04/16/18

Sophia Coppola あどけなさの美学 ユリイカ ソフィア・コッポラ特集

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『ユリイカ』の2018年3月号ソフィア・コッポラ特集に、論考を書かせていただいた。論考のタイトルは「ソフィア・コッポラ作品における(美/)少女表象ー少女プロパティとしての<あどけなさ>の美学、あるいはその希望と絶望」。詳しいことを言わないときは、スカーレット・ヨハンソンのあどけないパンツ姿の破壊力について書いた、とはしょって説明することにしている。実際にはもうちょっといろいろなことを書いたつもりだ。

こちら! http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3143

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ソフィア・コッポラ作品といえば、音楽がおしゃれだし、ファッションもおしゃれだし、女優が美人だし、さらには出演する女優たちが少女時代(10代前半とか半ばとか本当の少女時代)からいくつかの作品にまたがって異なる役を演じて行く間に大人になっていく様子を追うのもなかなか魅力的なのだが、実は、小説からの映画化とオリジナルのストーリーと、実話を基にした着想と、異なる性質のオリジンの作品を時代順に見ることで見えてくるものもあるし、やはり違うものとして考えないとわからないこともあるだろうと思う。

小説の映画化ではヴァージン・スーサイズもビーガイルドも本当に共通点が多い。というのもストーリーの性質上そこにソフィア・コッポラ性を織り込むのであればきっとそうだろうなと納得のシーンしかない。そういった意味でビーガイルドはソフィア・コッポラ作品として実はそんなに素晴らしいとは思えずにいる。もちろん、「らしさ」の点で爆発してはいる。

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「マリー・アントワネット」も「The Bling Ring」も実在の人物や実話に基いた話がコッポラ的解釈を通じて語られていくのだが、「マリー・アントワネット」におけるその時代的な王族女性の役割を描いているにも関わらず、それがあたかも今日的な女性の抱える様々な問題にもつながっていくように感じさせる描写は巧みだと感心してしまう。The Blign Ringでは、主人公でスター宅空き巣犯のリーダーであるレベッカの<On>(犯行がうまくいっている期間)と<Off>(身を隠している期間)の落差が素晴らしいと思った。

以上はほとんどユリイカの論考の中では口にしていない事たちだ。たくさんのことが言われることができるだろうし、実際、このユリイカ特集では他の執筆者の方の論考もとても興味深かった。
もしよかったら論考を読んでみていただけるととても嬉しい。
シャルロットのパンツ姿と半開きの口の破壊力についてのテクストであり、ファンタズムを暴いてぎゃふんというのを聞きたいなと思って書いているテクストである。

05/16/15

日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」


日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学
「美術(史)の美少女たち/美少女の美術(史)たち―少女たちの行方」
実施日時:2015年5月17日(日)13:30-15:30 ※当日9:40-10:00の受付が必要
会場:秋田公立美術大学 大講義室
 美術のなかの少女たちはどこに向かうのか?
 2014年から2015年にかけて開催された展覧会『美少女の美術史』は、すでに江戸時代の「美人画」に見られる伝統的「美少女」像から、現代アートやマンガやアニメなどポップ・カルチャーに欠かせないモチーフとしての少女にいたるまで、日本社会において「少女」がどのように描かれ、演出され、鑑賞され、消費されてきたのか、その系譜を明らかにした興味深い試みであった。美術において少女は繰り返し隠れた焦点になっていたのである。それでは現在、彼女たちはどこに向かっているのだろうか? あるいは逆に、「美術」は「少女」を媒介にしてどこへ向かいつつあるのだろうか? これが第一の問いになる。
 もちろん、「美術(史)」と「少女」という問題圏においては、美術を作り出す側の「少女」も見逃すことができないだろう。「超少女たち」と呼ばれる女性アーティストたち、その多様で拡散していく表現はむしろ、先の試みとは逆方向から「美術(史)」という枠組みを揺るがす契機にもなっている。彼女たちはいったいどこへ向かおうとしているのか? 
 また、美術との境界がしだいに曖昧になりつつある広範な文化表象のなかでの美少女像を考えるならば、写真というメディアもこの議論に不可避的にかかわることになるだろう。往々にしてフィクショナルな存在にとどまる、だからこそ特権化されていたはずの美少女が、写真に写しとめられ、交換されるヴァナキュラーで散漫なアイコンになるとき、どのような変容を被っているのか。映像における美少女はいったいどこへ向かおうとしているのか。それは、ここまでの問いとどのように切り結ぶ可能性があるのだろうか。
 以上のような緩やかな枠組みで美術の美少女/美少女の美術を自由に議論してみたい。
登壇者:
工藤健志(青森県立美術館学芸主幹)
藤浩志(十和田市現代美術館館長/秋田公立美術大学教授)
大久保美紀(パリ第8大学非常勤講師)
佐藤守弘(京都精華大学教授)
司会:前川修(神戸大学教授)

 

シンポジウム! 美少女表象のこれからのために喋ります!
美少女表象の反復、変身、受肉–「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」
現代美術において実践されている「美少女表象」には、典型的な二つの立場があります。それは、
(a)美少女崇拝的orポジティブなファム・オブジェ的表現
(b)女性性忌避的orフェミニズム的表現
のふたつです。発表の中では具体例を見ながらその存在と手法を確認します。

相異なる二つの立場から提案される美少女表象の方法について、その目的や効果を鑑みると、両者の間には意識的にも無意識的にも、「歩み寄り放棄/対話への不意志」が深い溝として横たわっていることに気がつきます。これが美少女表象の限界です。実例に基づいて検証し、このプロセスを通じて、現在の「美少女表象」が抱える問題を明らかにしていきます。

このような今日の「美少女」をめぐる状況=行き止り状況を打破するための案として、二つのオルタナティブな見方について提案します。理想少女ファンタジーの現実世界への連れ戻しおよび、女性によるヴァーチャル美少女の内面化という二つの案に焦点を当て、この有用性について考えます。

今日私たちはいい加減、美少女表象の新しい言説に向かっていくべきです。

さて、「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」お楽しみに!
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02/10/13

会田誠 « 天才でごめんなさい » / Makoto Aida « Monument for Nothing » @Mam

会田誠:天才でごめんなさい/ Makoto Aida « Monument for Nothing »
@森美術館/Mori Art Museum

November 17 (Sat), 2012 – March 31 (Sun), 2013
museum’s site here

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「天才でごめんなさい」とはなにごとか。この人は、いったい誰に対して、何を謝っているのか?アーティストが天才で何が悪い。天才でないほうがあやまって欲しいくらいではないか?

とは言ってみたものの、本当はこの謝罪、もっと丁寧に説明されなければならないのだろう。「会田誠は天才である」。このことは半分くらいは本当で残りの半分は噓である。会田誠という表現者は、天才的な直観を持ち、その有無を言わさず天から勝手にやってきたインスピレーションを、どうすれば最大限のインパクトを以て社会に提示できるのかということを本能的に知っているという点で、やはり才能に恵まれた人である。ただし、この人が抱えている(かもしれない)迷いや悩み、葛藤みたいなものがあまりにも人間臭くて俗世の我々にも響いてくるので、この人もまた普通の人であるような気もしてくる。

そうはいっても、この展覧会タイトルを聞くと、1)なるほど、会田誠は天才なのか。それならひとつ見てみましょう、あらほんと凄いわね、とジーニアス•テーズを丸呑みする、あるいは、2)ウンコやらセックスのどこか天才じゃ、なんでこんなもんが芸術かと憤慨する、はたまた、3)神妙な顔で難しい言葉を使いながらウンコでもやはり素晴らしいアートなのだと頑張る。ざっとこのようにして、会田誠の表現しているものの周縁で煙に巻かれてしまう。それこそがナンセンスなことである。ナンセンスでもいいのだが、「面白」もしくは「気持ち悪」という率直な印象に耐えて、もう少しだけその絵(など)を凝視してみる必要がきっとあろう。

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私は日頃、相当しつこくフェミニストっぽい立場を表明しているので、キングギドラとか犬シリーズなどは、「女性や少女にそんな目を向けて、だから会田誠という美術家サイテーじゃないの」とどうせ非難するんだろうと思われるかもしれない。だが実際にはそうでもなくて、キングギドラの絵はあまりに素晴らしくてあまり長い時間見ると泣き崩れそうになってしまうし、犬シリーズに至っては、「こんなもん見たない」とおっしゃる殿方にこそ「よくよく見ました」とおっしゃるまで凝視してほしいと願い願って止まない次第なのである。ミキサーの中にぎっしり詰められた少女たちが少しずつ鮮やかな赤色を帯びていく「ジューサーミキサー」などは見ていて気持ちが良くなり、ついうっとりしてしまうほどである。

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キングギドラに犯され突き破られる大きな絵も、四肢が切られて首輪で結ばれた犬シリーズも、ギュウギュウ押された少女のお腹からつややかなイクラがポロポロひりだされる「食用人造少女・美味ちゃん」なども、直球である。あまりに正直にそれが包括する問題を提示するが故に、目も当てられない鑑賞者がいることは確かだ。ただし、描かれたものに虚偽は無い。ここにあるのが少女や女性やセックスそのものをとりまく日本社会の一つの局面あるいは一つの実在する視線を浮き彫りにしたものである。会田誠がたまたまここに形を与えたヘンタイとか飼育とか暴力に関わるようなものは、フェティッシュな趣味を持つ限られた個体だけに冷ややかな視線が注がれればいいという問題ではなく、大げさだが、人間の欲望の通奏低音として鳴り響き続けているような、しかしそれが様々な要因の生で歪曲した形で表出したものなのである。それを断固として見ないのはひょっとして、言ってみれば、自分だけ永遠のヴァージンであると信じているくらい高尚で愚かしいことである。(もちろん、ヴァージンはただの比喩であり、老弱男女みんなの話をしております)

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このようにして、会田誠の描き出す世界にはリアルな問題がたくさん具現化されているように思えるけれど、それらはユーモアとアイロニーとニヒリズムで構成されているだけではない。希望だってある。

イデアという作品がある。壁に書かれた大きな「美少女」という文字に向かって、素っ裸の会田誠ご本人がマスターベーションに励む。お部屋が寒かったことや素っ裸直立であったことなど、不慣れな環境におけるこのパフォーマンスは、シナリオコンプリートまでに1時間以上かかったらしい。素晴らしい。何時間かかってもよろしい。この作品は美少女を陵辱するものではなく、美少女を永遠にイデア界に解放する儀式の録画でもあり、さらには少女時代(少年時代)というしょうもない人生の時間を過ごしている世の中の個体を潜在的•永久的に救済する儀式ですらある。つまり、肉としての美少女なんて本当はどうでもいいのである。壁に文字を書けばいいのである。犬としての少女の絵を見たり、伊勢エビと交わる少女の写真を見たりすればよろしい。IDEAは、美術家自身は勿論プラトンのイデアのことを言っているのであるが、これは同時に一つの「アイディア=理想」を描きだす重要な作品なのである。

この他にも個人的には英語コンプレックスに関わる作品や難しい哲学コンプレックスに関わる作品は今回の記事では触れられなかったのでまたの機会に書いてみたいが、これらは会田誠という表現者の天才的なところと普通の人っぽいところが出会うためにハンパ無くエネルギッシュな作品群である。そして、最後に、「自殺未遂マシーンシリーズ」に触れて終わりにしよう。自殺マシンではなく、あくまでも自殺未遂のためのマシンであるこの何とも言えないアナログの装置は、裏も面も無く、自殺の国の日本国民にこの問題を朗らかに提示する。試行者は、頑丈そうでちょっとやそっとじゃ切れそうも無い輪に頭を突っ込み、意を決して段から飛び降りる。彼は(不運にも/幸運にも)自らの肉体をを伴ったまま、バラバラと分解するマシンとともに床に崩れ落ちる。「自殺未遂マシーン」の体験を通じて人々が得られるのは、「あかん、こんなマシンでは到底死ねん。」という途方もない事実である。こんなに絶望的で希望に溢れた試行の存在を知っただけで、芸術の表現っていうのはやはりあっていいのだ、と思える。