07/27/15

Jesper Just « Servitudes » @Palais de Tokyo / ジェスパー・ジャスト 隷属

Jesper Just   »Servitudes »
Katell Jaffrès (Commissaire)
@Palais de Tokyo du 24 juin au 13 septembre 2015
Website : http://www.palaisdetokyo.com/fr/exposition/jesper-just

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« Servitudes »と題されたインスタレーションは、パレ・ド・トーキョーの地下空間を利用した大規模なミクストメディアの展示で、地下という場所の親密さ、あまりにも広い空間の工事途中であるような構造がのぞく落ち着かないムード、無骨なようすで組まれた階段や廊下を歩きながら移動する作品鑑賞経験の効果はあまりに上手く、 »Servitudes »の演出に貢献する。

ジェスパー・ジャスト(Jesper Just, 1974年ニューヨーク生まれ、2013年第55回ヴェネツィア・ビエンナーレのデンマーク館にて展示)は、印象的な音楽と音響、気がかりな登場人物によって観る者の関心を喚起する物語を紡いできた。本展示では、足元の悪い、薄暗いパレ•ド・トーキョーの地下空間をおぼつかなく歩みながら鑑賞する幾つかのビデオ作品と、空間を満たすÉliane Radigueのエチュード作品17番が通奏低音のような役割を果たしながら、鑑賞者をジャストの物語に招待する。エチュードは、通常のテンポに照らせば、とまりそうなくらい、ゆっくりと響く。

« Servitudes »(隷属、あるいは何者かの拘束する対象となること)。

インスタレーションの入り口の大きなスクリーンにのぞくのは、両手に装具を着けた若い女がこちらを時々睨むように見据えながら、懸命にトウモロコシを食べている映像。女は思い通りにならない両手で、その両手を覆う装具はかろうじて役に立っているのかそれともむしろ動きを邪魔しているのか分からない。鮮やかな黄色のシャツに青白い肌、半サイボーグ的な姿をこちらに晒しながら、何度もかじりかけのトウモロコシを落としては拾いあげ、かじりつく。

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その地下に続く大きく開かれた空間とは別個に、親密な一室がある。ひとりの少女がやはり思い通りにならない両手をぎこちなく操りながら前述の、テーマとなる音楽エチュード作品17番を演奏しているヴィデオである。少女の指は様々な方向に曲がっていて、少女の頭の中で自由に鳴り響く流暢な音楽とは裏腹に、紡がれる音列はでこぼこして、丁寧な音色はひと粒ずつゆっくりと鳴り響く。

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ハンディキャップをもった登場人物は、トウモロコシをかじる女とこの少女の他に、おそらく身体の自由のきかない状況か空間で動き回る一人の人物や、ニューヨークの高層ビルを一望する貿易センタービルの上層階で時々吃りながら発話する女性など、繰り返し現れる。

複数のスクリーンに映し出される映像は、互いに結びついている。たとえば、この貿易センタービル上層階の女性に呼応する映像が、ピアノを弾く少女を通じて表される。ピアノを弾く少女は上述のように曲がった両手の指をもち、思い通りにならない両手に隷属する自己の受け入れ方を模索している。少女は見上げきれない貿易センタービルの根元で小さな石ころを片手に、それをびくともしない貿易センタービルの壁に、コツン、コツン、と打ち付け続ける。やがて少女は自分の片手を貿易センタービルのガラス張りになっている部分の隙間に挿入し、分厚いガラスを通じて見える自分の手がぼんやりしてその曲がった指の様子など分からないのをながめながらすこし幸せそうな表情を浮かべる。トウモロコシを食べる女の向かい側、下に位置するスクリーンは、ひたすら開閉を続ける数台のエレベーターの様子を映し出す。いくら見ていても、そこから誰かが降りて来ることはないし、誰かが乗るのでもない。エレベーターは必ずその階に止まり、扉を開け、閉めて去って行く。

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作品のキーワードとなるのは、タイトルの如く »Servitudes »で、登場人物は、内容は違えども何かしら本人にとっては深刻なハンディキャップを抱えて、しかしそのような身体の隷属するところのものとなる個人に焦点が当てられる。あるいは、隷属は肉体を抱える個人にあるというよりもむしろ、生きる存在として取り巻く世界に隷属していることを指すのかもしれない。見上げきれないビルが空を覆う大都会の小さな人間の弱さと感じやすさを強調しながら。

07/27/15

Henry Darger (1892-1973), La violence et l’enfer / ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

Exposition du 29 mai au 11 octobre 2015 @Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris
Web: www.mam.paris.fr

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ヘンリー・ダーガーのことについて、何か書くことが残されているだろうか?
あまりに有名で、ディスコースが確立しているようで、少なくとも日本ではヘンリー・ダーガーを新しく語る言葉をもはやだれも探していないように思える。構造主義的な作家解釈が力を持つ今日、(少なくとも彼の世界観については)彼の謎めいた私生活、社会と隔絶した奇妙な行動、女性を知らないまま生きて死んだという生い立ち等々の要素が組み合わさって、自ずと『非現実の王国で』は、現実世界に十分にコミットする手段と場所を得なかった一人の人間が、自分の理想的な想像世界にひきこもることによって紡いだ妄想旅行の集積であると見なされている。とりわけ少女がしばしば全裸であることや股間に男性器が見られることなどには関心が集まり、特定の文脈での引用が今日も盛んに行なわれる。

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しかし、この一ヶ月、三回パリ市近現代美術館に通い、その度にコレクション展示の中に特設されたヘンリー・ダーガーの作品の中をウロウロした。何回も同じ絵の前を通り、同じ抜粋テクストを読み、同じビデオを見た。ダーガーの創造したダーガーと7人の美少女戦士の物語。作品に対峙するほどに、彼はその“非現実の王国”の妄想において、ちっとも自由ではなかったということが痛々しく語られてくる。

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ヘンリー・ダーガーは、芸術訓練を受けた所謂「プロ」のアーティスト(インサイダー?)がアート市場のメインストリームを築き、名声を得るというスタンダードに反し、「アウトサイダー・アート」の表現者としてカテゴライズされている。というか、アウトサイダー・アートというカテゴリーをわざわざ創設したのすら70年代のことなのだから、ダーガーの仕事が行なわれていた1910〜60年代には勿論、アートだろうとアートでなかろうと問題でなかった表現行為なのである。ダーガーは、19歳のときに執筆を始め、死ぬ前年までこれを書いていた。1973年にダーガーは死ぬが、72年に彼が貧窮院に入った際、シカゴの自宅で膨大な「作品」が発見されたというわけだ。

ダーガーの60年に渡る創作がアートであるかどうかを議論することには個人的に興味がない。なぜならそれは表現されたものであり、表現することによって80年間を生き続けた一人の人間の行為の結果であると言う事実があり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。

ただし、これまでのダーガー解釈はやはりお花畑のヴィヴィアン・ガールズのイメージに引っ張られすぎて、誤解を通り越して、むしろ皮肉ですらあるように思える。彼の物語にあてられるキーワード、イノセンス、夢、パラダイス、純真、そんなものは恐らくもっとも遠くにあるもので、ダーガーの生きた半生は、残りの全ての人生をかけて、セルフ・セラピーに時間を費やすことのみが必要であるような、トラウマティックなものだったと予測される。

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ダーガーの描く、子どもを蹂躙する男たちも、それをながめる人々も、戦う大人と子どもも、攻撃し合う兵士たちも、命令する権力者も、すべて、本当に彼が目にしたものに過ぎない。物語は非常に暴力的で、立ち向かう美少女戦士とそれを応援するダーガーという物語の骨組みは、「非現実の王国」における自慰の手段と言えないことはないが、それよりももっと深い、一人の人間の表現する切迫した必然性を感じさせて止まないものである。

①表現する切迫した必然性。

これは表現行為に人を突き動かす本質的なドライブである。

②芸術の有用性。

それはその表現されたものがどの程度まで他者に対して応用力を持つかである。

ダーガーの表現したものは後者において分かりやすいものではないために、その解釈の点で疑問を残す。しかし、前者(表現のための切迫した動機)を人々が感じ取ってしまう、その強烈な表現としての力にこそ、ダーガーの人生とその経験、その結果としての表現されたものが人々の関心の的となり続ける理由がある。

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ダーガーの作品は過剰にリアルである、というのが現在の私のダーガー観である。

「地獄とは、地の底にのみ存在するものだろうか?」(Henry Darger)

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07/27/15

Chiharu Shiota, la Biennale de Venise 2015, l’archive de la mémoire

第56回ヴェネツィアビエンナーレ、日本館。
塩田千春さんのインスタレーション。

アートは現代多様さを極めているけれども、作品に対峙することやそこに身を置くという物理的条件を満たすだけでその作品が持つパフォーマティブな要素に言葉を失うのは、作家の魅力である。何が起こるかおぼろげに分かっているのに、驚いてしまうというのは、塩田千春の作品の力なのだろう。

赤い糸、それが蜘蛛の巣のように、あるいは脳内の神経が張り巡らされているように、空間を満たす。
鍵というあまりに象徴的なオブジェ。それが世界中から集められて、持ち主の、鍵そのものの経てきた時間の集積を表す。
舟、海、錆び付いた金属、壊れた木片、舟と鍵のオブジェ自体が発する気のようなものがそこにはある。

塩田千春 ベネチア・ビエンナーレ:http://2015.veneziabiennale-japanpavilion.jp/ja/

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