01/7/16

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich » スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ, チェルフィッチュ

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich »(スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ)を観てからモゴモゴ口からでそうで出てこないことがあるので、しかしそれは口からぽろりと出してもいいのだけれどもそれを言ってはお仕舞でしょみたいなことかもしれんと思って遠慮して言わなかっただけかもしれないので、もう1ヶ月半ほど経過したこともあり、そろそろ書いてみたいと思います。

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スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチは、日本のコンビニ文化を舞台とした物語です。岡田利規主宰の演劇カンパニー、チェルフィッチュによる公演はパリ日本文化会館において行なわれました。コンビニをめぐる話ですが、勿論、日本の社会問題である若者の失業あるいはニート問題とか、貧困・格差の問題、働き方の変化や生き方の変化、都市生活の不穏や孤独、現代社会の隙間なく行き届いた「光」がもうそれ以上届くところはないようなある種の絶望感、といった主題を鋭く適確に表現していると思います。

所謂「日本人らしさ」も随所で浮き彫りになります。無論カリカチュアですから、ああ、これやるよね、ああ、こういう態度するよね、という必ずしも観ていて嬉しくはならない「典型的な仕草」などで「日本人らしさ」は描き出されていきます。たとえば、ドングリの背比べ状態のなかで制裁し合う若い従業員の姿とか、目を合わせることなくしかしながら丁寧に話す対人関係とか、我慢は極限に達して「怒って」いるのにちっとも声を荒げも行動にも出すことなく言葉だけ非常に暴力的なことを録音テープが再生されているように繰り返す姿だとか。

この公演中非常に不快だったことが一点あります。それは数列前で観劇していた日本人でないマダムが公演の間中声高らかに爆笑し続けていたことであります。どういったツボで爆笑しているかと言うと、それはまさに面白いだろうな!と狙われたタイミング、非常に正しい箇所において、彼女は模範的に爆笑しつづけていました。その楽しそうな様子を見ながら、ふと、このコンビニを巡る日本社会の心の問題や社会の問題、経済の問題や日本人らしさの問題を描く作品が、どうしてわざわざパリだとか、他の国の都市において上演されて、共有されて、いったいそれが求めていることあるいは残しうるものって一体何なんだろう?とナイーブな疑念に取り憑かれてしまいました。

このマダムが爆笑するように、まあ確かに滑稽だし、コンビニもオカシイのかもしれないし、誇張されてはいるもののしかし真実であるところの日本人らしい対人態度や働き方や喋り方や所作や我慢の限界の越え方も可笑しいのだろうけれども、そもそもなんの期待を込めて、あるいは価値を認めて、この、言ってみれば「ミクロ問題」を世界にさらしているのだろう?と。

つまり、これらの問題は重要な問題で、指摘の仕方は適確だし、問題提起も素晴らしいと思っているけれども、それらにたいして何かするのは海外において問題提起して種をばらまかれた先に期待するのではないだろうし、日本の問題であるに違いないと思ったためで、より分かりやすく言えば、なぜこれを海外で見せるのか、見せて何がしたいのか、あるいは何ができるのかを疑っているのだと理解しています。見せるだけでいいじゃん、という風には思いません。見せるからには見せる意味がないと行けないと思います、意味のある、目的が少なくともあってほしいしあるべきだと信じます。そして、それは、放り投げるとか共有するだけでなく、それよりも先にあるものを見据えてほしいとも思います。

演劇そのものからは外れた話になってしまったのですが、書かなければいけないと心に残り続けていたことを書きました。

最後に、もっとも感動的なのは最後に店長がおキレになるシーンです。あれは見事です。今日人々はたしかにあのようにキレます。呟くように、節度を持って、しかし溢れ出すように、それはホンモノのカセットデッキのように。