04/20/20

« œ » – 共生のための(?)新しい思考の枠組み

下に添付したテクスト(« œ »と題されている)は、昨年と一昨年前に神戸Gallery8と京都の想念庵で展示されたフロリアン・ガデン の巨大なドローイング(2m×4m)について、作家本人がコンセプトの説明および自身の研究について記述したものである。« œ »というのは作品のタイトルであり、フランス語で使われるoとeが合わさった特殊な文字だが、ラテン語由来のいくつかの単語をかき表す時に使われている。フロリアン・ガデン がこの作品のロゴと言おうかかサインとしてデザインした記号(図)はサケの稚魚がまだ腹部に卵嚢をつけてそこから養分を得ているような様子もうかがわれる。絵画は寸法こそ大きいが、その内容は細部が詳細に描かれたミクロスコピック曼荼羅のようであり、鬱蒼としている多種多様な器官や(非/)生命体の群はしばしば共依存の関係を築く様を描き出す。あるいはそれは一時的に一方がもう一方を侵食する脅威となっていても、それらは時間の経過の中で(短いスパンも途方も無い長いスパンもある)やはり共生的な生を営むことが運命付けられている。

絵画の構造を端的に振り返るならば、作品« œ »は、多数の器官や生命体(およびウイルス)が成す複雑な建築物であり、バベルの塔から着想を受けた上部と、ダンテの時獄篇からイメージした下部の建築が中央のゾーンで地平線を対称軸としてつき合わされた形となっている。上部構造では生命の起源としての「卵」が輝かしく君臨するのを最上部として、それにまとわりつくように精細胞が続き、神経細胞や毛細血管の構造が複雑にレゾーを織り成しながら、やがてそれらが退廃したり、細胞が変異を起こして病的な分裂を反復する様子を表す中央のゾーンへ降りてくる。そこには食細胞が免疫反応のために活躍しており、次第にそれらは変異した細胞や、人類が歴史的に直面してきた多数のバクテリアやウイルスが蠢くエリアへと変貌する。地獄の構造は下へ下へと降りてゆき、無数のウイルスが棲息する深遠な穴へと遠ざかってその絵は終わる。

この絵画の「上」「中」「下」の構造は、人類中心主義的なヒエラルキーの思想と二元論的パースペクティブに基づくものだ。テクストで作家自身が述べているように、« œ »が敢えてこの形をとったのは、まさに、現社会に浸透したその人類中心の視点を覆すためにほかならない。上部が「健全」、下部が「病的」という説明そのものが、意味をなさなくなる瞬間がある。はりめぐらされた毛細血管が生命体において正常に機能している、変質した細胞が無制限に分裂を続けるような現象がある、バクテリアがそれぞれの生命活動を営む上で宿主の中に留まってそこから栄養を取り、ウイルスが同じく宿主にタンパク質からなる殻を突き立てて、そこに自身のDNAを送り込んでいる…。これらの出来事に、善悪の価値判断が与えられたとすれば、それは、ひとえに物語のせいである。例えば、ヒトという生命にとって有益か害かといった枠組みが、本質的にニュートラルな現象を意味付ける。« œ »にはエボラウイルスやHIVウイルスのような、これらのウイルスによる死を避けるために人類が真の脅威として「戦って」きた対象も描かれている。現在世界で感染が広がるCovid-19もまた、「戦争」とか「撲滅」などの語彙によって意味付けられ、« œ »においては下部に挿入されるべきキャラクターということになるのだろう。

さて、人類中心主義的な二元論の物語を覆すと言っても、「生命は視点を変えれば皆ただ生きているだけだ、上下などない」など言い放つことしかできないのであれば、わざわざ絵を描いたり、ものを書いたりしなくてもいいと思うのである。そんなつまらないことしか言えないのであれば。「生命は皆同じ」なんて言ったって、私たちが生きているのはヒトの生であり、生命として生き続けているからには物語がつきまとってくるのは当たり前だ。それでもなお、いやそれゆえに、つまり、生き続けるために考えるべき(あるいは考え直すべき)ことがあり、フロリアン・ガデンの絵画も、新たなエコロジーに焦点をあてるアーティストたちの挑戦も、結論を言い放ちたいのではなくて新しい思考に見る人を巻き込み、それによって生き方を作り変えて行こうとしているのだと思う。

« œ »についてのテクストでは、我々の生命がそもそもウイルスやバクテリアや菌類と共に在るものと認識することを促すことによって、異なる物語を紡ぎ始めようと試みている。事例が列挙される。
*バクテリア、菌類、ウイルスは代謝の均衡維持の役割を担い、消化機能を助け、免疫機能を高める
*腸内菌が脳の機能に影響を与え、腸内菌と同じ種類の菌類が脳内にも存在する
*人間の遺伝子の一部はウイルスに由来している(ウイルスは人の進化に貢献してきた)
*人間はしたがってこれらの微生物に恒常的に侵されながら変化してきた

フロリアン・ガデン は次のようにテクストを締めくくる。
ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?
このテクストを日本語に翻訳したのは私なのだが、「貢献」と訳出しているのはもちろんcontribution (/contribuer)である。ラテン語のcontribuereの語源には「分け与える」とか「何かを共有するために与える」といった意味がある。多様な地球上の生命の一つの種にすぎない人類がその生態の進化に貢献するとは、なにやらそれでもやはりヒトという種を過大評価しているように聞こえる。一方で、ウイルスはヒトの遺伝子に自らのDNAを組み込むことに成功してきたように、ヒトもまた共に生きる(生きている、あるいはこれから共生する)微生物のホストとして彼らの乗り物になり続けていくだけであると結論するだけであれば、人類がこれまで少しずつ追究してきた地球の生命についての営みについての理解をあまりに蔑ろにしている。

私たちが生命について考える新しい枠組みをつかみとるために、« œ »を通じて再考できることがあるように思われ、作品について書くことにした。

注)
*本作品は、フロリアン・ガデン が2018−2019年にわたって取り組んだリサーチおよびドローイングであり、私が企画した2018年の展覧会「ファルマコンーアート×毒×身体」にて公開制作を行い、2019年には神戸のギャラリー8での「ファルマコンー生命のダイアローグ」で天井絵のように展示された。
*展覧会リンク:http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=339http://mrexhibition.net/pharmakon/?page_id=347
*作家HPリンク:https://floriangadenne.com/2019/10/29/oe/

« œ »

« œ » において、科学、錬金術、神話的・宗教的物語が混在している。この作品は、マクロとミクロの視点による生物の観察に基づいている。

下にあるものは、上にあるものに等しく、上にあるものもまた下にあるものに等しい。
La Table d’Emeraude, Hermès Trismégiste, 3e ou 2e av. J.-C.

« œ »は « œcuménique »という単語に現れる。« œcuménique »は、16世紀の使用例では<全世界的な、普遍的な>という意味である。この言葉は、 « oecumene »つまり<我々の住む地球、宇宙>に由来している。
(« oe » comme « œcuménique » adj. est emprunté, sous la forme ecuménique (1547 budé) rectifiée en œcuménique (1599), au latin ecclésiastique oecumenicus « de toute la terre habitée » et « universel ». ce mot est dérivé de oecumene « la terre habitée, l’univers ». )

« œ »の形態は、バベルの塔の螺旋構造およびDNAの二重螺旋構造に基づく。この構造はボッティチェリが描いた地獄にもみられ、それはバベルの塔の上下を逆さにした建築となっている。
バベルの塔に関して、私たちはその崩壊を真っ先にイメージするが、塔を建設した時、人類は世界全体と調和しており神にも匹敵できると考えていた。楽園を追われ、人間は神々の言語を失わずにすんだ。人間は、無機物、植物、動物界の言語を理解する能力を持った。したがって、神への挑戦としてのこの塔の建設は、人間の際限のない傲慢さと自信過剰を明らかにした。この普遍的言語は、RNAとDNAに基づく遺伝情報という自然界の言語のことであると再解釈することができる。今日人間は生物を操作し、修正する、つまり<神の役割を演じる>技術を発達させた。

この建築に棲むのは、微生物、細胞、ウイルス、バクテリアなど、大きさの異なる生命体や器官である。« œ »の構造は一見すると二元論的である。つまり、上部は<健全な>生物が描かれ、下部は<病的な>生命体が描かれている。« œ »はこの二つの構造を一つに統合する。

上部構造には、共通言語の概念を象徴的な翻訳としての毛細血管と神経のレゾーが見られる。それらはその頂点に君臨する卵細胞によって司られている。卵細胞から八本の精細胞が伸び、それは二本ずつ撚った四本の糸となる。錬金術において、卵は宇宙の創造を象徴する。また、世界の創造について語る異なる神話においても<世界の卵>があらゆるものの起源として登場する。

下部構造は、<下にいるもの>を意味するラテン語のInfernus=地獄に関連する概念を想起させ、そこには、苦痛、退廃、略奪、死病がある。何かによって侵略され、氾濫するような感情や、差し迫った生命の危機を描き出すことを試みた。病原菌が鬱蒼としているその部分には、無数のウイルス、バクテリアを描きこんだ。また、癌細胞の密集し糸をひくような構造に私たちは思わずぞっとする。 « patho- »の語幹は « pathogenic »(病原体)や « pathology »(病理学)多くの単語に見られ、ギリシャ語のパトス pathos は「やってくるもの、被った経験、不幸、魂の感情」を意味する。私たちもまた、白血球やマクロファージが生命の危険に対して防衛する様子を目の当たりにし、畏れに似た感情を抱くかもしれない。例えば、マクロファージの中には癌細胞のような恐ろしい見た目を持つものがある。侵入者を捕らえるために吸盤のある無秩序なレゾーを広げている。病原体なのか健全な器官なのか、見た目にはもはや不明瞭だ。ウイルスはタンパク質からなる膜を実に多様な形態に発展させている。しばしば対称性の高い形態であり、円柱や球体、正二十面体など正多面体である。特に正二十面体はプラトンの正多面体の一つで非常に頑丈な携帯とされる。

ウイルスは、私たちの生命を脅かすという点で<悪>にカテゴライズされるが、その形態からは何の危険も機能不全も暗示されてはいない。それどころか、彼らの完全な形態は今日までその原始的生命が生き残ることを可能にした原因ですらある。たった5kbから200kbで可能になる完全な幾何学的形態に、嫌悪感よりむしろ魅惑されてしまう。

上と下二つの世界が出会う場は、ドローイングのなかでもっとも複雑な部分である。なぜなら、病原体、健全な細胞、免疫細胞の間で起こる多様な相互作用を描いているからだ。<健全>と<不健全>という二つの構造が出会う場はつまり、バベルの塔と地獄の二つの建築が上下対称に組み合わさる境界面になっている。そこでは、様々な戦いが繰り広げられており、<攻撃><防御><侵略><警戒><保護><武器><戦略>などの戦いに関わる語彙でしばしば描写される。
もっとも知られた免疫反応の形態は食細胞だろう。その名の通り、吸収する機能を持った細胞であり、異物を消化吸収してしまう。これはまさに、動物が自らを養うために行うような捕食行動であるのだが、ここでは生命維持の必要よりむしろ生き延びるための防衛としての意味がある。

病原体の例としてよく知られているのはパラサイト(寄生)だろう。健全な細胞の代謝機能を利用し、その細胞膜に穴を開け、自分の遺伝情報を送り込む。犠牲となった細胞は乗っ取られて自らのアイデンティティを失う。実はこのことは « host »という言葉の定義をよく表している。つまり、« host »とは、歓迎するものであり、歓迎されるものという相反する二者のことである。

この境界が不明瞭な二つの世界を結びつけるため、次のことを考えて見たい。私たちがふつう<病原体>と呼んでいる生命体は、単に私たちの視点から(私たちの利害関係から)判断してそのようにみなしているに過ぎない。

バクテリア、菌類、ウイルスは私たちの代謝の均衡を保つのに重要な役割を果たし、消化機能や免疫機能を高め、そのほかの病原体から私たちを守ることにも貢献している。さらに、最近の研究により、腸内菌が脳の機能に影響を与えるという驚くべきことが明らかになった。私たちはしたがって微生物に恒常的に<侵され>ており、彼らは私たちにとって<病原体>でないどころかなくてはならない存在といえる。この考え方は比較的新しいものである。私たちのアイデンティティは人間に由来する細胞だけではなされず、複数のバクテリア、ウイルス、菌類と共にある。我々の遺伝子の一部はウイルスに由来するものであり、ヒトという種は彼らによって侵されることによって進化してきたということを決して無視することはできない。
Jacques Lependu, directeur du Centre de Recherche en Cancérologie Nantes- Angers (CRCNA), Nouveaux concepts sur les microorganismes dans leurs relations avec leurs hôtes, exposition « L’un l’autre », 2015.

« œ »のバベルの塔と地獄は蔓延る微生物に棲みつくされ、その状況は、地球規模でみると人間とは、地球上の生命群の一部である取るに足らない種の一つに過ぎないことを象徴している。2011年8月現在一千万もの異なる種が地球上に生息していると言われるが、人類は、ものすごい速さで人口を増やしながら地球上の生態を破壊に導く唯一の種なのである。宿主と微生物の関係性が均衡を失った時、それは<病原体>と呼ばれる。« œ »は、人間がほかの生命体に対する支配者として自らを切り離しながら作り上げてきたヒエラルキーを突き崩すことを目指す。なぜなら、ヒトという種がすべきなのは、地球に対する病原体として振舞うことではないからである。宿主と病原体は長い時間をかけて相互に影響を与えながら共に進化してきた。ヒトという種は、地球にとってはむしろ寄生者なのだ。さらに、ジャック・レパンデュが上の引用で述べているように、ウイルスはヒトの種の進化に貢献してきた。さあ、我々は地球の生態を尊重しながらその進化に貢献することができるのだろうか?

フロリアン・ガデン Florian Gadenne(アーティスト)

テクストはPDFファイルもダウンロード可:20042020 œ text final jp

04/18/20

Covid-19の感染拡大をフランスで生活しながら書いたこと

ものを書くのをこんなに躊躇ったことはない。これまで、くだらないことを恥ずかしげもなく散々書いてきたのに。天邪鬼な性分もあり、多くの人々が同じ主題についてものを書いているな、と思うにつけ、私は書かないぞと意固地になってしまったのだが、<書きたい>というただ一つの動機から、結局はこのエッセイを書いている。

私は現在パリの南郊外に住む。つまり、3月17日から外出禁止体制下となったフランスで、今日が4月17日だからちょうど丸一ヶ月生活していることになる。外出禁止「令」というからには法令であり日本の自粛要請とは異なりはっきりした法強制力がある。<不要不急の外出>は警察によって取り締まられ、違反すると罰金の支払いを命ぜられる。不要不急の外出ではない外出ー許可される外出ーの定義は、3月17日以降数週間かかって制限を加えつつ明確化され、現在は、1)どうしても外出しないとしかたない仕事(会社ならば雇用主による証明書が要求される)2)買わないと生活できない食料品や薬の買い出し 3)持病の治療などどうしても行かなければならない病院 4)自宅付近で独りぼっち限定での散歩やスポーツ、犬の散歩 4)その他裁判や行政呼び出し関係の義務的外出 に制限され、外出時は外出日時を記載した証明書を持ち歩く。非常事態宣言と外出禁止の強制の開始と延長は大統領演説によって国民に伝えられたが、細々としたエラー(あるいはロックダウンが遅すぎたとか諸々)に批判はあるものの、そのいざ決まってからの機動力には率直に感心した。3月15日には外出自粛要請にも関わらずパリジャンが小春日和を全身で満喫していたのが16日に大統領演説を受け、17日には外出禁止となり18日には政府のウェブサイトから証明書がダウンロード可能となり携帯が義務付け警察によるコントロールが開始できたのだから。ちなみに学校という学校が全休校になったのも、教員がオンライン授業のための云々を用意する暇など与えられる間も無く16日から一切休校になったことにも、おお!と唸ってしまった。

私個人といえば、今学期は、勤務するグランゼコールの一校で定期試験を残していたので、オンラインシステムを利用して学生と連絡を取りながら試験を実施した。参加学生数も多くなく、顔見知であるのをいいことに、また、自宅勤務だと家事とか子どもと遊ぶとか中々学校勤務のように時間をやりくりできないため、これまで機会がなくて一度も利用していなかった学校指定のオンラインシステムを隈無く勉強して巧みに運用してやるほどちゃんと準備する時間も体力も気力も義理もないよなと即判断し、オーラルテストは電話で実施した。その当時、外出禁止開始から一週間しか経っていなかったが不安からか人恋しさからか世間話したくてたまらない勢いで近況を喋ろうとする学生もあった。いうまでもなく、一人で下宿している学生や、学生のみならず一人暮らしの者にとって、何週間も誰とも直には会わずに引きこもっておれ、というのは、たとえ日々イライラしながらも家族と顔を合わせて会話を交わして生活しているのとは比べ物にならない「インパクト」があるに違いない。こんな時に思うのは、「ポジティブに頑張ろう!」と<頑張る>ことや、「我慢しよう、いずれ元の生活が戻ってくるのだから!」と<我慢する>ことが逆効果だということである。頑張ったり、我慢することはそもそも無理の塊で、結論からいえばこの状況が、しばしばナイーブに語られる意味で<終息>することや<元に戻る>ことなどあり得ないからである。多少落ち着き、我々は現在よりもフィジカルな意味であるいはソーシャルな意味で活動的な生活を送り始めるかもしれないが、それは、頑張ったり、我慢したりしなくてもやってくる。ある意味で、受け入れるということが大事ではないかと考えているのだ。

ウイルスは撲滅できない、と述べた科学者の記事がソーシャルメディア上でも広く支持されて共有されていたが、多くの人がそんなことはわかっており、ウイルスはそもそも生命体でもないタンパク質の殻の中にDNAをバラバラ含んだ遺伝情報のヴィークルであるのだが、そして我々の遺伝情報もまた数%以上はウイルス由来のものであるとか今日の研究ではそんなことまで明らかにされており、従って、私たちは本当は、見えもしないナノ級(nmナノメートルは1メートルの10の9乗分の1)のウイルスと「戦争」をすることも、「撲滅」することも、気の遠くなるような妄想だということを感覚としてわかっているのではないだろうか。「我々はウイルスと戦争状態にある!」と宣戦布告していたのは、フランスの大統領であったけれども、彼自身ももちろんウイルスを撲滅しようなど考えていない。ただ、国民の配慮ある行動(三密を避ける、不要不急の外出を控える、医療崩壊を食い止める)を呼びかけるために、ここまでアホな言い方で理解を呼びかけなければならない(しかも二十分程度のスピーチの中で7回も連呼した)ほど、国民が馬鹿にされているということは、情けないというほかはない。(しかし、のちに述べるがこの国民を馬鹿にした演説と強制措置は一定の変化を促しただろう。)

さて、私たちの日常生活の変化は、世間の多くの人々の「大きな変化」に比べたら、天地がひっくり返るほど無茶苦茶になった!というほどではない。私たちというのは、夫のフロリアン・ガデン と一歳を少しすぎた息子と私である。三匹の猫もいる。私たちは子どもが小さいことがあり、また今年は保育園の定員も満員で、これまでずっと息子は私と夫に見られている。見るというのも世話してやってますみたいな感じでおこがましいから、まあただ一緒に過ごしているという感じである。ウイルスによる症状は当初から、風邪くらいの感染力とか、高齢者が重症化するとか、子どもに関してとりわけ高い注意を呼びかけるものではなかったが、自分の子どもを敢えて苦しませたいという親はおらず、私たちも感染拡大にしたがって、子どもを外ーとりわけ買い物など不特定多数の人々の群に出会う場所ーには連れ出さなくなっていた。そういった必要は大人が一人ですませ、その間は私か夫が留守番をするというのが少なくとも3月になる前から習慣づいていた。子どもは毎日外で遊ぶ。ただし親以外の誰にも会わないし、家以外の屋根のあるところにも行かない。だが、既に学校に行き、友人と遊ぶ事に慣れた子どもの日々への違和感には率直にシンパシーを抱く。

フランスで感染が拡大した。日本では両親の住む北海道での感染拡大が一時深刻化したように見えたが踏みとどまり、東京での感染拡大などを受けて日本でも非常事態宣言が出され、ただの外出自粛よりも強い語調で人との密着接触を避けるべき過ごし方について実践され始めた。誰かも既にのべていたが、日本の感染拡大は、比較されるヨーロッパやアメリカのそれとは様子が全然違う。しばらく拡大は続くものの拡大の仕方が同じにはなりえない。台湾はマスク着用を法的に強制して効果を上げたそうだが、日本では、そもそも病気じゃないときにもマスクを着用できる。(マスクがアイデンティティになるとかマスクだけで論考が書けてしまうほどマスクをする国民である。)中には、しなきゃならんとなると意固地になって自分は大丈夫とマスクをしない困った老人がいることなども耳にしているが、基本的にこれだけ多数の国民がマスクをすれば感染拡大に効果があるのは確実である。そして手を洗うしうがいもする。食べ物も基本的に清潔にする(みんながベタベタその辺に置いてしまうフランスの<パン>みたいなもんはあんまりない)
フランスでは外出禁止令発令以降しばらくして、いよいよ、メディアがただまくしたてるだけで左の耳から右の耳に筒抜ける情報ではなく、なんんといおうか、<感染へのリアルな恐怖>たるものが人々の内側からこみ上げてくるにしたがって、道ゆく人がマスクをしているのを普通に目にするようになった。だがそれまでは、マスクは病気の人がするものであり、自己防衛のためにマスクをするということはなく、つまり「マスクをしている」=「病原菌」(!)みたいに見られることを恐れて、とくに、各国で中国人差別からのアジア人攻撃が加速する情勢に至っては恐ろしくてマスクなどできないという、馬鹿げた状況であった。私なぞ誰がどう見てもアジア人なのであるから、2月ですら出勤にメトロに乗るのが気が重かったし、近所で買い物に行くのすら、例えば、哀れな愚か者が何か罵声を浴びせてこようものなら、気が向けば説き直してやろうくらいの気概はあるけれども、もっと「熱くなった」人が恐ろしい薬品とかかけてきたら絶対に嫌だなとか、無駄に想像力を膨らませてしまうのであった。コンシャスネスを持っている人がマスクをできなかった数週間はやはり馬鹿げたことであったと心から思う。

何を言いたかったか、さて、まとめていきたい。重要なのは、状況がだいぶん変わったということだと思う。自己防衛のためのマスクが普及したのはもちろん、「他者を見たらウイルスだと思え!」というメディアのわかりやすいキャッチコピーのおかげで(そんな端的なコピーがあったかわからないが、上に述べたように言うことをなかなか聞かない国民にどうにかして、人々間の距離を取らせ外出制限を守らせるため、政府とメディアがかなりの荒っぽいマインドコントロールを試みたことは確かであり、それは結果として浸透したのだが、それはそれで阿呆として扱われ結局阿呆でしたというところもあって情けない)、多くの人々が、潜在的な感染可能性を前提として配慮した行動ができるようになった。具体的には、顔を触らない、手を洗うなどは当然として、人同士が近寄らない(唯一可能なスーパーでの買い物は入店制限があり、しばしば長蛇の列に並んで何十分も待たねばならない。その際2メートルくらい前後と間隔を保つ)、外から家に持ち運ぶものは消毒する、着替える、ビズとかせずに<よそよそしく>する。

ビズというのは、フランス人が挨拶の時にする、会釈でも、握手でもなく、チュッチュとするやつで、これは家族や仲良しでは性別を問わず行われるほか、ある程度親しい(親しくもなくてもする)異性間で、会った時と別れるときにホッペにチュッチュッとやっているあれである。風邪をひいていたりすると相手にうつす危機を気にして自主的に「今日風邪なのでビズしないからー」と言ってくれる人もいるが、まあいいやと思ってビズする人がいるのは明らかだし、そもそもまだ発症してないだけで気がついていないかもしれない。とにかく、顔にウイルスを撒き散らすという点で、これほど効果的な方法はあろうか!郷に入れば郷に従えで、これまで10数年間仕方ないのでチュッチュと挨拶してきたものの、そんなよく知らん異性とほっぺをくっつけるほど密着するのも、毎回儀礼的にチュッチュとやるのも、正直面倒だなと思うことの方が多かったので、おそらくこの習慣は、この期間を機に急激に廃れて、家族と親しい人間にとどまるだろうと思う。それでよいのではと思っている。家族が大人になってもスキンシップするのは文化的でなんの批判もないが、親しくない人との制度化されたスキンシップというのは苦痛だし、手を洗ったり、物を拭いたりする習慣もあまりなかっただろうから、これ以降、人と人の距離についての配慮はコンシャスネスが高まるに違いない。

何より素晴らしいことだなあと感じているのは(それが政府により強制される事によってしか実現しなかったのは残念というか当たり前というか、そしてさらにこの騒動そのものがウイルスの感染を装ったグローバルで政治的な茶番のような気さえしているので、高く評価していると同時に全面的に幸福を感じるには至って居ないのであるが…)、私たちのこれまでの日常はほぼ「不要不急」で成り立っていたという事実を認識することだ思う。私が言いたいのは、我々の日々を構成する要素が無価値の塊だったという意味ではない。そうではなく、私たちがこれまでずっとやらなければならない!と信じていたものは、実は日々をただ生きるためには不必要なことで、焦ってやるべき義務も責任もなかったのだな!と気がつく瞬間というのは素晴らしいということが言いたい。(今日現金収入がないと今日食べるのが困難という場合はもちろんこの限りでないのは承知の上だ。)大事だと思っていたルーティーン、私が行かないと皆困ると思っていた業務、そんなものは幻であったという事実!時間という点で1日の多くを占めていた事柄が、それをそっくりそのまま別の行為と取り替えても、日々というものは営まれ、肉体は維持され、季節は変わって行くという、当たり前のこと。当たり前であるのに、不要不急のタスクで忙殺される日常の中でこれに気がつくのは簡単ではなく、一挙にこの自覚を促した「状況」は、その意味で意味があると言わねばならない。

また、「不便さ」への順応も重要だ。人は一度変化に慣れたのちにはそれが当たり前と感じられる能力を持っているので、さしあたり色々なことを「不便」と感じるのも私たちが慣れてきてしまった(無理の上に成り立つ)偉大な便利さとのギャップという相対的な意味でしかない。日本でも思い切りこの「不便化」が進み、我々の享受する至れり尽くせりの生活と全く違う生活を数週間から数ヶ月にわたってかなりの人口が経験できれば、日本社会はリフレッシュするだろうなあと思う。たかだか食料品の買い出しのスーパーへの買い物のために、店に入るのに並ばなければならずたいそう時間がかかるとすれば、おのずと無駄足は運ばないように気をつけるようになり(いまだに買い占めを続ける愚か者を除けば)買うべきものを買わねばならぬ時にようやく買うようになるだろう。宅急便が届かないのでネットショッピングで無駄なものを便利さを糧に買いまくって空輸と陸運と海運を極限まで苛め(おこがましくエコロジストを自称しながら)環境汚染に加担することを避けられるだろう。オンラインショッピングはアマゾンでさえも多くの場合数週間待ちとなっている。店にいっても買いたいものがあるとは限らない。それは誰に怒りをぶつける筋でもなく「仕方ない」ので待つしかない、あるいは、諦めるしかない。また、最初は少し驚いたが、医療機関で働く人にも外出禁止と業務停止が徹底されている。もちろん感染症に対応している医療機関はフル稼働であるし、持病患者のケアをするような大きな病院も機能している。妊婦も問題なく出産ができるだろう。しかし、歯医者や皮膚科や小児科といった、我々が気軽にお世話になっていたはずの病院やクリニックに全く通うことができないのだ。個人的なことだが私は3月末にインプラントの手術をする予定がかなり前から日にちが決まっていたのだが、非常事態宣言とともにクリニックが閉鎖され、いつだか知れぬ再開まで先延ばしになった。この間に別の差し歯が外れてしまい、食事のたびにいちいち痛い思いをし、万一衛生に不備があって炎症を起こして他の歯に及んでもすごく面倒だし、酷い事になる前にぜひ解決したいと医療機関に連絡をとったのだが、その程度では、歯科のある緊急病院へ行ってもいつ見てもらえるかわからないし、多分見てもらえないだろうと言われた。これは、<耐えられない痛みを10としてどのくらい痛いかレベル>というのがあるのだが、それで表すと7以上(つまりものすんごく痛胃からすぐに助けろ!と絶叫している患者)でないと、緊急病院では扱わないからだ。まあ、そんな程度じゃ命にかかわらないから見ませんよ、ということである。これまでの私が当たり前と思ってきた健康の基準に照らして見ると大変不便な生活を送っているのだが、これもまた、仕方ないのである。あるいは、この点でちょっといいことがあるとすれば、人々が無駄な通院や検査に行き過ぎないことだろうか。医療機関に行くのは散歩したり買い物したりするのと違うのだから、必要最小限であることが望ましい。健康マニアが不健康になる事例や、検査のしすぎがむしろ身体に及ぼす悪影響もなきにしろあらずであるのに、今日の私たちはメディアによって多すぎる健康についての情報を与えられて大いに脅されているために色々と心配になって過剰に医者にかかってしまうのだから。

要するに、これまで無数のエコロジストたちが高らかに叫んできた理想論:「一人一人が不便な生活に慣れるちょっとの努力をすれば環境汚染がくいとめられるでしょう!」という絵に描いた餅みたいなこと(そもそもそれをどうやって実現する?一昔前に戻る?そんなことどうやって実際にどのように実現するか言って御覧なさい、と突っ込まざるを得ない空論)が、たったの数週間でまさに実現してしまった。便利すぎる社会を支えるために人々が苦しい思いをして頑張っている日本社会に、もしこのことが起こったら、最初はワーっとびっくりし、たくさんの人が行き所のない憤りに熱くなってしまうかもしれないが、そんなこともすぐに過ぎよう。それが生活として定着したとき(人は一定時間以上その営みを続けていればどんな事にも必ず慣れてしまう)、生きることをまた違って考えられるようになるのではないかと、真面目に思う。

最後に、「この騒ぎが終わったら」「これが収まったら」「元の生活に戻ったら」「通常モードになったら」などなどの言い回しは、メディアが/政府が/市長が/社長が/先生が/親が/家族が、私たちをなだめすかそうとしている時の欺瞞に満ちた表現に過ぎない。それが万が一心から発せられていたとしても、である。ある意味で「この騒ぎが終わ」り、「これが収ま」ったように見える日は必ずやってくるが、それは「元の生活に戻」ることや「通常モード」(それ以前にそうであったという意味での)を私たちが取り戻すことではない。

人間は80年くらい生きる生き物で、これは長いとも短いとも言えるが、刺激が与えられれば、生き延びるために可能な限り素早く適応していく。個体の集合である社会や国家が、したがって、個体のキャパシティを無視したはるかに長いスパンで考えていくことはないだろうと思う。数ヶ月の経験もそれが決定的なら刻印される。それを経験していない以前に戻るということはあり得ない。経験とは生きることで、我々の身体は不可逆な時間を生きている。ブリュノ・ラトゥールなど著名な理論家も「この機会はチャンスなのだ!」みたいな言い方でインタビューを受けたり記事を書いたりしているが、私はそれはメディア的パフォーマンスで、「ポジティブに活かさなきゃいけない絶対の好機だよ!さあ、変わって行こうよ!」みたいなことを意識せよと叫んでいるとは思っていない。そうではなくて、彼らが言うのは、「そうなってしまいましたよ」程度のことだと思っている(どうなってしまったかを項目をわかりやすくまとめてくれはいる)。活かす/活かさない、なんて自由なものではなくて、私たちに選択肢のないもの、だと考えている。受け入れるのみ、というと、いやいや能動的に働きかけるべきポイントがたくさんある!と批判を受けそうだが、もちろん抗うべき項目があるのは認める。それでもやはり、戦う相手など本質的にはおらず、ただ生きているのが続いていくだけである。

2020年4月17、18日
大久保美紀

09/29/19

田房永子『ママだって人間』というマンガ

田房永子さんの漫画、『ママだって人間』を読んだ。ちなみに、彼女の漫画は自伝的で、互いの漫画は彼女という一人の女性を巡って展開されるので自ずと他の漫画で描かれた人生の一コマとも相関し合っており、私はこれまで『母がしんどい』と『キレる私をやめたい』を読んでいて、特に、『母がしんどい』は、彼女の人生の様々な局面で問題になってきた心の問題の根源である、母との人間関係とその分析が描かれており、それ以降の漫画の中でもお母さんとの問題とそれが彼女に与えた影響の話はずーっと出てくるので大事な作品ではある。

『ママだって人間』は、痛快でありつつ、彼女の珍しいキャリア(女性でありながら男性作家の中でエロ漫画家をしていた)ゆえに性に対してここまで描けるのか!と驚かされる内容となっていて、彼女がこんなキャリア持ちじゃなかったら、これらの悩みはここまで笑い飛ばせなかっただろうなと思わせる強かさが魅力の作品だと感じた。ただのフェミニストの功法じゃない、ガチガチにデフェンス固めて真面目すぎる顔して議論するんじゃない、フェミニスト的正論を敢えてサラッと言い得ていて、極論も言ってしまってみて、自らがダメだったところもさらけ出しながら、読み手どう思うよ?と考えるように促している感じだ。

フェミニスト的視点での分析はもちろん素晴らしくて、そうですよね!!と全身でうなづきたくなる下りとか、これ男も読めばいいのにと本気で思う鋭い指摘が続く。

漫画という手段は、素敵だなあと率直に思う。

個人的な、そして言い訳みたいな話だが、この数ヶ月出産後の生物的な問題か単に怠惰なのか両方か、小難しい文章を読んでもよくわからない。小難しい文章も書けない。曲がりくねった表現はわからずに、まっすぐに飛んでくる内容しかキャッチできない。頭が働かないのに加えて時間もない。時間はたっぷりあるのだが、集中して何かを読むまとまった時間みたいなものが全くない。漫画だったら海外で電子書籍で購入して、ガーッと読んで、もう一冊買って、ガーッと読み終わって読み返して、考えてまた読み返して、ということが一瞬でできてしまって感動した。それは単に漫画を読むのが読書に対して簡単だということではなくて、彼女の漫画は十分に説明的で思索的でもあり、しかも個人的な問題について綴っているので、それが大変わかりやすく感じられるということは、彼女の物語り方が大変巧みだということの現れなんだろう。

『ママだって人間』には、子育てに奮闘する中で、彼女がひたすら立ち向かう自身の問題が歯に衣着せぬ感じで描かれる。それらはユーモアたっぷりに演出されるけれども、依然としてリアルで深い。

いくつか大変上手だなあと感心した描写について取り上げてみよう。

<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>問題。なぜしばしば女性が育児をするのか、ホルモンの問題、生物的な問題、オッパイがあるから、色々な理由を挙げて、「結局そのほうがいいんだよね、女性自身もそれが一番満足できる状況なんでしょう」と、つまり<その結果は女性の自主的な選択から導かれている>かのような理解が世の中に蔓延っている。が、彼女は<出産後、ママたちがマリオネットになっちゃう>という言い方で、これを否定する。自主的に赤子にくっついていたいんじゃなくて、体がそのようにプログラムされていて選択肢はない、だから、それを放っておいて、疲れ切っているのを見て見ぬ振りをしないのでなく、積極的に割って入ってきて育児に協力するような姿勢が望ましいのだ、と。

これは、のちに取り上げられる、<全く助けないおじいちゃん(ロボットじじい)の作り方>にも繋がっていて、漫画では、ベビーカーや抱っこ紐で赤ちゃん連れで外出した際に遭遇する人々の対応がコミカルに描かれている。女性は基本的には親切にしてくれる、おばあちゃんも割と優しい。そんな中、彼女は、おじいちゃん(優しい人もいるが)に着目する。エレベーターで、ベビーカーの乗り降りに時間がかかることなども考慮なし、扉を配慮なく閉める、自分は動かず指示を出す、手伝ったりは絶対しない。彼女はこういったおじいちゃんの不可解な不親切行動の原因は、彼らが過ごしてきた育児(しない)経験にあると指摘する。さらには、育児しなかったので困っていたり助けるべきポイントがわからないのにとどまらず、彼らが家庭の中で自分の場所を見つけることなく(家では何もせず)、仕事に専念してやがて定年し、彼らは日常生活の多くを妻に頼り、他者への配慮に欠ける<ロボットじじい>になると彼女は分析する。

<理想的に語られる妻像と話が噛み合わない>下りも言い得て妙である。本当はそれぞれが異なる個人であるママたちは、ロボットじじい予備軍の夫たちの口から、あたかも唯一の像であるように語られる、<子供と一緒にいたい><育児に専念する><赤ちゃん可愛いから文句も泣き言も言わない>妻のイメージ。さらには、女性たちも女性たちの側からこの<枠>を作って行く傾向にあると彼女は指摘する。例えば、<母性で全て乗り越えられる><赤ちゃん可愛いから大丈夫><陣痛と出産は超痛いもの><母乳で育てるべき>といった風に。この女性の側から<枠>生成システムの仕組みを変えるのは難しい。なぜなら、共通の物語を創出することによって、自己の不安を相殺してしまおうとする女性によって引き継がれているからだ。

また、典型的な問題でありつつ、男性側からの理解は必ずしも簡単でないのが、<夫に(破裂的に)キレちゃう>問題。(←このキレちゃう問題はやがて、子供にもイラっとした経験から、より真剣にケアされることになる。『キレる私をやめたい』に詳しい。)生物的なレベルでの精神と身体の均衡破壊とそれに続く心身の問題や注意が子供へ向かう制御不可能の変化などは、今日あるレベルで自明のこととして説明されているにもかかわらず、必ずしも少なからず夫婦間で問題になるのは、やはり結局のところ、どのくらい変化するのかについての理解不足が原因である。性欲の問題も然りである。だからといって、何をいっても何をしてもいいわけでは勿論ないが、現在もなおこれらの事実に対する知識や理解は十分でないのではないだろうか。

この漫画を読んで、この漫画にある意味で救われるのは、おそらく「ママたち」なんだろうなあ、と思うが、もしこの漫画に描かれたことが、当事者の「ママたち」を超えて、広く理解されるようなチャンスを得たらいいだろうなあと思うし、そうなることこそが本質的に問題を解決するために必要なんだろうなあと思う。少なくとも、例の<ロボットじじい>を世の中にこれ以上送り出さないために。

04/16/18

Sophia Coppola あどけなさの美学 ユリイカ ソフィア・コッポラ特集

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『ユリイカ』の2018年3月号ソフィア・コッポラ特集に、論考を書かせていただいた。論考のタイトルは「ソフィア・コッポラ作品における(美/)少女表象ー少女プロパティとしての<あどけなさ>の美学、あるいはその希望と絶望」。詳しいことを言わないときは、スカーレット・ヨハンソンのあどけないパンツ姿の破壊力について書いた、とはしょって説明することにしている。実際にはもうちょっといろいろなことを書いたつもりだ。

こちら! http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3143

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ソフィア・コッポラ作品といえば、音楽がおしゃれだし、ファッションもおしゃれだし、女優が美人だし、さらには出演する女優たちが少女時代(10代前半とか半ばとか本当の少女時代)からいくつかの作品にまたがって異なる役を演じて行く間に大人になっていく様子を追うのもなかなか魅力的なのだが、実は、小説からの映画化とオリジナルのストーリーと、実話を基にした着想と、異なる性質のオリジンの作品を時代順に見ることで見えてくるものもあるし、やはり違うものとして考えないとわからないこともあるだろうと思う。

小説の映画化ではヴァージン・スーサイズもビーガイルドも本当に共通点が多い。というのもストーリーの性質上そこにソフィア・コッポラ性を織り込むのであればきっとそうだろうなと納得のシーンしかない。そういった意味でビーガイルドはソフィア・コッポラ作品として実はそんなに素晴らしいとは思えずにいる。もちろん、「らしさ」の点で爆発してはいる。

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「マリー・アントワネット」も「The Bling Ring」も実在の人物や実話に基いた話がコッポラ的解釈を通じて語られていくのだが、「マリー・アントワネット」におけるその時代的な王族女性の役割を描いているにも関わらず、それがあたかも今日的な女性の抱える様々な問題にもつながっていくように感じさせる描写は巧みだと感心してしまう。The Blign Ringでは、主人公でスター宅空き巣犯のリーダーであるレベッカの<On>(犯行がうまくいっている期間)と<Off>(身を隠している期間)の落差が素晴らしいと思った。

以上はほとんどユリイカの論考の中では口にしていない事たちだ。たくさんのことが言われることができるだろうし、実際、このユリイカ特集では他の執筆者の方の論考もとても興味深かった。
もしよかったら論考を読んでみていただけるととても嬉しい。
シャルロットのパンツ姿と半開きの口の破壊力についてのテクストであり、ファンタズムを暴いてぎゃふんというのを聞きたいなと思って書いているテクストである。

04/16/18

Banksy / バンクシー @amsterdam 2018

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イースターの週末に、ゴッホ美術館へ行くのが一つの大事な目的でアムステルダムへ赴いた。ゴッホ美術館は、美術館が集まっている地区にあり、全く幸運な巡り合わせで、Mocoで開催中だったBanksyの展覧会を観ることができた。
Link: https://mocomuseum.com/exhibitions/

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バンクシーは、ラクガキ(無断でペイントを行う)「ストリートアーティスト」として今や世界に名を轟かせているがご存知のように個人としてのアイデンティティは隠しまくっていて、今となっては「ストリートアーティスト」と呼ぶにはどうなのかと思うほどの大規模プロジェクトを手がけているにも関わらず、その素性は知られていないことになっている。

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反戦争や政治的なメッセージを込めたラディカルなペインティングで知られるバンクシーだが、美術館での展示となるとそれはまた奇妙なものであって、いうまでもなく美術館で展示するということは、あるいは展示空間で作品として展示するということは、コンクリートの壁を切り取ってきてそれをガラスケースに入れたり、工事の時に用いる三角コーンや道路標識なんかもそこから取り除いてきてしまって「バンクシーのペインティング」として鑑賞するということで、グラフィティとかストリートアートがそれらたることを考えるとなんだかな。とも思わざるを得ない。

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様々なプロジェクトで知られるバンクシーだが、反戦や政治批判に加え、資本主義社会批判や風刺のペインティングも多い。同時に彼のアイディアは世界中で反復され、多種多様なグッズと化して消費のサイクルに取り込まれ、このような大きな美術館での展覧会にで入場料を支払った人々によって鑑賞される。

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文脈からひっぺがしてきたものということを考えると、そもそも我々が鑑賞する多くの彫刻や宗教界がや肖像画なんかももちろん文脈からぴっぺがされて冷静な観衆によってまじまじと見つめられることになったモノたちだ。

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それでもやっぱり、描かれたコンクリの壁を切り取って、それをコンテナで送って、その労働力とか費用とかを思い、アムステルダムの美術館地区にガラスケースに入ってその分厚いコンクリート片が大事に入れられていたりすると、美術は改めてハリボテの遊園地みたいな仕組みで演出されているのかなと思う。いけなかったけど、Banksyが2015年に手がけたイングランドのDismaland、経験してみたかった気もしてくる。

04/15/18

Bettina Rheims « Détenues » 勾留された女性たち

Bettina Rheimsの展覧会 « Détenues » (勾留された女性たち)がChateau de Vincennesで開催中である。
Bettina Rheimsは、1952年生まれのフランス人フォトグラファーで、1978年よりスタートするキャリアの中で、ストリップティーズやフェミニンなモデル、トランスセクシュアルなどの特定の問題意識を突き詰めている。
今回のシリーズでは、勾留されている女性たちのポートレートシリーズをヴァンセンヌの城内のチャペルで展示している。

Links:https://www.monuments-nationaux.fr/Actualites/Exposition-Detenues-de-Bettina-Rheims
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勾留された女性たちは、しばしば夫殺しやパートナー殺害など重大な罪で刑務所内で長い年月を過ごしてきた/過ごしていく女性たちで、展示には写真の他に、Bettina Rheimsが受刑者たちとのやりとりを通じて知った彼女たちが刑務所に至った具体的なストーリーや、受刑中の彼女らが日々思っていること、面会に来る家族とのやりとりで印象に残っていること、また、Bettina Rheimsのようなアーティストが写真を撮りにくることについて思うことなど、赤裸々な会話の断片が展示されている。

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彼女らの大きなポートレートは一枚一枚がとても違っていて、彼女らは装い、化粧し、ポーズをとり、それぞれのポートレートは本人の下の名前がそのイメージのタイトルのように記載されている。

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展示された会話の断片にこんなくだりがある。
「私たち囚人が写真を撮られるというとき、それは決まって他の誰かのためだった。子供や夫、家族のため。誰も、それが自分のためだなんて言わない。例えば自分という存在の希望を大きくするために、自分自身がより美しいと思うために。写真は常に誰か他の人のため。生きているという証拠を残さなければならないから。」

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女性たちの表情もまた様々である。笑顔の女性もあるし、深刻な表情の女性もある。観る者にその苦悩を感じさせるポートレートもある。

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Bettina Rheimsの大判のポートレートには、肉体の隅々がそこにあるのが平面であるということを疑いたくなるほどのキメの細かさで観る瞬間がある。肌の質感が、そこに触れてしまったかのように浮き彫りになる感覚。

展示されたテキストが浮き彫りにするのは、彼女らがなぜそこに閉じ込められているか、そこには状況の不条理や、そうする他にどのような選択肢があったのかという行き場のないやり切れなさや、行き場のない声がこだまする。

刑務所は孤独な社会であり、囚人たちは文字通り多くの時間を四辺が壁によって囲まれた独房で過ごす。孤独な時間、存在しない自由。十数年や何十年という繰り返される日々を閉じ込められて過ごすことを安直に想像することはできない。ポートレートを撮影するということすらも相当シビアな仕事であったに違いないと思う。

04/15/18

Martin Margiela 1989/2009 @palais galiera

Martin Margielaの回顧展がパリのガリエラ美術館で開催中である。
会期:2018.03.03 – 2018.07.15
本展覧会は、アンチ・ファッション、あるいは異なるファッションを実験し続けたデザイナー、マルタン・マルジェラの30年間(1989年から2009年まで)を包括的に振り返る大変貴重な機会である。マルジェラはメディアにほとんど姿を表さないし、インディヴィジュアルとしてとことん謎めいたアイデンティティを貫いているが、世代としては1957年ヘンク生まれ、アントワープ王立芸術学院に学び、アントワープ・シックスと同期である。そのスタイルには、ボロルックあるいは黒のアンチファッションを作った川久保玲の影響や、フラットの構造にこだわった三宅との共通点を感じさせるアイディアなど、パリのモード界で活躍した日本人デザイナーとのインタラクションが見て取れる。そもそもマルジェラの足袋ブーツは基本ルックといってもいい。履いたことが無いのではき心地がいかなるものかわからないが、硬いブーツで足袋的に足指が割れている履物とはどんな感覚なのか、ちょっと興味がある。

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私がマルジェラに興味を持ったのは、言うわずもがな著名なカビドレスのコンセプトを知ったのがきっかけだ。白いドレスやシャツにバクテリアや菌類が培養されて時間がたつにつれて展示された衣服たちは紫とか茶色とかオレンジとか黄色とか、美的な点から見ても美しい色彩を帯びて朽ちて行く。これはロッテルダムMUSÉE BOIJMANS VAN BEUNINGENで1997年に発表されたコレクションだった。
当時のリベラシオンの記事がこちら:http://next.liberation.fr/culture/1997/08/04/margiela-du-moisi-dans-le-froufroule-couturier-expose-un-vrai-projet-artistique-a-rotterdam-martin-m_213787

また、関心を持ったのは衣服のありうべき形態のラディカルな覆しである。小学生の時、古着リメイクが流行し、いわゆる個性派ファッションというものに憧れて、古くなった服を切り刻んだり縫ったり組み合わせたりした。着られるものもあったが、着れられなくしてしまったものもあり、そんな時は自分の技術と計画の浅はかさに嫌気がさしたが、もっとも深刻だったのは、自分が着られると思っても世間的に社会的に着られない状況に出会った時である。具体的にいえば、着てたら変だといわれ、そこで頑張ればよかったのだろうけれどもそんなに変ならば仕方ないかと折れてしまったこともある。マルジェラの提案するスタイルを改めて見直すと、服を着ることに希望を感じる。

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アメリカの昔のものだそうだが、非常に大きなサイズのトルソ。またマルジェラは梱包に使うビニールシートやスーパーのビニールシートみたいな着心地も目的も無視した、しかし面白い素材を発見し続けた。

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誰がタイツやストッキングは隠されていないといけないと決めたのか。タイツでシャツインするスタイル。

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有名な、靴下から作るセーター。靴下はむしろセーターを作るためにあらかじめ存在していたのではないかと疑いたくなるほどにずば抜けた発見だと思う。マルジェラはこの手の、既に出来上がった形の組み替えや分解、誇張やデフォルメを得意とした。

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イッセイミヤケを思い出させる平面トレンチ。簡単そうに見えるが実際によく考えてみるとやっぱりそんなに簡単にはできそうにない。でもそれを纏う感じは大変きになる。

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どうしても好きなのは袖ずらし(袖の四本ある)トレンチ。袖は腕を通すという目的のためにあり、腕の形をとっていて、我々は腕が二本あって、という全てが身体のために計画されているのが基本的な衣服のあり方である。それを覆そうとする試みには色々なジャンルがあるように思える。例えば、全く見たこともないフォルムを作ってしまおうと頑張るというのは、割と常套手段だろう。マルジェラはそれに対して、何も作らないことを選んだように思える。ポケットとか袖とか、襟とかウエストとか、作り方がわかっていてそれがなんであるかが誰にでもわかるものが急に別の目的で使用されたりあるいは目的が失われたりする。

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新しいものを作ろうとすることの多い芸術的な分野にあって、作らないことを選ぶのはそれだけで反抗的ですらある。リサイクルや既製服の組み合わせのアイディアを提唱しつつも、ある矛盾があるとするとすればそれは、ファッションの提案者としてそれを発表し続けることはそれだけでおぞましい材料を使い、ゴミを出し、労働力を貪って、消費社会に貢献することだろう。

マルジェラの展覧会は、服を着ることや着るものを選ぶこと、着たいものをいかにして得るかを久しぶりに思い出させてくれた気がするし、そして着ている身体が社会に現れることのテンションや摩擦を少しだけ楽にしてくれたような気がする。

01/13/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.2

本記事は、12月28日および12月30日に大阪の日常避難所511において開催された、miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)です。講演前半においては、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flânerie »(そぞろ歩き)に関して、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索が主題となり、Robert Filiouや谷崎潤一郎、Francis Pongeらの思想からの引用を紹介しながら、考察を行ないました

講演会の後半では、このような制作の背景を踏まえた上で、具体的に作品とそのコンセプトを解説しながら、「モノの記憶」、「身体の記憶」、「物々交換」、「動物―植物ー無機物間のインタラクション」という主題について考察しました。

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Objets cultes 

« Culte »は、宗教的な「カルト」である以前に第一義的に、崇拝や敬愛を表す。Objets cultesはしたがって、モノに対する崇拝、あるいは注意を払われるべき物に関する一連のコレクションである。関心を向けるのは、我々が普段思いを寄せることすらほとんどない道具のくたびれた様子だとか、使用によってほころびた状態、人々のエネルギーが物体に何らかの変化をもたらした形跡や、時間の経過をそのヴォリュームに留めた数えきれない「オブジェ」たち。

たとえば摩耗しきったスコップや、人々の流れを記憶に留めるメトロの出口(最も人が通るドアの表示がすり減っている)、歩き方のクセが現れる靴の底や、画家が筆を洗い続けたことによって穴の空いた石けん。それらのオブジェは、何らかのエネルギーを受けて、変形したり摩耗したり本来の機能を失ったりしている。

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*「物々交換」の実践

« flânerie »(そぞろ歩き)の二つ目のシチュエーションに、se perdre(道に迷う)があった。宛もなく歩き、見知らぬ人に出会う。目的地への最短ルートを急ぐことと対極にある、彷徨い歩いて見知らぬ人々と出会って会話をするような行為。Objets cultesとしてコレクションされている物には、アーティストがオブジェの持ち主と交渉して物々交換した物が幾つも含まれている。アーティストは持ち主に、くたびれたオブジェを模倣して作ったレプリカあるいはオブジェの弱点を修正して作った補強されたレプリカとオブジェを交換してくれないかと提案するのだ。「物々交換」については、またの機会に焦点を当ててじっくりと考察してみたい。

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Expérience hasardeuse

偶然的体験は、化石や動物の骨の鋳型、絵の具の軌跡、動物の骨や奇妙な環境下に栽培された植物などを含む。このコレクションは、インスタレーションとして展示された。

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Chitine-kératine-céllulose

chitineは生き物の抜け殻を構成しており、kératineは髭や爪のような死んだ表皮細胞を構成している。アーティストは、蝉の抜け殻をコレクションした。蝉の種類にもよるが、一般に知られているように、蝉は成虫としては非常に短い期間だけを生き、それ以外の生の大半は、脱皮をしながら木の中で過ごす。アーティストはこれについて、木と蝉の一生のアナロジーを見いだし、インスタレーションとして展示した。また、2013年より三年間、12ヶ月ずつ髭を伸ばし続け、各年のケラチン質をラボラトリーで分析するために保存している。ケラチン質は、食生活や生活環境、ストレス状況など心身の状態を反映する他、金属(水銀、銅など)や放射能の影響を受けることが知られている。生の記憶が身体から切り離された形で、解読を待っている。

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cellule babélienne

“ alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues (en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

バベルの塔としての細胞は、デッサン、石彫刻など多様な作品形態をとりうる、バベルの塔という一つのコンセプトを共有する作品群である。人類は世界中で異なる言語を話すにもかかわらず、遺伝子のコード、つまりは塩基配列のパタンが基本構造となっている遺伝情報を翻訳する「自然の言語」は異なる言語を話す人々の間でも共通なのである。遺伝子言語は、RNAおよびDNAに基づいていて、それは太古から変わらない化学のバベルの塔を形成する。
lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed. albin michel 1986.

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デッサンは、50cm×60cmのものと、さらにカオティックで複雑なバベル的細胞の建造物を表した2m×1.5mの巨大なデッサンがある。石彫刻では、植物―動物ー無機物のインタラクションが象徴的あるいは物理的に実験されており、2015年より生き続け、現在も変化し続けている作品である。

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miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)をお読みくださって有難うございました。十分に言及できなかった「物々交換」や「禅」的思想と表現の関係については、また番外編で掲載したいと考えています。

フェイスブック、Twitterやブログを通じて、もしご質問やコメントがあればどんどん声をかけてくださいね。

最後に、今回企画を引き受けてくださった日常避難所511リーダーの田中さん、28日オーガナイズを中心にしてくださったみゆきちゃん、30日の段取りをたくさんしてくれた阿曽沼くん、またお料理や設営などたくさんお仕事をしてくださった皆々様、お越し下さった皆様、本当に有難うございました。 miki okubo & florian gadenne

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01/11/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.1

miki okubo & florian gadenne

2016.12.28 and 12.30

12月28日および12月30日、大阪の日常避難所511において、miki okuboとflorian gadenneによるトークイベントを行ないました。講演において主題となったのは、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flâner »(そぞろ歩き)に関する考察、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索。

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flâner, flaneur, flanerie ぶらぶら歩く、そぞろ歩きをする人、そぞろ歩き。

今日の生産性を重視し時間を無駄にしない事を善しとする社会では、目的なくぶらぶら歩くことは否定的に捉えられる典型的な行為の一つでしょう。時間を無駄にしないために、予め目的地までのルートを調べ、交通手段を調べ、最短の乗り換えを調べ、インストラクションを遂行する。私たちの日常はそのような最短距離の目的地間移動によって構成されています。そぞろ歩きによって私たちは何をするのか。これについて、florian gadenneは3つのシチュエーションを見いだしています。

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FLÂNER, verbe intransitif.:ぶらぶら歩く、そぞろ歩きする (仏、他動詞)

Étymologie. et Histoire. :語源と歴史
1.1638 « paresser, perdre son temps » (D. Ferrand, La Muse normande, éd. A. Héron, t. 2, p. 177):ダラダラする、時間を無駄にする
2. 1808 « se promener sans hâte, au hasard » (Hautel).
« marcher, se précipiter étourdiment » (De Vries Anord.)
« se promener » (Falk-Torp, s.v. flane). :急ぐことなく散歩する、偶然に任せて歩く /焦らないで歩く

そぞろ歩きをめぐる3つのシチュエーション:
シチュエーション1 見知らぬ場所を発見する ー散歩、自分を取り囲んでいる環境の観察(表面上の観察→細部の観察)、ものの時間の経過による摩耗、しみやよごれ、あらゆる物が時間と空間においてどのように摩耗しくたびれるのか。

シチュエーション2 Flanerie(そぞろ歩き)は、perdre le temps(時間の無駄) ー現代社会において私たちは日々「時間を無駄にすべきでない」「時は金なり」といった強迫を生きているが、se perdre(道に迷う)ことを本質とする“そぞろ歩き”は、金銭を基準としないかつての物々交換に似た事なるechelle(価値観)に基づく。

シチュエーション3 このような “そぞろ歩き”の一つの結果は、環境(山、自然、都市)から探し集めて来た様々な物がごちゃごちゃと堆積するAtelier(アトリエ)の形をとりうる。動物の骨、すっかり乾燥した物体、死骸、泥の塊や出来事の軌跡を私たちに伝えるオブジェ。それらの集積は、意味を成し、詩的なヴィジョンを私たちに与える。

以下に、このそぞろ歩き的思考によって導かれる表現活動についての解釈、あるいは芸術行為と我々の生死についての考察を、幾つかのテクストを引用することを通じて表す。

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Notion de la participation:参加の概念
« La principale différence est que je ne suis pas un peintre qui à l’ aide de pigments va créer une peinture. J’utilise le lait et j’utilise le pollen ou la cire d’abeille, que je n’ai pas créé. Je participe aux plus belles choses dans le monde, que je ne pourrais jamais créer. Je ne pourrais jamais créer cette beauté du pollen. Donc, la tragédie pour moi serait si je tentais de faire une peinture de pollen. »
Wolfgang Laib

私は、絵の具の力をかりて、“peinture”(絵画)を作る“peintre”(画家)ではない。私は、牛乳や花粉や蜜蝋を使って描くがそれらは私が創り出したものではない。私は世界に存在するもっとも美しいものに“参加”しているのであり、それらを産み出しているのではない。例えば、花粉の美しさなどは私には到底作り得ないものだ。だから、もし私にとって最も悲劇的なことがあるとすればそれは、花粉の画料を産み出そうとすることであろう。
Wolfgang Laib

Signification de l’art:芸術について
« l’art c’est ce qui rend la vie plus intéressante que l’art »
Robert Filiou

芸術とは、芸術そのものよりも人生を興味深いものにしてくれる何かである。
Robert Filiou

mémoires du temps, ou effets du temps:オブジェの記憶
« effets du temps », voilà certes qui sonne bien, mais, à dire vrai, c’est le brillant que produit la crasse des mains. les chinois ont un mot pour cela, « le lustre de la main » ; les japonais disent « l’usure », le contact des mains au cours d’un long usage, leur frottement, toujours appliqué aux mêmes endroits, produit avec le temps une imprégnation grasse ; en d’autres termes, ce lustre est donc bien la “crasse des mains”. »
junichiro tanizaki – éloge de l’ombre.

われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。
陰翳礼讃、谷崎潤一郎

égard et regards des objets:モノによる配慮、モノによる視線
« Nous ne sommes pas seuls ici. Nous sommes loin d’être entre nous. Permettez-moi, Mesdames et Messieurs, d’invoquer, en même temps que je vous invoque, toutes les choses présentes dans cette salle, ces choses à qui une fois de plus nous avons ôté leur silence, ces choses que nous traitons, que nous avons traitées jusqu’à présent avec la désinvolture et la brutalité coutumières à cette espèce de sauvages à leur égard que nous sommes.  Je ne sais pas si je me fais bien comprendre; je parle de ces murs, des lattes de ce parquet, je parle des clefs que vous avez dans vos poches, de tous ces objets qui nous ont accompagnés, et qui nous ont attendus ici, et qui sont ici avec nous, et qui doivent par force se taire – peut être à contrecœur – et dont nous ne tenons compte jamais, vous le savez, jamais. » 
                                             Francis Ponge, Méthodes, Tentative Orale, 1983, pp. 250-251. 

我々は全く持って我々自身で存在しているのではない。我々だけで自律してるのでもない。この部屋にあるあらゆるオブジェ(モノ)は、少なからず我々がその沈黙を破った事のある対象であり、我々が普段は習慣化から思うままに時には乱雑に扱ったり利用しているモノであると同時に、我々がモノたちの配慮の対象になっているとも言えるのである。例えば、壁や床の木の板、ポケットの中の鍵など。それらは我々と共にあり、沈黙するように強いられ(時には嫌々)、そして我々はその事実について盲目であり、絶対に知り得ないことなのである。
Francis Ponge

Le Zen, comme non-raison ou raison inopérante:非理性あるいは無益なものとしての禅
« Le Zen ne se saisit pas par la raison. Il est avant tout du côté du non sens, en affirmant la présence simultanée des contraires (ordre-désordre, vie-mort, nécessité-hasard, etc.). De cette manière, la pensée Zen est porteuse de paradoxes qu’elle dévoile constamment comme inopérant. » 
Ullrike Kasper – Écrire sur l’eau – L’esthétique de John Cage

禅とは、理性によって摑みとることのできないものである。それは何より先に、意味を成すものにあらず、今ここにある相反するものの存在を肯定する。例えば、秩序ー無秩序、生ー死、必然と偶然など。このように禅を考えたならば、禅とは、矛盾を孕んでおり、それ自体として役に立たないものである。
Ullrike Kasper 

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講演会では活発な質問や議論が行なわれ、参加していただいた皆様には非常に感謝しています。
次回の記事では、この前半の部分に続く講演会後半の作品紹介についての記事を掲載します。どうぞお楽しみに。

florian gadenne :  http://floriangadennecom.over-blog.com
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