08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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11/17/13

Christian Lacroix « Mon île de Montmajour » @Abbaye de Montmajour/ クリスチャン•ラクロワ

Mon Île de Montmajour
Par Christian Lacroix, avec le Cirva
du 5 mai au 3 novembre 2013
web site : here
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クリスチャン•ラクロワがマルセイユのガラス美術館CIRVAとの協力により実現した、『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』展に際し、Lacroixは次のような言葉を寄せている。

『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』
モンマジュールはその名前(最も高い丘)が示すように、10世紀よりアルルとその周辺の地域を収めた要地であった。修道院のまわりには魚がたくさんいるような沼地と草原が広がっており、モンマジュールの島と呼ばれ、15世紀にプロヴァンスを治めたあの善良王のルネ王(Roi René)が秋に果物を食するため足を運んだという。(中略)ガラス美術館CIRVAの協力、ムーランと南仏の聖母訪問修道女会の18世紀から現代までのコレクション、そしてFérard Traquandiによる教会のインスタレーション、そして私(ラクロワ)のケルンでの『アイーダ』のコスチュームの数々の展示で展覧会は構成されている。(略)
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巨大な修道院はアルルの北方に位置し、フランスでも最も美しい町のひとつに数えられるBaux-de-Provenceに隣接している。修道院の建設が始められたのは948年のことであり、11世紀から13世紀、宗教的•軍事的要地として機能した。なかでも12世紀に建設された教会部分は最も重要な空間として保存され、9つの独立した部分からなる丸天井は16メートルの高さをもち、張り間は未完のままである。3つある窓は南に開いている。この展覧会では、修道院の礼拝堂から宝物室、塔までを利用したセノグラフィとなっている。道筋はまず、鑑賞者を礼拝堂へと案内する。
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CRYPTE
Pascal BroccolichiによるEspace résonné(2013)は、CIRVAとアーティストが2年間をかけて取り組んできたプロジェクトであり、『終わらないハーモニー』をガラスの中に響く共鳴現象を利用して実現したものである。一度発生した音はガラスの空間の中で共鳴を続け、その響きは更なるハーモニーを作り出し、それは果てしないループとなって止むことがない。
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Christian LacroixのCostumes pour le choeur femme « Aïda »(2010)は、 ラクロワがケルンでオペラ『アイーダ』のために制作したコスチューム(女性)のインスタレーションである。ラクロワは1951年にアルルに生れ、モンペリエで美術史を専攻している。クチュリエとしてのラクロワの表現には、今日ではますます貴重になっている西欧の伝統的な服飾技術、刺繍やレースの装飾の極めて質の高いものを追求しており、それらのアートへの彼の関心を明らかにしている。
オペラの中で身体に纏われる場合と異なり、肉体から自由になって宙を舞うドレスの群れは、差し込んでくる光の隙間を縫うように漂い、軽やかである。
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(Robert Wilson, Concept 1.2.3.5.6(1994-2003))

ÉGLISE
礼拝堂から教会へと足を進める。細い通路をくぐり抜けて辿り着くと、真っ白な光に満ちた世界が広がって、16メートルあるという丸天井のもとには赤いガラスで構成されたJames Lee Byarsの天使のインスタレーションと、そこから丸天井の上まで昇ることを許されたもののための、真っ白の階段がぐるりとぶら下がっている。 (Lang / Baumann, beautiful Steps #4(2009))
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Christian Lacroix
Robe de mariée créée pour Philoména de Tornos(2009)
さらには天に続く真っ白な階段の右手の部屋には、ラクロワのウェディングドレスが、やや空気の中で緊張した様子で佇んでいる。
Jean-Luc Moulène の鳥かご(For Birds(2012))が窓のすぐ前におかれており、空っぽのガラスの鳥かごは、外から入ってくる眩しい光をさらに集めて青白くしながら、花嫁のウェディングドレスに対峙している。ガラスの鳥かごに住む小鳥は、どんな鳥だろう。ガラスの鳥かごは溢れんばかりの光を通し、窓を持たない。明るすぎる教会の中に独りで立ち続けるラクロワの花嫁もその階段を上ってそこから逃げ出すことはできない。
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SACRISTE
15世紀に建設された聖具納室。聖職者たちのコスチュームやアクセサリーが保存され、 « Vraie Croix »のレプリカがおかれている。聖職者のコスチュームはゴージャスである。金糸の刺繍(キャネティール)、宝石、銀のラメ、上質の絹地、レース、金メッキの金具、輝くサテン地。人間は金や宝石のような輝く物を身にまとうことによって「聖なる」存在に近づくことが出来るのだろうか。
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CLOÎ TRE
12世紀に修道院が拡大する途中で建設されたときからある修道院の回廊である。4つの部屋の入り口に面し、その中心には中庭を持つ。ここではまたラクロワの『アイーダ』より男性コーラスの衣装である。先ほどの明るく空を舞う女性の衣装とは異なり、黒や紫を基調としたおどろおどろしい色彩に、衣装を纏うマネキン人形もファントムのような人形を使用している。この展示では『アイーダの悪夢』と題されている。 (Christian Lacroix, Costime pour le choeur homme, Cauchemar de « Aïda »(2010))
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RÉFECTOIRE
食堂には数多くのガラス作品の展示と共に、Thorsten Brinkmannのポートレートシリーズ、 Série « Portraits of a Serialsammler »(2006-2008)が展示された。奇妙なポートレートは全て、アーティストが収拾した日用品や廃棄物、不要となったオブジェをマスクとしてすっぽりと頭部を覆っている。頭部が与える印象は大きいのは言うまでもないが、彼のコスチュームや画面の構成によって、頭部が変容した肉体は残された部分すら、その向きや性別、特徴などそれまで当たり前に見ていたはずのルールが抜け落ちて、バラバラに解体されるような印象を与えるのは驚きである。
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TOUR
『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』の終盤は、いつかまた明るい部屋に至れることを無根拠に信じて、塔を登って行く。そこに吹き荒れる風の強さ、そこに10世紀に渡って存在してきた巨大な石の塊の頑固さ、広がる畑や人々の生活に無関係の山肌と森、雲がすごい早さで動いて行くのと独立してある青い空。
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Jana Sterbakが構成するのは、石の壁によって覆われる静かな部屋で再現されるプラネタリウム (Planétarium(2002-2003))である。惑星のことを思うのが突飛ではないと感じられるような時間が、そこには流れている。
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