02/7/14

宮永亮×つくるビル コラボレーション 『INSIDE-OUT』/Akira Miyanaga, Media Installation

宮永亮×つくるビルコラボレーション 『INSIDE-OUT』/ つくるビル
『INSIDE-OUT』:website
Miyanaga Akira
2013.11.20(水)~12.23(月・祝)

re_DSC03596

作品《INSIDE-OUT》は、会場つくるビルが位置する京都の五条通りとその周辺の、数ヶ月に渡る記録映像をコラージュすることで生まれた、映像インスタレーションである。つくるビルの内部の展示会場では、複数の窓が次々と開かれ、そこに存在するあらゆるモノが宮永亮のスクリーンと化す。私たちは、自分自身では出会うことのなかった五条通のある夜の眩い喧噪や、白っぽく霞んだ昼間の影の形を知り、そこで揺れていた木々の緑や枝の付け根の形、どこかで見たような身のこなしの人が自転車でとおり過ぎていく様子、会社帰りのサラリーマンが無表情で足早に店に出たり入ったりするその速度、そんなものを観察する。それらはかつて在り、今はなく、混ざり合い、輝く。

re_DSC03591

宮永の作品タイトル《INSIDE-OUT》は、文字通り、外側の世界の出来事が、つくるビル内部の壁やモノに映し出されることによって、内側の私たちの見つめる世界に置き代わってしまう「裏返し」を意味すると。壁やスクリーンに映し出されるイメージは、一つの場所の場合もあれば、重なり合って複数の時間と場所を映し出すこともある。イメージのコラージュは、したがって、映像の時間と場所を折り重ね、さらに凝縮した内部として再提示される。しかし私にとって、《INSIDE-OUT》が真に意味するのは、さらに別のディメンションに広がっていると感じられる。それは、内部と外部の反転の結果もたらされる、仮想世界と現実世界の反転であるように思われてならないのだ。

re_DSC03600

アーティストが空間をスクリーンで満たす方法に着目してみよう。一般的な意味でスクリーンと呼べるのは、おそらく正面と左右の壁、振り返って向こう側にあるカフェのベニヤ板だ。一方、展示空間にはテーブルや時計、長イス、カフェと繋がる本物の窓とその桟の部分などがあり、それら全てがプロジェクションを受けて仮想的環境を構成する。その環境の中に一度身を置き、ポリフォニックな映像が、ある日ある場所の風景の断片を暴露するのを目の当たりにしたとき、ヴァーチャルな世界が突如リアルな経験として立ちのぼる。

re_DSC03594

私たちの日常はそもそも、スクリーンの集積に似ている。外の世界で直に何かを経験することと、行き止りの壁に仮想窓を開き、そこに世界を感じることの間に本質的な差異を説明するのは実は難しい。それらは互いに侵犯し、共に生きることに関わり、私たちの生活を築いている。

02/7/14

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 @KCUA /An Approach to Being, Polish Contemporary Art

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 /京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
2013年12月7日 – 12月23日

re_DSC03160

京都に滞在した昨年末、加須屋明子さんがIn Situ現代美術財団とともに企画された『存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展』(@KCUA)に訪れることができた。私の大事な友人にポーランド育ちやポーランド生まれがおり、兼ねてから訪れたいと思っていたこの国に昨年夏、国際美学会(ヤギェウォ大学、クラコウ)で赴ことができた。その後、アウシュヴィッツとワルシャワを経て、西欧に戻ったのだが、印象深い経験であった。(Salon de mimi Posts : Aushwitz report, Wawsow exhibition report) 本展覧会の見学を通じて、紹介された幾つかの重要な作品、作家について記録しておきたい。

ロマン•オウパカ(Roman Olpaka, 1931-2011)の46年間に及んだ「行為」をアートと呼ぶのはなぜだろう。オウパカはフランス北部の農村に生を受け、生涯をポーランドとフランスの間で生きた画家である。1965年、ワルシャワのアトリエで《1965 / 1 – ∞》と題された終わりなき作品を思いつき、79歳で亡くなるまで描き続けた。1から5607249まで可視化された数字は、始めは黒の、後には灰色の背景の上に現され、画家の死以来充溢した意味の集積として停止した。

re_DSC03221

オウパカの数字が詰まったタブローは、彼の人生の時間そのものである。二百数十枚に及んだ絵画の一枚一枚は、彼にとって細部である。それは、存在し、増殖する全体の部分であり、全体の存在を確信させる部分である。タブローは彼の人生を象徴し、その時間の継続に意味を与える。オウパカは述べる。

「私たちは存在するように運命付けられています。(中略) 私たちは習慣から存在しているし、死を恐れるから生きている」

人間は、死を恐れながら存在するよう運命付けられた生き物である。いつか贈られる死のために、存在の意味を問いながらも自殺せず生きるには、命の最後の一欠片が煙になるまで数え続ける必要があった。アンジェイ•サビヤ*1のドキュメンタリー《一つの人生、一つの作品》(2010)は、オウパカの苦しみと道の模索、ついには強かな決断を私たちに伝える。

re_DSC03176

展覧会『存在へのアプローチ』は、戦後ポーランドの芸術表現の特色と問題、そして、その魅力を明らかにする。大戦がもたらした悲劇の記憶、共産主義体制下の表現の抑圧、1989年の政変で失われたものや失われなかったものの存在は、表現しようとする者を駆り立ててきた。本展覧会を見るという経験は、ポーランドという一つの国の国境を越えて、人間が、迫害や差別などの不条理な状況に置かれ、絶望的と思われる大きな問題の前に立ちすくんでしまったとき、いかにして考え、表現し、伝えることができるかを私たちに教えるのである。

re_DSC03162

1959年よりポーランドで学び、ワルシャワで作品を発表し続ける日本人美術家、鴨治晃次(1935−)の《空気》(1975)は、中心が切り抜かれた柔らかい質感の紙が等間隔で吊るされ、こちら側から向こう側を覗くことができる。穴の大きさは次第に小さく、あるいは次第に大きくなり、大きな窓から射し込む光は紙を微動だにせずすり抜けるが、我々がそこを通るとき、塊である我々は空気を邪魔して、その沈黙した等間隔を乱してしまう。

re_DSC03166

ヤン•シフィジンスキ(Jan Świdziński)のパフォーマンス《空虚な身振り》*2がいつまでも瞼の奥に残っている。意思疎通のための日常的なジェスチャーや無意識的で意味を欠いた動きが、彼の厳密に制御された身体所作を通じて繰り返される。各々のジェスチャーは、確かにありふれていて、一度や二度見る限りでは、意味に冒されている。ところが、それが繰り返され、表情や文脈を欠いて続けられることによって、そこにあった臭いがすっかり失われて行く。個別の意味を充てがわれなくとも、自己の外に出るための、他者に何かを求める動きには、共通の訴えの形があるのだろうか。そこにあるのは、明瞭な声明であり、定まった意志であり、存在のための積極的な態度である。

re_DSC03208

*1 Andrzej Sapija (1954-)はこれまで数々のドキュメンタリー映画を撮影し、国際的に高い評価を受けている。
*2 Jan Świdziński (1923-), « Empty Gesture », 2011

re_DSC03213

02/7/14

創作の自由と暴力のこと, Free Expression or Violence

自由で暴力的な創作、あるいは創作の自由と暴力のこと

私は男尊女卑を支持しない。無論その逆も支持しない。
平等主義はシンプルで聞こえがいい。ただし、それは不可触な理想に似ている。
世界の人々が様々な理由から均質でないのと同じように、性差は、その他の個体差よりも遥かに大きな違いである。

『抑圧された人々ー男と女の役割が入れ代わる日』(Majorité opprimé : quand les rôles masculins et féminins sont inversés)という短編映画のリンクを数日前ソーシャルメディアでシェアした。10分ほどの短いストーリーで、そこに描かれるのはあからさまに不自然で、しかし有りそうもないかというと、かろうじて信じられる程度のリアリティが漂う日常世界だ。フランス語だが状況はヴィジュアルから十分に解釈することが可能なので、もし興味がある方はこちらのリンクをご覧になっていただいてもよいかもしれない。
http://www.lidd.fr/lidd/9252-majorite-opprimee-quand-roles-masculins-et-feminins-sont-inverses

スクリーンショット 2014-02-07 0.08.59

『男と女の役割が入れ代わる…』というタイトルを聞いて誰もがすぐに思い浮かべるのは、育児や家事をする男のことだが、この映画もその単純な想像力の例に漏れず、ベビーカーを押して細々した日常の所用を済ませる父親が主人公に設定されている。一歩外に出れば世界は陰鬱な嫌がらせで満ちている。偉そうな大家の年寄りの女が嫌みを言う、道を歩けばホームレスの女が口汚い言葉で軟弱な男を罵倒する。「笑顔見せてみろよ!」というのは現在もなおリアリティのある女への捨て台詞であり、「〈女なんだから〉しかめっ面してないで、愛想振りまいて、にっこりしてみろよ」という常套文句をこの映画の制作者が男女をひっくり返したのである。また、最終的に彼は細い路地で柄の悪い女のグループに出会い、勇気を振り絞って、女達の嘲笑に、一言二言、言い返すことに成功する。その態度にキレた若い女達のグループは、男を細い道に連れ込んで、脅し、ついには暴力を振るう。それは、「尊厳」という言葉を使うならば、その人の「尊厳」を踏みにじるような行為であり、性的な暴力であり、精神的な暴力であり、理解の余地のない暴力である。そもそも、暴力には理解の余地がもともとないのだが。警察での事情聴取、上司の女は若い男の部下にコーヒーを頼む。今日もなお、多くの「上司」が女性社員にお茶やコーヒーを入れさせるように。放心状態の旦那を迎えにきた妻は、たいそう可哀想に、と酷い目に遭った旦那を抱きしめる。だがその次の瞬間、この男がその妻のいたわりにも関わらずいつまでもぐずぐずとやり切れなさを口にしていると、妻は急に、「疲れてるんだからいい加減にしてよ!」というのである。私は外で働いて疲れてるんだから、家事してるあんたがこれ以上グダグダいうんじゃねえよ、というわけである。さて、重要なのはここからだ。

スクリーンショット 2014-02-07 0.06.50

しょうもない旦那を見放したキャリアウーマンの妻は、真っすぐ続く大きな道を闊歩する。足取りは次第に軽く楽しくなり、今にも飛び立ってしまうことができそうだ。でもどこに? だらしのない、身のこなしもぱっとしない、女々しい男を突き放して、ぐんぐん歩いて行く。彼女の開放感はクライマックスを迎え、私たちはそれが彼女の夢であったことを知る。夢、あるいは、妄想、彼女がもっとも望む世界。彼女の楽しさは増して行くが、私たちはそれが悲しいかな夢であることをはっきり知っている。彼女がどれほどそこから醒めて、戻ってきたくないとしても。

スクリーンショット 2014-02-07 0.07.41

表現の自由の前に、束の間の幸せを求めて暴力的な作品を作ることもまた、自由と呼ばれるのかもしれない。
ただし、この作品は、鑑賞者の中の何人かがあるいは潜在的にたくさんの人が、「いい気味!」「すっきりした!」「その通り!よくあるこういうこと!」「一度なってみたらいいのよ、逆に!」と、ひと時の勝利を手にする喜びに酔いしれるだけであって、その先に道はなく、どこにも行くことができない。このビデオを創ることも、それを目撃して十分間満足することも、つまりは、ビデオの中のあの女、本当は「抑圧」され、その苦しみのあまり男女の役割が入れ代わって男が女に暴力を振るわれる、という妄想を作り上げてしまった女の行き場のない夢を共有することに過ぎないのである。

仕返し、で世界が変わらないことは、あまりに明らかなことであり、仕返し、がなくならないこともまた事実だ。

少なくとも意識的でなければならない。違う者は平等ではない。役割を入れ替える発想そのものが妄想である。
創ることは自由であり、言葉を発することや同意を求めること、結びつこうとすることや、想像することは自由である。
ただし、私たちは、戻ってこなければならない。
たとえ遠くに飛んで行っても、まわりに何も見えないくらい離れて行っても、とても楽しくて何がなんだかよくわからなくなっても、私たちは、戻ってこなければならない。
生き続けるために、夢から醒めなければならない。

夢はなるほど、殺伐とした現実よりもまろやかな方が良い。
しかし、醒めてしまったことを、醒めている間じゅうずっと後悔する夢でないほうが、はるかに見たいと思えるのだ。

自由で暴力的な想像力は、目の前の壁を越えることができず、表現する意味を感じさせてくれる創作は、別のところにあると信じる。