04/30/13

新聞女論 vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。/ Newspaper Woman, liberating minds by arts

本記事は、第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第二弾、「新聞女論  vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。」です。

新聞女は、新聞紙を作品制作の材料として利用するアーティストある。彼女が役目を終えた新聞を作品の材料として大抜擢したのもそれでモノを作り始めたのも、運命みたいなものである。新聞は、ひとたび大量に刷られ、情報をぎっしり詰めて人々それを伝達するのに、その賞味期限はあまりに短命、翌日にはすぐにゴミになってしまう。毎日毎日大量に生み出されてすぐゴミになって捨てられる新聞紙たち。アーティスト西澤みゆきは、今日のように新聞でドレスやジャケットを制作し始める以前、大学でファッションを学び、デザイナーとして12年間企業に勤めた。彼女は消費の時代のファッション業界のあり方やそれを体現するような生活、つまり、溢れ返った物に囲まれ次々と新しく手に入れてはすぐに捨てる生活に疑問の念を抱く。なるほど、消費社会におけるハイスピードのアパレル産業と、物質性を伴ったマスメディアである新聞の置かれている境遇はそっくりである。彼女は、そんな不毛なサークルとも言える消費の輪をひょいと抜け出し、それまで捨て続けてきた物たちを救うかのように、役目を終えた新聞をメディウムとしてアーティスト活動を始めたのだった。

citée de The Morning Call

Newspaper Woman, citée de The Morning Call


嶋本昭三(1928.1-2013.1)は具体の創立メンバーの一人で(「具体」という名の提案者)、絵の具をキャンバスに投げつけたり、クレーンで吊られて上空から巨大な絵を描くパフォーマンス•ペインティングで知られる。晩年はAU(Art Unidentified)を組織するなどの活動を通じてたくさんの人々に芸術表現による精神交流のメソッドを伝達した。彼の芸術や生き方に触れた人々は「嶋本ミーム」(嶋本昭三文化的遺伝子)を伝承する者として、この遺伝子を世代を超えてさらにたくさんの人に拡散していくことができる。西澤みゆきもこの嶋本ミームをもつ者の一人だ。実は、嶋本昭三の絵画作品の中にゆくゆくは西澤のメディアとなる新聞を利用した作品がある。あの有名な穴のあいた絵画がそれだ。「作品」(1954年 芦屋市立美術博物館)のコンセプトは、前衛美術家嶋本昭三の誕生と同時に創り出されたアイディアである。美術を志すも、親に美大で学ぶことを許されなかった若き嶋本は1950年代始め、知人の紹介で吉原治郎(1954年に具体美術協会を結成)に弟子入りすることを試みる。毎日毎日絵を描いて見せに行くものの全く認められない。貧しかった嶋本は、木の枠に新聞紙を貼り、メリケン粉(戦後日本にGHQを通じて入ってきたアメリカで精製された真っ白い小麦粉)を炊いたものを塗り付けてその上に白いペンキを塗ったものをキャンバス代わりにしていたのだが、ある日それが濡れたまま急いで描いたところ穴の空いた絵ができてしまった。ー「穴の開いた絵なんか世界中にないんでは?」ー その絵が吉原治良に嶋本の才能を認めさせ、当時日本での厳しい評価をよそに海外では直ちに高い評価を得た。新聞が初期嶋本作品においてキャンバスの代わりに用いられ、それは時間が経つとカサカサになって割れたり穴が空いてしまうがその作品は今も幾つかの美術館に残り続けている(つまり、新聞は木枠と白ペンキで固定され、時の中に封じられることで、失った自由と引き換えに持続するいのちを得ている)。その一方で、新聞女の新聞は自在にかたちを変え、動き回り、刻まれ、破かれ、象られ、触れられ、纏われ、つかのまの時間を、それと遊ぶ人々とともに生きている。

SHIMAMOTO Shozo, Work, 1954

SHIMAMOTO Shozo, Work, 1954

 

さて、新聞はゴミであると上述したが、「ゴミとして捨てられてしまうものに命を与えます!」なんて言うと現代ではすぐにエコですね!とジャッジされる。いらなくなったものをアートのために再利用するという点で、エコ•アートというカテゴリを掲げられても勿論反駁はしまい。しかし、新聞を使うことの本当の意味をもっと丁寧に見るべきだ。メディアとしての新聞と新聞女の関係を考えること無しに、新聞女は語ることができない。彼女の作る美しい新聞ドレスを埋め尽くすのは、逆説的にも惨たらしい事件の報道や、戦争や紛争のこと、政治的不和や不況のこと。そこにある出来事を視線でなぞるならば、世界があたかも悲劇的な事柄で埋め尽くされているかのように感じざるを得ない。そして、それはある意味で真実なのだろう。

「新聞に書いてある内容はほとんど悲しいことや辛い目に遭った人のこと。テロや戦争、原発… 私に少しでも力があればぜんぶ解決したいがそれは叶わない。せめてその新聞紙を使って皆の心がすこし幸せになれたらいい。」(西澤)

bijyututejo_miyuki

2004年6月の美術手帖に取り上げられた有名な新聞女のパフォーマンス作品がある。「Peace Road / 平和の道」は、新聞紙の中の9.11のテロに関する記事を選択的に使用して作られた作品だ。テロに関する記事の部分を、地球の色としての青、そして人々の肌の色である白•黒•赤•黄の計5色で塗りつぶし、神戸の元町駅から西元町駅までの1.2kmの道のりを一本の新聞の道として繋いだ。平和を祈り、人々の幸せに貢献したいというコンセプトは新聞女の表現活動の最も基本となる考えである。このプロジェクトは、ヴェネツィアのサンマルコ広場でもゲリラパフォーマンスで実践されている。こうして、異なる国や大陸で繋ぎ続けて行き、いつかは「地球をぐるっと一周peace roadでつなげたい」と彼女は述べる。
(参考 新聞女HP)

 

citée de The Morning Call

Crane Performance, citée de The Morning Call

新聞女のパフォーマンスのスケールの大きさとエネルギーを象徴する「クレーンパフォーマンス」を紹介せずにはいられない。クレーンパフォーマンスは、嶋本昭三氏が得意(?)とするパフォーマンスで、色とりどりの絵の具の入ったガラス瓶を上空から落下させて地上に広がる巨大なキャンバスに描くというもの。新聞女のクレーンパフォーマンスでは、彼女のホームページ(新聞女)をご覧頂けば一目瞭然であるが、上空に吊り上げられることによって、彼女自身が、超巨大(超ロング?)新聞ドレスを纏う新聞女という作品として完成するのだ。巨大なスカートはその真下にたくさんの人を含み込むことができ、人々はここでもやはり、下から新聞女のスカートを堂々と覗くことになる。風の噂やご本人の口から、新聞女が実は強度の高所恐怖症だという噓みたいな話を耳にした。あんなに格好よく、笑顔で新聞吹雪などを巻きながらぶら下がっていて、高所恐怖症とは何事だろうか。今回の2013年アーレンタウンでの初仕事もクレーンパフォーマンスであった。徹夜の作業。天気は大雪。遠足ではありませんので、悪天候決行。ご存知の通り新聞は水で強度を失い、簡単に破れてしまうはずである。地元メディアの取材陣、さらにはアーレンタウンの市長さんまでやってきた。亡き嶋本昭三に代わって上空に舞う新聞女に失敗は許されない。(参考、日々是ひめアート
パフォーマンスは地上から笑顔の大喝采を受けて真の大成功を収める。

「そのとき、不思議な感じがした。
いつもは上空の嶋本先生に下から拍手喝采していたのに、
その瞬間わたしがいつもの嶋本先生になって、地上のみんなを見ていた。」
(西澤)

アーレンタウンにおけるクレーンパフォーマンスの成功は、嶋本昭三研究所のメンバーおよび新聞女ズ、そして何より西澤みゆき自身にとって決定的に重要な意味を持つこととなる。

 

新聞女は明日、明後日も(4月30日ー5月2日)高の原AEON MALLに現れる!
(リンク http://www.aeon.jp/sc/takanohara/event/
・5月1日(水)
13:00~岡田絵里 はし袋でパレードしよう
15:00~新聞アーティストと一緒に新聞ドレスで館内パレード
・5月2日(木)
13:00~八木智弘 自分だけのミサンガ作り
15:00~巨大新聞こいのぼりを作ってトンネル遊び
場所:2F 平安コート他

 

「新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。」もお楽しみに!

04/29/13

新聞女論 vol.1 新聞女@グッゲンハイム美術館 – 新聞は纏うとあったかい。/Newspaper woman @guggenheim museum

本記事は、これより第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第一弾、 新聞女論 vol.1「新聞女@グッゲンハイム美術館- 新聞は纏うとあったかい。」です。

 

Newspaper Woman wearing  Shozo Shimamoto's painting

Newspaper Woman wearing Shozo Shimamoto’s painting

神様の偏西風が逆向きに吹いて、全く訳の分からないまま、私を乗せた飛行機はぐいぐいとニューヨークに引っ張られ、私がグッゲンハイム美術館の裏口に侵入したのは、19時半すぎ。「新聞女パフォーマンス@グッゲンハイム美術館 in NY」(Art after Dark, site )の開始時間の1時間以上前だ。本来JFK空港着予定が19時55分で、そこからうまく渋滞がなかったとしても、美術館に着くのは22時近くなりそうだったのだ。ミステリーである。私はその前日も飛行機でも寝ておらず神様の追い風のせいで頭の芯がしびれており、図々しいとはもちろん思いながら、準備中で確実に大忙しの西澤みゆきさん(新聞女, 新聞女HP)にコールしてもらった。新聞女はまだ新聞を纏っておらず、白いぴたっとしたカットソーを着ていた。彼女は私が着いたのを喜んでくれ、私はとてもわくわくし、三日分の荷物を詰めたちっちゃいスーツケースを引きずって、彼女が手伝わせてくださるという制作の現場にひょこひょことついていった。


kobe, 2012

kobe, 2012

私が新聞女パフォーマンスに出会ったのは昨年、2012年5月12日に神戸ファッションミュージアムで行われた記号学会においてである。小野原教子さんが実行委員長をされた『日本記号学会第32回大会 「着る、纏う、装う/脱ぐ」』(JASS HP)の学会第一日目、アーティスト「新聞女」が現れて、たくさんの研究者とか大学の先生とか学生さんで溢れる学会の会場がたちまち新聞で覆い尽くした。彼女は台の上で新聞一枚でぐるりと回りを覆われながら、そのなかで、全部脱いで、裸になって、ドレスを纏った。
(記号学会でのパフォーマンスの写真やコメントは以下ブログ うきうきすることが起こった。日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。Part1

after the performance, kobe, 2012

after the performance, kobe, 2012

ダンサーの飯田あやさんらによる新聞の舞にうっとりしている間に、周りの大人たちが笑顔で新聞だらけになっていく。みんなが楽しそうに、「私にもぜひ新聞巻き付けてくれ」と遠くにいた人たちもどんどん新聞女のほうに吸い寄せられていく。新聞の海のヴォリュームの中からわき上がるように高く高く登って、いつの間にかデコルテのロングドレスにエレガントな日傘を携えたの超笑顔の女が頂に姿を現し、パフォーマンスは完成した。纏った新聞はあったかくて私はとても幸福だった。彼女のパフォーマンスに初めて取り込まれた日のことだ。

 

グッゲンハイム美術館から直々のインヴィテーション。新聞女と新聞女ズ、そしてAU(Art Unidentified)の一団はニューヨークの郊外アーレンタウンを拠点に2013年2月初頭にアメリカに渡り、そこでFUSE Art Infrastructureの支援を得て寝食を共にしながら、 »Lollipop »(lollipop itinerary)という一連の企画でアーレンタウンとニューヨークで連日制作発表の多忙且つアーティスティックな日々を送っていた。グッゲンハイム美術館からのパフォーマンス依頼が届いたのは、彼女の最愛の師匠嶋本昭三さんが亡くなったその瞬間であったということを知る。全ては、小さな人間には手の届かない遥かに大きな「なにか」にうごかされた運命なのである。彼女たち数名は意を決して帰りの飛行機チケットをどぶに捨て、来る3月9日夜、嶋本ミーム*を共有する者たちのエネルギーでグッゲンハイム美術館を新聞で覆い尽くすことを誓ったのであった。私は突然の渡米を決めた。私はアメリカに行ったことが無い。自分がアメリカに行くというのはとても不思議に思えた。京都からは吉岡洋さんが具体と新聞女についてのインタビューを受けたりするため渡米する予定で、私もいっしょに新聞女のパフォーマンスを体験することにした。この記念すべきパフォーマンスのために、仙台の中本誠司美術館は嶋本氏の作品を西澤みゆきがグッゲンハイムのスロープで衣装として纏うことを許可し、当美術館からも当パフォーマンスへの協力者がかけつけ、ユタ州からは元新聞女ズの強力な助けがあり、フロアに設置された巨大新聞と新聞女号外の制作者やニューヨーク在住の知人協力者、そしてもちろん一ヶ月間連日制作発表を共にしてきた新聞女ズの中心に、笑顔で皆を率いる新聞女の姿があった。新聞女は、笑っている。舞台裏で制作に汗を流す仲間たちに指示を出し、自らも運び、走り、彼女のエネルギーがそれが遠くにいても感じられたりするなにかであるようにまばゆかった。

wearing her beautiful dress made of Shinbun

wearing her beautiful dress made of Shinbun

 

舞台裏にはたくさんの仲間たちがさすがはプロの手早さで作業をしており、私なんかが急に邪魔しにやってきて説明していただく時間や労力を割いてもらうのすら恐縮だったので、見よう見まねで出来るだけ頑張った後はジャーナリストに徹して写真を撮りまくろう(つまりサボり!)とひとり決意し、それでも教えていただきながら皆さんの巧みな新聞さばき/はさみさばき/ガムテープさばきを盗み見しながら、作品のほんの一部だけ制作に貢献した(ような気もする)。それぞれの分担作業に取りかかる前に、ボス新聞女から皆にパフォーマンスの段取りの説明があった。このパフォーマンスはなんと、21時から24時までの3時間持久レース、幕開けはPlease walk under hereの裾が30mにも及ぶレースでできた新聞ドレスでの登場。その後グッゲンハイムの名物スロープを利用して様々な新聞コスチュームを纏ったパフォーマーがヴィジターを巻き込んでパレードする、パレードが終わるとフロアでは巨大テディベアがどんどんその実態をあらわし、その傍らシュレッダーされたモサモサの新聞を生やしたニュースペーパー•モンスターがそれをフサフサさせながら踊る。フロアにいる人は、演歌や新聞女のテーマというジャパン的BGMに乗って「半額」とか「30円」のレッテルをぺたぺたくっつけられながらそこにいるだけで面白くなってしまう。そして、スロープには大きな「gutai」の文字をバックに嶋本昭三作品をエレガントに纏う、みゆきさんの姿が…。

Newspaper Woman's newspaper, special edition

Newspaper Woman’s newspaper, special edition

 

Princess !

Princess !



フルで3時間続くパフォーマンスなんて、いったいどんな体力であろう。しかも彼女らは連日の制作•発表•制作•パフォーマンスの多忙の中で寝ずに今日の日に突入しているという。フロアは入場者で満たされていく。Please walk under here ! の長い裾を皆で丁寧に支え、スタンバイ状態に入る。ああ、なんて、皆を巻き込むパフォーマンスはただひたすらにワクワクし、そこに存在するだけで楽しいのだろう。Please walk under here ! は新聞女の師匠、嶋本昭三氏の「この上を歩いてください」(Please walk on here, 1955)のオマージュである。女の子のスカートの下(というか中?)を歩く。めくり上げられたスカートの内側をあなたは堂々と歩いてよい。その長い長いスカートの裾はとても繊細なレース模様が施されており、それをばっさばっさまくり上げながら、観客であるあなたは中に取り込まれるのだ。盛大なスカートめくりであり、あなたはそれを覗く者となる。

"Please walk under here" goes on

« Please walk under here » goes on

Newspaper Woman appears in public !

Newspaper Woman appears in public !

with 1000 visitors

with 1000 visitors

fantastic !

fantastic !

パレードでは写真家のヤマモトヨシコさんが撮影された素晴らしい作品がパネルとして掲げられ、新聞女と新聞ドレスを着た女たち、そして巨大ジャケットを着た普通のサイズの人たちが練り歩く。このデカジャケのコンセプトは「着てたのしい、見てたのしい」。ファッション科出身の西澤みゆきの手にかかりジャケットは新聞と言えどきちんと裁断され、(巨人使用だけど)リアルな洋服の作りとなっている。着るととにかく面白いこのジャケットは「吉岡洋が着てもアホに見えるところがポイント」だとかなんとか。このジャケットを着て改めて思ったのだが、新聞は普通の服や紙より明らかにあたたかい。それがただ何枚も重ねられたり文字が印刷されているためだけでなく、新聞女とその仲間たちが創り出すそのものたちは、纏うととてもあたたかい。

Yoshiko Yamamoto's picture works

Yoshiko Yamamoto’s picture works

in her famous giant jacket, Parade

in her famous giant jacket, Parade

Half price

Half price

 

これらの大量の新聞は、アーレンタウンで彼女らの活動を支援したFUSE Art InfrastructureのLolipop Co-Directorでアーティストのグレゴリー•コーツが現地で入手してくれたものだそうだ。素晴らしいディテールのレースのドレスも、労力を要求するシュレッダー•モンスターのコスチュームも、可愛い巨大テディベアも、その一夜限りのニュースペーパー•ドリームを演出するために生み出され、そして、処分される。新聞女の作品はダイナミックで、パフォーマンスはエネルギーに満ちている。それらが全て撤収されて、片付けられて、元の世界が舞い戻ってくるような瞬間は、なんだか奇妙にすら感じられる。しかしそこには、たとえば夏が終わったときのような哀愁や寂しさは漂わない。なぜなら、一度新聞女に出会った者はその日の出来事をもう二度と、忘れることが出来ないからだ。そのエネルギーは出会ったあなたの中に既に送り届けられ、それはより多くの人たちと「ハッピー」を共有するために、増殖を続けるのみである。

 

a big teddy bear after the performance

a big teddy bear after the performance

elegant lace dress after the performance

an elegant lace dress after the performance

「いま目の前にいるみんなが喜んでしあわせにいれるように。地球の誕生から様々な生命が繰り返されてきたように、その大きな生命体の一部として。作品は残らなくても、みんな(や地球)がニコニコはっぴーでいれることに貢献したい。」(西澤)

(グッゲンハイム美術館でのパフォーマンス、その他の写真はこちら
*嶋本ミーム ミーム(meme)とは人から人へと行動や考え方を伝達する文化的遺伝子のこと。京都ビエンナーレ(2003)では嶋本昭三と弟子の作品を集めた「嶋本昭三ミーム」展が開催された。

新聞女は明日から三日間(4月30日ー5月2日)、高の原AEON MALLに現れる。

(リンク http://www.aeon.jp/sc/takanohara/event/

日程 / 時間
・4月30日(火)
13:00~高田雄平 自分だけのブレスレット作り
15:00~新聞アーティストと一緒に巨大テディベア作り
・5月1日(水)
13:00~岡田絵里 はし袋でパレードしよう
15:00~新聞アーティストと一緒に新聞ドレスで館内パレード
・5月2日(木)
13:00~八木智弘 自分だけのミサンガ作り
15:00~巨大新聞こいのぼりを作ってトンネル遊び
場所:2F 平安コート他

 

「新聞女論  vol.2「アートは精神の解放」 – 裸のたましい、ハッピーを伝染する。」もお楽しみに。

 

04/22/13

ロン•ミュエック:あまりにも本当らしいその人たちは誰?/ Ron Mueck, who are the persons like someone ?

Ron Mueck Exposition : site here.

Fondation Cartier pour l’art contemporain
le 16 avril – le 29 septembre 2013

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ロン•ミュエックは1958年、オーストラリアのメルボルンに生まれた。現在はロンドンに住み、様々な大きさやかたちの身体の部分が並ぶストイックなアトリエで、数人のアシスタントとともに世界中の人々を驚愕させる作品を生み出し続けている。この有名な美術家が日本の人々によく知られるきっかけとなったのは、今からもう5年も前になる金沢21世紀美術館において開催されたロン•ミュエック展(site here.)である。あの、一躍有名になってしまった産み落とされたばかりの巨大な赤ん坊は、可愛らしいというよりもまだ血だらけで顔もしわくちゃ、一見そのへんの猿よりもサルらしい顔をしている。赤子なのに老けていて、おじさんのようなのにおばさんのようである。あの赤子にミュエックが与えたタイトルは、ア•ガール(A girl, 2006)。あまりのリアルさによく目を凝らさなければ産み落とされたばかりの男性器を見誤ってしまいかねない、立派なへその緒がぼっこりと生えている。どんな言い方をしようとも、大きささえちがうものの、たしかに、生まれたての我々はこんな風なのだ。覚えていないかもしれないけれど。

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今回のパリカルティエ財団現代美術館(Fondation Cartier pour l’art contemporain, Paris)でのミュエック展は、2005年のRon Mueck展につづく第2回目となる。あの大きな女性が窓越しに横たわって、黒めがちの静かな眼差しを外の世界に向けていた様子(In Bed, 2005)を記憶に留めているパリジャンも少なくないだろう。今回は、あのパラソルの下の老夫婦を含む3つの新作(Couple under an umbrella, Woman with shopping, Young couple) を携えての展覧会となった。

私はミュエックが好きだ。ミュエックの創り出す人々の顔やからだ、その表面とかたちが好きだ。嫌いなところをどうしても言ってくれと万が一頼まれたならば、「あの人たちに触れられないこと」と答えるだろう。(ミュエック自信に対する好き嫌いでもなんでもないが。)ただ単に、触りたい欲望から耐えるのに必死なだけである。しかしそれは切実である。丁寧に作られた繊細な代物なので、触ることが出来ないのは、大人なのでわかる。そうなのだが、「ちょっとだけ」「ひとり1回だけ」とかお願いしたい気分になるのである。だって、その表面は本当に素晴らしいんだもの。
人間の身体のかたちが芸術作品のなかでどのように表現されるかということ、そして、一体どのように人間の身体という物理的なオブジェクトが、ただのオブジェクトであるよりも作る人と見る人の記憶や感覚に刻印されるような印象を残すことがあるのだろうか、ということについて、そのことばかりをずっと考えてきた。ミュエックのつくる人々とその身体は、そのような文脈においてただのオブジェクトであるよりも、大切な意味を持った作品である。

ミュエックの彫刻がリアルなことは確かに人々を驚かせる。そしてそのあまりに本物らしいのに、等身大ではなく、もの凄く大きかったり小さかったりするサイズによっても一種の奇妙さや不安な印象を与える。「なぜ実物大にしなかったのだろう、こんなに本物らしいのに」と問うことはあまり意味がない。リアルマネキンを作るのではないというのが理由の一つだ。誰かに非常に似ていて本当らしい大きさをもつリアル彫刻は、ロンドンのマダムタッソーとかパリのグレヴァンなどで嫌というほど見られる。(そして、テレビ的有名人に疎い私にはそのありがたみが半分も分からない、と思って未だ行ってない。)あるいは、ミュエックの生み出すその人々は限界まで本当らしく、しかしその似ている曲線は漸近線にはどうやら届かないことになっているような人々らしい。彼らが誰か、ミュエックは知っているだろうか。

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Couple under an umbrellaは、二人の大きな人がパラソルの下で寄り添っている作品だ。おじいさんとおばあさんは海辺でひときわカラフルなパラソルを伴って、のんびりと太陽の恩恵に授かる。老いた人々の、たるんだ肉、皺の寄った皮膚は非常に肌理細かい。肌全体にはうっすらと細かいシミが広がっており、血がゆっくりと通う静脈の血管がその表面に、皮膚の色に本当の色調を変容させられながらぷくっと浮かび上がる。
おばあさんの足下に寝転んで眩しそうに目を細めるおじいさんの眉の毛は、長い。耳の穴からはやや伸び過ぎた毛が見えている。彼らの毛穴はときどき開いたり、閉じたりしており、長い長い人生の時間を歩き疲れた足の裏はくたびれて、おばあちゃんの足の指は軽く外反母趾の変形した親指の根元が在り、多くの人が時々悲鳴をあげるか涙ぐむような事態を引きおこす巻き爪もある。それにしても、足の裏の皮膚というのは、二の腕だとかお腹のフワフワの皮膚に比べてたいそう硬く、毎日の歩行によってある程度形状が固定されており、たった数時間裸足になってそれを自由にしたところで、生まれたての足には二度と戻らない。mueck_atelier_1 言うまでもないが、私たちの身体は、常に完璧に手入れの行き届いた代物ではないし、完全なるフォルムやプロポーションをもつ個体は、ない。ヴィーナスの像のようでもあり得ない。おばあさんの肩は、ひどくなで肩、頭部に対してやや貧弱で左右の高さが違うし、背筋もやや歪曲しているようだ。そもそも、からだはスポーツ選手やモデルなら最上級に手入れするのだろうが、そうでもなしに放っておくとどこか歪んだりして左右対称ではなくなる。これは、病気でもなんでもなく、普通のことだ。
ひざやひじの皺の感じや皮膚の肌理までもがあまりにも本物の身体、といっても私たちが日々目にするような、取るに足らない身体に似ているので、サイズを覗けば違和感がない。臭いがしないのが不思議なほど、そのふくらはぎに手を伸ばしたならばきっと老人の肌のようにふわふわと弾力を欠き、やわらかく、そして、温かいに違いないと感覚する。

Still life (2009-2010) :
mueck_still_life

つりあげられたニワトリの顔の安らかな様子は、死のことに対する我々の印象を一蹴する。死は安らかである。それが巨大なニワトリのものであっても。

Woman with sticks (2009-2010) :
mueck_woman_with_sticks_2

薪を精一杯運ぶ小さな働く人。お腹や二の腕の内側など、肌の弱くやわらかい部分が薪に傷つけられてかすり傷だらけになっている。持ちきれないほどの薪をいっぺんに抱えて、その身体は後ろに反り返り、険しい顔をしている。なるほど、女性の身体には力がみなぎっているようにも見えるが、働くべき小さな諦めのようなものも併存している。あるいはそのことに疑問を唱えない強さというべきか。縮れた豊かな陰毛はふさふさに茂ってカッコいい。それらはエナジーを感じさせる力強い身体であると同時に、普通の人のありそうなからだである。酷使も過保護でもなく、無理に矯正も受けていない、生まれて普通に育ってきた働く身体。肉体は傷だらけで、踏ん張る力強い足、ゆたかな陰毛は美しく温かい。

mueck_woman_with_sticks

Woman with shopping (2013) :
mueck_atelier_2

両手にスーパーの買い物袋を下げた女性。女性の両手は買い物袋で塞がっておりその小さな身体にはいささか荷が重いと言うふうに、どことなくしんどそうである。コートの前方の空いている部分に目をやると、赤子の小さすぎる頭が覗いている。疲れているのだろう、顔がこわばって、その視線は遠くを見ている。赤ん坊のことなどちらりとも見ない。かわいそうな赤ん坊の頭部は異様に小さく異様に細長い。洗物や掃除のせいで手は乾燥しているのか。買い物袋を覗けば、缶詰やソースなど普通の食べ物がちらりと見える。(写真は制作過程)

Mask Ⅱ (2001)
mueck_mask_2

巨大な頭部としてのマスクⅡ。あまりに巨大なのでどんな細部も見えすぎる。とりわけ、このひげは素晴らしい。色の細かく違う、白髪や黒や灰色の色の違うひげがいっぽんいっぽん丁寧に皮膚に埋まっている。毛とは、あるいは毛根とは奇妙なものである。ひげ抜きとは非常に面白いものだが、これを見ていると耐えられないほどにひげ抜きたい願望を掻き立てて止まない。欲望を刺激する皮膚であり、もはや訴えるようなひげである。(写真は部分)

Man in a boat (2002) :
船に乗った人は照明のせいだろうか、その表情のせいだろうか。肌は透明で凍り付くようであり、死神が存在し、万が一人間らしい容貌をしていたのならこんなおじさんではないかと思える。向こうを、のぞきこんでいるが、そこはもう世界の外側である。ただし、裸の死神というのも奇妙だ。

Young couple (2013) :
カップルは若い。ハーフパンツの少年が少女の手を掴んでいる。手を握っていると言うよりも、はっきりと手首を掴んでいる。ふたりの若者の顔には、幸せとか安らかさというよりも、何かしらの緊張が見て取れる。少女の腕を掴む力のある腕には筋があり、ある程度力を込めて彼女の手首を握っているということが見て取れる。女の子は半分くらい少女であるのに、目は遠くを見つめてうごかず、その表情のせいだろうか、どことなくおばあちゃんのように見えてしまう。

そして、壁一面の静かな水面に浮かぶ、一人の男がいる。Drift(2009)がそれだ。Driftは、壁一面、一室にその一点だけが展示されているという、贅沢な空間利用によって、これまでのホワイトキューブの空間とはまったく別の世界観を演出している。このサングラスの男がどんな目で、いったい誰なのか、サングラスよりも遠くのことは私たちにはよくわからない。ニワトリよりもおばあちゃんよりも、作者に似ていない気がしなくもないが、近づくとやはり違う。

あまりにも本当らしいその人たちは誰?

04/8/13

ARRRGH ! HYBRIDE MONSTERS / ARRRGH ! 身体のハイブリッド性 @Gaîté Lyrique

ARRRGH! Monstres de mode / モードの怪物たち

あるとても寒い日、といっても世界の他の国々と同様に既に4月を迎えているのだが、郊外では雪すらうっすら降り積もったというその日、数日前まで最終日までに行けないのではと思っていた展覧会に思い立って行ってきた。展覧会は気になったら行ったほうがよく、人は気が向いたら会うほうがいい。

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ARRRGH! http://www.gaite-lyrique.net/theme/arrrgh-monstres-de-mode
du 13 février au 7 avril 2013
@Gaîté Lyrique
Arteの展覧会ビデオでも気になってたまらない、(ビデオはこちらです)黄色いスウェードの衣をまとった生き物は『千と千尋の神隠し』に登場し、その愛らしい動きと顔がないその顔によって一躍有名になった、あのカオナシ様に似ている。だが、なんだいジブリのパクリやないか、と勝手に一件落着してはならない。実はこの洗練された顔、IAMAS出身のグラフィック•アーティスト大石暁規さんの、あのキャラクターのお顔なのである。正面から見ても近寄っても横から見ても、たしかに愛嬌のあるこの有名なモンスターは、PICTOPLASMAのPICTOORPHANGE LES PETITS BONHOMMES (2008)である。PICTOPLASMAはアートにおけるキャラクター的なものやファッションのデザインと身体の関係に着目し、キャラクターデザインやタイポグラフィデザインを手がけるほか、アートブックの出版も行うドイツのグループである。こちらは、2010年に行われたハンブルグでのPICTOPLASMAの展覧会だが、こちらで大石暁規さんのタイポグラフィック・キャラクターが登場する。

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*大石さんのサイトはこちらAkinori Oishi

 

ARRRGH!は日本語でいえば、ギャー!といおうかウギャー!といおうか、そんな展覧会タイトルである(と思う)。残念ながらふざけてるわけではないのだが、さすがにタイトルだけではちょっと訳が分からないのでコンセプトを見てみよう。
ISABELLE MOISYによる解説によるとこうある。
——-
「ファッション•クリエーターが創造するハイブリッドなものたち。現代のヴィジュアル•クリエーションの中でも人間の身体や様々なコスチュームに関する作品を展示する。とりわけ、Atoposの創作活動と作品に焦点を当てながら、そのスタイリストやデザイナーが「モンスター」像を通じて浮き彫りにする、身体とアイデンティティーのハイブリッド化の過程をお見せする。」( D’une recherche étonnante sur la création visuelle contemporaine dédiée à la figure humaine et au costume, le collectif grec Atopos met en lumière l’univers de stylistes et designers qui explorent les processus d’hybridation du corps et de l’identité à travers l’image du monstre. )
ARRRGH!はしたがって、奇怪なモンスターたちに出会ってしまったときの、我々の驚きと恐怖と違和感に満ちた「叫び」をあらわす。この展覧会会場に所狭しと立ち尽くすマネキンやキャラクターたちはそんな我々の叫びに囲まれて日々を過ごしている。

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補足となるが、この展覧会と合わせて、PICTOPLAMAから出版されている一冊のカタログ »NOT A TOY. Fashioning Radical Characters »(Edited by V.Sidianakis,2011)についてもリンクを掲載させていただく。表紙は性同一性障害という長きにわたる自己の問題と向き合って去勢手術とそのほか幾つかの整形手術を行ったプロセス(2005ー2007年)をセルフポートレートで表した作品で著名のピューピルさんが制作した強い色のニットを纏って登場している。— http://www.atopos.gr/publications/not-a-toy/
また、覗かれるだけでも軽く眩暈がするけれども楽しいATOPOSのサイトもご覧になってみて頂ければと思う。ATOPOS

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さて、個人的にも、PICTOPLASMAの作品はこれまでも何度も目にしたことがある。たとえば、つい昨年、同Gaité Lyriqueでの展覧会PIctoplasma(http://www.gaite-lyrique.net/programmation/theme/festival-pictoplasma)が行われた際にも多くのキャラクターを目撃したし、Petite Salleでのインスタレーションパフォーマンス、The Missing Link(2011)もインパクトがあった。雪だるまというか雪男といおうか、しかしやはりどこかキャラクターらしく可愛らしい姿をした不思議な生き物が、真ん中のとりわけ大きな雪男にひれふし、からだに対して小さく細い腕を天にかざし、天啓を仰いでいるような、何かを祈り何かを求めているようなポーズ。

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それでは、数あるモンスターの中からその幾つかをご紹介しよう。フレークが詰まったタイツをたくさん被ったセクシーなモンスターは、ALEXISのTHEMISTOCLOEUS FREAKS (2011)である。ありとあらゆるマテリアルを挑戦的に使用したファッションモンスターの展覧会において、もっとも無意識に触ろうとしてしまいかけたコスチュームである。展覧会の入り口で見た「作品は非常にフラジャイルです」という注意をつい忘れてしまうところであった。細かいフレークがパンストにパンパンに詰められて、マネキンのボディを覆っている。マネキンのボディはつるっとしている一方で、ストッキングの表面に訴えかけるフレークのつぶつぶの質感は魅力的である。この形状は、月並みには有名な草間彌生のスカルプチュアや身体のフラグメントの表現のようだが、どうじに、それ自体が独立した別の生き物であるかのようにも見える。

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CHARLIE LE MINDU のヘア系スカルプチュアも一連のシリーズとして定評がある。髪の毛で作られた巨大な唇、長い髪の毛で身体を覆うようなコスチューム。髪の毛は、前述のフレーク入りの温かく柔らかそうなパンストの対極にあり、触りたく思いにくい代物である。モンスターと髪の毛の関係について思い起こしてみると、日本には、お人形さんの髪の毛が伸び続けるという怪談があるし、女の人の幽霊もたいてい皆長い長い髪の毛を垂らしている。だがそれらは決してすすんで触れたくなるようなものではない。そもそも、髪の毛というのが半分死んだ細胞であることは、我々は感覚的に知っているようだ。レストランのお料理の中に髪の毛が入っていたら、たいていの人は憤慨して不潔だと言ったりする。あるいは、ホテルに宿泊してお風呂や流しに見知らぬ人の髪の毛がたくさん落ちていたりしたら、不快に感じたりする。髪の毛は、なるほど我々を不安にさせるようなテクスチャーを持っている。それは彼らが死んでいるからでもあり、性器を本来保護する陰毛とも関係があるからである。髪の毛で造形された大きな唇は、もはやただの唇ではない。

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あるいは、Manon Kündigの風船服。我々の身体も時々こんなふうに深海を泳ぐフグのように、プウっと膨らんでは静かに縮んだりしたら面白い。あるいは、実は既にそのようであるのかもしれない。膨らんで膨らんで、破裂するすれすれにその表面が裂けていることにもなぜだろう、多くの場合ひとびとが気づくことが出来ないのは、我々が心外にもその痛みに鈍感であるからだろうか。

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またCHARLIE LE MINDU Kiss Freak(2011)は同様にヘア系スカルプチュアのうちの一つ。鏡を覗き込んで「世界で一番美しいのはだあれ?」と猫なで声で魔法の鏡に尋ねるうら若い女性の顔は唇だらけ。口はそう、身体と外界を繋ぐ管の境界部分として我々のからだに切れ目を生じさせている。彼女の顔を間違って覗き込んだりしてはならない。そのとき、我々もまた、その裂け目を自己身体の表面に意識せざるを得なくなるのだから。

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DIGITARIA(Collection Mind Over Matter en collaboration aver Hope)による2012年秋冬コレクションからは、やわらかい大きな抜け殻。暗闇の中にうかぶ真っ白な抜け殻はなんだか気持ち良さそうで、そこにからだを埋めれば今もまだ、見知らぬ生き物の温度を肌に感じることすらできそうである。これをみると、ああ我々はいつか映画で見たように宇宙からやってきたエイリアンかなにかで、カプセルの中に閉じ込められていて、時がやってきてその外に出ることが出来たのであり、われわれはそこをぬけだしてどこか自由になったのだと思うかもしれない。そのような幸福な想像力と同時にわたしはもうひとつの全く別のストーリーを想像することが可能だ。それは、これらの抜け殻は実は、もともと空っぽの抜け殻として準備されていたのであり、その空洞はなにかがその中に侵入してくるその瞬間を首を長くして待っているのだ。たとえば、あなたが迂闊にも、その中柔らかい内部に侵入してくるようなことを。

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04/7/13

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

The Fragile, Louise Bourgeois / ルイーズ•ブルジョワ 『The Fragile』

MoMA
Inside / Out, The making of Louise Bourgeois’s The Fragile

installation

初めて訪れたニューヨーク近代美術館(MoMA)で、未だかつて見たことのないとても素敵な絵を見つけた。2010年に98歳で亡くなったパリ生まれのアメリカアーティスト、ルイーズ•ブルジョワのThe Fragilesという一連のシリーズである。スペースの壁に展示されていたのは36枚のドローイング。青や水色で描かれた女性の身体。それらはある時は妊娠し、あるいはその胸を我々に向かって解放する。またある時は、かの有名な蜘蛛の姿になって紙の上を滑らかにうごめく。彼女の作品の幾つかを知っていれば、一目見て「ブルジョワの作品」と気づかないわけにはいかないほど、明確に一貫し、繰り返されるライン上に位置する作品であると言える。しかし、なぜだか、以前のこのような作品とは全く似つかない予感をこれらのドローイングは隠している。

ルイーズ•ブルジョワは、嫌われたり愛されたりするのに、ややハッキリしすぎる。しかしその方法は、上述した「一貫し、繰り返されるライン」によって固定化されるブルジョワ的世界観に囚われているだけなのだ。グロテスクなもの、不安をかき立てるもの、女性性の歪められた表象、男性性への恐れと憎しみ、生きることの痛みのある意味での物質化…。これらは確かに、分かりやすく理解可能な説明だが、その過剰に明解な定型文たちはぐるぐると同心円を描いて軌道を回り続け、そこには抜け穴も逸脱の可能性も、ない。わたしがこの素敵な絵を見て感じたことは、むしろ、それらの化石のような理解可能な説明とは無関係に、ブルジョワは世界に生きているということだった。「ラディカルに」しかしひたすら同じことを繰り返すアーティストは、これらを描いた95歳のその時も絶えず生きて、彼女の内部が変わり続けていたということに他ならなかった。このことをもう少し具体的に述べてみたい。

突然だが、何の悪意もなくわたしの個人的な印象を述べることが許されるのなら、ブルジョワが大嫌いな人は男性に多く、このことは事実である。なぜなのか? その理由はごく単純で、ブルジョワが作品制作を通じて、世の中の男という生き物を裸にして晒し者にし、それだけでは気がおさまらずに滅ぼしても滅ぼしてもなお、復活させ痛めつけ、滅ぼすことを飽くなく繰り返してきたからである。ルイーズ•ブルジョワは男性が嫌いだ。そのこと自体はいくら聞き飽きたからといって覆そうと思っても意味がない。彼女がボコボコに解体しようとする男性性というものが彼女の父親像に端を発していると言うこともまた揺るぎない事実だ。彼女の父は彼女の母と家庭教師であったもう一人の女性と肉体関係を持ち、この二人の女性と同居した。ルイーズもこの一つ屋根の下にいた。ルイーズもまた彼女の父によって性的に望まない被支配的状況に置かれたことも言われている。ルイーズの残した言葉の端々に、父による自己の破壊が読み取れる。

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Destruction of the Father (1974) という作品は、強烈な作品である。わざわざ読みほどくのも恥ずかしいほど明瞭だが、「父を破壊する」というタイトルについて、彼女は「父がわたしを破壊したので、今度はわたしが父を破壊する。それがいけないわけないじゃない。」と言い放つ。まことにカッコいいことである。破壊された父は、テーブルの上でルイーズに食物として食われたのでした。これではあまりに酷い説明であるため、もう少しだけ。Destruction of the Fatherは、ルイーズがすでに63歳の時の作品で、家族を苦しめた父をテーブルの上に引きずりあげて、あなたのせいで皆苦しみましたから、あなたは食べ物として食われてしまえ、という作品である。ヴィヴィッドな黄色の丸いスカルプチュアが薄暗く天井の低い部屋にたくさん並んでいる。その真ん中にはテーブルがあり、テーブルの上には既に人間の外見は留めていない、言うなれば臓物だとかエイリアンの断片として表象された父がいる。そのテーブルというのもインスタレーションに入ればすぐさま連想するように、ちょうどベッドのサイズなのだ。ベッドにぐちゃぐちゃに散らばった父。ルイーズにとってのベッドは、父と母の眠るところであり、父が浮気する場所であり、人が子孫を生み出すところであり、同時に人が死ぬ場所でさえある。この作品において、ルイーズ•ブルジョワはフロイトの女性性に関する理論(欠けた存在としての女性)を参照し、その理論に異義を唱えながらもそのことを不安に思うと言って、結局はそれを食べるのである。このことはフロイトをひとまず退け、彼女の父に対する距離を考えるならば、興味深く思える。破壊されるべき父を無惨にばらばらにしたのちに、彼女はそれを摂食することによって、自らの中に吸収•統合してしまうという行為。この一点において、Destruction of the Fatherは煮え切らず、気持ち悪いのであり、この一点においてのみ作られた意味があるとわたしには感じられる。

さて、それから彼女は長く生きた。2007年にそれらのThe Fragileシリーズを描くまでの33年の日々。まだ33年生きたことがないので、わたしはそれがどれくらい長いのか知らないが、どちらにしても同じ時間は流れないので、わたしには一生知り得ないことである。

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さて、The Fragileシリーズは、ルイーズ•ブルジョワの作品の中でずばぬけて平和的である。そこには攻撃性や暴力的なものがない。妊娠した女性の大きなお腹の青い色は丁寧で優しい。こどもを産む女性の膨らんだ胸から、赤子を育む母乳がほとばしるその様子なども、光が差し込むように明るい。赤などの色彩を帯びたときでさえ、そこにあるのは生命の温度である。あるいはまた、いまや世界中に点在する巨大な蜘蛛スカルプチュアの不気味を想起させる、中心に顔と放射線状に伸びた無数の腕をもつ生き物は、皆あっけらかんとしていて、かつてのようには苦しんでいない。それらは、フロイトによって「欠けた存在」と名付けられ、しばしば父なる存在に支配を受けながら子を産み続け、不運にも、世界の中に根を張ることのできるような普遍的に安定した場所を持たず、海の中をフワフワと漂う原始的な藻類の仲間のように、描き出される。それは、彼女がとても長い時間をかけて見いだしたひとつの生き物の形のことである。これらのドローイングが明らかにすることは、ルイーズ•ブルジョワが、恐れ続けていたものに対していっさいの恐れを失ったということであって、恐れがない彼女の作品は見る者に生き物の形を見せながら、それが酷くいびつなものであっても、いつかそれが怖くないのだということを語っているのが聴こえてくる。

04/1/13

救済 / salvation – photoablum

le 31 mars 2013
photos prises à Rungis, France

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生命は、世界のいたるところに拡がっていて、
それぞれの個体はその形をとどめる時間の長さが異なり、
人間によってとりわけ注目される様態などがあるけれど
どんな個体のどんな様態も
それぞれの瞬間で意味があり
全体の中で無意味である。

生命は、世界のいたるところに拡がっていて、
形を持っているものとそうでないものや形を手放すことがあり、
見えにくいような時も彼らは世界をいつでも去ったりはせず、
どんなふうに活動を停止しても
世界の中で救済されて
その外側に選択肢はない。

その拡がりは、絶望的な救済である。

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