06/17/13

Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント

Décongélations Prématurées

Du 8 au 26 mai 2013
Atelier Alain Lebras, Nantes

http://decongelationsprematurees.overblog.com
video clip here

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未成熟な解凍?時期尚早の解凍? »Décongélation Prématurées »は、Anne-Sophie Yacono がキュレーターを務めるナント市美大出身の若いアーティストたちによる手作りの展覧会である。綺麗な脳ミソ(いったい何の?)がお皿の上で静かに解凍されているすてきな本展覧会のポスターをレストランに持っていくと、本来是非とも掲示していただき多くの人の目に触れて欲しい!!というアーティストたちの熱い願いとは裏腹に、悉く断られた。脳みそが解凍されているイメージの何がいけないか!もの申さぬそれは、我々の食卓に上がる鮮やかなタルタルや、美味しいハンバーグステーキの友達ではないか!…というのはあくまで私の個人的なコメントだが、そもそもこの展覧会、「未熟な解凍」と名付けられる前には、それは食に関わるコンセプトだったそうだ。下に幾つか紹介させていただく作品を見てみると分かるが、どうやら、 »Décongélation Prématurées »は、食(吸収•同化)すること、成熟(腐敗)すること、冷凍(仮死状態に)すること、それをもう一度解凍する(蘇らせる)こと、これらの一連のできごとをアーティスト達が様々な方法で取り組み表現した展覧会であったらしい。

Makiko Furuichi with a marionette of Memento Mori

Makiko Furuichi with a marionette of Memento Mori

5月7日幕を開けた本展覧会は中盤を迎えていた。5月18日、19日、展覧会も残すところあと一週間になり、様々なパフォーマンスやイベントが企画されていたその週末機会を得て、ナントのアトリエAlain Lebrasを訪れた。ナントの国鉄駅から歩いてすぐ、大きな通りから枝分かれする石畳の小道を突き当たりまで歩いていくと、オシャレでエネルギーに満ちた若者の群れが見える。パフォーマンスが行われたこの日の夜、スペースは賑わっていた。空間は広々としており、実に様々な作品形態、絵画、彫刻、ビデオ、ミックスメディアインスタレーション、写真、パフォーマンス空間等が互いにぶつかり合うこと無く共存しており、それでいて、全然異なる表現である作品同士が不思議とゆるやかに結びついているように感じられた。その様子は、会場の写真をご覧頂ければ明らかかと思う。さて、ここに参加アーティストのリストを記載しておく。

Boris Detraz, Evor, Makiko Furuichi, Emmanuelle Hardy, Heejung Kim, Laurence-Louise Landois, Benjamin Moutte, Angeline Rethore, Jean-Philippe Rykaert, Manon Maurios, Manon Rolland, Stéphane Menti et Romain Teule, Amandine Ronzier, Anne-Sophie Yacono, Ariane Yadan, Anne Carrique, Jérémy Segard
(参考 HP)

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まずはじめに、もう一度展覧会タイトル、Décongélation Prématuréesに込められた意味と展覧会コンセプトに戻ってみたい。この展覧会は前述したようにキュレーターを務めた美術家のAnne-Sophie Yacono声かけで、企画当初「食べること」をテーマにスタートした。多くの参加アーティストは本展覧会のための作品を構想した。「食べること」がテーマの展覧会。「食べること」とは何だろう。
第一に、一般的な意味において、それはもちろん食事のことだ。食事とは、生き物が生命の維持のために行う義務的な行為であり、行わなければ生き延びられない、と信じられているところのものである。それ故に食べることは生き物にとって本質的で、野性的•動物的でもある。野蛮であることを嫌うエレガントな人間たちは、古来より「食べる」という行為に様々な付加価値を与えてきた。例えば、美食。より良いものを食べれば人生が豊かになる、あるいは身体と精神が美しくなるような妄想。そして食の過剰と不足。現代の神経性/精神的な病の中で過食や拒食の問題は深刻さを増しており、フランスも日本も例に漏れない。動物的行為である食が、異なる意味を付与される事態である。または、流行のエコとかビオという言葉。エコで生きることが自然のためになる?ビオを食することはクリーンで優しい?だれがその確からしい結果を証明してくれるのか。そして、食べ物は腐敗し、腐敗を止めるために例えば冷凍し、細胞を仮死状態にすることができる。どんな季節にどんな国のモノも食べられる我々の超便利な世界は、冷凍食品に溢れている。さいごに、「食べること」は吸収•同化することであり、異物を飲み込み、それを砕いたり溶かして、自らの内側に取り込む行為だ。その行為はあたかも、捕えられた対象が捕らえたものの中に吸収される、つまり捕食者の勝利のように見えるけれども、被食者が捕食者を内側から侵食し、時間をかけて破壊するようなことかもしれないのだ。食べることは排泄することを招き、通常この方向性は一方通行であり狂わない。我々は皆、それは時間というものが一方的にしかすすまないので、このテーゼ「食べることは排泄することを招く」すら不変であると信じる。だが時々、時間が逆に進まないまでも、体調不良や薬物の使用により、非日常的な状況が創り出される際、我々は嘔吐する。嘔吐は、この確からしい矢印の方向すらひっくり返してしまう点で、偉大である。

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今回の記事では、残念ながら全てのアーティストの作品に言及することは叶わず、6名の作家の作品を選ばせていただいた。ではさっそく見てみよう。

Fièvre ou Fontaine ou Ce que j'ai vu avant de vomir, Ariane Yadan

Fièvre ou Fontaine ou Ce que j’ai vu avant de vomir, Ariane Yadan

Fièvre ou Fontaine ou Ce que j’ai vu avant de vomir, Ariane Yadan (熱狂あるいは噴水、はたまた嘔吐の前に見たもの)
Ariane Yadanの作品Fontaineは、オープニングイベントのために作られたのだが、その彫刻から滴る真っ赤な液体が床などに飛び散ることもあり、その後の会期では展示されなかった。陶器で作られた精巧な頭部の上部が破壊され、そこから血の噴水がほとばしっている。壊れた頭部を持つ人物の表情は、作家が名付けたように、Fièvre興奮しているようであり、自らの内部を本来満たしていた体液が放出する様子に驚きを覚えているようでもある。幸いにも人間の感覚はそれぞれ独立して働くことができ、我々は目を閉じて静かにその噴水から液体が止めどなく流れてくる音に耳を傾ける時、それはまるで、我々の肉体を満たし、生き物を満たし、地球を満たす水の静かな流れを聴くことができる。

 

Scenes, Makiko Furuichi

Scenes, Makiko Furuichi

Scènes, Makiko Furuichi
Makiko Furuichiは、今回私にこの展覧会を教えてくれたアーティストで、水彩、油彩、コラージュで高い評価を受けるほか、パフォーマンスやビデオも制作している。彼女の作品に焦点をあてた記事は以前インタビューをした際に書かせていただいたのでどうぞお読みください。(salon de mimi, Makiko Furuichi)さて、この展覧会では体液や性器、腐敗や嘔吐という明瞭なアプローチが見られる中、Makiko Furuichiの「食」の捉え方はもっと総合的なものであった。彼女が描いたのは、生き物の相互作用の結果としての身体、「肉」である。様々なポーズをとり、多様な色と形をもつ肉体は、それらがもつエネルギーを世界に及ぼしているが、そのエネルギーは光合成を行う植物においてさえもじつは、外側からもたらされたものなのだ。彼女の描き出す世界では、そういった、人間と動物、動物と植物、内側と外側、世界と個体という、自明の区別が非常に自然に無に帰される。区別の無い世界は再度彼女の方法で統合され、表象されるのだが、その世界には、以前存在したような理不尽な選別や絶望的な差異の影はもはや見当たらない。むしろ、理想的な調和のイメージがそこにある。

 

Messagers sordides, Boris Détraz

Messagers sordides, Boris Détraz

Messagers sordides (Ange à la banane, Combat d’anges saouls, Ange nu), Boris Détraz
Boris Détrazは、本展覧会に我々が目にしたことも無い天使が描かれる3枚の大きなタブローを出展した。バナナをもった天使、酔った天使の争い、裸の天使がそれらである。彼らはいったい天使なのか?天使とは神の使いで、いたずらもするがピュアな心を持っていて、可愛らしい子どものイメージで描かれ、少なくとも我々は、そのような天使としか出会ったことが無い。直に会ったことがないにせよ、彼らは酔って乱闘するなど聞かないし、バナナをほおばらないし、淫らな意味で裸で描かれたりしない。赤と黒を基調に描かれたことも無ければ、顔面から水平に突き出す、ピノキオの鼻あるいはサギのくちばしのような突起物を持っていたりしない。Boris Détrazは伝統的な西洋絵画の中で天使の身体の真髄まで染み付いたステレオタイプをどこまで脱色、脱臭、解体することができるのか試みる。

 

Memento Mori,Benjamin Mouette

Memento Mori,Benjamin Mouette

Memento Mori, Benjamin Mouette
「食べ物を粗末にしちゃいけません」とはよく言ったものだ。誰のために?世界には食べられない人々がたくさんいるから。貧しくてお腹をすかせている人がいるから。作った人の心を踏みにじることになるから…。「人を殺しちゃいけません」という大前提が、突如拠り所を失ってしまう瞬間があるのと同様に、「食べ物を粗末にしちゃいけない」大前提はいとも簡単に崩れてしまうようなことがある。今日、スーパーに物が溢れ、総菜屋もレストランも、消費する量ぴったりを購入することなどあり得ず、常に過剰である。賞味期限が過ぎた大量の食物はそれを食べたい人の存在と独立して廃棄される。それがいかに理不尽に思えても、個人としての消費者には手に負えない大きなことであり、我々が捌かれたガチョウの胸肉の最も美味しいところだけを食べて残りをゴミ袋に入れようとも、あるいは隅々までキレイに食し、ガチョウに心からお礼を言おうとも、所詮は自己満足の問題である、言い換えると、それによって世界は変わらない。Benjamin Mouetteのビデオ•インスタレーション作品メメント•モリは、彼が生み出したマリオネットが狂ったように食事を貪る。暴食の様子を撮影したショート•フィルムが、その惨事の後のままに放置された汚れたテーブルの上のテレビ画面を通じて放映されている。壁にはvanitasの静物画が淡々と、生きているものは皆やがて腐って死んでいくという儚さ(vanité)を語っている。

 

The cherry on the top,Manon Rolland

The cherry on the top,Manon Rolland

The cherry on the top,Manon Rolland

The cherry on the top,Manon Rolland

The cherry on the top,Manon Rolland(Performance)
ヘンゼルとグレーテルは、森の中で迷子になっても、森の声が怖くても、お菓子の家を見つけて喜んだと思う。お菓子の家に心をときめかせない子どもはいない。カラフルなお菓子で組み立てられた彫刻に私たちはいつまでもワクワクさせられてしまう。クールなブラウス、エプロン、前髪をまとめる大きなブルーマリンのリボン、赤すぎる口紅にちょっとだけパントマイムを思わせる身振り。Manon Rollandのパフォーマンスは、展覧会のムードを突然パティシエのアトリエに変えてしまう。大きなテーブルに店開きしたアイテムを次々に積み上げていく。黄色、抹茶色、紫、ピンク、色とりどりのカステラや蒸しパン、パウンドケーキたちはうずたかく詰まれ、動物の飾りやロウソクと花火で飾り付けられて、さあ出来上がり。一見すごい色に見える全てのケーキは、彼女の手作りであり自然の色素や素材にこだわって作られ、所謂化学的な着色料のようなものを使用していないのだそうだ。ケーキはパフォーマンスを見守った人々によってたちまち切り崩され、貪られ、倒されてしまう。

 

Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono

Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono

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Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono
本展覧会のキュレーションも務めたAnne_Sophie Yaconoは、パフォーマンス、絵画、彫刻など様々なメディウムを操る表現者であり、メディウムの特徴と向き合い、それらを自らの明確な目的に向かって産み直す彼女の作品には、強烈な性のコンプレックスがいつも影を潜めている。Les portes de Chattelandは、その陶器彫刻の精巧な色彩と形も、インスタレーションも、それがもつ小宇宙たるムードも、非常に素晴らしい作品である。彼女のリトグラフに、ダンテの神曲の地獄篇の一場面を描いた作品があるが、このフィクショナルな世界Chattelandの門(Les portes)という言い方も、我々のこの世界とは似つかぬ異世界への入り口としての門を想起させる。この「門」としての彫刻には穴があいていて、筒のような穴もあれば真ん中が裂け目のように細く開いたものもあり、切り株に据えられて固定されたものの他に、地を這う原始生物のような生命体が自由に動き回る。それぞれの彫刻は彼女の言葉では貯金箱(Tirelires)という存在から着想を得たそうだ。貯金箱とはその内部に異物をのみ込んで溜めたいだけ溜めることの出来る存在だ。私たちは、そこにお金以外のものも突っ込むことが出来る。そして蓄えて、ある日それがいっぱいになったら、金槌で破壊する。貯金箱の陶器彫刻はバリエーションある形態を持っているが、それらはすべて、中心にある最も立派な彫刻の子どもたちである。女性器の裂け目。我々はこれらの貯金箱がそのメタファーであったことを理解する。しかし実は、Chattelandの平和を保っているのは男性器の不在なのだ。貯金箱は自己充足していて、男性器を必要としない。Anne_Sophie YaconoはChattelandを女性性が優位に立つ世界として創造する。ただし、我々はその彼女の引き裂かれた欲望と悔悛をはっきりと目にすることになる。我々が中心にそびえる最も大きな女性器の裂け目を、その真後ろからのぞいたその瞬間に。

 

Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono

Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono

展覧会 Décongélations Prématurées
site is here.

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06/12/13

Keith Haring « The Political Line » @ Musée d’art moderne, Paris/ キース•へリング

Keith Haring

The Political Line
19 Avril – 18 Août 2013
Musée d’Art Moderne de la ville de Paris
www.mam.paris.fr

Keith Haringは、1958年生れ、ニューヨークでストリートアートの先駆的アーティストとして活動した。コラボレーションしたアーティストには、Warhol、Lichtenstein、Rauschenbergという当時のニューヨークのポップアートの巨匠たちや、あるいはアウトサイダーアートのBasquiatらがいる。

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彼の名が知れ渡ったのは、1980年、ニューヨークのメトロ構内の広告掲示板を彼自身のキャンバスに作り変えてしまうことによって始まったサブウェイ•ドローイングによってである。シンプルで明快、アニメーションやバンド•デシネのようなコミカルなデッサンはメトロ利用者(通勤者)の目にとまり、注目を集めた。
ストリートアートは彼にとって、誰の目にも触れる、もっとも平凡だがもっとも強力なマスメディアとして、彼の掲げる政治的であったり人道的であったりする様々なスローガンのプロパガンダのため有効だったのである。
パリ市立近代美術館(MAM)での回顧展となる今回の展覧会では、Keith Haringの多岐に渡った制作と関心のなかでも、展覧会のタイトル通りポリティカルなメッセージに着目して構成された。

参考までに、MAMのKeith Haring展 »The Political Line »のチャプターを以下に記しておく。
⁃ The individual against the state
⁃ Capitalism
⁃ Works in the public space
⁃ Religion
⁃ Mass Media
⁃ Racism
⁃ Ecocide, nuclear threat, apocalypse
⁃ Last works : Sex, AIDS and death

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国家と個人の章において見られる作品にはしばしば、国民を搾取し脅かす存在としての「犬」が悪役として描かれる。Keith Haringは個人の自由が最大限尊重されることが理想国家の姿であるといわば盲目的に信じていた。ドローイングの中には、自由を主張して牢獄にいれられる人々、人々を痛めつけて苦しめる暴れ犬のほかにも、棒のようなものを持ち指導的立場にあるが実は国家に心を売ったロボットのような存在、そしてさらには、個性を失い無思慮のまま国家に追随する匿名的存在が登場する。

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彼の生きた1960年代ー80年代、大量消費社会と経済成長のまっただ中、多くの表現者が様々に彼らの視野を示したようにKeith Haringもまたこのテーマに惹かれた。あるいは、公共空間の広告掲示板を自らの作品発表の場とするアイディアはこの大量消費社会とマスメディアに扇動され、豊かな生活を求めて毎日メトロで通勤するサラリーマンや労働者たちの目に触れることが前提である。したがって、そのナイーブな理想に水を差すようなメッセージは、通勤者の目を楽しませる以上の意味を持つことになる。

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Keith Haringは伝統的カトリックの家に生まれ育ち、宗教が扇動した植民地支配の歴史や、現世の生活にそぐわない習慣の数々に反感を抱きながら生きてきた。そういったわけで彼の作品の中にしばしば現れる神の姿は、一人一人の人間を支配し、自由を奪い、牢獄に押し込める時代遅れなものとしてネガティブに描き出される。そして、人種差別主義、アパルトヘイトを批判し、「悪者」としての白人が黒人を奴隷化し、彼らを貧困に陥れたのだというストーリーを繰り返し描く。

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また、1988年、広島の原爆ドームを見学したKeith Haringは大きな衝撃を受け、 »We know that ‘humans’ determine the future of this planet. We have the power to destroy and create. »と述べて、非核のための活動を精力的に始める。そして、1980年代よりアメリカでその脅威をふるい始めたAIDSの存在は、1985年に発表された顔中に赤い斑点を伴った自画像「ポートレート」に見られるように、彼の作品に姿を現してくる。1988年、自身がHIVウイルスに感染したことを知り、その2年後ニューヨークでその短い生涯を閉じた。

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Keith Haring の作品はこうしてポリティカルな文脈で整理されてみると、当時のニューヨークのムードの中で、政治や民族や宗教の問題に取り組み、マスメディアの浸透をシニカルに捉え、非核や非エイズのためのメッセージを精力的に送り続けた、主題は多岐にわたるけれどもとても明解だと、あまりにスッキリ納得されてしまいそうである。しかし、それだけではなさそうだと、私には感じられる。最後に、彼のペイントにおいて私が気になっている二つのことについて記しておきたい。一つ目は、Keith Haringの表現におけるセックスの意味、二つ目は、彼の絵の中にしばしば見られる穴の空いた身体をもつ人の意味である。

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ホモセクシュアルであったKeith Haringにとって、性行為は必ずしもアニマルとして生を再生産する「生殖」の含意に留まらなかったと思われる。さきほどの国家と個人の衝突の章であげた、匿名者が犬を犯するデッサンをもう一度見てみたい。犬に挿入した人間は、犬のオーラを得て、さらに無個性な人民によって崇められるセックスを獲得している。あるいは別のドローイングでは、抵抗する個人を征服しようとする棒を持った牢屋の番人は、彼らを支配するため彼らを犯す。Keith Haringにとっての男性器は、ある意味で凶器のように野蛮なものであり、理解不能なものでもあり、しかしある事柄の手段となるような存在であったのではないだろうか。彼の絵に見られる男性器挿入の意味を考えることは、避けて通れないように思える。

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また、胴体の真ん中にぽっかりと空洞をもったキャラクターが頻出する。彼らは、怪我をしている様子もその穴によって苦しんでいる様子も全くなく、むしろ、その他の普通の人間よりも何かが吹っ切れた存在であるように描かれている。身体に穴が穴があいていること、その中を自由に空気や犬などが通り抜けていくことは、彼らにとってどのような意味をもつのか。Keith Haringの残した言葉によれば、初めてこのイメージの着想を得たのは1980年、ジョン•レノンが殺されたことを知った日見た夢の中にこのようなイメージが現れたのだそうだ。彼は、他の多くの作品がそうであるように、この作品にこれ以上の説明も与えておらず、タイトルも与えていない。あるいはまた、口から肛門(あるいは女性器)に棒が貫通したキャラクターもしばしば登場する。これもまた、「穴の空いた人」であり、そのような身体の描き出しに見られる人間の感覚といったものが、Keith Haringの作品全体に充満する、空虚なようでしかし決して耳を塞ぐことのできない不穏な通奏低音を奏でている気がしてならないのである。

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*本展覧会は、8月13日までMusée d’Art Moderne, Parisで開催されている。

06/12/13

Joan Jonas « Reanimation » @Galerie Yvon Lambert, Paris / ジョーン•ジョナス « Reanimation »

Joan Jonas

Reanimation
April 27-May31 2013,
Galerie Yvon Lambert, Paris

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Joan Jonasは1936年ニューヨークに生まれ、彫刻を学ぶ傍ら、現代詩および中国文化とギリシャ神話やその伝承に興味を持つ。コロンビア大学でファインアートの修士号を取得すると、60年代半ばより、Warhol、John Cage、Allan Kaprow、あるいはフルクサスのメンバーたちやBruce Naumanらが精力的に活動を繰り広げるニューヨークの前衛的なムードの中にジョナス自身も参入し、これらの新しい芸術から得た刺激が、彼女をパフォーマンス•アートへと導いた。

Joan Jonasはそれまで一貫してポップ•アートとミニマリズムにもっとも強い影響を受けてきたのだが、1970年代始めの作品ーMirror Piece (1971)ーにおいて、女性の身体を見たことのないような仕方で描き出すと同時に、空間と音の可能性を探るような実験的でコンセプチュアルな方法を模索する。あるいは同年に発表された最も重要な作品、Organic Honey’s Visual Telepathy(1971)では、表現のコンセプトをプロセスとて淡々と鑑賞者に見せることを徹底し、ミニマリズム的枠組から完全に脱出した。「女性によって演じられる女性イメージ」を探求するため、Joan Jonas自信が奇妙なドール風マスクをまとって、フィクションとしての別のパーソナリティーを演じる。親密さとナルシシズム、イデアとしての女性のジェスチャーやコスチューム、それらがときに主観的に、あるときは皮肉なまでに客観的に描き出される。Joan Jonasは、フェミニズムのアーティストとして、しばしば自らを見つめ、語りかけるようにして、女性のイメージ、身体とアイデンティティの問題に取り組み、ある一つの文化や社会の女性像を越えていくような新しく不思議なディメンションをもった女性像を表明している。彼女は、民族伝承や中国や日本などアジアの文化、あるいは神話や歴史など幅広いソースから得たインスピレーションを、ヴィデオ、デッサン、写真、オブジェクト、音楽、パフォーマンスという多様なメディアを組み合わせることによって作品として織り成す。
Joan Jonasのパフォーマンスについてはまた別の機会に改めて、他の作品にも言及しながらお話しすることにしたい。

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さて、今回Galerie Yvon Lambertで2013年4月より展示されたインスタレーション作品 « Reanimation 2 »(2012)は、実は昨年、六本木のギャラリー WAKO WORKS OF ARTにおいて2月から1ヶ月間に渡り展示会が行われたので、そちらでご覧になった方もいらっしゃるだろう。そもそも、この作品« Reanimation » は、2012年6月−9月のdOCUMENTA(13)(Kassel)のメイン会場の一つであるKarlsaue Parkで展示された。公園内に設置された木小屋は、dOCUMENTA(13)のキュレーターであるCarolyn Chritsov-Bakargiefの提案でアーティストに与えられたのだが、彼女はその小屋の窓をスクリーンとして作り直し、4面のスクリーンを通じてヴィデオ作品« Reanimation »(In a Meadow)ヴァージョンを創り出した。

photo by Nils Klinger (Hyperallergic)

photo by Nils Klinger (Hyperallergic)

この作品は、アイスランドの作家Hallfor Laxnessの小説« Under the Glacier’に着想を受けて2010年より制作が始められた。人間には触れえない絶対的な自然の姿や動物たちの命を描くLaxnessの小説と、しかしそのGlacierは今日の世界において溶け出し、地球全体に異変を及ぼしつつあるというJonasの想像力を混ぜ合わせ、その世界観を彼女の解釈によって再表象したものだ。

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dOCUMENTA(13)では、Glacierから二つのビデオ、もう一面にはFishのビデオを展示。残りの一面、最も大きなスクリーンには2012年に制作されたばかりの、Reanimation(2012)を展示した。氷と黒インクを使ったドローイング、氷は徐々に溶けていって黒インクはのばされながら、しかしどこまでのばされても決して透明にはならない。吊り下げられた無数のクリスタルがキラキラするフォトジェニックなスクラプチュアがアイスランドの秘境を彷彿とさせる。また、雪の粒というよりもむしろ氷の粒といえるほど透明な地面に黒インクで描き、そのインクが一瞬にしてその表面で冷たい粒と化すさまは、言語描写の限界を超えて、あまりにも美しい。

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Joan Jonasの展覧会を訪れる楽しみは、もちろん作品を前にパフォーマンスを伴っていれば彼女の身体のムーヴメントとヴィデオインスタレーションが生み出す生きた物語であるのは言うまでもない。純粋に展覧会について述べるなら、それは彼女のインスタレーションの空間に応じた様々な変化である。たとえば、Galerie Yvon Lambertでの展覧会« Reanimation 2 »と、dOCUMENTA(13)(Kassel)は、そのプレゼンテーションの仕方がまったくことなる。dOCUMENTAでは、鑑賞者は小屋の内側に入ることは出来ず、窓の外からスクリーンを覗き、さらにその家の中に展示されたデッサンやクリスタル彫刻を覗くことによって、極北の秘境を内側に向かってのぞき見する形をとっていたが、Galerie Yvon Lambertでは、鑑賞者はあたかも、物語の禁忌を犯すような大胆なシチュエーションに投げ出される。Laxnessの小説の内部、人間が足を踏み入れてはならない秘境にこっそり侵入し、本来見ることの出来ないはずの自然の営みや命の姿を盗み見る。そして、その大切なものが溶け出し、破壊されている様子すらも目の当たりにすることを強いられる。われわれは、温かく平和で、危険の無い「内側の世界」で、彼女が「外側の世界」のことを問いかけているのに耳を傾けるだろう。そして、その親密な語りは、我々の「内側」をとおりぬけて、それぞれの物語としてあつまり、やがて静かな音楽のように響き渡るだろう。

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*WAKO WORKS OF ARTのインスタレーションからGalerie Yvon Lambertでの展示を行うにあたり、Jonasは木枠と和紙で作ったスクリーンを利用し、日本の障子のような演出を施した。これは、より構造の内部にいるかのような鑑賞効果を高め、鑑賞者がダイレクトに映像に出会うためのアイディアである。

*dOCUMENTA(13) Reanimation (In a Meadow)
*WAKO WORKS OF ART Reanimation

 

06/9/13

Photo Album de la conférence de H.Yohioka(29/5), « Mobilisable 2013 » (30/5-31/5)

Album de photos avec les images prises du 29 au 31 mai, j’ajouterai d’autres images et certaines vidéos prochainement.
5月29日の吉岡洋さんの講演会、および30日•31日の »Mobilisable 2013″で撮影した写真を掲載します。追加写真やショートビデオ、吉岡さん講演録画リンクなどは随時連絡いたします。

la conférence de Hiroshi Yohioka
le 29 mai 2013
Ensad, Paris

devant la porte, Jean-Louis Boissier et Hiroshi Yoshioka

devant la porte, Jean-Louis Boissier et Hiroshi Yoshioka

pendant la conférence

pendant la conférence

pendant la conférence

pendant la conférence

après la conférence au café

après la conférence au café

Mobilisable 2013
le 30 et le 31 mai 2013
Labo de l’édition, Paris

Labo de l'édition, le lieu de l'exposition

Labo de l’édition, le lieu de l’exposition

préparation, installation

préparation, installation

installation de Dominique CUNIN

installation de Dominique CUNIN

installation de Jean-Louis BOISSIER

installation de Jean-Louis BOISSIER

Jean-Louis Boissier, triptyque pour la réalité augmentée

Jean-Louis Boissier, triptyque pour la réalité augmentée

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l'affiche de Mobilisable 2013 par JLB

l’affiche de Mobilisable 2013 par JLB

pendant la démonstration

pendant la démonstration

pendant la démonstration

pendant la démonstration

expérience de réalité augmentée avec "Le Citron 2"

expérience de réalité augmentée avec « Le Citron 2 »

Bertrand Sandrez, MOUVA

Bertrand Sandrez, MOUVA

Bertrand Sandrez, Sextant

Bertrand Sandrez, Sextant

Dominique Cunin, réalité augmenté à partir du plan architecture du labo de l'édition

Dominique Cunin, réalité augmenté à partir du plan architecture du labo de l’édition

jeux interactifs pour l'écran mobile

jeux interactifs pour l’écran mobile

table ronde « Une écriture expérimentale pour écrans mobiles »

table ronde « Une écriture expérimentale pour écrans mobiles »

juste avant la table ronde, SD et HY

juste avant la table ronde, SD et HY

les intervenants

les intervenants

fin de Mobilisable 2013

fin de Mobilisable 2013