08/30/14

INVITATION – 浮遊する意識 –

INVITATION – 浮遊する意識 –
2014.8.9 – 8.24 @KCUA
SONY DSC

8月24日まで@KCUAにて開催されていた本展覧会は、京都市芸術大学芸術学研究室の学生が企画・実施する展覧会「Colors of KCUA」シリーズの第4回で、「INVITATION = 招き」をコンセプトとして構成されている。日本語の「招き」は古語「招し」(おもしろい、好ましい、美しい)に関わるという本来の意味に着目したコンセプトだそうだ。
なるほど、INVITATION=招きの展覧会は、おもしろい経験へと鑑賞者(あるいは参加者、体験者)を招いてくれるダイナミックな空間であるようだ。

SONY DSC

SONY DSC

展覧会会場に赴くと、まず迎えてくれるのは、東谷俊哉の作品《「私」の観測法》のベイビーだ。ちょっと怖いが近寄ると、やっぱり更に怖いのだが、長いへその緒で向こう側に繋がっている。そうか、このベイビーはまだ産み落とされておらず、母の肉体と接続している存在として一時的にこの場に置かれているのだろう。体験者は、ベイビーの向こう側に居る母親の体内を思わせる着物の中に潜り込むように招待される。その内部では赤ん坊の視野が転写される一方、着物の内部に包まれて声を持たない「内側」の者の発言は赤ん坊によって媒介されて「外側」に向けて発せられる。身体を用いた体験を通じて、自他の境界に関わる問題を扱うこの作品が、へその緒で結びついたままの赤ん坊とそれを宿すものを「自」「他」の表象として用いたのは、ロジックであるが同時に奇妙なことでもある。産まれる私はそれを宿した個体とは根本的に異なる個体であるにもかかわらず、その両者は曖昧に接続されており、その内部ではたしかに、思考や感覚の転写や媒介ということが起こっても不思議ではない。あるいはもっと自他の境界が曖昧な世界では、そもそも、赤子とそれを包むもの両方が、自分という個体の異なる現れ方であると認識することも可能かもしれない。ここで、世界からやってきて知覚されることと、世界に向けて作用することという二つの距離が近づいたり離れたりするのだ。

SONY DSC

映像を映し出す複数の画面が一面の背景のように設置され、その前には赤い布がかぶせられた背の高い台がある。台の上には古代の宗教儀式を思わせる五体の埴輪のようなものが置かれており、赤い布が広げられたその地面はというと、無数の埴輪の欠片が散らばっている。黒木結の《consum(ed)er》は、資本主義経済において消費される「アイドルという生身の少女のイメージ」についての作家の思考を表しているそうだ。画面には断片的に、いわゆる「アイドルらしい」少女が、フェミニンなワンピースを着て現れ、少年と仲睦まじくしている様子などが映し出される。そして、埴輪が振り落とされた金槌によって破片と化すプロセスが繰り返される。
モノを破壊するという行為は、それがたとえ小さな規模であっても、そこに暴力が介在するという点で、その破壊行為そのものが強い印象をもつ。それが映像として表現されたときは殊のほか強烈である。それが繰り返されればさらにその効果は補強される。それゆえ、物語全体は破壊行為に煙に巻かれない意味を持つことが必要になるだろう。
「アイドル」というのはもちろんテレビに登場するアイドルだけでなく、「アイドル的存在」といった表現によって想起されるイメージも含めて「アイドル」と作家は呼んでいるのだろう。イコンを壊し続けることによってなされることはなんなのか。消費され続けるイメージを新たにしうるのかどうか。こわしてもこわしても、映像はループし、おわりなく、アイドルは現れるのである。そのことがむしろ真理のようでもある。

SONY DSC

横内朝の繊細で内省的な物語を表現するインスタレーションは、小鳥をモチーフにして恋愛を表現した作品である。過剰に演出されたナイーブなテクストやオブジェは、「恋」や「恋愛」がしばしばそのように作り込まれていること、作り込まれた虚構の物語を反復するように導かれていることなどを十分に戦略的で強かに暴きだしていると言えるだろう。

SONY DSC

鈴木孝平の映像と写真作品は、我々が普段見ているはずのものや、感じているはずの感覚を提示する。たとえばビニール袋がくしゃくしゃになった状態からどのように広がり、どこまで広がれば動き続けるのをやめるのか。小さくまとまったコードがどのように元の形に戻ろうとして、しかしどの時点でもう動けなくなるのか。我々はそのことを知らない。これらのビデオを見ながら、我々はそうか、普段は意識していないけど、こんなふうに世界は営まれているのだな、などと、無垢なことを思うかもしれない。しかしふと考えて見ると、我々は普段あまりにも不注意で、そのことが本当に起こっているのか、あるいはどのように、いつまで起こっているのか、そのことを全く知らないのだから、それらがたとえば真実でも虚実でも、結局の所、我々はそれを判断できない。知らない我々はそれを信じるのは自由だが、信じなくても別に良いのではないか、ひょっとしたら、信じられないようなおかしな方法で世界が動いているかもしれず、それはそれで、そのほうが面白いのではないか、などと世界に関心を与えてくれる作品である。

SONY DSC

02/25/13

梶村昌世 「物語は水の中へ」/ Masayo Kajimura, « folding stories into water »

梶村昌世さんは、 »二世 »としてベルリンに生まれ、ヴィデオアーティスト、パフォーマーとして国際的に活躍している現代アーティストである。彼女の両親がベルリンに移住し、梶村さんはドイツで生れ、そこで育ち、学んだ。展覧会やパフォーマンスなどの活動を除いて彼女が日本に住んで生活したのは、2005-2006年の岐阜県のIAMAS(Institute of Advanced Media Arts and Sceince/イアマス)で学んだ一年間である。彼女はこの一年間の日本での生活の間の制作を2006年にベルリンに帰国した後の5月にSolo Exhibition « One Year Japan » において、 »genjitsushinkiro »を含む3本の映画作品を発表している。(こちらでプログラムが確認いただけます。) そうした生い立ちから、日本はいつもその外側から見つめるべき存在であるという。しかし一方で、両親や家族を生み育て、彼らの文化や思想やそのほかのすべてを育んだ国としての日本は、自分自身もその内側に含める。梶村さんは、外部の者の視線で外側から日本を見つめると同時に、自分も内包されながら内側からも見つめることができる特殊なスタンドポイントをもってアーティストとして表現活動を行ってこられた。彼女のこの、自主選択に拠らない、産み落とされた瞬間付与されたとも言える運命的なアイデンティティへの問いは、彼女の表現のなかに様々な色彩を帯びて浮かび上がってくる。

 

2013年1月9日、ENSAD(Ecole Nationale Supérieure des Arts Décoratifs)とパリ第8大学(Université Paris 8) の合同カンファレンスのプログラム »Cycle du Japon »という一連の企画の中で、梶村昌世さんを招待し、ご自身の制作や作品について講演していただいた。このブログでも先日アナウンスさせていただいた。 »Cycle du Japon »という企画は、私が所属するUniversité Paris 8(パリ第8大学)の Nouveaux Médias et Arts Contemporains(ニューメディアと現代アート)の教授であるJean-Louis Boissierが担当する2012-13年度の公開カンファレンスで、日本のメディアアートの現在を扱う企画である。このプログラムは、2011年に構想が始まり、メディアアートを巡るフランスにおける日本へ高い関心と、同分野関係者に結びつきが強い日本で2011年3月11日に起きた惨事、それに対してアート領域からどのようなアプローチが可能であるかを考えたいという意志により実現に至った。(私自身この企画と運営には構想時から関わらせていただき、思うこともあり(そのことにかんして)、日本でご活躍される多くの研究者の方々、アーティストの方々にも情報を頂いたりお越し頂くことを検討していただく等、ご協力を頂いた。そのご協力のお陰で当企画の実現に至ったことを心より感謝したい。)

SONY DSC

さて、1月の講演において、梶村さんは、これまでの制作活動を私たちに紹介すると同時に、彼女のもっとも重要なテーマとしての「 水」を、3.11および続くカタストロフィーを引き起こした異型の水としての津波にも結びつけながらより大きなコンテクストのなかへその問題を開いた。勿論これまでも、フランスメディア上で社会的あるいは政治的コンテクストで議論や報道がなされることは多々あった。しかし、日本のナショナルボーダーから飛び出して、この問題の深い部分を捉えながらそれでもなお積極的にコミットする意志を有するアーティストの活動はこれまでたくさんあったわけではない。それ勇気のいることだし、だからこそ、意味のあることだと私は思う。彼女の講演はとても印象的で素晴らしい内容を含んでいた。

 

この記事では、彼女が2010年から取り組んでいるAqua Ephemeraという作品について主に紹介させていただくこととし、このカンファレンスの全貌は、Observatoire des Nouveaux Médiasのサイト(こちら)にある当日の録画ビデオにてご覧頂きたい。英語での講演であるが、梶村さんのご快諾のおかげで、ビデオインスタレーション作品などの貴重なドキュメンタリー映像などもご覧になることが出来るので、ぜひぜひご覧頂ければと思う。

01.aqua-ephemera-installation-still_01

さて、Aqua Ephemeraは水面下の音とそのイメージを、紙で作られた傘型の立体スクリーンに投影する、音響と映像のビデオインスタレーション作品である。作品は約10分、作曲家である宮内康乃さんとのコラボレーションで実現した。展示室の中はプロジェクションの光と水が作り出す音響で満たされていて、鑑賞者は自由に出入りでき、つまり作品を部分的に鑑賞することもでき、さらには傘のフォルムをしたスクリーンの回りを歩いて映し出された映像を好きなアングルから見ることができる。鑑賞する人に与えられた何にも縛られない動きは、あたかも作品を受け取る人々自身が、留まらず常に流れ続けている水とそれが含む命のありかたを再現しているかのようである。

 

2010年、ポルトガルのNodar Artist Residencyでの滞在中この作品は生まれた。アーティストレジデンスの近くを流れるPaiva川(Paiva River)の水の姿。川の水は澄んで極めて美しく、その水が育む生命の姿もまた視覚的にも聴覚的にも美的なものである。湖底に根を張る水草の姿や健康そうな小魚の群れ。あまりに透明な流れは、湖底から空を見上げたならば鳥たちが羽ばたいてゆくのをかくもありのままに映し出し、あるいは木々の高い位置で枝や葉が風に揺られているのが、流れ自身のゆらぎに強調される様を描き出す。連続しながらも変化する多様な水面下の音は、世界はとても音楽的に創造されていたということを改めて私たちに聞かせるかのようである。この作品は、Paiva川のみならず、氷が溶けたり、水滴が池に滴る音や映像、あるいは我々の身体が発する様々な音もまたそこに含んでいる。強かで透き通り、歌いながらきらめく水。我々はこれに魅了される。

 

しかし、次の瞬間、彼女が語るAqua Ephemeraをめぐる想い出に衝撃を受けずにはいられない。ポルトガル滞在中、この作品の公開が始まろうするちょうどその頃、奇しくも水の「美」に焦点を当てた作品を完成させて発表に至ったそのとき、日本での水を巡る甚大な被害が報告された。大地震、それに続く福島の原子炉での一連の事故を引き起した水の「暴力性」、すべてを押し流した津波。彼女のなかで、水は言うまでもなく様々な姿をもっていて、暴力的でも危険でもあり得ること、そして自然も生命も水の上に成り立っていること、そういったことは理性的にあるいは前提として当たり前でありながらも、この事件には深く心を動かされたと彼女は伝えた。

 

数千キロメートル離れた場所で、ある国の水が全てを押し流し、人間の生活に甚大な被害を与え、人間やその他の動物のたくさんの命を押し流した一方で、また別の場所では、川は昨日と一昨日と同じように流れ、魚たちは戯れて、子どもたちはその浅瀬で水面がキラキラするのを喜ぶ。これは世界の日常である。

 

ふと、水が奏でる音とは不思議なものだと思い直す。水の音は、自らが水に包まれている時にはなかなか水の音を冷静に聴けない。というのも、個人的な経験に基づくが、自分が水の中に潜っている時というのは鼓膜にやってくる圧力のせいか、自分の身体のなかの音を聞いているような錯覚に陥るのである。あるいはその状況こそが水の音を聴く行為であるのか私には解らないのだが、耳のなかの音や、もっと深いところの、心臓の鼓動とか血液が巡る音などが自分の鼓膜に帰ってきて、それを自分の聴神経で受け止めているのではないか、と感じるのだ。だから、私自身は、水の音を自分が水の中で耳にしたことがあまりないように感じてならないのだが、Aqua Ephemeraを聴くと、異なる状況の水の音は自分を圧迫することも怖がらせることもなく、とても心地よく広がっていく感じがする。したがって、Aqua Ephemeraで奏でる水の音とイメージは、そんな兼ねてからの疑問「水の中で聴いたあの音は、自分の身体の中から来るのか、それとも本当に身体の外側にある水の音なのか」という問いは、どちらともつかなくてもよく、むしろどちらでもないということを教えてくれ、私を安心させてくれた。そもそも、水は流れてとどまらず、どこにでもありどこにでもゆく。私たちの身体も七割くらいが水で満たされており、それは、私たちの記憶をそのなかに含めて、流れていく。彼女によれば、それが水の本質である。彼女は自分のもっとも大切なテーマである「水」をそのように明瞭に語るときの彼女の視線はとても素敵だ。

 

ひとたび流れる水に乱れが訪れた後、静寂が戻ってくる。そしてそれは少しずつとても優しく浮かび上がってくる。おそらくポルトガル語で歌い上げられる教会の賛美歌とオルガンの伴奏の響き。この場面の転換は秀逸だ。さらに秀逸なのは、ずっと遠くから聞こえてきた音楽が、また少しずつ先ほどの水面下の音と混ざあうのだが、それは異なるものが混ざっているのではなくて、それはもともと一つであったのではないかと思えるほど自然なのである。私は西洋の宗教音楽ととりわけオルガンという楽器に特別な思い入れがあり、教会で奏でられる宗教音楽には信仰や教義をそっちのけにしてもなお絶対的な赦しの存在を彷彿とさせる何かが潜んでいると感じている。つまり無条件に神様に救われるようなアガペーの象徴みたいなモノなのであり、オルガンという楽器は不完全な人間が神様の絶対性と威厳を無理に真似ようとした努力の結晶みたいないびつな名楽器なのである。子どもたちの歌声とオルガンのハーモニーは、水の音をその中に含めることでより完全なポリフォニーとなり、そうしているうちに、その解釈は実は間違いで、つまり、賛美歌に水の音が混ざったのではなく、それらが水の中から生まれてそこに戻ったということを描き出すようにこの作品は作られている。傘型のスクリーンは流れを移し続け、子どもたちの響きはその中に少しずつ吸収されていく。決して怖がらせることのないように、あたたかく包み込むよう。真っ白な傘がその中にすべてを吸収してしまったところで静寂にもどって、この作品は幕を下ろす。最後にかすかに耳にのこるのは水の呼吸であり、水の呼吸とはすなわち生命の全ての呼吸を意味する。

 

この作品は上述したように、Paiva川の水面下の音や映像をベースに制作されているが、断片的に多くのイメージや音楽がその中に溶けている。 »folding stories into the water », 彼女が本カンファレンスにつけてくれたタイトルである。
水はきっと、いつかは亡びてしまう私たちのかわりに私たちの記憶を持ち去るのだ。そんなふうに思った。

 

クリアーな作品コンセプト、会ってすぐにそれが解った。私が強い印象を受けた別の作品に、Envelopeという彼女の初期ビデオ作品(2002)がある。「ときどき、私たちが記憶と呼ぶものと想像と呼ぶものははっきりと区別できない。」«But sometimes what we call ‘memory’ and what we call ‘imagination’ are not so easely distinguished.»
このビデオ作品はカナダのLil’watという原住民族のドキュメンタリーを含んでおり、彼らが伝統的にどのように鮭を大切に食し、彼らとの共存の中で生きてきたか、彼らの記憶を伝える口頭伝承(storytelling)を記録した作品。鮭の血抜きや幾つかのシーンがあまりにも鮮やかに美しくたちまち魅了される。この作品は、彼女の生い立ちにも触れる問題意識を含んでいる。つまり、より強い支配者によってマイノリティーとなった原住民族たちは彼ら祖先の教えを口頭伝承で伝えることによって命の記憶としての物語を守り続けていくのだが、「移民」としてドイツに生きることは、ディアスポラの経験を体現し、他者性を生きることでもある。彼女はそのことを、多重的に異なる空間、時間のイメージを重ね合わせ、それらをしかしながらリアリティとして関連させることによって自らのアイデンティティに向き合っている。

203483_380034538761155_1751939285_n

最近では、2012年から、ダンサーで演出家である 伊達麻衣子さんとのコラボレーション作品で、Between Islandsを制作、発表されている。上述のサイトodnmでその一部をご覧頂ける。さらに、梶村さんは3月日本に滞在予定で、パフォーマンスをされるとのことである。

詳しくは、サラヴァ東京のサイトでご確認いただきたい。
(パフォーマンス日程詳細)
2013年3月20日 15時および19時開演

参考
Masayo Kajimura : http://artnews.org/artist.php?i=4227
Paivascapes #1 : http://www.paivascapes.org/en/participantes/artistas-residentes/yasuno-miyauchi-masayo-kajimura
Observatoire des Nouveaux Médias : http://www.arpla.fr/odnm/?page_id=13040