03/20/15

パラ人、三号と四号のコラムについて

Parazine vol.3 and vol.4

パラ人がどんどん小さくなっています。
パラソフィアは近づき、ついに開幕し、パラ人も4号まで出ました。
さらに小さくなって5号がもうすこしで出るそうです。

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第3号、第4号に書かせていただいたエッセイについて少しお話したいと思います。

第3号:
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第3号のコラム「パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ」では、ウクライナのフェメン(ウクライナ語:Фемен)とカリシュ(ポーランド)生まれのアーティストアリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow,1926~1973)について紹介しています。

フェメンは、2008年にウクライナの首都キエフで創設されたフェミニズム団体で、女性解放、民主主義支持、売春反対、女性権利を侵害するあらゆる宗教信仰反対を主張しています。

また、アーティスト、アリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow)は、アウシュビッツの強制収容所で看護手伝いに従事しながらホロコーストを生き延びた経験をもつ。生き延びた肉体は後に癌に蝕まれるが、終生戦いながら肉体を直視する作品を創った。たとえば、唇や乳房のセクシーなオブジェは、シャポツニコフ自身の肉体を象ったものだ。顔や胸だけでなく、手・足や腹部・臀部にいたるまで、せっせと全身を鋳型にとり、複製した。1969年には乳がんを患い摘出手術を受け、その四年後、46歳で亡くなった。

第3号コラムのリード文を添付します。

TITRE :
パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ / Parasophia des FEMMES au COMBAT

私が今から書くのは、ひょっとすると、アートで世界が平和になると信じる人々の期待とはかけ離れた話なのかもしれない。しかし、人が殺し殺され、暴力を及ぼし及ぼされる「戦争」という環境の中で、生と向き合う一つの方法としてアートが存在するのだとすれば、それは、人々の傷ついた心を慰め、他者と嘆きを分かち、怒りのはけ口を提供しながら憎しみを鎮めるためだけの好都合な道具であるはずがない。そんな夢のような効能に悦び、感ずるべき痛みを放棄することは、つかの間の安堵と引き換えに、新たな「暴力」を招きすらする。あるいは他に、いったい生き延びる術があろうか?

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第4号:

また、2015年の年始に執筆した第四号のコラムではシャルリー・エブドの襲撃事件を経たパリのことについても言及しています。エッセイタイトルは、L’art pour « ici et maintenant »/「いま、ここ」のためのアート、です。
アートとはなにか、アートの意味、存在意義とは何か。非常事態において、アートは役に立たないのか。シャルリー以降の世界のこと、ポスト・フクシマのことについて書いています。

リード文を添付しておきます。

L’art pour « ici et maintenant » /「いま、ここ」のためのアート

リード文:パラソフィア開幕まで残すところ僅かである。ノッシノッシと歩んできた「パラ人」もついにその真の姿を現す時が来たのかもしれない。新年早々前期最終講義となるフランスで、非常時における芸術と表現の自由を喋っている途中、パリの街は非常時と化した。翌日、街中が緊張する中、グラン・パレでニキ・ドゥ=サンファルの回顧展を見る。父子関係にトラウマを持つニキが父への恨みを込めてライフル銃で発砲しまくる「暴力的」な作品も堂々と展示されたままだ。これが本当のリテラシーでなければ何だろう。このことは可能なのだ。
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また、特集コラムも執筆しました。これは、このサイトでも既に掲載した(大谷悠さんについての記事)、コンテンポラリーダンサーの大谷悠さんの作品、Solo Weddingに関する記事です。
タイトル「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」は、大谷悠さん自信の作品ディスクリプション、樫田祐一郎さんの散文詩、そして私のパリ第8大学における彼女の公演についての文章にパリ第8大学写真学科のマノン・ジアコーヌさんの写真を加え、集作となりました。

リード文はこんな感じです。
リード文:奇妙な読みものがある。そこに奇妙な名前のダンスがあったからである。Solo Wedding /ソロ・ウェディング。「結婚」とは相手の在ることが前提であり、独り者は挙式しない。あるいは、ソロである者が挙式を執り行うためのあらゆる儀式を通じたならば、その素晴らしいウェディングドレスは日の目を見ることができるか? 憂える花嫁(I)。詩人がおぎなう「むこうがわ」の言葉(II)。作品は、おぼろげに説明される(III)。願わくは、思索を通して、悩める人々の様々な問題や異なる苦しみが、干上がり、枯渇し、どこかへ行ってしまうように。
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ダウンロードはここから!(Parasophia, Parazine)
もし可能でしたら、ぜひぜひホンモノをお手にお取りください!
紙媒体のパラ人、なんというか、ぬくぬくしますよ!

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なんとー!散文詩を書いてくれた樫田祐一郎さんが、こちらの記事について、パラ人について、散文詩についてSNS上に書いてくださった文章をこちらにも掲載させていただきました!文を書くのは対話的な作用があるから、楽しいのであります。以下は樫田祐一郎さんの書かれた文章です。。。
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大久保美紀(Miki Okubo)さんのはからいで、パラ人4号の特集記事「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」の中の2つめの「思索」を担当させていただきました。
この記事は、ダンサーの大谷悠さんが11月のパリ第8大学で披露した作品「Solo Wedding」をめぐるレビューです。
タイトルにもあるようにこれは大久保さんによる前文と3つの「思索」から成っています。
1つめは、もともと大谷さんが上演に先立って公開していた文章を加筆修正したもの。
私が担当した2つめの「思索」はその実 »詩作 »(たはは…)でして、「控え室(ソロ・ウェディング)」と題した散文詩となっています。
ちょっと、一読しても何が何だかわからない文章かもしれませんが……。
種明かし(?)をしてしまうと、挙式前にソロ・ウェディングを夢想するソロ・ブライドの視点から、大谷さんのダンスの印象(3次元の言葉)を、紙上の、2次元の言葉に移し置いてみたもの…の、つもりです。
そして3つめは大久保さんによる論考です。大谷さんのダンスそのものについてはもちろん、はじめ「鑑賞者」であった私たちが、それぞれの思索――あるいは詩作、ともあれなんにせよある種の「作品」であり「表現」であるもの――によって応答することの意味をも、明かしてくれるすばらしいレビューになっています。
対話を生みえない作品を、しばしばそうされるように「ひとりよがり」と難ずるとき、私たちは対話というものがあたかも自然発生するもののように考えていないでしょうか。「鑑賞者」(表現を「享受する」ひとびと)が負う責任や能動性、つまり自分たちの言葉もまた他ならぬ私自身の「表現」であるということ――これは、たぶん往々にして忘れられてしまっていることです。
対話に開かれているべきなのは最初にそこにあった作品だけではなくて、私たちもまた自らを作品との対話に開いていなければいけない……あるいは開いていることが »できる »、開いていても »いい »と言うべきか。それとも開かれて »いる »という事実(「運命」?)だけがただ、あるのか。義務、可能、許可、断言、適切な命題のモードは私にはまだわからないけれど。
と、いうわけで私たちは表現しました。
いま、気になるのはこれもまたひとつのダンスでありえただろうかということ(私は踊っただろうか?)。
そしてこの表現はあらたに誰かを踊らせるだろうか。
「踊りは遍在する」(大久保美紀)。
…あ、そしてそして。この「3つの思索」にはパリ第8大学で学ぶ写真家マノン・ジアコーヌさんによって切り取られたソロ・ウェディングの3つの瞬間も、添えられています(これがなんとも素敵なのです!)。
というわけで、実際に作品を鑑賞した方にもしていない方にも、これら3+1つの「表現」を通じて踊る花嫁の姿が幻視されますように……。

09/3/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(1)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(1)

LES PAPESSES : http://www.lespapesses.com

このテクストは、PARASOPHIAをもりあげるフリーペーパー『パラ人』第二号に掲載の記事:「パラソフィア・ア・アヴィニョン / Parasophia à Avignon
《女王たちの幸福》」の追記となるものです。まず、既にお読みいただいているかもしれないのですが、パラ人第二号の掲載記事冒頭一部を引用します。

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(引用:パラ人第二号)
 ある作品と出会い、それを鑑賞する。芸術を体験する〈場〉はときに、我々の中に深く刻印される。空間の持てる意味は、表現の解釈をも左右し、それゆえ、ある展覧会に足を運び、その空間・作品・鑑賞行為の相互関係に思いを馳せることは、我々の作品享受の可能性を開くのだ。例えば、美術館やホワイトキューブ、コレクターの邸宅、ハプニングやパフォーマンス、流転する自然環境下、地方のアートイベントでしばしば見られるような産業工場など歴史的建造物を再利用した空間。いずれの場合も、作品が鑑賞者に与える印象は潜在的に異なる。それは、作品を創り手の意図によらず、その意志を超越した何かによって施される恩寵とでもいうべきものである。(中略)展覧会Les Papesses(「複数の女教皇ヨハンナ」)は、歴史において明確に政治的・社会的権力の象徴であった巨大なアヴィニョンの修道院という砦を、まるで沈黙のまま平和的に譲渡することを可能にしたのである。
 展覧会タイトルの「パペス(Papesse)」とは、歴史上ただ一人存在したとされる女教皇ヨハンナ(在位855−858)のことである。少女時代、愛人の服を纏ってローマに連れてこられたヨハンナはとても聡明で全ての科目に精通し教鞭をとり、豊かな知性は肩を並べる者がいなくなり、ついには教皇に選出されるが、愛人の子を身籠って大聖堂への移動中の路地で出産してしまう。即座に馬の尻尾に括り付けられ、引きずられて拷問を受けて死亡、その場で葬られた。この出来事が起こった通りや出来事そのもの、女教皇の存在は忌み嫌われ、以来教皇は厳格に男のみに限られ、ヨハンナはその「汚れた」物語から教皇のリストには加えられていない。(引用)

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アヴィニョンには初めて訪れた。写真フェスティバルで有名なアルルの町から近いが、演劇フェスティバルにこの5年間で訪れたこともなく、今回のパペス展はかねてから着目していた展覧会だったので、二カ所を一日がかりでじっくりと見てきた。青空しか有り得ないのではないかというほどの、絶対的な青と、若いオリーブの実が健康的に輝いて、機嫌のいい町だった。

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 「栄光の階段(Escalier d’Honneur)」にはカミーユ・クローデル(1864-1943)へのオマージュである袖の閉じた服が楽しそうに戯れている。同じインスタレーションがCollection Lambertの階段にもある。クローデルは30年間に渡り、精神病院で入院生活を送った。両手の自由を妨げる「袖の閉じられた服」は、高い天井に向かってふわふわと漂い、生きている間、自宅へ帰ることを認められず病院に留まらねばならなかったクローデルの魂が時を経て解放されたかのような幸せなインスタレーションである。

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ルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)は自身の性的なトラウマやオブセッションを反映する作品を生涯表現し続けた作家で、蜘蛛のモチーフや男根のスカラプチュアはよく知られているし、男性と女性の接合、女体からひりだして来る怪獣のような赤子のイメージを一貫して反復する。彼女にとって女の身体は性交や赤子の出産によって引き裂かれるものである。

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Ode à la Bièvre, 2007 は、24ページからなる生地を刺繍したりアップリケしたり、パッチワークすることによって作られたビエーヴル川にまつわるオードである。アントニーに住んでいたことのあるブルジョワの想い出をファブリック・ワークで表した作品は、過ぎし日の懐かしさが穏やかに滲みだしてくる。

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The Fragileシリーズは、ニューヨークで目にすることができた。私はこの作品が好きだ。そこには一貫したモチーフとしての蜘蛛や妊娠する大きな複数の乳房が描かれているのだが、2007年に晩年のブルジョワが表した青を貴重にしたパレットとフォルムには、恐れや恨みのような感情が塗り籠められていない。

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また、20枚の赤いドローイングであるThe coupleや、パラ人でも言及したA man and a woman、Pregnant Woman(ともに2008年の作品)は、ブルジョワのオブセッションの一つの完成型として表されている。オブセッションは、セラピーによって緩和したり、リアクションを弱めたりすることはできても、完全に忘れることはできない。ブルジョワにおいて、妊娠は生涯を通じて取り組まれたテーマであったが、胎児は赤い肉の中で、包まれて育って行くことが、叫びを伴うことなく描き出されている。

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Cell XXV (The View of the Wold of the Jealous Wife)と名付けられた作品は、鉄編みの中に、中上級階級の裕福な男の妻が着ていそうな作りの良いワンピースが展示されている。彼女らは檻の中に入っていて、外には出られないのだが、執拗な感じで外側の世界を見つめ返しているように、その三体のトルソーは配置されている。

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ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールの彫刻がCollection Lambertの窓際でひときわエネルギーを発していた。ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールは1964年生まれのベルギー人アーティストで現在もゲントで制作している。5名のアーティストの中ではカミーユ・クローデルと一世紀を隔てて生きているアーティストだ。彼女の作品を見たのはヴェネチア・ビエンナーレのベルギー館を占拠した巨大な彫刻を目にしたときのことなのだが、蝋彫刻は、そこで途方もない生き物の死だとか、生き物の骨を覆う皮や筋肉が朽ち果てた後にはこのような艶やかな彫刻が現れるのではないかとおもわれるような、外見と存在感を放つ作品であった。本展覧会でも、骨や動物の角の塊のような彫刻が多数展示されていた。

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展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)につづく。

 

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09/1/14

PARAZINE パラ人 NO.002 - PARASOPHIAにむけて

『パラ人』第二号が刊行されましたね。送っていただいてビックリ、な、なんと、本になってるじゃないですかー!ページがめくれるようになってる!すごーい。

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第一号から浅見旬さんのデザインがすばらしくて、とても気に入っているのですが、第一号の水色と黄色のふわ~りとしたイメージから、第二号は表紙の大きな写真がヤマモトヨシコさん撮影の嶋本昭三さんの作品「平和の証」になっていて、紫色みたいな空と嶋本さんがぶちまけている赤や緑の絵具のコントラストがものすごい緊張感を帯びています。雲がやってきているのに、空が広くて、そこに「パ ラ 人 no.002」が浮かんでいる、すてきな表紙です。

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今回の特集は、しあわせについて皆さんが議論したそうで、タイトルは「とりいそぎ、幸せ」。

そういえば数ヶ月前、私は「取り急ぎ」という言葉の使い方がホンマに忌々しくなって、ほろびよ「取り急ぎ」!といった趣旨の小文を書いた気がするのですが(ああ、あった。これですね…:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2902)、まあたしかに、人生にはとりいそぐこともあります。とりいそぐほうがいいこともあります。幸せなんて、とりいそぎかもしれませんね。

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それで、私も幸せについて考えました。幸せについて考えるとおしなべて不幸らしいことに行き着くのはなぜでしょう。それは、人は幸せがなにか、なかなかわからないので、「不幸じゃないものが幸せ」と安直に定義して安心しようとしてしまうからなんですね。

このエッセイで私が紹介したのは、昨年(2013年6月9日~11月11日)アヴィニョンの教皇庁とギャラリー Collection Lambert en Avignon の二カ所を会場として開催されていた展覧会『女教皇たち』( »Les Papesses »)です。すばらしい展覧会でした。エッセイでは『女教皇たち』と名付けられたこの展覧会の意味と、女教皇としてのアーティスト(カミーユ・クローデル、ルイーズ•ブルジョワ、キキ・スミス、ジャナ・ステラバック、ベルリンド・ドゥ・ブリュイケール)の表現について論じました。しかし、なかなか盛りだくさんの展覧会だったために、まだまだ、彼女らの作品について、喋りたいことがやまほどあったのです。そういったわけで、エッセイの最後に、続編を「salon de mimi」に掲載するね!と追記しました。明日辺りから、この展覧会について、続編載せて行きます!よろしく~。

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それで、第一号の佐貫絢郁さんに続いて、第二号でも市山早紀さんが執筆者似顔絵イラストを描いてくださっていて、これを見るのが結構楽しいです。ありがとうございます。

 

『パラ人』よろしくお願いします。

パラ人について:http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/05/23/898/

04/27/14

パラ人 PARAZINE, 京都国際現代芸術祭 PARASOPHIAを盛り上げるヨ

きたーーーーー。

パラ人 PARAZINE  が 届いた!

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えっ?

 

この表紙、見るとビックリしませんか。ビックリするのわたしだけ?じゃないはず。

 

驚きのレイアウト、驚きの色彩、驚きのデザイン。

驚きは続く。

 

こんなにふんわししたデザインなのに、こんなにパステルな色使いなのに、巻頭の(この手のフリーペーパーのデザインに、巻頭というものがあるのかどうか知らないが)吉岡洋さんのお言葉は「歩き出した〈パラ人〉」と書いてある。怖すぎるじゃないか。いったい、誰なんだ、歩き出したパラ人って!そして、表紙と裏表紙ページの背景を支配している、ブレインストーミング・メモの形跡も、とても怪しい。天才科学者とか、神の声を聞いた予言者とかが、トランスミッションした筆跡みたいである。

 

眺め続けても仕方ないので、とりあえず開いてみる。何枚かあるので、驚きすぎないように、一枚だけピラッとめくってみる。

 

やっぱり貫かれたこの、気の抜ける水色、カッコつけないニュートラルなフォント、で、PARA – WHAT  ? ? って書いてある。書いてあるぞー。目を凝らすと、「パラソフィアに、悩む。」って書いてある。

 

あっ、そもそも、パラソフィアっていうのは、京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA(2015年3月7日~5月10日に京都で開催されるアートの祭典)のことで、芸術祭組織委員会、京都府、京都市が主催して、河本信治さんがアーティスティック・ディレクターを務めているプロジェクトのことなのですが、最近参加アーティストも第一弾が発表されましたね。

 

蔡國強(ツァイ・グオチャン)

ヘフナー/ザックス(Hoefner/Sachs)

石橋義正(いしばし よしまさ)

ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)

ウィリアム・ケントリッジ(William Kentridge)

スーザン・フィリップス(Susan Philipsz)

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル(Dominique Gonzalez-Foerster)

やなぎみわ(やなぎ みわ)

参考ウェブサイト: http://www.parasophia.jp/news/

 

それで、そうそう、パラ人ですが、パラ人は2003年に「高速スローネス」をテーマに開催された京都ビエンナーレのアーティスティック・ディレクターを務めた吉岡洋さんが編集長となって、PARASOPHIAを盛り上げるための刊行物を2015年の3月まで、ボランティアの学生たちといっしょに発行しつづけるというプロジェクトなのですね。

 

そういうわけで、パラ人、は実はPARAZINEなのですよ。

 

しかし、彼らは悩みに悩み、悩み過ぎて、PARAZINEの特集が PARA – WHAT  ? ?  なる主題になってしまったのです。しかし、彼らの悩みは、それを読むだれかの悩み。彼らの議論は、それを受け取る誰かの解決を示す。彼らの対話は、それが届かないほど遠くにいる誰かの思考と繋がって、歩き始めたパラ人は、もっともっと、世界中に繁茂する植物のように、増えるのです。繋がって、大きくなる。

 

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私はここにエッセイを書いています。

PARASOPHIA AU MONDEっていうエッセイです。京都にいなくても、パラ人のエスプリを共有できるのか? 読んでみてのお楽しみということで。

 

パラ人は、京都を出発し、現在日本各地、世界各地に広がっています。

欲しい人! ぜひぜひ読んでください。 手に入れられるはずです。

どこにアクセスすればいいんですか?

すいません、わかり次第ここに載せます。

私にご連絡くださってももちろんオッケーです。

 

とりあえず、パラ人のことがもっともっとよくわかるインタビューをご紹介します。

http://www.ameet.jp/feature/feature_20140401/

それから、ニッシャ印刷文化振興財団さまから助成してもらえることが決まったころの記事!

http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/03/08/763/

数日のうちに、ゲット方法も掲載するので、お見逃しなくです。

ぜひ5冊ぜんぶ集めてくださいね! ワクワク。