01/31/12

書くことの現在

大学のレポートや小論文、学位論文に至るまで、アカデミックな現場での「書く」行為にはたくさんのルールがある。この言い方はあまりぴったりとこない。つまり、アカデミックな文章を書くにはそれ専用のルールがあり、小説には小説のルールがあり、批評には批評のルール、雑誌記事には雑誌記事のルールがあるといったほうが、きっとよい。
ここ数日、フランスのニュースで学生のレポートや論文をめぐるコピペの問題が何をきっかけにか爆発したように紙面をにぎわしている。何を今更、若者のテクストの独自性のなさを嘆く意味があるのだろうと嫌気がさしながら、記事を斜め読みしていると、コピペ探知ソフトが開発され、その使用実施によって、コピペをした学生に処分を下したり、論文を否認するというフィルターがかけられるようになるといった展望についての、ホットな話題であるということがわかった。

そもそも、コピペをフィルターで発見するということが現実的にどれほど可能なのだろうか。コピペなのかコピペじゃないのかという線引きは一体どこでなされるべきなのか。
文字通り文章をコピーしてペーストし、一字一句が同一であるならば、それを自分の書いたものとして提出した場合、盗作と呼ばれるだろう。カギカッコのなかにいれて、引用と注釈をつけて、ソースを相手につたえて、これは私の作った文章じゃありませんと断ることがルールだからだ。ほんの少し言い回しを変えた場合は?品詞の順番を変えたり、文体を変えたり、少し意訳するというかたちで原文に手を加えるということは、ある言語を自在に操る能力のある人にとって、全く困難なことではない。この場合もこのコピペ探知ソフト(あるいは将来のコピペ探知ソフト)は、大学教員に向かって、親切にも何らかの警笛を鳴らしてやることができるのだろうか。

そもそもオリジナルな文章なんてあるのだろうか。きっとあるのだろう。どこにも見たことが無く、言葉が異化され続けているような、新鮮な文章がきっとどこかにはあるのだろう。
しかし、多くの場合、大学やあるいは教育機関によって求められているレポートや小論文と言ったものは、決められた課題が与えられて、その十分に限定された問題について作文することを要求されている。誰にもわからないような、見たことも無いような文章が求められていないことは明らかであるが、私がここで言いたいのは、そのように、すでに課題として出題されうるほど既に多くの人々によって考え抜かれ、書き尽くされてきた内容に対して(メタファーとしてのコピペを含む)コピペをすることなしに、「私の考え」を編み出すことなど、不可能であるということなのだ。いや、可能だとか可能じゃないかいうことではなくて、それ自体に価値があるのかすらわからない。

新しいことを書くことができないのなら、なぜ人はそれでも書かなければならないのか。
自分の書いていることが斬新であると信じることのできる人は、これまでの人生でよっぽど何も読んだことがないか、あるいは自他をポジティブに差異化する能力に優れていてそのうえそれを信仰することのできるナルシストである。
なぜ書き続けるのだろう。それは、ひとつには文章というかたちで思考を集積することにより、それはいずれ集積としてまったく別の何かを創りだすことにつながるかもしれないからだ。
生命には創発性という性質がある。ひとつひとつの細胞や組織はきわめて単純な化学反応や生命活動を行っているけれど、それが一つの器官という集積として働いたとき、神経細胞のあつまりである脳はその細胞の単純さからは予想もつかないような複雑な機能を果たす。
人が書き続ける理由はこれに似ている。集積された思考は、それまでの断片が単体では果たさなかった役割を果たすことがある。
これは全くもってオリジナリティーとは関係のない話なのだ。

大学生のコピペ事情から、遠いところに来てしまった。
そもそも、このコピペ探査ソフトは誰の為なのだろうか。
大学側は、若者の考える力や構成力の低下を指摘し、物事に関する基本的な知識や教養の不足を嘆いている。だから、コピペレポートは探査ソフトで発見されて、レポートを作成した学生は退学になり、学生達は恐怖におびえながら、興味があまりないテーマだけれども山のように積まれたレポート課題を、インターネットなんてなるべく使わないで、図書館の湿った本のページを繰りながら、すこしずつ言い回しを変えたり、引用を明記したりしながら、膨大な時間を使えばいいというのだろうか。
あるいは、こうも言える。大学の先生たるもの、生徒がいとも簡単にコピペしてきたものくらい、どうしてそれが彼ら自身で考えた文章ではなくて有名な理論家(批評家、研究者)のページから持ってこられたものだということを、見抜けないのですかと。
これはこれで不可能なのは明らかだ。そもそも現代、どれくらいの書かれたものがインターネット上にもっともらしく存在しているのか、想像して頂ければわかる。「読むべき本」や「共通知識としての云々」なんか、もう存在していない。あるいは、サイクルが早すぎて、すべてをさばききる前に、それは古いものになってしまっている。だから、星の数ほど散らばっている文章から、学生がどこをのなにをコピペしてきたかなんて言うことを、血眼になって探すだけの元気があるのはコンピューターだけである。

コピペを見抜けない教育者のも不幸であるし、コピペレベルの仕事しか求められていない学生達も同様に不幸である。

これが書くことの現在であると、認識した上で、コピペ問題についての生産的な議論が行われているのであれば、そういった話は大いに聴きたいと思う。

01/31/12

La Saisie du Modèle, Rodin 300 Dessins

オーギュスト・ロダンは「考える人/penseur」を製作した彫刻家、パリとムードンにはロダン美術館があり、彼の製作した圧倒されるほど沢山の彫刻作品を目にすることができるのだ。私がパリのロダン美術館を訪れるのは3回目か4回目。今回は特別展「ロダンの300のデッサン 1890 – 1917」を訪れた。

Musée Rodin
79, rue de Varenne 75007 Paris
http://www.musee-rodin.fr/ (仏・英)

このデッサン展では、1890年から1917年の間に製作されたロダンの様々なタイプのデッサンを目にすることができる。彫刻家として有名なロダンは生涯に10000点ものデッサンを残しており、そのうちの7000点がパリのMusée Rodinによって所蔵されている。エチュードのためのデッサン、彫刻のプランとしてのデッサン。紙に描かれたデッサンは保存の都合上、なかなかまとめてお目にかかることができないので、今回こんなにも多くのデッサンがテーマに沿って公開されているのは、ロダンの身体の捉え方を知る上で非常に逃すことのできないチャンスと言える。

ロダンのデッサンは生の真なる姿というものを、できるだけ親密な方法でで描写したい、という欲望に基づいて制作されている。たいていのデッサンは、繊細な鉛筆の線で一筆書きされ、たったの数分で完成されてしまったものが多いのだ。その輪郭線は限りなく洗練されており、生の躍動感を巧みに表現している。鉛筆によるデッサンの上から水彩画材で彩りを与えられて、ロダンのデッサン作品は完成する。人間の身体をどのように捉え、表現の中でどのようにその動きを表すことができるのか、これがロダンデッサンの確信である。

この展覧会は、おおよそ年代順にロダンが取り組んだテーマと方法について章立てが構成されていた。自然=女性の裸体を生の姿として描く姿勢は、ロダンのキャリアの中で一貫して変わらない。展覧会はしたがって、自然をテーマとしたデッサンから始まり、即興的なデッサン、トレーシングペーパーを使用したデッサン、切り絵と貼り絵のデッサン、そして1900年以降のデッサンへと進んでいく。この前半の展開で興味深いのは、ロダンが彫刻の視点をあらゆる芸術表現行為に対しても貫いているということが見て取れる点である。女性の身体のラインは決してぼかされてはいないにもかかわらず、非常に繊細である。うっすらと白く一色塗りされ、限りなく簡略化されたかたちは、身体のかたちを独自の視線で追求したまったく新しい表現である。境界がはっきりとして極限まで単純化された美しいかたちは、マチスがめざした形態の単純化とも似ている。

後半のデッサンは、繰り返される幾つかのテーマ、例えばブルーのチュニックを着た女が紹介される。あるいはまた、動きをどう描くのかという問題意識に基づき、ダンスの主題がとりあげられ、1907年以降はさまざまな神話的逸話やメタモルフォーズをテーマにしたデッサン、愛を司るプシュケを数多く描いている。そして、親密な関係にあったモデルの存在がロダンに多様なポジションでのエチュードを可能にした、性の描写のデッサン群が提示される。

avant la création

グスターヴ・クールベの「世界の起源/L’ORIGINE DU MONDE」(1866)をイメージさせる、AVANT LA CRÉATIONは、つまり女性の露出された性器を鮮明に描き出している。ロダンはこの他にも数多くの女性の性器を描いたデッサンを残している。しばしばこのように露出したポジションで、あるときはモデルの手によって部分が隠された状態で。この女性の性器を描くというテーマは、ロダンにとって、最もミステリアスで秘められており、それゆえに我々の身体をもっとも本質的に表現するための主題であった。

deux femmes nues

このような色彩感がロダンのデッサンを印象づける典型的なものである。輪郭を綺麗に切り取ることができそうなほど完成されたフォルムの上に、よくのばされた水彩絵具で飾られている。不思議な印象と強さを感じる。ロダンはこの色彩をモデルの身体から即時に感じ取り、そのデッサンの輪郭線に素早く色をおいていった。生き生きとした色彩は自由自在に鉛筆の線の上で遊び、独特の雰囲気を作り上げている。

fleur de sommeil. jeune mère embrasse son entant

こちらは1900年の作品。かなりのばされた水彩絵具をデッサンに重ねてある。その散り方は水墨画のそれを思わせる。このデッサンは、 »Fleur de Sommeil » の彫刻作品のもととなったものである。見るものの目を奪ってしまう、女性の顎から胸にかけての大きなシミは、ロダン自身によって意図的に与えられたものであると解釈されている。芸術家としての制作過程における偶然性を重要視を鑑賞者に暗示するためである。
ロダンの作品は彫刻においてもデッサンにおいても、しばしばタイトルが後付けされている。周りの者によってつけられることすらある。ロダンにとって本質的なのは、名前を与えて作品を作ることではなく、もともとそこに存在するnatureから正確に意味を読み取ることであるという。この点は、ロダンが彫刻の複製やデッサンにおける偶然性や即興性を重視し、近代的芸術概念からの飛躍を感じされる一方で、やはり依然として近代的なものを感じてしまう。
 今度またゆっくり考えてみよう。

01/28/12

Exposition de Yayoi Kusama/ 草間弥生展

Musée Centre Pompidou/ ポンピドーセンターでの草間弥生展を訪れた。
Centre Pompidou Yayoi Kusama
2011.10.10 — 2012.1.9 Galerie Sud

美術館に入って右手にあるエスカレーターを登っていくと南ギャラリーにつく。草間弥生の作品のいくつかはポンピドーがコレクションとして所蔵されているし、大きな彫刻がパリ以外の幾つかの都市にもある。フランス人にもヤヨイ・クサマの名はもちろん知られている。

とりわけカタログの表紙にもある赤と白の水玉のイメージは、こともあろうに、半で押したようなkawaii概念と結びつけられ、その繊細さやポップさゆえに日本文化の香りを感じさせるものとして捉えられている現実に出会うことがあり、ぎょっとする。草間弥生がドットモチーフを取り入れ始めたのは1960年代に遡るわけで、2000年のジャパンポップ的なkawaii概念と接続されてしまうという事自体ショッキングである。ましてや、執拗なドットの取り憑かれたような焦燥はちっとも可愛らしくなんかない。むしろおぞましくさえある。

下の絵画 Infiniry Net/ アンフィニティネットやDots/ドット、水玉に代表される永遠に繰り返される幾何学模様のイメージは、それらの色や表面の凹凸を見つめれば明らかであるように、ちっとも愛らしいものなんかではない。執拗な反復は、その細部までが無限に続けられていて、キャンバスの縁に来てすら終わりがない。

No.A.B., 1959

Infinity Netは、ネットなのである。ペインティングという方法で編まれたネット。細い糸で限りなく編み続けられたネットは本来ならば穴が開いている部分から向こう側が透けて見えそうなのだけれども、私達が一層だと信じているネットはじつは、向こう側に終わりなく続いており、だから私達はそこから何も見出すことができない。

No.A.B., 1959 zoomed

こちらは1960年に製作された、Infinity Nets Yellowである。このとき彼女は30歳。彼女が幼少期から幻覚に悩まされ、水玉や動くもの、永遠に続くイメージによるオブセッションと精神的な問題を抱えていたことは知られている。彼女はできるだけ安定した状態で制作を続けるために現在もアメリカの精神病院において生活をおくっている。

彼女の表現する反復のイメージは、見つめるほどに不安に駆られる何かを見るものに伝えている。非常に個人的な見解であるが、私は芸術家、作家、音楽家といった表現者は表現するべき衝動によって表現しているのであり、表現することによって幸福を得ているのだというストーリーが好きである。裏を返せば、表現せずに自分のうちに秘めておくことによって不幸になり、病気にすらなってしまいかねない。表さないといけなかったのであり、何かを少しでも解決するために表すことが絶対に必要であった。そしてそれは表現者の自己満足ではない。なぜなら、問題は他者によって受けとめられ、共有されたとき初めて、解けるからである。

aggregation: One Thousand Boats Show, 1963

男根状のモチーフは草間弥生の作品に頻出するテーマのひとつ。
性に対する恐怖、とりわけファルスに対する恐怖をそれで埋め尽くしてしまうことによって乗り越えようとするアプローチは今も昔もなく絶対的に前向きなものだと思う。それを拒絶するでも貶めるでも傷つけるでもなく、ソフトスカラプチャーの男根がうごめく空間に包まれることによって恐怖を昇華する。なんて高貴なセラピーだろうと思わざるを得ない。

The Moment of Regeneration, 2004

ミラーで囲まれた部屋には終わりがない。もちろん部屋は閉じられているけれど、反射されて広がる空間には終わりがない。やがて映っているのがこちらの世界なのか私がいるのが映っている世界なのか、きらめく色彩のなかで、うっとりし、途方にくれてしまうだろう。

Infinity Mirror Room, Paris, 2011

I’m here, but nothing. このインスタレーションはポンピドーでの展覧会の冒頭に設置されていた。私はここにいる、けれどなにも、ない。ドットだけがそこにあり、ありふれた生活空間がそこにあるけれど、そこには確かに誰もいない。でもそこには誰かおり、何かがあった。

I'm Here, but Nothing, 2011

草間弥生展といえば、現在国立国際美術館で2012年4月8日まで地下3階で開催されている「永遠の永遠の永遠」展も注目である。この展覧会では草間が2004年から新たに取り組んできた「愛はとこしえ」と、それに続く「わが永遠の魂」の連作に焦点を当てているほか、新作の彫刻も展示されるとのことである。見逃すことができない。
国立国際美術館 B3 永遠の永遠の永遠

さいごに、こちらは12月にリールの鉄道駅すぐの広場で発見した草間彫刻。パリでの回顧展は1月9日で終わってしまったが、チュイルリー公園では3月まで草間弥生のお花の彫刻が見られるらしい。

Flowers that Bloom at Midnight at the Jardin des Tuileries

flowers, Lille

01/10/12

生を演じるのか、それとも生きるのか。/ jouer la vie? ou vivre la vie?

今日は、先日アール•ブリュットに関して7枚組のデッサンを紹介した際にもちらりとお話しした、Galerie Christian Berst (Paris)にて2011年12月13日の19時に開催された講演会のテーマ「アール•ブリュットは現代アートのなかに溶解することができるのか?」(« L’art brut est-il soluble dans l’art contemporain? »)
について、スピーカーとして招待されていたクリスティアン•ボルタンスキーの発言をキーワードにしながら、少し深く考察してみたい。

アール•ブリュットは、今日芸術の一ジャンルとして注目を集めているが、何をどのようにアール•ブリュットのカテゴリーに分類するかはそうはっきりした境界線が無い。またの名を「アウトサイダー•アート」という通り、一般的に、型にはまった芸術教育やトレーニングをキャリアに持たない独学の芸術家をこれに当てはめてみたり、あるいは、精神疾患を持つ患者の独創的な制作行為というものもこれに分類されることがある。しかし、この講演では、近年盛んにもてはやされることになった新しいカテゴリーの確立自体が曖昧さを含むものだという点で議論が展開された。

ボルタンスキーが初めて自分自身の制作行為と「アウトサイダーなるもの」との結びつきを意識することになったのは1972年に遡るという。ただし、当時の意味されたものは現代のそれとは大きく異なる。芸術家が別個に個人的な神話を独自の方法で表現したり、ボディ•アートという斬新な方法がとられ、これまでの枠から逸脱する形で多くの芸術家が新しいパフォーマンスの形や表現様式を模索していた時代である。この背景からすれば、アウトサイダーは、これまでの規範を壊し、新しい「規則」/règleを芸術領域の中に造りだそうとする「よそもの」であった。したがって「アウトサイダー」はあくまでも芸術の外側あるいは境界に侵入しようとしていたのであり、カテゴリーではあり得なかったのである。

ボルタンスキーはアウトサイダー•アートとも芸術一般とも明言すること無く、芸術表現行為がひとつのユートピアを表象することが本質であると続ける。ただ芸術教育を受けた者が規範に従いながらユートピアを作ったならば、これはいわゆる「芸術」と呼ばれるが、たとえば芸術の素人や子ども、プリミティブな人々が日常的な行為の一環として、造形を通じた表現行為によってユートピアを実現したのなら、それはしばしば「アウトサイダー•アート」として命名され、そうでなければ「遊び」と命名されるのではないだろうか。このことは非常に重要で、そもそも「遊ぶ/jouer」ことは表現行為を成り立たせる欲望の本質である。この「遊び/jeux」の結果がユートピアの確立であり、それをしばしば「芸術」とよび、またあるときは名付けられることも無い。これら二つの結果を隔てる境界線が何かを考えるならば、それは表現者のキャリアの背後にある芸術教育の有無ということになってしまう。

これらをふまえた上で、この「よそ者(アウトサイダー)」と「芸術」はシステム上あたかも明確に隔てられているようだが、実際に作品のクオリティーや表現されたユートピアの性質を目にしたとき、これを二分するのは決して簡単ではない。カテゴリーとして明確に定義するのが難しいのも理解できよう。さらに、展示の方法が多様化し、「芸術=美術館で展示されている作品」という等式が過去のものとなった今日においてはこれらを発表方法において区別することも不適である。

「演じながら生きるのか、生きるために生きるのか/jouer la vie, vivre la vie」
ボルタンスキーによれば、芸術家として生きることによって、人生を演じるために生きることができるという。例えば自らの不幸を、不幸な私という作品の形にして発表し、人々に鑑賞してもらうことによって、自分の不幸をリアルなものから、あたかも演じるべきシナリオへと変貌させ、芸術家である自分自身はそのシナリオを人生というフィルムにおいて演じながら生きていくことができると彼は述べる。彼はまた、ルイーズ•ブルジョワや他の芸術家において、自己の精神的な苦痛や辛い記憶を同様のプロセスによって昇華させる方法としての表現行為の例を引用しながら、アウトサイダー•アートというカテゴリーの適切性を一度無に帰す形で、必要不可欠な行為としての制作が芸術表現であると断言する。

彼が述べた芸術表現の本質は、アートセラピーと呼ばれる精神疾患を抱えた人々が受ける治療とほぼ同じプロセスとゴールを持っている。今回テーマとして取り上げた、アール•ブリュットのカテゴリーの問題、あるいはアマチュアの表現行為を芸術とどのように関係づけるかという問題は、曖昧さを含むゆえか、とても興味深い。この講演では、「遊び」の問題をはじめ、幾つもの考察すべき重要なテーマがちりばめられていた。それらに関してもまた折りをみて考えてみたい。

01/7/12

Art Brut, les dessins d’hiver

アール•ブリュットは現代アートにおける新しい動きや芸術的な傾向を語る上で非常に重要なカテゴリーである。なぜなら今日、型にはまった芸術的教育を受けていない芸術家の活躍が注目されたり、テクノロジーの発展によって素人であるにもかかわらず写真や音楽を簡単に加工したりすることができるようになった結果、そもそも、「プロフェッショナルな芸術」とは一体何か、という根本的な問いが投げかけられるようになってきている為である。

芸術的教育を受けていないけれど彼らの制作が芸術領域で重要なものとして注目されている作家たちを「アウトサイダー」と呼んだりもする。遡れば、彼の死後に大量のデッサンが自宅から発見されて有名になったヘンリー•ダーカー/Henry Darger(1892年生)は日本的な「かわいい感性」に合致する為か日本で大変有名である。

ヘンリー•ダーカーは自身の中にある子どもの王国のイメージを制作し続けた。裸の少女にはしばしば男性器が見受けられる。それらは彼が19歳から構想を練っていた大長編小説、非現実の王国にて(In The Realms of the Unreal : The Story of the Vivian Girls, in What is Known as the Realms of the Unreal, of the Glandeco-Angelinnian War Storm, Caused by the Child Slave Rebellion)の本人による挿絵である。

彼が引きこもってこの長編物語を執筆していたことは知られている。
彼のイラスト的な絵画を当時のものとして斬新と捉えたり、大きな文脈での重要性を発見することは自由だが、彼はおそらく自分の持ちきれないイメージを体現化するためのひとつの手段として、この長編小説を執筆していたのだろう。そして、目に見える風景を挿絵として描いていたのだろう。

アウトサイダーアートとして彼が有名になることはアウトサイダーアートというカテゴリーを必要とする現代のアートムードの都合でしかないのだ。

先日、アール•ブリュットを専門とするパリのギャラリーであるgalerie christian berstにおいてクリスティアン•ボルタンスキーとギャラリスト、フィリップ•ダジェンによる鼎談が行われた。テーマは、「アール•ブリュットは現代アートのなかにとけ込むことができるのか?/L’art brut est-il soluble dans l’art contemporain?」。議論は全体として、ボルタンスキーが自分自身を現代アートの文脈の中にどう位置づけているか、そしてアウトサイダーアートと自分自身の制作をどう位置づけているか、というラインを軸に進められた。

そもそも今日あいまいであるプロフェッショナルなアーティストとアマチュアの境界線。さらにはもっと曖昧であるアウトサイダーの定義。美大のディプロム、アーティストとしてのフォーメーションを経ていないと言う点でボルタンスキーは自身をアウトサイダーであると言わざるを得ないようだ。しかし、2010年のドキュメンタ、数々の展覧会に代表されるアート界第一線における活躍はいわゆるアウトサイダーアートの典型的な姿ではもちろんない。

もう一方にあるアウトサイダーアートの強烈なイメージは知的障害者や精神障害者によるアート、あるいは彼らの治療としてのアートセラピーという形。ボルタンスキーはこのことに引きつけて、付け加える。自分自身が精神的に大きな問題を抱えていたこと、芸術作品の発表という形でその問題を外側へ向けて解放してきたことによって、作品を制作する以前に比べて幸福な人生を送っているということ。必要不可欠な行為としての芸術表現行為を明言するのである。

アール•ブリュットはパリにもこのジャンルを専門にしているギャラリーが複数存在するほどに、現在モードのアートジャンルの一つである。しかし、その発見と発表については、彼らを大きなコンテクストの中に巧みに位置づけ、イントロデュースするギャラリストやキュレーターといった第三者の貢献が大部分を占めているように思える。

たしかに、さまざまな芸術的コンテクストを知らなければまったく理解することのできないような複雑きわまりない作品に頭を悩ませる状況からすれば、しばしば、子どもの絵やアウトサイダーの絵は非常に新鮮であり、斬新である。なぜだろう。それはしばしばストレートであり、またあるときは秘密無く「意外」だからである。

ここに、60歳を持って初めて定期的に絵を描き始めた私のよく知る一人の男性の一連の作品をあげる。絵というよりは、クロッキー帳になにげなく描かれたイラストのようだ。
私にとって、組み合わされたイラスト的要素や、多視角的な描写、色彩の組み合わせ方は非常に興味深い部分であるが、そのことについて論じることが大切である気はあまりしない。名作とアウトサイダーの作品、素人の作品と子どもの絵、これらにどのように言葉を与え、評価することができるのか、と考えてみることはわくわくするが同時にとても難しい。

2011 winter 1

2011 winter 2

2011 winter 3

2011 winter 4

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01/1/12

Edvard MUNCH, L’oeil moderne

Edvard Munch
L’oeil moderne
21 septembre 2011 – 9 Janvier 2012
Centre Pompidou

エドワード•ムンク展を訪れた。
パリのポンピドー美術館で2011年9月から開催されていたのだが、ぼうっとしていたら見逃してしまいそうだったので、年が明ける前にと慌てて訪れた。実は草間弥生展も平行して開催中である。こちらの展覧会については別の記事でご紹介したい。

エドワード•ムンクは1863年に生れ、1880年頃から絵を描き始めている。象徴主義や前表現主義の枠組みの中で捉えられ、20世紀の画家というよりはむしろ19世紀末の画家として認識されることが多いのだが、彼の著名な作品の多くは1900年以降に制作されている。1944年に没するまでの長い芸術家人生の中で、エドワード•ムンクは絵画の他にさまざまなジャンルを広く越境しながら、彼の主要なテーマである人生の孤独や愛というものを多様に表現してきた。

今回のポンピドーセンターにおける展覧会 »L’Oeil Moderne »では、ムンクの絵画作品だけではなく、彼が興味を持っていた映画製作や写真、雑誌やラジオという多岐にわたる表現活動も視野に入れることにより、ムンク作品のモダニティの性質と彼の問題意識について我々を考察に誘うことになる。

この展覧会の門をくぐると、我々はまず最初に、ムンク自身の撮影による映像作品を目にすることになる。

展覧会は、『叫び』とそのほか僅かの作品しかムンクの世界としてイメージを持たない鑑賞者にも丁寧に多様な作品世界を開くようにしてスタートする。

『思春期』は原題で文字通り「変わり目」。少女の背後には不定形のしかしはっきりとした影がある。ムンクはこのテーマをのちにも描いているが、やはり暗色で少女の内なる変化を具現化した形でのなにかを絵画上にはっきりと描いている。

『二人の人間、孤独』(1905)、一人の男と女が距離を保ったままお互いの足で地面に経っている。後ろ姿からはその二人の視線は見えない。二人の人間は男女であるけれどもその二人の間にはなんの関係性も会話も聞こえてこない。向こう側には渦の巻く海のような世界が見え、二人を取り囲む空気は不安定で心もとないニュアンスがある。ムンクは孤独をテーマにした作品を後にも作っているが、この作品は後のものに比べて背景や地面のタッチに質感が感じられる。孤独であるけれども描かれた空気や地面の質感によって少し救われている感じがするのだ。

主要なテーマの反復はムンクの回顧展を一周すれば明らかである。たとえば、孤独、嫉妬、病む少女といったテーマは何十年にわたりしばしば繰り返されている。テーマの反復は、アーティストの関心の深いことを表しているのだが、別の見方をすることもできる。テーマの反復性は作品の複製可能性も意味する。10年後に同じテーマに着いて別の視点で全く新しい作品を制作するというのではなく、構図や色彩がほぼ同じものとしてのテーマの反復は、ムンクが写真や映画というメディアに関心を持っていたことを鑑みれば、19世紀末ロダンがすでに彫刻を鋳型で量産することで実施していたような芸術作品の量産への関心を期待させる。

繰り返されるテーマの作品をまとめた第一章「反復」を終えると第二章は写真メディアを通じたムンクの「自伝」へと導かれる。

病める少女

ムンクは自画像も多く撮影しているが、私にとって興味深かったのは、自己の展覧会の様子を多く撮影していることである。展覧会場に人が居ない様子や、額におさめられた「病める少女」など絵画作品を撮影し、写真メディアという形で記録をのこしている。とりわけこの写真では、会場の様子や訪問者を含めて撮影したのではなく、作品をフレームいっぱいに収めている。つまり、現代であればカタログを制作する際にすべて作品はイメージ化されるというプロセスが、アーティスト自身により行われたという点で興味深い。アーティストは自身の絵画が写真となることによってより軽やかな記録となることを知っていたのだ。

ムンクは若いとき美男子であったらしい。「通りかかったら人が振り返るほどの」なんてステレオタイプな形容がフランス語でされてあった。それだから、か、それなのに、なのかムンクは幸せな恋をあまりしなかったらしい。この裸婦の絵は、部屋いっぱいに彫刻を含め、さまざまなフォーマットで展示されていた。よく見れば、女性は涙を流していた。

ドラキュラ

吸血している女性も反復されたテーマの一つである。ムンクは神経を病み、入院生活を送ったこともあるそうだが、吸血鬼の絵を何度も反復してみせられると、その絵の具を運ぶタッチも生々しく感じられる。このようにウエイトのあるテーマをもって描かれた作品は再び描かれても、やはり重々しく辛いのであり、ここでは、テーマの反復はアーティストの世界を明確に描き出しており、上述したような作品の複製性とはほぼ関係がないようにすら思える。

嫉妬

彼の自画像における表情の描き方には特色がある。とりわけ、何らかの感情をテーマとしている作品において、彼自身が登場するけれど、はっきりと悲しいとか怒っているとか、そのような単純な表現ではないのだ。そこにあるのは、「放心」の類いであり、「欠落」の表現である。かの有名な「叫び」を見て、感情を述べよと言われても述べづらい。それは欠落しているゆえにそこに取り巻くすべての暗色を担うことのできる表情だからである。
ここに嫉妬のムンクがいる。彼は怒っているのではない。泣いているのでもない。ただ、部屋の隅にどうにか居続けることができているけれどもうすこしのところでなにかが壊れていきそうな、そんな頼りないオーラを感じさせるのだ。

後年に彼が描いた自画像。ちなみにやはり空虚な表情をしている。

時計とベッドの間の自画像

老年期のムンクの自画像だ。掛け時計とベッドの間に自分の老いた姿に望みを失ったかのような彼自身が居る。時計は言うまでもなく時間を刻むものだ。彼に残された時間を歯に衣を着せることなく刻々と告げていく。ベッドは彼が息を引き取るべき場所だ。そこには時間の終わりがある。

この展覧会に「叫び」はやってきていない。「叫び」がなくとも、ムンクの制作の全体像が小説を読むように丁寧に構成されているような展覧会であった。とりわけ、彼の写真や映画、雑誌という20世紀メディアへの強い関心と作品への影響について考えてみることは興味深い経験となった。

展覧会はあと8日間、2012年1月9日までの開催である。