11/17/13

Christian Lacroix « Mon île de Montmajour » @Abbaye de Montmajour/ クリスチャン•ラクロワ

Mon Île de Montmajour
Par Christian Lacroix, avec le Cirva
du 5 mai au 3 novembre 2013
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クリスチャン•ラクロワがマルセイユのガラス美術館CIRVAとの協力により実現した、『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』展に際し、Lacroixは次のような言葉を寄せている。

『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』
モンマジュールはその名前(最も高い丘)が示すように、10世紀よりアルルとその周辺の地域を収めた要地であった。修道院のまわりには魚がたくさんいるような沼地と草原が広がっており、モンマジュールの島と呼ばれ、15世紀にプロヴァンスを治めたあの善良王のルネ王(Roi René)が秋に果物を食するため足を運んだという。(中略)ガラス美術館CIRVAの協力、ムーランと南仏の聖母訪問修道女会の18世紀から現代までのコレクション、そしてFérard Traquandiによる教会のインスタレーション、そして私(ラクロワ)のケルンでの『アイーダ』のコスチュームの数々の展示で展覧会は構成されている。(略)
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巨大な修道院はアルルの北方に位置し、フランスでも最も美しい町のひとつに数えられるBaux-de-Provenceに隣接している。修道院の建設が始められたのは948年のことであり、11世紀から13世紀、宗教的•軍事的要地として機能した。なかでも12世紀に建設された教会部分は最も重要な空間として保存され、9つの独立した部分からなる丸天井は16メートルの高さをもち、張り間は未完のままである。3つある窓は南に開いている。この展覧会では、修道院の礼拝堂から宝物室、塔までを利用したセノグラフィとなっている。道筋はまず、鑑賞者を礼拝堂へと案内する。
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CRYPTE
Pascal BroccolichiによるEspace résonné(2013)は、CIRVAとアーティストが2年間をかけて取り組んできたプロジェクトであり、『終わらないハーモニー』をガラスの中に響く共鳴現象を利用して実現したものである。一度発生した音はガラスの空間の中で共鳴を続け、その響きは更なるハーモニーを作り出し、それは果てしないループとなって止むことがない。
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Christian LacroixのCostumes pour le choeur femme « Aïda »(2010)は、 ラクロワがケルンでオペラ『アイーダ』のために制作したコスチューム(女性)のインスタレーションである。ラクロワは1951年にアルルに生れ、モンペリエで美術史を専攻している。クチュリエとしてのラクロワの表現には、今日ではますます貴重になっている西欧の伝統的な服飾技術、刺繍やレースの装飾の極めて質の高いものを追求しており、それらのアートへの彼の関心を明らかにしている。
オペラの中で身体に纏われる場合と異なり、肉体から自由になって宙を舞うドレスの群れは、差し込んでくる光の隙間を縫うように漂い、軽やかである。
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(Robert Wilson, Concept 1.2.3.5.6(1994-2003))

ÉGLISE
礼拝堂から教会へと足を進める。細い通路をくぐり抜けて辿り着くと、真っ白な光に満ちた世界が広がって、16メートルあるという丸天井のもとには赤いガラスで構成されたJames Lee Byarsの天使のインスタレーションと、そこから丸天井の上まで昇ることを許されたもののための、真っ白の階段がぐるりとぶら下がっている。 (Lang / Baumann, beautiful Steps #4(2009))
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Christian Lacroix
Robe de mariée créée pour Philoména de Tornos(2009)
さらには天に続く真っ白な階段の右手の部屋には、ラクロワのウェディングドレスが、やや空気の中で緊張した様子で佇んでいる。
Jean-Luc Moulène の鳥かご(For Birds(2012))が窓のすぐ前におかれており、空っぽのガラスの鳥かごは、外から入ってくる眩しい光をさらに集めて青白くしながら、花嫁のウェディングドレスに対峙している。ガラスの鳥かごに住む小鳥は、どんな鳥だろう。ガラスの鳥かごは溢れんばかりの光を通し、窓を持たない。明るすぎる教会の中に独りで立ち続けるラクロワの花嫁もその階段を上ってそこから逃げ出すことはできない。
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SACRISTE
15世紀に建設された聖具納室。聖職者たちのコスチュームやアクセサリーが保存され、 « Vraie Croix »のレプリカがおかれている。聖職者のコスチュームはゴージャスである。金糸の刺繍(キャネティール)、宝石、銀のラメ、上質の絹地、レース、金メッキの金具、輝くサテン地。人間は金や宝石のような輝く物を身にまとうことによって「聖なる」存在に近づくことが出来るのだろうか。
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CLOÎ TRE
12世紀に修道院が拡大する途中で建設されたときからある修道院の回廊である。4つの部屋の入り口に面し、その中心には中庭を持つ。ここではまたラクロワの『アイーダ』より男性コーラスの衣装である。先ほどの明るく空を舞う女性の衣装とは異なり、黒や紫を基調としたおどろおどろしい色彩に、衣装を纏うマネキン人形もファントムのような人形を使用している。この展示では『アイーダの悪夢』と題されている。 (Christian Lacroix, Costime pour le choeur homme, Cauchemar de « Aïda »(2010))
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RÉFECTOIRE
食堂には数多くのガラス作品の展示と共に、Thorsten Brinkmannのポートレートシリーズ、 Série « Portraits of a Serialsammler »(2006-2008)が展示された。奇妙なポートレートは全て、アーティストが収拾した日用品や廃棄物、不要となったオブジェをマスクとしてすっぽりと頭部を覆っている。頭部が与える印象は大きいのは言うまでもないが、彼のコスチュームや画面の構成によって、頭部が変容した肉体は残された部分すら、その向きや性別、特徴などそれまで当たり前に見ていたはずのルールが抜け落ちて、バラバラに解体されるような印象を与えるのは驚きである。
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TOUR
『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』の終盤は、いつかまた明るい部屋に至れることを無根拠に信じて、塔を登って行く。そこに吹き荒れる風の強さ、そこに10世紀に渡って存在してきた巨大な石の塊の頑固さ、広がる畑や人々の生活に無関係の山肌と森、雲がすごい早さで動いて行くのと独立してある青い空。
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Jana Sterbakが構成するのは、石の壁によって覆われる静かな部屋で再現されるプラネタリウム (Planétarium(2002-2003))である。惑星のことを思うのが突飛ではないと感じられるような時間が、そこには流れている。
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11/17/13

Sarah Moon « Alchimies » @Musée Nationale d’histoire naturelle/ サラ•ムーン 『アルケミー』展

Sarah Moon
« Alchimies » – Récits pas très naturels du minéral, du végétal et de l’animal
Jusqu’au 24 novembre 2013
Muséum national d’histoire naturelle
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Sarah Moonは、1941年ユダヤ人家庭に生れ、生まれるとすぐナチスに侵攻されたフランスを離れ、家族と共にイギリスに移住する。そこで1960年から6年間ファッションモデルを務め、写真家として転身したのは1970年のことである。女性の視線を通じたモデルとの独特な関係性と世界観は、ファッション写真の領域ですぐに注目を集めるようになり、Sarah Moonがファッション写真家として評価していたGuy Bourdinが長く所属した雑誌『Vogue(パリ•ヴォーグ)』においても、シャネルやディオールといったメゾンから依頼を受けるようになった。アルル写真祭でもこれまで5回選出されている。
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Sarah Moonの作品で興味深いのは被写体と写真家の関係性であろう。ファッションモデルや若い女、子どもや動物、植物や鄙びた環境、遊園地、一見すると多種多様に見える彼女の主題は、Sarah Moon自身の明確な問題意識によって貫かれている。人々の記憶、遠い子ども時代の想い出、命あるものが滅びること、女という存在、そして生き物の孤独。
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Sarah Moonは写真家であるが彼女の写真はどれ一つとして見えるままに受け取ることを許さない。あるいは、そこに見えるものの語りに耳を傾けるような状況に我々を招き入れる。念入りに作り上げられた画面、小さな物があまりにも引き延ばされてみたことのない様相を示すもの、異化された色彩、見つめると眩暈をもよおすような動き、沈黙した生き物の呼吸すら感じられない静けさ。彼女が写真を通じて表現するのは、複数の「ものがたり」である。ものがたりは、彼女の側から提案されることもあれば、被写体によってもたらされるものもある。激しくピンぼけしたイメージ、その向こう側には何かがあるのだが、それはどれだけ見つめ続けても浮かび上がっては来ない。ただし、我々の目が時々ピンとを合わせることに成功するならば、絵画のような牡丹が出来事を話し始める。モノクロームの画面は我々の時の感覚を麻痺させる。息をひそめてこちらを見つめるライオンの血が通ってその身体が熱をもっていたのはいつの日のことなのか、歴史の中に吸い込まれるように遠ざかっていく。ネガについた細かな傷、それは引き延ばされて大きな斑点となり、それは日常目に見えない光の粒や空気の粒を可視化したそれのように、撮影されたその場所が本当らしくある一方でやはりそれは偽物であるのではないかと疑いを引き起こす。彼女はフィクショナルな状況を自身の表現に導入することを実験的に行い続けてきた。おとぎ話の世界観を作品にしのばせることなどもSarah Moonが得意とする手法である。
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さて、国立自然史博物館で行われた本展覧会 »Alchimies »は、その場所で開催するにふさわしい主題を集めた展示となっている。大きく細部まで露にされた植物、剥製であったり実際に生きている動物、植物園の環境やそこにある建造物の風景。Sarah Moonの提示するイメージには、生き生きとした艶やかな生命よりはむしろ、いつもどこかに乾燥した生命や死、沈黙した物質性が感じられる。植物たちはカラー写真で大きく見せられているが、その色彩はくすんで、ネガの斑点によって距離を保ち、それらが今このときにはすでに存在しなくなっていることを感じる。剥製の動物たちはやってくる光をその深い闇の中に全て吸収してしまう黒い目をして彼らが死んでもなおそこに沈黙していることを訴えている。剥製は、Sarah Moonにとって興味深いテーマである。それはその動物が既に死んでいるということと、そもそも生き物を写真に撮るという行為が一定の共通点を持つからだ。生き物は、瞬間の中に切り取られることによってある空間や媒体の中で凝結するのであり、そこに残るのは次の瞬間には消え失せてしまった何かなのである。
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展覧会タイトル »Alchimies »であるアルケミー(錬金術)は、中世〜16世紀のヨーロッパで盛んに行われた卑金属に化学的な反応を起こすことによって貴金属に作り替えよるための努力であり、現在の科学では勿論否定されているが、そのたゆまぬ探求によって蓄積した知識が17世紀以降の自然科学の発展の基礎を築いたとも言われている。アルケミーは本質的には、雑多な物質を完全な物質に変化させたいという人類の夢に関わっており、不完全な人間の霊魂を精錬して神のそれに近づけるといったような呪術的•宗教的なもくろみすら含んでいた。こう言ったわけで中世ヨーロッパにおける錬金術師はしばしば神話的で魔術的な存在に見なされた。Sarah Moonの織り成す「ものがたり」達は、中世のアルケミーが自らをもその魔法にかけてきた暗室での怪しげな企みを、彼女のひっそりとしたキャビネットの中で、現代の人類の目に再度可視化するような試みであるように思える。
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Photoquai 2013 / フォト•ケ 2013, Paris

Photoquai 2013
http://www.photoquai.fr/2013/

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Photoquai は2007年から、Musée Quai Branlyの提案で始まった写真のビエンナーレである。一年おきに開催されるPhotoquai、2013年は第4回目の開催となった。Musée Quai Branlyには有名な庭があり、本写真展はその庭をセーヌ川のほとりまで延長する形でパブリックスペースを利用したオープン•ミュージアムの形をとっている。フォト•ケは世界中の現代写真家を対象にその展覧会を構成しており、第4回目となる全体のコーディネートはアーティストFrank Kaleroに一任され、彼の元に地域別セレクションを担当する8人のキュレーターが展示作品の構成に当たった。共通テーマは »regarde-moi »(私を見よ)である。

「私を見よ」というテーマは、世界の各地域から集められ、そこに展示された写真群を目にすれば、被写体となった人々が彼らのメッセージとして「私を見よ」という言葉を発していると考えるかもしれない。なるほど、多くのポートレートがそうであるように、レンズをまっすぐに見つめるモデルたちの視線は鑑賞者である我々にまっすぐに向けられているようであり、あたかも「私を見よ」という声が聴こえてきそうではある。だが、言うまでもなく、被写体はあくまでも被写体である。写真を撮る主体は写真家であり、写真に撮られた人々は、鑑賞者である我々に見られる以前に既に写真家によって見つめられた人々である。このような意味で、「私を見よ」は、レンズを通してこちら側を見ているように思える撮影された人々のメッセージではなく、カメラを向けたその人の言葉なのである。そして、それを見ることは、このトリックを破ることであり、本当は見られた人々に「私を見よ」という言葉の所存をこっそりと押し付ける張本人の視線を暴くことでもある。
そのような理由から、写真に現れた人々の視線を見返すこと、そのことだけによって物語を了承するのは不可能である。

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韓国のHein-Kuhnの画一的な流行のお化粧の白い肌に主張のない表情を浮かべる少女たちは、同じ髪型をして、他の少女との違いの中で写真に撮られることをためらっている。彼女たちは「私を見よ」と訴えておらず、沈黙しながら瞳の表面は潤って、向こうからやってくる光を反射している。 http://www.photoquai.fr/2013/photographes/hein-kuhn-oh/

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登場人物やそこにある物の様子が奇妙なポジションで撮影されたロシアのAnastasia Rudenkoの作品は一度目にすると忘れることが出来ない。『楽園(Paradise)』と題されたシリーズ作品はロシア社会において精神病患者が偏見や誤った理解によって不当な扱いを受けてきたこと、そして現在もなおその状況は変わっていないことや、家族の不理解、医者の誤った治療や診断の犠牲になっている状況を露にすることを目指した写真だ。構成され、計算され抜いた画面には、患者たちがありのままに立ち尽くしており、その奇妙な印象は率直に魅力的である。それは写真家の意図がうまく機能したことの証でもあり、被写体と我々の関係性を感じさせさえする。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/anastasia-rudenko/

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Adriana Duqueはコロンビアの写真家で、今回、植民地問題、宗教および民族の問題に焦点を当てた『聖家族(Sagrada Familia)』を出展した。シリーズの写真は、それぞれ家族写真の体裁をとっており、それぞれの家族の中に明らかな異物としての白人少女がドレスで着飾ってプリンセスのように挿入されている。貧しそうな老夫婦、暗くて慎ましい部屋、ジャージを着て日に焼けた大きな子どもたち、そこに、19世紀の西洋絵画から抜け出してきたような着飾った少女が浮かび上がる。この全く奇妙な構成は、作家自身の子ども時代の記憶が着想源となっており、コロンビアという国の歴史、植民国のポジション、持ち込まれて根付いた外来の宗教、現在も爪痕として残る文化的侵略の臭いを彼女自身が見つめ返す作品である。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/adriana-duque/

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Rongguo Gaoの双子写真は、双子がこれまでしばしば作品の主題となってきた専攻する表現に対してどのような新しさがあるのだろうか。一つ目は、一枚の写真に同時に双子である二人が現れないことである。二つ目は双子の一方ともう一方の、右側からと左側からという、異なる側のみを撮影していることである。つまり、彼らが双子であるという自明性がわざわざ述べられていないのだ。アーティスト自身がこの作品について述べているように、二人の独立した個体をあたかも「鏡写し」のような構図で描き出すことによって見るという提案の前に、我々はその意図を想い、しばし戸惑う。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/rongguo-gao/

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Gustavo Lancerdaは2009年よりブラジル社会に生きるアルビノの人々を撮影し続けている。アルビノの人々がしばしば、その遺伝的原因によって他者と異なる外見を獲得していることによって社会で差別を受けたり、異なる者への厳しい視線を浴びせられているという事実に対し、写真家はひたすらに自身が彼らの持つ独特の美を見いだしていることを主張する。その主張をもって彼らにモデルを頼み、スタジオでパステルカラーの衣装を着てもらって撮影することで、写真家が「私を見よ」という言葉をアルビノの人々の口から発せられた言葉のようにでっちあげようとするならば、そのことは大きな勘違いであり、あまりにも浅はかな表現行為である。
人々は彼らの写真の前に立ち止まる。彼らを見つめる。その方法が、実際の生活の中で彼らにであったときに彼らを見つける方法と違うとすれば、それは、彼らの表情の中に、彼ら自身の社会における経験と、過去の人生における物語と、彼らの生き方が浮かび上がるからなのである。私にとってそれは、アルビノの人々を撮影したのではない、その他の無数のポートレートの中に浮かび上がるそれと本質的な違いを持たない。人々は、他者のポートレートに目を奪われる。それは、人間の表情や、からだの形、皮膚の色や、体勢に、彼らの歩いてきた道と経験が見えるような気がするからであり、彼らの発してきた言葉が聴こえるような気がするからであり、それらに興味を持つからだ。社会の中で、「少数派」の人々のポートレートが力を持つのはひとえに、我々がその人生に興味を持ってしまうからに他ならないのである。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/gustavo-lacerda/

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