08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
ありあまるごちそう2

写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1

01/7/16

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich » スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ, チェルフィッチュ

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich »(スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ)を観てからモゴモゴ口からでそうで出てこないことがあるので、しかしそれは口からぽろりと出してもいいのだけれどもそれを言ってはお仕舞でしょみたいなことかもしれんと思って遠慮して言わなかっただけかもしれないので、もう1ヶ月半ほど経過したこともあり、そろそろ書いてみたいと思います。

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スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチは、日本のコンビニ文化を舞台とした物語です。岡田利規主宰の演劇カンパニー、チェルフィッチュによる公演はパリ日本文化会館において行なわれました。コンビニをめぐる話ですが、勿論、日本の社会問題である若者の失業あるいはニート問題とか、貧困・格差の問題、働き方の変化や生き方の変化、都市生活の不穏や孤独、現代社会の隙間なく行き届いた「光」がもうそれ以上届くところはないようなある種の絶望感、といった主題を鋭く適確に表現していると思います。

所謂「日本人らしさ」も随所で浮き彫りになります。無論カリカチュアですから、ああ、これやるよね、ああ、こういう態度するよね、という必ずしも観ていて嬉しくはならない「典型的な仕草」などで「日本人らしさ」は描き出されていきます。たとえば、ドングリの背比べ状態のなかで制裁し合う若い従業員の姿とか、目を合わせることなくしかしながら丁寧に話す対人関係とか、我慢は極限に達して「怒って」いるのにちっとも声を荒げも行動にも出すことなく言葉だけ非常に暴力的なことを録音テープが再生されているように繰り返す姿だとか。

この公演中非常に不快だったことが一点あります。それは数列前で観劇していた日本人でないマダムが公演の間中声高らかに爆笑し続けていたことであります。どういったツボで爆笑しているかと言うと、それはまさに面白いだろうな!と狙われたタイミング、非常に正しい箇所において、彼女は模範的に爆笑しつづけていました。その楽しそうな様子を見ながら、ふと、このコンビニを巡る日本社会の心の問題や社会の問題、経済の問題や日本人らしさの問題を描く作品が、どうしてわざわざパリだとか、他の国の都市において上演されて、共有されて、いったいそれが求めていることあるいは残しうるものって一体何なんだろう?とナイーブな疑念に取り憑かれてしまいました。

このマダムが爆笑するように、まあ確かに滑稽だし、コンビニもオカシイのかもしれないし、誇張されてはいるもののしかし真実であるところの日本人らしい対人態度や働き方や喋り方や所作や我慢の限界の越え方も可笑しいのだろうけれども、そもそもなんの期待を込めて、あるいは価値を認めて、この、言ってみれば「ミクロ問題」を世界にさらしているのだろう?と。

つまり、これらの問題は重要な問題で、指摘の仕方は適確だし、問題提起も素晴らしいと思っているけれども、それらにたいして何かするのは海外において問題提起して種をばらまかれた先に期待するのではないだろうし、日本の問題であるに違いないと思ったためで、より分かりやすく言えば、なぜこれを海外で見せるのか、見せて何がしたいのか、あるいは何ができるのかを疑っているのだと理解しています。見せるだけでいいじゃん、という風には思いません。見せるからには見せる意味がないと行けないと思います、意味のある、目的が少なくともあってほしいしあるべきだと信じます。そして、それは、放り投げるとか共有するだけでなく、それよりも先にあるものを見据えてほしいとも思います。

演劇そのものからは外れた話になってしまったのですが、書かなければいけないと心に残り続けていたことを書きました。

最後に、もっとも感動的なのは最後に店長がおキレになるシーンです。あれは見事です。今日人々はたしかにあのようにキレます。呟くように、節度を持って、しかし溢れ出すように、それはホンモノのカセットデッキのように。

01/7/16

春画展 @永青文庫 / Peinture de moeurs, Exposition de Shunga

 

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今回の日本滞在では、関東で二つだけ展覧会を見た。春画展はそのうちの一つである。春画展がたとえ期待はずれの展覧会であったとしても、訪れたことを後悔しないかもしれないと、ぼうっと思ってしまうほどに、お天気に恵まれた素敵なお散歩であった。訪れられた方はご存知のように、撮影が一切できない展覧会であるために、到着までの写真しかない。が、到着までの道のりの写真が最も素晴らしいように思われる。

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繰り返すまでもなく春画展は、細川家のコレクションをベースに、会期中の入れ替えがあったけれども総数にして120点あまりが国内で「美術展」として鑑賞される機会となった点で国内では大きく着目された。なぜなら、日本では「芸術と猥褻」をめぐるなんだか不明瞭かつ政治的なあるいは戦略的な議論は絶えず創作とは別個に大手を振るい続けていて、近年も記憶に新しい幾つかの「猥褻」をめぐる現代芸術の状況などを考え合わせるにつけ、「いやー、日本でついに春画の展覧会とはすっごいな!」とか言ってみたり、「いやいや、大英博物館やベルギーでの春画展を見てみろ!海外では当たり前に春画は美術として鑑賞され高い評価を得ているではないか!なぜ日本国内で展覧会を行なわない、そのほうが不自然だ!」とか、ナントカ、熱くディベートされたのかもしれない。

春画の猥褻さが本当に問題だというなら、ハッキリ言ってアタリマエで、隠喩に満ちた作品ならともかくも、ハッキリと性器やら体位を表してしまっている絵をガラス越しにのぞきながら、「いやいや、これは美術ですから!」なんていうのも滑稽な話だ。春画がいつ美術でしたか?春画が美術になったのは、美術館で美術品としてなんとなくハイソなものとしてこれを展示した瞬間からであり、別に、発注を受けてあるいは趣味で描かれたこういった絵が「絶対的に芸術的である」ことなど有り得ない。ここにあるのもまた、後付けの「藝術マジック」的な状況である。しかしながら、そこで使われている技術やそこに見られる画家の表現力、想像力はもちろん評価に値するのであって、メタファーやアソシエーションは文化的・歴史的観点からも常に興味深い。そのことを踏まえた上でも繰り返しになるが、「春画は藝術であるか?」などと問うことそのものが滑稽である。

混んでいて作品の見えない展覧会など皆嫌いだと思うが、私も勿論大嫌いである。とりわけ、列にならんだまま少しずつ横にずれていく、しかも「進んでください!」と係の方が絶叫しているような展覧会は恐ろしいので足を踏み入れたくない。一方、永青文庫の展覧会では、予め4つある部屋はどのような順序で回ってもいいということを告げてくださっており、ほっこりした。が、やはり混み過ぎていて、私は大概見たい作品の前でまったく動かず、順番にみたりしないので、3秒ずつ見ては左に皆と同じリズムで横歩きするなんて器用なことができずに何度も列からはみ出したところ、「割り込むな!」と2回お叱りを受け、3回エルボを頂いた。こうすることによって、ご自身もその列から抜ける自由がなくなりほんの少しずつ左側に横歩きするベルトコンベアーと化しているということを恐らくお気づきになっておられるのだろうな、と残念に思いながら、それでも1時間半くらいはゆっくり見ることができた。国内での春画展ということを踏み切られ、そのひとまずは第一歩目の道を造られた細川護煕永青文庫理事長の行なわれたことはやはり良いことであったなあと思う。

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01/7/16

売春の壮麗と悲惨 @オルセー美術館/ Splendeurs et misères Images de la prostitution 1850-1910

年末に地元北海道で再会した音楽の師匠が最近見たもので「これは!」と思ったものはあったか、と私に尋ねた。「これは!」というもの。最近みた永青文庫での「春画展」がちらりと頭をよぎったが、申し訳ないけど特段これはということもなかったな、春画展を行なったということそれ自体は素晴らしいことだとは思うけれども…とモゴモゴしているうちにそういえばオルセー美術館で帰国前に見た念願の「娼婦展」なんてそれに比べて相当素晴らしかったじゃないか、と思い出す。開幕前から相当期待していたものの開幕後もなかなか赴けず、12月の半ばにようやく訪れることができた。

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そのヴォリュームたるや相当のもので、幕開けは静かに、Ambiguïté と名付けられた項目に、Le Moulin RougeやFolie-BergèreといったスペクタクルのPrositituéesを描いたものやカフェのテラスに腰掛ける女たちを描いたドガの絵画などを眺める。必ずしも説明的ではない展覧会であるが、それでも »Prosititution »という「文化」を包括的にあけっぴろげる勇敢な展覧会ではある。Prosititutionのコードや女たちのアトリビューションを見るのも、現代的な視点からすればなるほどなかなか興味深い部分はある。

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Maisons closesの部屋がこれに続く。まあだんだん見るに耐えなくはなって来るが、メゾンの中を描こうと、そこで行なわれていることを描こうと、あるいは道ゆくPrositituéesの華やかなドレスの様子を描こうと、高級娼婦の冷たい視線を高度に演出して描こうと、結局は顧客であったり観察者であったり分析者であったりするところの人々の »Splendeurs et misères »というタイトルが象徴するヴィジョンを浮き彫りにするだけである。彼女等の世界は、常軌を逸し、それがカタギの者の世ではないという点であまりに壮麗で輝かしいものなのであり、同時にそれはPrositituéesが何たるかを本質的な意味で受け入れて諦めた女たちの生き様の、その視線や表情や体躯にすら現れる悲惨さなのである。これに惹かれる者も、これを魅了する者も、あるいは同情する者すらも、共謀者である。

L’aristocratie du viceという一連のカテゴリーでは、ゾラの小説『Nana』に登場する高級娼婦たちのような、煌びやかな世界が垣間みられる。踊り子や女優、モデルとなるような若い女たちは、特別チャンスがあれば甘やかしてくれるパトロンに見初められて恵まれた人生を送る。99%の他の女たちはそんなことにはならないことを重々に承知でそれでも踊り続ける。

最後の章では著名なEdouard ManetのOlympia(1863)が近代のPrositiutionの姿としてスキャンダラスであったことが告げられるけれども、ここまでくるとProstitutionを描く様式そのものが高度にコード化されており、無論、ピカソやロートレックら著名な画家が繰り返し女たちを描いているけれどももはや、彼女等は出来上がった物語の中の既存の役割を充てがわれたに過ぎないような、そんな表情をして立ち尽くしている。

この展覧会がぶっちぎってスゴいのは、1839年以来撮影された、現代であればポルノグラフィと呼ばれるであろう大量の写真とポルノビデオのパイオニアであるビデオ小作品を大量に「十八禁の部屋」内に仕込んだことだ。ここはオルセー美術館という世界的にももっとも重要な美術館であって、ここにおいて開催された「娼婦展」のなかで、絵画からははみ出すけれども紛れもなく、写真と映画にとって重要なプロセスとしてのポルノグラフィの資料を、惜しげもなく見せたのは素晴らしい。

この18禁の部屋の雰囲気はなかなかよくて、しかしあまりに身も蓋もない性描写に、<エレガントな美術展>をゆっくり鑑賞しようとカップルでやってきた人々はなんだか落ち着かず、必ずどちらかはもう少し見たいと思っているにも関わらず「もう行こ…」と相方に言われて退散する羽目になっている。1人で来た鑑賞者は他者の目も気にせず、覗き穴から満足するまでフォトグラフィーを見つめている。贅沢な時間だ。

展覧会カタログは基本的に買わないことにしているが、針のふれた部分のある展覧会だと思ったので購入した。また、「売春のイロハ」(?) »Abécédaire de la prostitution »も購入してしまった。

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10/3/15

鹿児島大学法文学部レクチャー&ワークショップ「アーカイブと自己表象」

鹿児島大学法文学部レクチャー&ワークショップ
開催2015年9月2日
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「あっ!」という間に1ヶ月が経ってしまいました。なんてことでしょう!1ヶ月前、鹿児島大学でレクチャー&ワークショップをさせていただいたのでその報告です。

2015年9月2日、鹿児島大学法文学部にお邪魔し、レクチャー&ワークショップを行ないました。テーマは「アーカイブと自己表象」。今日の芸術作品を制作する手法として顕著である「アーカイブ的な方法」に着目し、アーカイブ的な方法を通じて表現される作品の意味や有用性、アーティストの意図について考えることを目指しました。そして、確かに今日、美術館・ギャラリー・アートイベント、さまざまな展示空間で頻繁に<オブジェの集積>のような形をとる作品を目にするのですが、この潮流はいったいどのように解釈することができるのでしょうか?

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具体的に、現代美術史のなかから、アーカイブを手法とした<オブジェの集積>たる作品を思い起こすことはそう難しくありません。たとえばゴミを集めたアルマンとか、クリスチャン・ボルタンスキーのMonumentaにおける大量の古着の展示( »Personne »)とか、ソフィ・カルのLe rituel d’anniversaireやジャン=ルイ・ボワシエのMémoire de crayonsなど、多くの作品がなるほど、絵画や彫刻のように芸術家の手仕事によって創作したオブジェではなくて、なんらかのルールによって集積したものを分類し、展示しているのですね。

込められた意味は様々です。産業的に大量生産されたオブジェを文脈から切り離して大量に見せることによって、モノを異化することもできるでしょう。大量の古着は、かつてそれを着たはずの身体が不在となる状況のなかで、逆説的にも衣服の身体性を感じさせるでしょう。私が忘れられるのが怖いという全く主観的な悩みから毎年盛大に誕生日パーティーを行い、そこでいただいた誕生日プレゼントを詳細にメモをとって保存する奇妙な儀式は、自己存在の記憶について鑑賞者にひとつのアイディアを与えるでしょう。個人のコレクションの1024本の鉛筆をコンピュータのデータから探したり、気に入った鉛筆のレジェンドを読んだりすることは、一個人の思い出に留まったはずのオブジェが潜在的な複数の鑑賞者の記憶まで広がって共有されることが可能になるでしょう。

つまり、単なるコレクションと、それを芸術作品として作り上げることの間には、言うまでもなくそれが作品として鑑賞者に共有されることの意味が見いだされる必要があります。

ワークショップでは、参加してくださった先生がた、学生のみなさんそれぞれが、<「私の思い出/私のコレクション」を芸術作品にするにはどうしたらいいか?>という一見本末転倒のような問題について考えました。つまり、アーカイブ的な手法をとる芸術作品が芸術作品たる必要条件をあとから考える、といったようなちょっとしたチャレンジです。

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みなさんの作品は、それぞれのコレクションが非常に異なるものであったために、また、皆さんが時間の制約もありながらできるだけその場で作品を作る、ということにこだわってくれたために、ユニークなものが完成しました。ワークショップでは、アイディアを考え、つくり、発表する、という肯定をだいたい2時間ちょっとで行ないました。全員が発表できて、他の人の作品も体験したり鑑賞することができたので、良かったと思います。

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作品を簡潔に説明していきましょう。まずは「Ne pas toucher」不可触の作品です。これは作者が実際に日々の記録をとり、研究や論文のアイディアを綴ったり、スケジュール管理に利用してきた手帳を展示するというリスキーな作品です。そこにある手帳の束は単なる紙の束である以上に作者の十数年分の記憶が物質化したものです。見る者はそれに触れることを禁止されていますが、そこにある個人にって非常に大切なものを物理的には提示されています。

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また、1990年代後半より現代でも撮影されているプリクラは、長年に渡って少女たちの友人や恋人との思い出、家族との思い出や旅行の思い出の小さなフォトアルバムとしての役割を果たしてきました。この作品では、作者のプリクラコレクションを人生のフェーズや撮影の機会に分類し、プリクラによる自分史を構築しています。

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ペットと過ごす時間もまた、個人の人生の大切な時間を築きます。作者は、飼い猫と過ごす思い出を「家」という空間の記憶と結びつけました。空っぽの間取り図に配置される飼い猫の写真は、それが配置されることによって撮影された瞬間の思い出として色鮮やかに蘇ります。作者は間取り図に写真を貼るのではなく、敢えてこれを配置する、という方法を選びました。このことも、空間が孕んでいる自由な可能性と開放性、私たちの存在が刹那的なものであることと関係するように感じられます。

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もっともニューメディアな作品でした、AR(拡張現実)を構築する携帯のアプリケーションを利用した作品です。私の人生にとって(ラジオ番組に関するものでした)思い出深い数冊の本があります。これには、様々なレジェンドがあるのですが、携帯の画面で本の部分(表紙や特定の頁)をキャッチするとそのストーリーが浮かび上がってきます。

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漫画やイラストを長年描いてきた作者は、自分の画風が誰に/どんな絵に/どんな影響を受けてきた結果、現在の画風が出来上がったのかを、数枚の絵と自分の絵を比較することによって私たちに説明しました。絵の変化や文字の変化といった表現の歩みは、身体的動作に由来するものですから、その経験や痕跡は常にひとりの人間の身体と結びついた個人的なものでしかないのですが、個人のストーリーは、共有されることによって本当の話となったり、同時に作られたりする、そのような不思議なものでもあります。

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自分の名前をインターネットの検索エンジンで検索する「エゴサーチ」を題材に作られた作品もありました。張り巡らされたレゾーの中に日々クラス私たちには、パノプティコンの牢獄で始終監視され続ける囚人たちのように、ある意味で「隙のない」人生を送っています。私のイメージは、あるいは私の行動は、私が意図するしないに関わらず常にウェブ上を漂っているかもしれません。この作品では著者は、私のコントロールの外側にある、つまり他者によって公表され、名付けられた「私のイメージ」を集積し、メディアタイズされた私の輪郭を描き出しました。

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ほつれたジャージの裾がアップで映し出された一枚のイメージがあります。コレクションを元にした作品を作る、というとモノがたくさんなければならない気がしますが、作者は敢えてたった一枚の写真を選びました。アーカイブは実は、写真というマテリアルにあるのでなく、ほつれたジャージの裾に隠されています。ボルタンスキーが示したように、肉体から放り出された衣服はそこにあるだけで、不在の意味を強烈に訴えてきます。ほつれた裾には、ジャージの持ち主がそれを履いて歩き回った時間の蓄積とその歩行の特徴や行動の積み重ねが刻印されています。

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さて、そういえば私もプロトタイプとして、皆さんにアンケートをお願いして二つの証明写真コレクションに関わる作品を作りました。ご協力いただいた皆さんにお礼と結果を申し上げられずじまいで一ヶ月が過ぎてしまいましたが、本ワークショップで作品アイディアを考えるために提示させていただきました! というわけで、次回プロトタイプの結果を掲載しようと思います。

本レクチャー&ワークショップ、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。開催に当たって全てにおいて大変お世話になりました鹿児島大学の中路先生、太田先生に感謝を込めまして。

2015年10月2日

09/22/15

ディン・Q・レ「明日への記憶」/Dihn Q.Lê: Memory for Tomorrow

Dihn Q Le Mori museum
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森美術館で開催中のDihn Q.Lê: Memory to Tomorrow展(ディン・Q・レ「明日への記憶」,http://www.mori.art.museum/contents/dinh_q_le/)を見ました。ディン・Q・レはベトナムの伝統的なゴザ編みから着想を得た、写真のタペストリー「フォト•ウィービング」シリーズ(Photo waving series)で世界から着目されました。ベトナム戦争やハリウッド映画という象徴的イメージを自国の伝統工芸品の手法によって作品として織り成し、イメージは溶解、混合、再構成され、鑑賞者の前に再び突きつけられます。
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また、象徴的イメージを50メートルにも引き延ばした写真作品では、もはやそこに何が表象されていたのか分からないにも関わらず、マテリアルである写真はなおもそこにあり、何かを現し続けるという矛盾が生じている。
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ヘリコプターは実は、第二次世界大戦時には軍事に実用されなかった乗り物である。無論、1900年代初頭にフランスのモーリス•レジぇらが開発に成功しており、大戦末期に米軍が試用した実例はあるものの、実用化は1950年代以降、ターボシャフトエンジン搭載後のことで、さらに補助任務に留まらない本格的運用は、ベトナム戦争が初めてなのである。
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1964年ケネディ政権、1965年からのジョンソン政権のアメリカ政府が大規模介入を行なう。地上戦の険しさより、上空からの部隊展開を行なったのだ。これ以降ヘリコプターは地上戦が困難な際の主力兵器としての地位を獲得する。北ベトナム軍は山地を逃げ、ヘリコプターがこれを追う。軍人だけではない。一般の村民もまた、この上空からの脅威に怯えた。
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ディン・Q・レのヘリコプターに関わる作品は、ベトナム戦争の象徴的兵器としてのヘリコプターが人々の心に刻まれたトラウマとなっている事実と、それは今日農業を助け、人々の生活を格段に楽にする道具としての可能性を訴える人々のことばを三枚の連続するスクリーンに投影する。それぞれの思い出と、パロールと、ヘリコプターの脅威と可能性は、混ざり合い、拮抗して、流れる時間のことを考えさせる。
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枯れ葉剤の及ぼした健康被害は重大である。除草剤の一種でダイオキシン類を非常に高い濃度で含む薬品である。1961年から75年まで散布され続けた。1969年には明確に先天性奇形の出産異常が確認されていたにも関わらず、75年まで散布され続けたのである。
日本で分離手術を受けたベトちゃんドクちゃんで知られる結合性双生児のような癒合した双生児が数多く出産された。ディン・Q・レはこれに焦点を当て、Damaged Gene(1998)と名付けられた公共プロジェクトを発表。
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「人生は演じること」という作品は、それが日本人の軍服オタクの青年の<アイデンティティ探求>に関わる表現行為、と説明されるものの、そして数あるディン・Q・レのユーモアのエスプリが効いた作品であると納得しようと試みたとしても、喉に何かが詰まってうまく、飲み込むことができない。戦争も大災害も悲劇の記憶も、明日に向かって、明後日に向かって、そして百年後に向かって、その直接的な傷痕と、もだえるような痛みは風化されるのだろう。そしてそこに、物語が付与されたり、憧れる者が語り継いだり、共感する者が哀れみ続けたりすることによって、「明日への記憶」が形成されていくだろう。この作品を見ることは、容易くはない。
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09/22/15

夷酋列像, the image of Ezo 北海道博物館 Hokkaido Museum

夷酋列像 the image of Ezo

『夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』展が、現在、北海道博物館開館記念特別展で開催中です。本博物館は、北海道開拓の村http://www.kaitaku.or.jpという広大な敷地内にある1971年会館の北海道開拓記念館と道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、2015年4月にオープンしたばかりの博物館である。http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/about/アイヌの歴史や文化、北海道のあり方に関する研究組織であり、学芸員や研究職員が所属する国内でも重要なアイヌ文化の研究機関である。

ちなみに北海道開拓の村は、北海道百年を記念して設置された、極めて「和人」的な、つまり和人のフロンティア征服の栄光を讃える的な匂いのしそうな施設と思われるかもしれないが、私の幼少からの経験では、北海道という土地の人民は、なんというか、アイヌの文化に対して今日エキゾチズムの視線でこれを高覧することもないし、過度にうやうやしくこれを「保護」しようと胡麻をすることもないし、北海道民自身は、この歴史と文化について、現代ではごく自然なリスペクト以上のものを振りかざしはしない、というのが率直な印象である。

これには幾つかの理由がある。

アイヌ民族は、研究により、続縄文文化、擦文文化を継承して独自の文化(アイヌ文化)を作り上げた民族だが、和人は歴史上ご存知のように、15世紀(1457年)、志海苔(函館)での接触をキッカケに戦闘に発展したコシャマインの戦いや、数々の戦いで彼らと衝突し、武力によって彼らを利用したり殺害したりしてきた。17世紀(1669年)に十分に北海道内陸である日高の静内で起きた松前藩とアイヌ民族の戦闘であるシャクシャインの戦い、これ以降、和人はアイヌ民族を強制労働者として利用したり、経済的に困窮させたことにより、ついにはクナシリ・メナシの戦い(1789年、ちなみにこれはフランス革命と同じ年)、北海道東部までアイヌ民族を追いつめての戦争、後に紹介する12人のアイヌの偉人の一人であるクナシリ首長ツキノエの留守を狙って大規模な殺害を濃なった悲惨な事件である。あまりに残虐な歴史であり、彼らの歴史や文化を研究するといえども、今日、アイヌ民族の人口は非常に少ない。

そしてこの「和人」の運命自体も着目すべきである。松前藩廃藩以降の、1871年に明治政府により官庁として設置された開拓使では、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」、言うまでもなくロシアの脅威の北方の壁となるべく身体を張って<「内地」(皇国)を守る>ことが使命であった。歴史の中で、どんな運命をたどるか、どんな興亡を見るかという、かなりのパーセンテージが実は、その地理的要因に拠るのである。北海道は、北方四島と樺太以北をめぐって、そのマージナルな地理を抱え、アイヌを利用しながら、ロシアと向き合い、内国の和人のエスプリと少しずつ確執を深めながら、この地に一世紀と数十年の歴史を築いてきた。北海道の冬は冗談でないほど大変である。たとえば暖かい国からやってきた農民だとか、たとえ東北出身者でもそれほどの厳しい冬を知らない移住者であれば、冬を越すことができなかったでしょう。政府は、越境のためにあまりに予算を食い過ぎる予想外の事態に、そそくさと予算を打ち切って断念しています(嵯峨藩士島義勇の島の計画)。

内地(皇国)のために矢面になるという役割は大正、昭和を通じて変わることはなく、悪名高いスターリン政権が武装解除した軍人を強制労働させたシベリア抑留が最大で11年に渡って行なわれ、日本人も50万人が抑留されたが、これはヤルタ協定での千島列島・南樺太の占領のみならず北海道の一部占領を要求したスターリンへのトルーマンからの対策だったのではないかと見る説もある。

今でもとてもワクワクする記憶として鮮明に思い出すのが、小学校のときの社会科の学習の一貫で、北海道の歴史を学んだ経験である。そこでアイヌ文化の紹介があり、アイヌ語のいくつかの言葉の紹介がある。北海道の地名や言葉のアイヌ語における意味が説明される。初めて出会う外国語に限りなく近い、しかし日常生活に密着した言葉の数々である。
「アーント!蟻!」「ペン!ペン…」と唱えていた嘗ての英語学習に比べたら、「さっぽろ」が、つまり「サツ・ポロ・ペツ」渇いた大きな川(そうです、豊平川のことでした!)であると知ったときの、あの喜びはなんとも心が踊る経験である。

さて12人の列像は、しかし「和人」によって描かれたものであるから、和人の文法を正しく使って、エンブレムを散りばめながら、作法に従って描かれたものである。例えば縄文人的な容貌、「一眉深眼、髪髭ながふして総身毛の生たる事熊のごとし」(坂倉源次郎が18世紀に記した『北海道随筆』における典型的描写)や、「三白眼」という黒目部分の非常に少ない眼の描き方、アザラシのブーツ、射た雀や鳥をベルトに結び、矢を引き、熊を犬のように連れ、仕留めた鹿を背負い…、彼らはそうやって、偉人(異人)伝説に登録されてきたのである。

げにいとめつらに気うときかたちしたり まゆは一文字につづきてまぶたのうへにおほひ ひげは三さかばかりありて口つきも見へず

なんてこった、昔の人の、異なる人を区別する視線は!
そんな風に、可笑しく思うかもしれないけれど、わたしたちは、
今日でも未だに、こんなことを世界のあちこちで、しています。

展覧会は巡回します。
日本のこと、和人と国の四隅で矢面になる各地の人々のこと、世界の異文化と異人のこと、考えるキッカケになると思います。

マウラタケ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。ポーズは仙人の図像集である『列仙図賛』を参考に描かれたもの。
ainu expo マウタラケ

チョウサマ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。同様に仙人図を参考にしたポーズ。アイヌの宝器を携えている。
ainu expo チョウサマ

ツキノエ
クナシリ(国後島)の首長。蝦夷錦の上に西洋の外套を纏っている。ポーズは中国三国時代の武将関羽に類似。
ainu expo ツキノエ

ションコ
ノッカマップ(根室)の首長。クナシリ・メナシの戦い終息のためにアイヌを説得したとされる。ノッカマップは、戦いに参加した多くのアイヌが処刑された場所である。
ainu expo ションコ

イトコイ
アッケシ(厚岸)の首長。紺の錦に赤い上着を羽織り、槍を携えている。
ainu expo イトコイ

シモチ
アッケシ(厚岸)の首長。弓術の名手として知られ、『和漢三才図会』はじめ多くの百科事典などに登場する弓をいるアイヌのモデルとなっている。
ainu expo シモチ

イニンカリ
アッケシバラサン(厚岸)の首長。白と黒の幼いヒグマを連れている。これは、弘法法師を高野山中で導いたとされる白と黒の犬を連れた狩人の図によると思われる。
ainu expo イニンカリ

ノチクサ
ノッカマップのシャモコタン(根室)の首長。鎌倉時代の武将、源平合戦の際に愛馬を担いで絶壁を駆け下りたという武士の怪力と野蛮さの象徴を象徴する畠山重忠の逸話を思わせる図である。
ainu expo ノチクサ

ポロヤ
ベッカイ(別海)の首長。右の襟を上に重ねる着方によって、和人の着物の着方との区別をしている記号的図像である。犬は洋犬として描かれている。
ainu expo ポロヤ

イコリカヤニ
ツキノエの末子。捉えた鴨を抱え、後ろに振り向いている。
ainu expo イコリカヤニ

ニシコマケ
アッケシ(厚岸)の首長。弓を抱えている。アザラシ皮の靴が、置かれることによって一層強調されている。
ainu expo ニシコマケ

チキリアシカイ
イトコイの母。ツキノエの妻という説もある。異国より手に入れた敷物のうえに毛皮を敷いて座っている。
ainu expo キチリアシカイ

蠣崎波響
蠣崎波響(1764−1826)は、松前藩主、松前道広の命を受け、クナシリ・メナシの戦いで功を奏したアイヌ首長12人の図を作成した。12人の絵に「夷酋列像序」という序文を持参して上洛し、多くの文人・貴族に披露した。さらに、光格天皇の目にも触れ、これらの列像は多く模写されることとなった。

09/21/15

BEACON 2015 Look Up! みあげてごらん, 空を仰ぐことの意味

9月13日、岐阜県美術館で開催中の「BEACON 2015」を体験してきました。BEACONは、1999年より断続的に名古屋や京都など、全国で発表・展示されている、映像・音響・理論・美術がひとつとなった作品である。伊藤高志さんの映像、稲垣貴士さんの音、吉岡洋さんのテキスト、小杉美穂子さん・安藤泰彦さん(KOSUGI+ANDO)が担当する美術が相互に影響し合って作り上げられた作品は、回転台の上で撮影された様々な土地の日常風景が展覧会場において同じく回転台の上で投影されるという形態を撮っている。

BEACONはいつも、人間の記憶に関わってきた。それはメディア環境における人間の記憶の問題であったり、日常を生きる我々の記憶の蓄積の比喩としてぐるりと連続する風景を回転台の上で投影することであったり。そこには人々の風景があり、声が聴こえ、光とオブジェがあり、今ここに居ないがいつか出会った人々の痕跡がある。

年のBEACON 2014は展示空間の特殊性が作品に極めて強くコミットしていた。東京都台東区の葬儀場を展示空間とする異例の作品展示、BEACON 2014は »memento »の副題がつけられ、インパクトある形で人間の生死を主題としていた。

今回のBEACON 2015は第7回目の作品発表となるそうだ。副題は »Look Up! みあげてごらん »。
作品中に登場する映像では、美術館のある岐阜、沖縄、福島の「日常風景」が回転しながら投影される。

« Look Up! みあげてごらん »、展覧会のチラシにも掲載された吉岡洋さんのテクストの中で、「みあげる」行為は以下のように説明される。

人はそもそも、どんなときに空を見上げるのだろうか?
 それはたとえば、この世の煩いから離れたいときであり、遠い存在に思いを馳せるときかもしれない。
 またそれは、希望を持とうとするとき、あるいは反対に、絶望したときであるかもしれない(見上げるという行為において、希望と絶望とはつながっている)。
 さらには乗り越えがたい障壁によって、突然行く手を阻まれたとき。それはつまり、自分は今まで閉じ込められていたのだと、知ったときだ。

ここには、みあげる行為の意味が明らかにされるだけでなく、なぜ混在する沖縄と福島と岐阜の日常風景を追体験するこのBEACON 2015という作品が「みあげてごらん」なのか、さらには、なぜBEACONがこんなにも直接的にフクシマの風景や沖縄の風景といったクリティカルな問題を映し出すにもかかわらず、そこに恣意的な声を潜ませることなく淡淡と回転台のプロジェクタが投影するイメージを届けるのか。

みあげることは単純な希望の象徴ではない。人は、絶望したときも空を仰ぐ。そこにはなるほど、「いま、ここ」の限界を痛いほど認識する「わたし」がいるが、そんなものは世界にありふれたことかもしれないし、また明日別の状況に出会うことかもしれないし、「わたし」を今たまたま取り囲んでいるその偶然に満ちた環境によってこれまた偶然にでっちあげられたハリボテみたいなドラマセットに過ぎないのかもしれない。そんなふうに、みあげることは切り離すことであり、あるいは繋がることである。

みあげることは、ある意味で孤独であり、ある意味で本質的に力強い。それは、頼りない表面的な結びつきとか駆け引きなんかに基づく脆弱な人間関係ではなくて、困難に打ち拉がれ途方に暮れて空を仰いだところからのインディペンデントな連帯だからである。

Look Up ! みあげてごらん。
この作品は10月12日まで見られます、そこで福島と沖縄と岐阜の日常を見ることは、いまここを断絶し連携し、今日の私たちの状況について考えに至るキッカケにもなると思う。

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09/21/15

鈴木理策「意識の流れ」展 / Risaku Suzuki Stream of consciousness

鈴木理策さんの個展「意識の流れ」は東京オペラシティーであと2日、9月23日まで開催中です。

ウェブサイト:http://www.operacity.jp/ag/exh178/

鈴木理策さんは80年代より大判の写真作品で知られ、とりわけ熊野を撮影した写真や海や山などの自然を限りなく鮮明に、しかしそれは絵画のようにも映像のようにも見える作品を制作しています。今回の展覧会では写真作品が100点、映像が3点と大きな規模の回顧展と言える展覧会だと思います。
写真はいつから、ボケていてはいけないことになったんでしょうね。隅々まで鮮明に、できるだけ遠くを、できるだけ近くを、っというオブセッション。しかし我々の視野はもっとざっくりとしたもので、見えているけど見ていないものだらけだったりします。ぼうっとながめているとき、それらはぼやけているでしょう。焦点があっていない時だってあります、だからこそ写真の展覧会ではそのつややかな表面に、『ウォーリーを探せ!』と言わんばかりに塗り籠められた細部を見るのに大変疲れてしまうのです。
鈴木理策さんの写真は、そのピンぼけと鮮明さの両極の特徴で知られています。たしかに、「自然」に感じられるイメージという印象がある。自然に、というのは、がんばったり抵抗を乗り越えたりしなくてもよい、というような意味です。
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08/14/15

La paix souffre d’une remède dérogeant la Constitution: Manga de Shiriagari Kotobuki/ 平和(ひらかず)さん、70歳の談話

le lien officiel du manga se trouve : http://politas.jp/features/8/article/427

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pour la suite : http://politas.jp/features/8/article/427

Ce manga réalisé par un auteur manga-ka Shiriagari Kotobuki parle d’une situation difficile d’aujourd’hui à propos de la PAIX de son pays le Japon qui dure quand même 70 ans depuis le 15 août 1945. Le personnage qui s’appelle Hirakazu (comme un prénom mais en fait c’est une autre façon de lire les kanjis signifiant la paix, heiwa, en japonais), âgé, un peu fatigué, souffre des nouvelles lois risquant la paix du pays. Il refuse de prendre un médicament proposé par une fillette, un remède appelé « anpo-nantoka » C’est bien sûr une métaphore des lois de sécurité qui ne respectent pas la Constitution, notamment son fameux 9ème chapitre.
Aujourd’hui le 15 août 2015, nous les Japonais, donc fêtons le 70ème anniversaire de ce personnage important « Hirakazu », c’est-à-dire, la paix (heiwa) de notre pays tout en souhaitant que ça dure.

l’auteur de ce manga Shiriagari Kotobuki a son blog et le compte de Twitter :
http://www.saruhage.com/blog/index.html
https://twitter.com/shillyxkotobuki