06/30/14

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition Chambre Charbon / シャンブル・シャルボン, ボリス・デトラズ+古市牧子

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition
Chambre Charbon

2014年7月5日(土) ~ 21日(月・祝)
木金 17:00 – 21:30/土日 12:00 – 19:00/月~水 休
オープニングレセプション:2014年7月5日(土) 19:00 – 21:00

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フランスのナント在住のアーティスト・デュオChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)をご存知でしょうか。Boris DétrazMakiko Furuichiの二人のアーティスト、彼らは数年来互いの芸術表現をよく知り、影響を与え合ってきたカップルです。表現者同士が深くかかわり合うとき、そこに生じるインタラクションは強力で、興味深い。彼らの二人展を目撃することは、二人の中に生じた変化や対話、衝突や突然変異を目の当たりにする行為であり、場合によっては目撃する私たちが、第二のインパクトを被る身となるかもしれない。

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日本に出発目前の二人がパリを通過し、彼らに展覧会についての言葉を聞くことができたのだが、もしあなたが表現の生まれるその瞬間に興味があって、表現の生まれ方そのものに働きかけようとする試みをかいま見ることに興味があれば、ぜひ足を運んでほしいとつよく願う。展覧会は7月5日土曜日より、WISH LESS gallery にて始まる。

《過去Salon de Mimiインタビュー記事、展覧会記事はこちら》
★古市牧子/ Makiko Furuichi アーティストはハイブリッドな絵を描く:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=811
★Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2007

彼らが今回展示するのは、開かれたデッサン達だ。今回の展示のために新しく生み出された作品群である。Boris DétrazとMakiko Furuichiのそれぞれの作品を知る人であれば、彼らの持てる世界観もテクニックもあまりに違っており、以前から違っていたし、今も違う。しばしばカップルの中で起こるようにどちらかがどちらかに芸術的に迎合したり、混ざり合って似通ったり、アンビエントな模倣が見られたり、ということが無い。では彼らは互いの言葉を聞いていないのか、というと、そうではなくて、誰よりもよく聴いているのである。彼らはお互いの世界観を、模倣や視覚的類似によって確認されるよりも別の次元で混ぜ合っているのではないか、私はそのように感覚する。だからこそ、今回彼らが行った、ある意味実験的なペインティングはとても興味深いのである。

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, Boris Détraz, 2014

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, Boris Détraz, 2014

Chambre Charbon(シャンブル・シャルボン)は、展覧会名であり彼らのデュオ名でもあるが、フランス語の »Cha »というのは特徴的な音である。空気の多い音で、人間の口が楽器としてのキャパシティを発揮するようないい音だ。Chambre:部屋/空間、Charbon:炭/デッサンの木炭。彼ら自身がChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)のコンセプトについて語った下りがWISH LESS gallery のサイトに掲載されているので、これを引用しよう。

———シャンブルとは仏語で空間(部屋)、シャルボンは炭素を意味し、2つの言葉は”汚れた道具と汚すための空間”に置き換えています。絵に見える荒々しい躍動感や強烈な存在感は、手を汚し部屋をけがす事で生まれた結果であり、これらの行為そのものが作品を構成する上で重要な証明となるのです。つまり「潔白な手によってつくられる、罪のあるイマージュ。」だと2人は語ります。(引用:here

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Makiko Furuichi, 2014

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Makiko Furuichi, 2014

ペインティングはフィジカルな行為である。ムーブメントを引き起こす個体を包含する空間で、そこに存在する物体を物理的に傷つけたり変形させたり変質させる行為である。二人はその空間で、互いの行為が世界を傷つけ変容させながら、その空間にリアルタイムで第三者が介入して来ることを許している。そこでさらなる抵抗や摩擦を生じさせるために。そして、彼ら自身とその第三者が本質的に変わるために。
二人の作品が日本でコレクティブに展示されるのを見られるのは興味深い機会です。

WEBSITE
Boris Détraz:http://www.borisdetraz.com
Makiko Furuichi:http://makikofuruichi.com
Chambre Charbon:http://chambrecharbon.com

06/30/14

Indiens des Plaines @quaibranly, インディアン・ファッション

本展覧会« INDIENS DES PLAINES »は、エッフェル塔から少しセーヌ沿いに東に移動したPont d’Arma近くのMusée Quai Branlyにおいて現在開催中の展覧会である。「プレーンズのインディアンたち」と題された本展覧会で出会ったのは、鑑賞者の注意を喚起するのに成功したセノグラフィーであり、展示作品であり、物語であった。

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Musée Quai Branlyは、パリの大きな国立美術館がそれぞれの担当領域によってある程度棲み分けをはかっているといったあまりに一般的な見方から紹介するならば、世界のプリミティブアートとアフリカやオセアニアのアート、少数民族の文化や手工業のコレクションを数多く収蔵しており、企画展もまた、こういったプリミティブアートやアフリカ・オセアニアの工芸に焦点を当てたもの、人類学的観点からある文化を展開・紹介するような傾向が見られる。ただし、この美術館の一つの強さは、「アートとはなんであるか」「アーティストとは誰か」という、自分がアートに関わっていると自負している人なら誰しもつい溺れてしまうくだらない問いから、完全に解放されている点であると思う。

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我々がここで目にすることの出来る展示作品は、しばしば作者不明あるいは匿名の表現者たちによる作品である。イリノイのある地方、ミシシッピ上流の谷、グレートプレーンズ、それぞれの地域で名も無き作り手たちが丁寧に作り上げた精巧な衣類や織物、人形や祭りのための飾りといったものが17世紀よりその地を訪れたヨーロッパ人を驚愕させてきた。

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人々はしばしば、今自分たちが生きている、あたかもたった一つに結びつけられたかのようなグローバル世界が行き着くべき理想的体系であるかのように思って、それ以前に独立して存在していた別々の世界は、現在ある全てのものより洗練されておらず野蛮なものだと妄想しがちである。今の世界が最終的で最高の形と感じるのは、我々が今しか生きられない生き物だからなのである。現在のデザインや技術は存在した全てのものの上に立っていることは有り得ず、だから、我々の知らない物凄いものが時々発見されたとしてもそれは実はとてもナチュラルなことなのである。

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展覧会は7つの章に分けられ、最も素晴らしいことには、開かれた大きな展示スペースに至る前までの3つのセクションは、現在から遡って行く時間軸をとっている。
L’exposition est ainsi organisée en sept parties :
. Le renouveau artistique dans la vie contemporaine, 1965-2014
. Communautés et diaspora, 1910-1965
. Peuples anciens, Pré-contact
. La vie dans les Grandes Plaines, 1700-1820
. L’épanouissement d’une culture, 1820-1860
. La mort du bison, 1860-1880
. Dans les vestiges des terres ancestrales, 1880-1910

アイデンティフィケーションに血眼になるような展示はアートの可能性を広げないが、ならばどうしたらいいのか?という問いへの一つの解釈がここに展示されていると思えた。

Manteau d’homme and Souliers de femme (about 1920),
Artiste lakota
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Patchwork (about 1915)
Rebecca Blackwater, artiste dakota
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Manchettes de danseur (about 1925)
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Chaussures sabots (2014)
Jamie Okuma, artiste luiseno, Californie
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Robe de femme avec accessoires (2005)
Jodi Gillette, artiste lakota hunkpapa
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本展覧会は、2014年4月8日〜7月20日まで開催中である。
参考:http://www.quaibranly.fr/fr/programmation/expositions/a-l-affiche/indiensdesplaines.html

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06/17/14

遅すぎた手紙 / Lettre arrivée trop tard

遅すぎた手紙

フランス語でも日本語でも、《Jamais trop tard》 /「遅すぎることはない」という言い方をよくするが、たいていの楽観的な(あるいは本質的な)思考において、何事も遅すぎることはないというのは勇気づけられる言い方ではある。あたらしいことを始めるのに遅すぎることはない、恋愛するのに遅すぎることはない、物事を学ぶのに遅すぎることはない…、というふうに。ただし、いくつかの不可逆な事象をめぐっては、たしかにそれが遅すぎるということになることがある。

人の死、たとえばそれはそのような事象の一例だ。

昨年10月に日本へ送った手紙が戻ってきた。
「あて所に尋ねあたりません。」という赤いハンコが押してある。
この手紙は何ヶ月もの間、日本の郵便局の方が住所変更歴などを辿りながら、どこかにその軌跡が残っているかどうか丁寧に調べてくださった末、結局は見当たらないということで、ゆっくりとパリ郊外の私の家まで戻ってきたのだった。

高校のひとりの恩師に宛てた封筒であった。

私が高校を卒業したのは2003年の3月であるから今から11年前になる。文学部に行くことにしたのもこの人の異常なプッシュのせいだった気もするし、テクストの読む行為と内容あるテクストを書くことの意味について一つのアイディアをくれたのもこの人だったと思い出す。世の中に溢れる本は大抵素晴らしくないのだが、ときどきはよいあるものがあることを教えてくれたのもこの人だったろう。この人のせいで小林秀雄のテクストをさんざん読まされ、挙げ句に美学やりなさい!と奨められた。あまのじゃくの私は「やりなさい!」なんて言われると積極的にやりたくなくなるというのに。
東京大学で英文学を学んだコテコテの文学青年であったはずのこの人は、もっとずっと文学のなかにいたかったのだ。美学やりなさい!はこの人の希望だったのだ。

手紙が戻ってきたのはこの人が昨年の夏に死んでいたからで、彼がひとりで住んでいたアパート宛の手紙はどこにも行き着かずに戻ってきた。

手紙を書いたのは北海道を出てから初めてのことで、なぜ昨年の10月に突然手紙を送ったのかも明確な理由があったわけではない。ただ、私のことを気にしてくれていると何度か人伝いに耳にした。卒業してからその直後に一度会いに行ったきりである。

健康に恵まれない人で、10数年前すでに身体がよくなかった。彼の説明はいつも筋が通っていたが、私はしばしば心の中で異議を唱えて、それがクリアーに組み立てられてスラスラと口をついて出てこないのを知っていたので努力もせずにもみ消した。私は議論の努力を怠る。それは今も全く変わっていない性質の一つだ。

フランスまではるばる戻ってきた遅すぎた手紙を開封していない。お墓参りにいくつもりだがその際届けるべきなのか、私がいつか死ぬまで私の持ち物としておくべきなのか、今日はまだ心が決まらない。

私がもっとずっとあとに、いつの日か素敵な文章を書くようになり、この人に一つだけ書いたものを見せることが出来たとしたら、その時はひとつの詩を書くと思う。

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