような瞬間あがり、それはつまり見ているようで何をも見ていない瞬間だ。そのようなときにシャッターを切る写真は、ややもすればその平らな印画紙の上にのっぺりと漠然としたしかし完全なプロポーションで姿を現すのみであって、それは端正でリアルらしいイメージを描き出す。通常、人々が写真に求めているのはこの側面であるだろうし、学校で教えられる「正しい写真」というのもこれを意味する。松田有加里は、写真のサイエンスに意味もなく首を縦に振ることをしない。当たり前の写真を覆し、暗室で静かに身体的な反応に集中する。


たとえばピンぼけ写真などは、通常、写真としては典型的に嫌われる。松田の作品にはピンぼけ写真が数多く登場する。それも、とても深くぼけているイメージだ。私はこの深く遠くずれていく写真が比較的、彼女の視線を再現しているイメージであるように感じてきた。とりわけ、パリのカフェや道で撮影された作品は、音と色以外の五感に強く訴えるような作品がある。もちろん、完全なピンぼけ写真以外にも、紅葉に飾られた車庫前やホテルの窓なども秀逸である。

私は彼女をただの写真家というよりはむしろややインスタレーションを行うアーティストのように捉えるほうがいいのだと勝手に考えている。例えば、彼女は展示空間に併せて、版の大きさや額を対応させるのはもちろんのこと、印画紙を変えたり、ストーリー構成を組み替えたり、音の扱いも柔軟に変化させる。それがその都度、ぴたっとはまる。こうあるべきというより、もともとこうだったと思わせるほどに。そしてその感覚は、各々の写真の内部に立ち戻ってみても感じ取ることができるのだ。

 

今回第三楽章にあたるParisを見ることができて、私は個人的にとても快感だったのだが、それはきっと、沢山の写真家が見てきた「リアルなパリ」ではなく、大きくずれたり溢れたようなイメージ、つまりは自由に幻想的な異端のパリの手触りを感じ得たことが爽快だったのだと、そう思う。