06/3/12

ゴスロリ衣装を外国で着ること。

Part2もお楽しみに!と見栄を切ったものの、Part1の次が必ずしもPart2でなければならないなんてことはなかろう。今回はただ、あることについて、長い間魚の骨が喉につっかかっているように、語り切らないはがゆさを少しでも拭い去るべくこの記事を書いてみる。

マンガ、オタク、クールジャパンの代名詞で語られる日本の現代文化は、多くの現象がそうであるように、当人の希望やコントロールの外で勝手に繁殖し、消費され、再生産されてきた。現代文化だけではない。いわゆる日本らしいイメージを喚起するもの、禅のエスプリや柔道・茶道、寿司を始めとする日本食、着物や和小物は、一度日本から旅立った後は、どのように享受され、発達させられるかは、日本人の意図にしばしば無関係だ。

某大先生が以前ご自身のブログに載せていらっしゃった、「”クールジャパン”はなぜ恥ずかしいのか」という凄い記事が私の喉に刺さった魚の骨をつるっと取ってくれる気がして、何回も読んだ。取れそうで取れなかった。そもそも、自分で考えようともしないで、先生の書いたものを読んで問題を解決しようなんて、安直な態度がいけないのだ。いや、この記事は凄いのだ。おかげで、なぜ「ゴスロリ衣装を外国できること」是非と意味を考えなければいけなくなってしまったのかは明確にわかったのだから。

私は人生で数えられる程度にゴスロリ衣装を着ている。一人で鏡の前で着たという極めてカウントしづらい状況を除くと、
1度目:京都大学交響楽団の定期演奏会後の打ち上げの席
2度目:大学4年生の時に京大で行われた日本記号学会大会
3度目:コルーニャで行われた国際記号学会
4度目:2010年のジャパン・エクスポ(パリ)
5度目:フランス国立東洋ギメ美術館で日本サブカルチャーについて講演した際
6度目:ニヨーという街で日本現代文化について講演した時
7度目:ランジスという街で日本文化と料理について講演した時
数えこぼしがあるかもしれないが、とにかくこんな程度である。
たしかに、日本で着ているより外国で着ている方が多い。

ちなみに私はコスプレイヤーではない。ゴシックロリータの衣装は一張羅だ。
コスプレイヤーではない、とは一体どういうことか。8回もコスプレをしているというのに。
私にとってのコスプレイヤーは、コスプレを楽しむ人であり、とりあえず利益を得るためでも、人に頼まれたわけでもなく自主的にコスプレをする人々だ。分析によると、私がコスプレをするのは、第一にリクエストがあった時、しかもそれが講演会などのお仕事の時、学会などで発表のテーマに関わるとき、打ち上げで絶対みんなにウケると確信を持っている時のみだ。この打算性は、コスプレイヤーの精神から程遠い。

しかし、文化現象が一度、元来のコンテクストを離れると、ふわふわと勝手に飛んでいってしまい、全く別の文化圏で異なった容貌に育ってしまうのと同様にして、私のこの堕落したコスプレは、それを目にする人にとって、私がコスプレイヤーであるか否か、私がホンモノかニセモノかの真偽とは別のレベルで、勝手に受容されてしまう。なるほど、外国でコスプレというコードを提示することは、いったい責任重大な行為なのだろうか?ニセモノコスプレイヤーの私がゴスロリを着てゴスロリを語ったら、それは人々を欺くことや、カルチャーを歪曲して伝達することになるだろうか。

私の答えはもちろん否である。

日本人であるアイデンティティを背負って、日本のサブカルチャーを語ることは無論、存在感のあることだ。一方で、ある文化現象について全くニュートラルな立場でありのままを伝えることが果たして可能だろうか。鑑賞者には、彼ら自身の関心を通じて、知りたい項目を選択し、勝手に理解し消化する権利がある。それと同様に、提示する者には、自身の目的とコンテクストに惹きつけて、バイアスを伴ってこれを語る権利がある。さらに言えば、私にとって、このことは権利の問題と言うよりも、「文化現象の越境」とは本質的にそういうものなのだ。完全に透明な文化紹介も、究極に無臭なカルチャー輸入も、存在しない。信じているとすれば、そんなものは、提示者の思い上がりである。提示者のアンバランスな語りを外から批評するのはたやすく無責任な行為だ。

世界でちやほやされてきた、クールジャパン・カルチャーは遅ればせに外国の人々に向けて日本人自身によっても語られるようになった。しかし、確かに多くの日本人がこの状況をどことなく不本意に感じているようだ。日本人です、と公表するやいなや、「マンガ!」「カワイイ!」と余りにも少ないキーワードで表象されてしまう現実に、屈辱に似た反感を抱いているようだ。

不本意に感じることや、誤解がある思えるならば、自らの言葉を使って直接コミュニケーションに乗り出すことができよう。提示する人それぞれが各々の目的に即してこれを語っているのと同様に。あるいは、例の「恥ずかしさ」を超えて、文化輸出とはこういうことだよね、と全ての結果に寛容になって達観することすらできよう。

私が外国でクール・ジャパンを語るとき、私は自分の目的に即して、語りたいことの文脈に引き付けてこれを提示する。それはニュートラルでも無臭でもないことを私は知っている。私はそのことに罪悪感を感じないし、それが私が語る意味だと確信している。ただひとつ、このような現場で、私は嘘を絶対つかないし、悪意で意味を歪曲させたりすることは、決して、ない。

なんとなく恥ずかしいと口を閉ざすよりも、それがどうして気になってしまうのか、知ろうとする態度を、私は選択する。

gothic lolita, 2010 summer, Paris