08/9/13

アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau

アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau

車窓より

車窓より

2013年7月27日、暑い日だった。クラコウでの学会が終わり申し込んでいた見学ツアーのバスに乗る。ホテルを通じて申し込んだ見学は現地で使用言語別の小グループに分散して、私はフランス語で説明を受けられるグループに混ざった。そのグループに説明を与えたフランス語バイリンガルのポーランド人の女性は、家系的にアウシュヴィッツ近郊に代々住む祖父母を持ち、この地で行われたことについて自ら研究してきたことを我々に述べ、私は彼女が語る言葉に何の努力もせずに耳を傾け続けた。それらの言葉は、勿論データとしての数字や客観的事実であったり、この地に来る以前に私が書物によって学んだ事でありもするが、彼女の印象や見解を述べる事もあった。それらには臭いも色もなく、不思議にも、情報であったのだ。

私は1984年生れで、末っ子である父は1949年生れ、親も戦後生の世代である。戦争に行った父方の祖父は私が学校に上がるか上がらない頃に死んだので、私にとっては父が私に話した祖父の話というのが自分におおよそ近い戦争体験のストーリーである。北海道における戦争体験は立て続けの空襲や深刻な本土被害があった本州の戦況とはたしかに別の次元であるのかもしれない。父はとことん、祖父の話したがらない様子について言葉を濁しながら語るのみであるが、その中でも無謀なシベリア出兵や戦後何年も続いたシベリア抑留中に受けた精神的苦痛の記憶は何度も耳にしており、生涯苦しんでいた様子は深く印象に残っている。

戦争とは、非常事態である。それまでアイデンティファイされていた人間がたちまち骨と肉からなる物体として匿名化される。全ては狂ったような信じがたいような事と突き放すことは、万人にとっておそらく可能な手段だが、そのことが紛れもなく繰り返されてきた歴史であり、進行中の現在である。違いを認識し、異物を恐れる営為それ自体は生命の保存のための本能的な防衛である。だが、そのことと、認識した自己と異なる個体を排除するために暴力に訴える事、それが如何なる種類の暴力であれ、その命を奪う事とは絶対的に無関係なのである。そのために毒ガスを用いる事も、核兵器を用いる事も、いかなる説明によっても説明されうる可能性はない。そのような言論は、始めから妄語である。

アウシュヴィッツ-ビルケナウを訪れることとそれについて書く事は、その非常事態の中でどのようなことが起こったかを知るためではなく、その非常事態全体を回避しなければならない必然性を理解するためであり、そうでないならば直ちに消してしまったほうがよっぽどマシであると私自身は考えている。

resize_DSC06010

働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)

働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)

「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」と書かれた入り口の門。ユダヤ人は、「東の地に移住し、そこで働く」ことを信じて彼らの家を後にした。働いても、自由にはならない。働くために集められたのではない。

resize_DSC06019

オーケストラのコンサートが行われていた場所。収容されたユダヤ人にはプロの演奏家も含まれていた。彼らは飢えや病気で死んでゆく他のユダヤ人が運ばれて行くのを見ながら、美しいクラシック音楽を演奏した。それは一体誰のために。

resize_DSC06025

広域なヨーロッパの国々から人々が強制収容された。28カ国に及ぶ国々、ハンガリー、ポーランド、そしてフランスではDrancyというパリの北郊外の街が強制収容のトランジットの拠点となっていた。41年から始まった強制収容は実際には43年と戦況が絶望的に悪化していた44年にその収容の大部分が実行された。

IDに関わる資料

IDに関わる資料

収容された人々のID書類は敗戦時ほぼ廃棄されたが一部が発見されている。収容された人々の個人情報が完全に把握されていた。しかし「選別」を境に、それまでのアイデンティティを無に帰され、番号を身体の一部に黒インクで刻印されて、管理された。

resize_DSC06030

アウシュヴィッツまでの移動は狭い貨物列車の車両の中に荷物と共に限界まで詰め込まれ、座る事もできないまま一週間や十日にも及ぶ事がしばしばで、衛生的でなく肉体的負担の過剰な移動の途中で多くの年配者や子どもが亡くなった。

resize_DSC06033

生きて辿り着くと「選別」がある。女と子ども、老人や身体能力が重労働に耐えられぬものはガス室に送られた。青年であっても、傷ついた軍人や障害のあるものはガス室に送られた。たった一つだけ手にしてくる事が許された個人の大切なトランクは、下車と共に手放す事を余儀なくされ、それらは彼らが去った後、宝石は盗まれ、再利用可能な金属は戦争続行のために役立てられ、衣類や高価なものも奪われた。

resize_DSC06037

上は近年になって見つかった貴重な写真資料であり、ガス室で殺戮された人々の死体が撮影されている。チクロンBを大量に使用しての殺戮が実際に行われたことを証明する重要な資料である。

補助器具、義足、松葉杖など

補助器具、義足、松葉杖など

補助器具や義足、松葉杖が大量に残されている。これらを携えて貨物列車に詰め込まれた人々はすなわち、「選別」の際に働く事ができないと判断された人々である。

人形、おもちゃなど

人形、おもちゃなど

子どもは到着と同時に母親から引き離された。43年以前、14歳未満の子どもはガス室に送られた。収容所で生まれた子どもはビルケナウの16号棟で生活した。飢餓や病気で成長を妨げられていた。

生存者の写真

生存者の写真

7人の生存者の写真。赤子に見える子どもは2歳、小学生のような小柄な少年は14歳、殺されなかった女性は30キロを下回る危機的状況で発見された。

resize_DSC06054

アウシュヴィッツ第一収容所はその収容キャパシティーを上回るようになり、一階建てのバラックは建て増しされた。煉瓦の色の違いが明らかに見られる。(下)

resize_DSC06056

銃殺刑の壁と拷問器具のある空間。壁は後に人々がこれを忘れないために作り直されたものである。花を供える人々がいる。

銃殺に使われた壁(再現)

銃殺に使われた壁(再現)

ここに毎日10人の犠牲者が見せしめのために殺され、吊るされた。

resize_DSC06068

敗戦時証拠隠滅のため壊されたが当時の様子を再現されたガス室と火葬器具。

resize_DSC06071

resize_DSC06075

ビルケナウの広大な敷地には今日緑が茂り、日光が注ぐ。バラックの中にあった機能していたのか定かではない暖炉と煙突の部分だけが残されている。

ビルケナウ、煙突が所々残る

ビルケナウ、煙突が所々残る

ここで人々は肉親と分たれ、たった一つの持ち物であったトランクを奪われ、「選別」され、殺された。

resize_DSC06096

列車は人々を乗せてここに停車し、人々を下ろし、また出発し、そしてまた別の人々を乗せてここに戻ってきて、また下し、そして出発した。

80人〜100人を運んだとされる車両

80人〜100人を運んだとされる車両

一つの車両には80人から100人もの人々が荷物と共に詰め込まれていたと言われる。

resize_DSC06103

各バラックには中央に暖房設備と両側に三段ベッドがある。三段ベッドは、個人用ではない。わざわざ三段ベッドを作った理由は、かぎられた面積に最も多くの人間を効率よく並べるためである。

resize_DSC06110

穴が空いただけのトイレ。人々は一日2回決められた時間に強制的に使用させられた。清掃はなされず、極めて非衛生的で病気が蔓延した。ここにあるのは当時使用されていたもので、今設置されたばかりであるかのように、きれいに掃除されている。

resize_DSC06111

この場所がこんなに無臭で、真夏でも風が流れてゆき、地面には雑草がびっしりと茂っていることなどは、最も拭いがたい一つの印象である。

resize_DSC06120

08/9/13

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
June – September 2013

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)のことを書くのは緊張感がある。それは、他のアーティストや他の展覧会、あるいは社会問題や現象についてのエッセイを書くことと比較して「相対的」に緊張するのではなく、艾未未について書く行為そのものが「絶対的」にしんどいのである。それでも書こうと私が感じているのは、彼がこの第55回ヴェネチア•ビエンナーレで鑑賞者に提示した3つのストーリーを全て目の当たりにしたからであり、私にとってはこうすること以外に選択肢がないからである。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)は1957年北京生まれの現代美術家、キュレーター、建築家でもある。世界各地で積極的に展覧会を行い、国際展に参加するほか、よく知られているように、多くの中国人に協力を仰ぎながら社会運動を繰り広げている。1980年代前衛芸術グループの活動に関わったが、政府圧力を受けて、ニューヨークに渡り、そこでコンセプチュアルアートの手法を学ぶことになった。艾未未は実に1981年から93年の12年間の間ニューヨークに滞在している。中国帰国後現在まで続くアトリエ•スタジオ「Real/Fake」を構える北京郊外の草場地芸術区(Caochangdi)を築いた。

艾未未の参加国際展は数多い。そしていつもセンセーショナルな評判を世界に轟かせた。とりわけ、2007年のドイツカッセルにおけるドクメンタ12では、 »Housing space for the visitors from China »という企画で会期中1001人の中国人をカッセルに招待し、会場に滞在させるというプロジェクトを行い、カッセルの街が中国人で溢れる事態を引き起こし、人々を驚かせた。あるいは同国際展の屋外展示であった »Template »という明時代の扉から成る建築が悪天候のため崩壊したのだが、自然現象の結果としてそのまま展示したことにより、人々は艾未未のコンセプトのスケールを理解した。

resize_DSC07821

2013年、現在会期中の第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、フランスパビリオンで行われているドイツ展(Susanne Gaensheimerのキュレーション)に招待され、 »Bang »というインスタレーション作品を出展している。文革後の何ものも顧みない超高速の近代化は、それまでの文化や歴史が一つ一つその足場を踏みしめるようにして築き上げてきたものを一瞬にしてゴミにした。インスタレーションは886台の三脚の木椅子からなっている。1966年に始まった文化革命は、この三脚の木椅子に代表される、どこの家庭にもあり、伝統的な物作りのマニュファクチュアー技術の賜物である家具や道具や物を、一夜にして時代遅れのみっともない代物におとしめた。家具はアルミやプラスチック製がオシャレで文化的な物だと画一的に信じさせられ、何世紀も渡り親から子へと引き継がれてきた年期の入った木椅子は「遅れの象徴」として追放された。艾未未は、このインスタレーションで、古い木椅子を再利用したのではない。今日では貴重となった木椅子の制作技術をもつ作り手に依頼して、この典型的オブジェをインスタレーションのために作ってもらったのだ。椅子は、大木の木の根が地中を繁茂するように広がって配置されており、それは目を見張る速さで広がったポストモダン世界の網の目と、その過剰な網の目の中に絡みとられて自由を失った「個人」の今日におけるあり方を象徴しているようでもある。

ou-est-ai-weiwei

「艾未未 (アイ•ウェイウェイ)はどこ?」という言葉が、ポスターやメッセージボード、インターネット上の記述が世界中を右往左往した2011年の4月から6月のことを記憶に留めている人も多いだろう。2010年11月より北京の自宅に軟禁されていた艾未未は、翌年4月3日、香港行きの飛行機に乗る手続き中に行方が分からなくなった。国際人権救護機構(Amnesty International)や、ドイツやイギリス、フランス外務省、さらにはアメリカの国務省もただちに艾未未を釈放することを求めたが、この拘留は81日にも及んだ。4月7日の中国外務省からの情報によると艾未未はスタジオ脱税容疑による経済犯であるとされたが、この原因が2008年5月に起こった四川大地震の被害の実態を明らかにし、犠牲の原因を明らかにする社会的活動を艾未未が主導していたことであるのは明らかであった。

resize_DSC08107

ヴェネチア•ビエンナーレでは、ビエンナーレメイン会場とは離れて二つの »Disposition »展が開催された。その一つがメディアでも話題になったが、81日の拘留生活の実態を再現した模型を教会で展示したS.A.C.R.E.Dである(2011−2013) 。彼が体験した81日間の監獄での「日常生活」の一部始終が6つのシーンとして再現されている。鑑賞者は、規則的に置かれた6つの大きな部屋を小さな窓穴から覗くか、あるいは上についているガラス窓越しに覗き見ることによって、艾未未の体験を知ることが出来る仕組みになっている。何もない部屋。薄汚いベッドや洗面所。食事、睡眠、排泄すべてにおける厳重な監視。

resize_DSC08116

resize_DSC08129

resize_DSC08119

resize_DSC08122

resize_DSC08126

もう一つの »Disposition »展の会場に行くためには船で本島の向こう岸に渡らなければならない。あるいはもちろんアカデミア橋を渡って迷いながらとぼとぼと歩くことも出来るだろう。とにかく、孤立した展示でなければならなかったのだ。その展示は、Chiesa di S.Antoninにある。150トンの鉄骨が真っすぐに整然と並べられて部屋一杯に敷き詰められている。長さもそろえられて、それは海の波にもオシロスコープで見る幾何学的な波にも見える。これは彼の2008年12月より様々な圧力にも屈せずに取り組み続けてきた艾未未とその協力者の一つの集大成とも言える。彼らの目的は、多くの子どもたちが人為的原因によってその命を落とすことになってしまった犠牲の全貌を明らかにし、その犠牲者名簿を明らかにして、被災者のために祈念することだ。命を落とした子どもたちはもはや彼の活動に関わらず戻ってこない。しかし、残された人々はもう一度このことが起こらないように、起こったことの原因を知り、そのことがこれからは起こらないよう世界を変えることが出来る。あるいは、そうすること以外に、死んだ人々に祈りを捧げる方法はない。

resize_DSC08241

当スペースで放映されるドキュメンタリービデオは、艾未未と彼らの協力者たちがどのようにしてこの150トンもの鉄骨を四川大地震に関わるモニュメントとして提示したかのプロセスとコンセプトを明らかにする。まず知らなければならないのは、このプロジェクトのせいで艾未未は脳内出血で手術を受けるまでの暴力行為を受けているし、上述したように81日の拘留に遭っている。アートは困難を越えて続ける必要のある行為であり、艾未未という個人を越えてその協力者と鑑賞者とそれに触れる者に影響を与えるべきものである。150トンのグニャグニャに曲がって折れた鉄骨は彼を支持する中国人たちの手作業によって、真っすぐに戻された。このめちゃめちゃに組み立てられて建物を支えるに至らなかった鉄骨こそが、子どもたちの命を奪った直接的原因であり、その苦しみの象徴である。鉄骨をいっぽんいっぽん真っすぐにする作業は何年もかかる。その間、どれほどにこの粗悪な鉄骨が地震で姿を変えたのか、その記憶を残すために曲がった状態でのレプリカも150トン全てについて制作された。

resize_DSC08242

resize_DSC08245

resize_DSC08248

4年に及ぶ年月は、原型を留めないほど曲がっていた全ての鉄骨をぴんと真っすぐにした。人間の一所懸命の作業は4年間を要したが、これを捻り曲げた震災の衝撃は一瞬のことであったのだ。

resize_DSC08250

鉄骨はその暴力性をもう我々の目の前に提示しない。4年間の艾未未とその仲間たちの仕事は、見る我々をただただ茫然とさせる。たしかに、生きることは繰り返すことで、人類の歴史は作って壊すことであった。しかし、それは、壊して、直すことでもあったのだ。

08/9/13

マーク•クイン展 / Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Solo Exhibition
29 May 2013 – 29 September 2013
@Fondazione Giorgio Cini, Venezia
Site of Cini Foundation click

The Giorgio Cini Foundation, Venice

The Giorgio Cini Foundation, Venice

55th la Biennale di Veneziaとほぼ会期をあわせて、Saint Marco広場のちょうど向かいのSan Giorgio Maggiore島のFondazione Giorgio Ciniでは、 »Marc Quinn »展が開催されている。キュレーションは、1988よりNYのグッゲンハイム美術館のキュレーターを務めGermano Celantによるものである。(Germano Celantは1967年、当時のイタリア前衛アートムーブメントを »Arte Povera »と命名したことで知られる。)Marc Quinnは1964年生れ(ロンドン)のアーティストであり、1988年の自主企画展覧会 »Freeze »を行ったことからその精力的な活動が世界に知られることとなる若手コンセプチュアルアーティストYoung British Artists(YBAs)の一人として数えられている。ケンブリッジのロビンソンカレッジで美術史を学び、これまでSolo Exhibitionでは、ロンドンのテイト•モダン(1995)、ミラノのプラダ財団(2000) テイト•リヴァプール(2002)、また国際展では、第50回ヴェネチア•ビエンナーレおよび2002年の光州ビエンナーレにも参加している。

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

夏のヴェニスの光は強い。空も海も底抜けに青く、褐色の煉瓦はカクテルのような色に輝く。あらゆる白っぽいものが真っすぐ目を当てられないほどに眩しい。そんな風景の中に、巨大な短髪の女の彫像がSan Giorgio Maggiore島の教会を守るかのようにして在る。あまりにも強いコントラストと強烈な色彩の中で、非常に意外なことなのだが、Alison Lapperが放つ薄紫色の表面は、世界にある全ての白いものより一層透き通り、我々の視線を捉えるのであった。11メートルもある両腕を持たず、極端に短い足を我々に投げ出して上体をすこし捻るようにして一点を見つめているその女性は、Alison Lapper、Marc Quinnと同世代の1940年生れのイギリス人アーティストである。彼女はPhocomediaつまりアザラシ肢症と呼ばれる身体的特性を持ってこの世に生まれてきた。彼女の両親も親戚もこれを奇形として遠ざけ、否定し、目をそらした。17歳の時、両親が人工四肢(義手、義足)を彼女に「表面的に普通の身体的外見を得るため」だけのために与えようとしたとき、彼女は家を出て独立することを決めた。運転免許を取得し、筆を口でくわえる方法でペインティングを学び、良い成績で美術学校を卒業した。33歳の時妊娠し、現在はもう中学生になっている息子と共に絵を描いている。

resize_スクリーンショット 2013-08-08 22.41.16

Marc Quinnは、2005年、彼女の妊娠をテーマに »Alison Lapper Pregnant »(妊娠8ヶ月当時の彫像)をカララ大理石で制作し、2007年までロンドンのTrafalgar Squreに置かれた。さらにこの彫像は2012年ロンドン•パラリンピックにおいて、 »Disability »のイコンとして、彼女のメンタリティやポジティブシンキングを新しい一つの女性像と受け入れる多くの人々によって愛された。彼女は述べる。「子どもの時からあなたは一人で生きられないと言われた。すぐに障害者のための施設に入れられてまわりから可哀想な目で見られた。絶対に母親にもなれないと言われた。(略)私はどうやったら親が子どもを否定することができるのか分からない。私は自分の子どもをこんなにも愛しているから。」
San Giorgio Maggiore島のAlison Lapper像は、オリジナルのレプリカで »Breath »と呼ばれるヴァージョン作品で日の出と共に現れ日の入りと共に闇の中に消える。セキュリティー管理の事情から、膨らませるタイプの作品にしてあるそうだ。(参考ビデオがこちらに!click

"Self"

« Self »

Marc Quinnの表現のテーマはしばしば、Alison Lapperの像に見られるように人間の身体に関わるものや、生命の存続と死、生命の存続のシステムと我々の肉体との関係、もっと広くはアートとサイエンスの関係にまで及ぶ。著名な作品では、自身の血液を凍結させ一定温度環境の中で保存されている、 »Self »という血液による自己像の作品が有る。 »Self »はヴェネチアで今回展示されたもののほかにもいくつかバージョンが有り、かなり色鮮やかな赤を持つものもある。4.5リットルの血液を5年ほどかけて採血した。私の血液からなる私の頭部彫像が複数存在するという事態は興味深い。それはそのコンポジッションが実際にも血液から成るという客観的事実が有るからであろう。

Flesh Painting(2012)

Flesh Painting(2012)

resize_DSC08188

そして、2枚の大きな »Flesh Painting »(2012)は、遠くから見ると鮮やかな真っ赤な肉の写真にしか見えないのだが、近づくと、その赤い色がグラデーションされている様子や、脂肪や筋の部分にペインティングのタッチが見えることによって、それが絵画であることを認めざるを得ない。生肉は、我々のボディの一部分であり、血や皮膚と同じである。生肉にも美しさがある。それは、動物である我々が動物的本能で否応無しに知る直観であるところのもので、つまり、われわれは、くすんで脂肪部分が黄ばんだ生肉よりも、鮮やかな朱色とはっきりとした白い筋を見せる生肉を体内に取り込むことに魅力を感じ、それを喰らう。描かれたFleshはうっとりするほどに、美しい。 »The Way of All Flesh »(2013)は、モデルであるLara Stone(妊娠した女性)が生肉を背景に横たわっている絵である。その名前の通り、全ての生命の起源と運命を暗喩的に表している。

The Way of All Flesh (2013)

The Way of All Flesh (2013)

resize_DSC08173

10人の彫刻。タイトルがモデルの名前である。10人はそれぞれ、冒頭に言及したAlison Lapperの身体を彷彿とさせるように、身体の一部を欠いたり、大きすぎる乳房を持っていたり、男性的身体的特徴を有しながら妊娠している。

Thomas Beatie (2009)

Thomas Beatie (2009)

屋外のかつての船倉のスペースを利用して、 »Evolution »の展示がある。 »Evolution Series »(2005−2007)はさて、9体のピンクマーブルの彫刻および一つの巨大な岩石で構成される。9体の彫刻は、純粋なマテリアルとしての岩石の真向かいに置かれた人間の胎児と、8体の奇体な生き物。それら8体の生き物は時にはいつかバイオロジーのテクストで見た受精卵が数回分裂した後の胚や、は虫類の発生途中、種は分からないが何らかの動物の赤子のようにみえる。 »Evolution »は実は、われわれが世界に生まれるまでの初期胚から一ヶ月ごとの成長を10体の彫刻で表した作品である。つるっとした表面に一筋のくびれだけをもつ胚も、エイリアンのように見える胚も、かつての我々一人一人の姿だ。Alison Lapperもわたしたちも、一つの岩石が象徴する起源としての「母」から生れ、それは非常にシンプルな胚であった。

Evolution Series (2008)

Evolution Series (2008)

resize_DSC08213

resize_DSC08214

« Evolution »というタイトルは明らかに今日では誰もが信じている「進化論」を連想させ、それは天地創造の世界観と共存しない。妊娠する女神像 »Alison Lapper Pregnant »は我々にとってリアルなものだが、San GIorgio Maggioreの教会周辺の保守的な人々の間には、この像の設置を批難する声もあるそうだ。Marc Quinnは言う。「歴史的に、障害者のDisability(不能性)は常にネガティブに表象されてきた。そうでないポジティブな表現をすることには意味が有ると信じる。」

resize_DSC08164

光の中にひときわ輝くAlison Lapper像は綺麗だ。人々は目を奪われる。ひとたび釘付けになった彼らの視線をみればわかる。それが哀れなものをなでるように見つめるような、あるいは恐れるような眼差しではなく、一つの命をそのおちついた腹部に伴って豊かで強い体躯のぬくもりを確かめるようにじっと見つめる眼差しであるということを。

われわれがそれを伴って生きる「身体」は、リアルにも潜在的にも、健かなのである。