10/31/12

« leurs lumières », Exposition @ Abbaye de Saint-Riquier

« leurs lumières »
exposition du 13 octobre au 16 décembre 2012
Abbaye de Saint-Riquier Baie de Somme
site de l’exposition
Abbaye de Saint-Ruquier

 

Abbaye de Saint-Riquier, Baie de Somme

Jean-Louis Boissier が巨大なSaint-Riquierの修道院を、メディアアートの展覧会開場に作り変える。展覧会タイトルは「leurs lumière/ their lights」である。パリおよびアミアンやジュネーブで活躍するメディアアーティストたちがそれぞれ、「彼らの光」を自身の感性と経験に基づいて解釈、表現する。

Artistes de l’exposition « leurs lumières »

本展覧会でキュレーターを務めたJean-Louis Boissier(メディアアーティスト、パリ第8大学教授、国立高等装飾学院講師)によって書かれた展覧会についてのテクスト(本展覧会カタログ掲載)は、『彼らの光:照らし出すこと、光を失うこと』(« Leurs Lumières : illumination et aveuglement », texte on the site)。光がある場所には、必ず影が存在する。そして、光の届かない場所には闇があり、あるいは強すぎる光は私たちの目を失明させる。さらに、光がありすぎる場所では逆説的にもわれわれは、何も見えないと感じるだろう。これは、闇といったいどう異なるのであろうか。この展覧会では、参加アーティストのそれぞれがまさに彼ら自身の光とそれと共にあるものについて個性的な取り組みをしている。ボワシエ氏による全体のキュレーションのストーリー展開が秀逸であること、そして作品それぞれの視点が非常に興味深いこと、この両面から、とても素晴らしい展覧会であると思った。(私自身はカルチュラル•メディエータとしてレセプションツアーの企画などに関わらせていただいた, blog de mimi

この展覧会コンセプトのもっと詳しいこと、およびキュレーター•インタビューは次回の記事に送ることとし、さっそく各々の作品を見てみよう。

 

 

 

天使探知機 /Détecteur d’anges

Détecteur d’anges, Jakob Gatel & Jason Karaïndros

ー沈黙して、光の中心を見つめてごらん。ほら、天使がとおり過ぎて行ったでしょう?ー
« un ange passe »はフランスのことわざで、沈黙が訪れた時、「天使がとおり過ぎた!」という。我々の忙しく雑然とした現代的な社会生活において、なるほど、沈黙はめったに訪れない。つまり、天使もめったにやってこなくなってしまった?このランプはその部屋にいる人がおたがいにシーッといいながら静寂を作らないと、決して光を灯さない。ひとたび静寂が訪れた時、ランプはそのあたたかい明かりの中に天使を誘い出すように静かにまたたく。

Visite pour les participants, le 12 octobre 2012

 

 

私を照らしだして/ Light my Fire

Light my Fire, Julie Morel, 2011-2012

クリーム色の壁にかかれた文字は部屋の蛍光灯がよい角度で当たるか、あるいは自分が壁に近づいて斜めから文字を眺めてみるか、とにかく黙っていては読めないようだ。このテクストはジョルジュ•バタイユのLa Part maudite(1949)からの引用でトートロジー的ディスクリプションを大文字•小文字、様々な字体が入り交じり、織り上げられたテクストである。周りの明かりが全てが静かに消えた時、Julie Morelが細心の注意を払って繊細に配置構成したバタイユのテクストが、緑色の炎のように浮き上がる。

 

マッチ売りの少女/ La Petite Fille aux allumettes

La Petite Fille aux allumettes, Mayumi Okura, 2007-2012

荘厳なサン•リキエの石造りの修道院での展覧会に際し、キュレーターのJean-Louis Boissierが演出全体を通じて選んだ色ははっきりとした青である。ところどころ欠けたりごつごつとしている石の壁の様子が時間の流れを感じさせることや、10月半ばとなれば夜になるとかなり寒いことなど、すべてのシチュエーションが、ずっと昔にどこかの国でとても貧しくひとりぼっちでマッチを売り歩いた、小さな女の子の少し心細くて身にしみる寒さを訪れる人に感じさせる。

Mayumi Okura(大蔵麻由美さん)は、物語とその世界観をもっとも繊細な方法で鑑賞者に追体験させる。彼女はこれまでも、メディアアートのなかでも、テクストの意味をどのように見せるか、あるいは見せないか、物語やテクストの意味はどのようにして新しく体験され、まったく異化された行為となりうるのか、ということに焦点を当てた素晴らしい作品を多く発表している。(artiste website

この展覧会で展示されているマッチ売りの少女は、アーティストが2007年から継続的に取り組んできた主題のひとつである。鑑賞者は、マッチ箱から一本のマッチを取り出して、擦る。石の壁の少し肌寒い世界に、ぱっと橙色の火が灯る。鑑賞者はそれを大切にもう片方の手で守りながら、向かいに設置されたスクリーンに目をやる。すると、マッチの炎を中心にしてその明かりが灯った部分に、童話『マッチ売りの少女』のお話が、2行、3行、すこしずつ現れる。私たちは、それを読もうと目で追う。しかし、その物語の断片はふわふわとどこかへ遠くへ行ってしまうので、私たちはそれに追いつくことができない。やがて、小さなマッチの火は消えてしまう。

そのとき、私たちはもう一度マッチを擦るだろう。ちょうどマッチ売りの少女が、寒くて凍えるクリスマスの夜、天国に行ってしまった優しかったおばあちゃんを思い出して、その想い出を探しながら何度もマッチを擦るように。幸いにも、私たちは、マッチ売りの少女が彼女の最後のマッチをつかってそうしたように、大きな炎を得るためにマッチを束にして燃やす必要はない。私たちは、マッチをたくさん擦っても彼女に追いつくことはできない、ただそこにあるのは、小さな女の子の物語の断片なのである。
ー「その手は、かわいそうに、ほとんど寒さでこごえていました。」

 

カメラ1、ショット8

Caméra 1, Plan 8, Marion Tampon-Lajarriette, 2008

Marion Tampon-Lajarrietteは映像作品を数多く作ってきたメディアアーティストである。スクリーンいっぱいに映し出された海の様子は、一見するとほんとうの海のようだが、映像をよく見るにつれ、その波の様子に目をこらせば凝らすほど、何らかの法則や計算によって作り出された「イメージ」であることが明らかになる。したがって、この海は見たことがあるようでないような様相をしており、深く霧がかかっておりどんよりとした空に押込められている。波はかなりの高さを持って大きくうごめいている。波の高い部分や波同士がぶつかって打ち消された部分が白い筋となって見えているが、じっと見ていると描かれた写実的なタブローのようであり、あるいは彩色された写真のようでもある。

実はこのカメラワークは1948年に発表されたヒッチコックの映画『La Corde』のあるシーンに置けるカメラワークを下敷きにしてアーティストが修正を加えて作り上げたものである。そのシーンとは、この映画の冒頭でブランドンとフィリップはデイビッドをアパートの中で絞殺するシーンである。修道院の中に、銃声とデイビットの叫び声が響き、この映像作品は幕を閉じる。映画におけるカメラの目線と重層的に音声を重ねること、そしてその人間の営みに、関係もあるはずのない超自然としての海が共鳴してうごめくようなことは、なるほど鑑賞者を奇妙な思索に招き入れる。

 

気ままに気にせず/ S’abstraire

S’abstraire, Donald Abad, 2011

アミアンのボザールで教員をしているDonald Abadは2011年飼い猫と三日間の冒険に出た。三日間という時間は、獣医に相談した結果、アーティスト自身にも猫にも健康上負担がない限界の時間であることから定められた。冒険とは、三日間猫と二人(?)っきりで、できるだけ平で、向こうの向こうまで世界の水平線が見えるような場所にキャンプし、自炊し、歩き回るという冒険だ。あまりに何もない場所にいくので、猫がずっと遠くに行き過ぎてしまわないように、あるいは野良犬や他の山の動物に危害を加えられたりしないように、二人を結びつける長い長いロープが猫の首輪に結びつけられた。このロープはほんとうに長いので、猫は実に自由だ。アーティストは猫にお願いしてカメラマンになってもらう。冒険のビデオ映像は猫が撮影したものだ。猫の背の高さから撮影され、猫が歩くように左右に大きく揺れながら、右へ左へ「視線」が動いて行く。何もないだだっ広い場所なので、太陽が沈み、やがて太陽が昇る光を彼らは前身に受け止める。猫の撮ったビデオも、たくさんの光を収めている。

アーティストの猫は、生まれながらにして盲目である。右に左にゆらゆらと歩き、飼い主の居場所は音や匂いで確かめている。太陽が沈む景色に対峙し、だだっ広い草原の中を大きな目を開いて興味深く歩いて、この猫はビデオを撮影した。その映像を私たちはあたかも猫の視点を追体験するかのようにして目にしていた。しかし、ほんとうは猫は見ていない。猫の目は光を見ないし、飼い主の顔も、沈む太陽も見ていない。視線を共有したのは、猫と私たちではなく、鑑賞者としての私たち自身である。

 

 

目を閉じて/ Fermer les yeux

聴こえないものは聴きたくなり、触れないものは触りたくなる。見えないものは、どうしても見たくなる。Tomek Jarolimのインスタレーション「目を閉じてください」は、そんな押さえ難い欲求に訴えかける。鑑賞者は椅子に腰掛ける。正面には明らかに何色ものバリエーションのある照明の集合がある。そうか、これから何やら光のパフォーマンスを見せてもらえるのだと期待する。しかし、そこでは何も起こらない。もう一度、インストラクションに目をやる。
「目を閉じて。」

 

 

日食/ Éclipse Ⅱ(série Cosmos)

Éclipse Ⅱ ( série Cosmos ), Félicie d’Estienne d’Orves, 2012

真に丸いスクリーンが壁に浮かんでいる。この作品は、série Cosmosのなかの一作品、ビデオ彫刻である。アーティストがこの作品において問題にしているのは、人がものを見る時のプロセスと、視野を形成する上での条件である。不動に見える日食の円形スクリーンに映されたプロジェクションは絶えず回転し続けており、天体物理学的現象への思索を見る人に提案する。なるほど、鑑賞者がどこにいるかによって、この日食の光や影の有様が全く異なる。

 

 

ブラインド•テスト/ Blind Test

Blind Test, 2009, Michaël Sellam

2センチの赤レザー光線が、直径1.5センチの壁穴からのぞくという作品だ。二つの強烈なレザー光線は向かい合った壁に一つずつ隠すように配置された。壁には危険を示す注意書きが。
「これらの穴を決してのぞき見てはいけない。そのときあなたの目は標的になってしまうから。」

 

 

パラレル/ Parallèles

Parallèle, Marie-Julie Bourgeois, 2010-2012

8m四方の白い部屋に入ると、その中心に白い台と球が据えられている。このやや大掛かりな装置はインタラクティブ•エンヴァイロメントとして構築されており、鑑賞者が球体を動かすと白い部屋の外に設置されている照明装置がコンピュータ•プログラムを経て動き、部屋に差し込む光の角度や強さが変化する。白い部屋の中に差し込んでくる平行な光線は、ある瞬間における太陽のポジションから地球に注がれる光線に対応している。

 

 

ルソーの光/Lumières de Rousseau

Lumières de Rousseau, 2012, Emeri

ルソーのテクストからの80カ所の引用は、哲学的なもの、政治的なもの、あるいは自伝的なもの、様々な主題にわたる。タブレットの画面に映し出されるルソーの引用テクストを見れば、光に関する言葉ー光、太陽、影、照明、闇、きらめき、といった言葉ーが浮かび上がっている。鑑賞者はこれらのテクストを表示するiPadを手に取り、ちょうど本を読むように目の高さにこのディヴァイスを位置づけて、展覧会会場を歩きながら、このテクストを朗読するように期待されている。鑑賞者がiPadを手に取って朗読を始めると、もう一つのディヴァイスは朗読者の顔を映し出し、もっと別の鑑賞者にそのイメージを伝える。このコンセプトは、2011年7月京都の大覚寺で行われた展覧会および、2012年5月にジュネーブのルソーにまつわる通りや地区でコレージュ•ルソーの生徒達の協力により実現したプロジェクトにも先行されたものである。(Emeri website here)

Lumières de Rousseau, 2012, Emeri

本展覧会は、2012年12月16日まで開催中です。
今回は展示作品とアーティストをご紹介しました。次回は本展覧会キュレーションについておよびキュレーター•インタビューを掲載します。お楽しみに!

10/28/12

« livre comme thème artistique »/ 「本」に関わる作品 dOCUMENTA(13) @Kassel

カッセルで行われた第13回ドキュメンタを訪れた。2012年6月9日~9月16日の会期(100日間)であったのだが、私が訪れたのは9月14日~16日の最終三日間にかけて。3ヶ月も続くアートイベントの最後の三日間というのも、もはや作品がくたびれているのでは!なんて予想するが、ドキュメンタに関わる様々な人たちの努力故であろうけれど、まったくそんな印象もなく作品はぴしっとしていた(と思う。)私はざんねんながらドイツ語を話さないし読まないが、基本的には全て英語でも説明されている。しかし、作品によっては、たとえばいちいち字幕が表示されないビデオ作品やテクストを主要な意味として構成した作品等においては、たとえアーティストが個々のテクストや会話内容の不理解が全体としての作品理解に致命的に作用しないと主張したとしても、それでもなお、そこにあるはずの「意味」をキャッチできないという点で、言葉の壁を感じざるを得ず、そのことが作品鑑賞にとってややざんねんな結果を生じさせていたように思う。もちろん、この難しさというのは、何をどこまで説明する必要があるかというレベルの問題に帰着できるに違いないし、このことは、何らかの媒体で表現されたすべてのものが、作り手から受け手に伝わるプロセスの中で本質的に含有する「非理解性」みたいなものである。

 

ヨーロッパにいながら、ビエンナーレ的なものや国際的なアートイベントに積極的に足を運んだこともなく、カッセルのドキュメンタを訪れたのも勿論初めてである。パリのギャラリーやアートフェア、アートイヴェンとには足を運んでいるものの、なかなかヴェネチアビエンナーレに行ったり、カッセルのドキュメンタを訪れたりできなかった。したがって、まず広大な敷地と膨大な作品の量に驚き、カタログの厚さ(というよりむしろ、各々のアーティストについての言及は少ないのに、こんなにページがあるという事実)に驚き、まあ到底ぜんぶ見ることはできないし、見ようと思わないのがよいということがよく解った。

先に既にアルバム化させていただいた写真群(album1, album2)ですら出会った作品のごく一部なのであるが、今回はその中からさらに恣意的に選択、「本」に関係する作品を発表したふたりのアーティストについて書こうと思う。

 

Paul Chan, Why the Why?, 2012

一人目は、Paul Chan ( born in 1973, Hong Kong, lives in New York)。カッセルで発表されたのは、 »Why the Why? » (2012) という作品である。この作品は、作者であるPaul Chanがある日、床に落ちていたショーペンハウアーの著書『余録と補遺』/ Parerga und Paralipomena (1851年)を拾い上げ、突然衝動に駆られてハードカバーの表紙を中のページとびりびりと切り離し、その汚れて埃にまみれたハードカバー表紙を破り割いてしまおうとした。引き裂こうとカバーに手をかけたところで、ふと、このカバーを90℃回転させて、縦長に持って目の前にかざしてみると、それはもう本のカバーではなく、乾燥して埃っぽくガサガサの人の皮膚みたいにみえた、という日常的におけるしかし非常に奇妙な気づきからスタートしている。

 

その後、彼はこの90℃回転させたカバーをキャンバスに見立てて山を描き始める。描かれた山々はこれまで一度も見たことがない様子をしており、それはひとつには、彼がその山を自分の想像に任せて描いたからであり、もうひとつには、描かれるべきでない本のカバーに特別にもうけられた枠組みの中にその山々が描き込まれることで、それらはあたかもキャンバスの表面にゆらゆらと浮かび、そこから逸脱してしまいそうな印象を与えるからであると、Paul Chanは説明する。

次々と本を壊し、カバーをページから引き剥がして行くうちに、山のようなカバーのキャンバスがアトリエを埋め尽くしていく。このときに明らかになったのは、キャンバス(つまり、カバー)によって、表現主義的な絵画作品となったり、自然主義的であったり、モノクロームであったり、様々な表情が生み出されるという。

 

そして、彼はいう。「私はこれら私が引き裂いた本を、一度も読んだことがない。」

Paul Chanというアーティストは、近年むしろメディアアートの領域で活躍し(2009年 Biennale de Venise etc.)、今回のようなマテリアリスティックな作品制作と平行して、デジタル作品を多く制作していた。その彼のキャリアの中でも、「本」というオブジェクトに対する関心は特筆に値する。Paul Chanは2010年、Badlands Unlimitedというアート本としてのデジタルブックを発表した。(この作品についてのインタビューはこちらで読めます。)アーティストが、電子書籍として作品を発表するということについて、安価であること、インターネットアクセスさえあれば遍在的にダウンロードできるということ、ハードカバーの紙媒体の本よりも半永久的に保存されること、そして、紙の本よりも人々にシェアされ、保存される可能性をもっているということを明言した。

 

“the body as a reader, focus as space” and “time as a medium.”

この言葉は、これまでアートブックをe-book化することに取り組んできたアーティストが、本を読む行為の現代的な新たな可能性を含意して述べた言葉である。読書行為そのものが鑑賞者にとって、いまここではない潜在的な芸術体験をつくりだすアートブックは、今日、ページをスライドするような新たなジェスチャー、アニメーションや音声の挿入やウェブサイト的な重奏構造を構築することも可能となり、根本的に異なる経験をもたらす。たとえば、2010年に編集された »Wht is ? »は10冊のオリジナルブックのテクストをもとに写真とテクストがモンタージュされている。(iPad Kindleのデジタル版および、PDF版(無料)はこちらからダウンロードできる)

本はなるほど写真に見られるようにタテに平にしてキャンバスにして壁に貼られれば、哲学書も子どもの絵本もスタンダールの小説もフラットになり、ケイオスをつくりだすのかもしれない。このことは確かに、アーティストのe-bookへの関心を知る以前にも、今日のウェブ2.0の世界でショーペンハウアーと検索すれば、有名な先生によるありがたいご説明とwiki様による説明、そして誰かがブログにちょこっと書いた感想文がごちゃ混ぜに引っかかってくる状況を思い出させる。アーティストがこれらの本を決して読んだことなく、カバーからページを破り捨てて表紙だけになった本の中に、意味を失ってかさかさになってしまった皮膚のような幻想を見ながらこれをコレクションするのも、共感できなくはない。

 

 

さて、もう一人のアーティストは、Matias Faldbakken ( born in 1973, Hobro, Denmark, lives in Oslo)、本彫刻(Book Sculpture)を世界の至る所で作り続けるアーティストだ。もちろん、本彫刻パフォーマンスだけが彼の仕事ではないので、彼のコンセプトを以下に少しだけ見ることにしよう。彼も本や書かれたものの「意味」について問題を提起するがそのアプローチはPaul Chanのものとは大きく異なる。

 

Ecrire […] est la violence la plus grande car elle transgresse la loi, toute loi et sa propre loi. (書くこと、それは最も強力な暴力である。なぜなら、それは法に背く。あらゆる法に背く。ひいては、書くことそのものの法すらも無視する。)(Maurice Blanchot)

このブランショの書く行為に関する言及をもとに2001年から2008年にかけて »Scandinavian Misanthropy »という3部作を書いている。あるいは、「サイコロ一振りは決して偶然(不確定なもの)を排さないだろう」というマラルメの詩集において告白された不確定の非排除性に関して、言葉それ自体よりもむしろ言葉と言葉の間にあるものに注目するために、一貫性のないイメージとあらゆる読みやすさの考慮を排除した空間配置を追求した作品制作も行った。

 

さて、dOCUMENTA(13)では、グーグル検索の結果を利用してまとめた »notebook »、ここではあるテーマについてMatias Faldbakken自身の興味関心による検索がどのようなアルゴリズムを介して成し遂げられたかをたどることができる。

 

Matias Faldbakken, notebook, 2012

 

 

さいごに、ハプニング的な本彫刻のイメージを見てみよう。

私はこの作品が好きである。最初見たときはよくわからなかったが、そしてこのブランショとマラルメのコンセプトとの影響の説明に基づいてもなお理屈として腑に落ちない部分は残されているのだが、ただ純粋に、このパフォーマンスが好きなのである。せっかくなので、少しだけ言葉で説明を試みてみよう。図書館においてきちんと内容とタイトル順に整然と整理されていた本を本棚から根こそぎ引っ張りだして、あるスペースにぐちゃぐちゃに(見えるように)再配置するというのは、なるほど暴力的な行為だ。しかしこのとき起こっているのは、床の上に無造作に重ねられた本がカバーの色彩や厚みや埃っぽい質感や、本がこれまで置かれていたコンテクストや意味を破壊されて、紙やボール紙や布の山としてそこに塊になっているという状況だ。これらの書物は無意味であり読まれることができない。

 

なぜじわじわこの作品が心地よく感じられたかというと、それはひとえに梶井基次郎が短編小説『檸檬』で描写した、丸善に突如出現した「奇怪な幻想的な城」をとてもクリアーに想像させたためだ。このあと主人公はこの奇怪な城の上に、果物屋で買ったとても美しい紡錘形の檸檬を配置して、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」を完成させる。Matias Faldbakkenの作る本彫刻は、まさにこの檸檬を据えられる前のガチャガチャとした混沌とした色と意味の集積であると同時に、檸檬を仕掛けた主人公のもくろみが成功したならば大爆発を起こして吹っ飛んだはずの「気詰まりな丸善」の棚が粉葉みじんになった後に残された残骸のようにも見える。

 

この本彫刻を目にした鑑賞者の心も少なからず、『檸檬』の主人公が「何喰わぬ顔をして外へ出る」心境に似ている。棚からどさどさと落とされた本は、静謐な図書館の中で明らかに異質であり、本来ならば棚に丁寧に連れ戻されることが予期される。わたしたちは、それを何食わぬ顔で、あるいはこの調子でわたしたちが他の本を一冊二冊、そこに加えたとしても、いや、もっとやる気があるのなら別の棚で思い切り100冊くらい本を棚から引きずり落して逃げてきても、アートなのかと思うと、少しだけ、楽しい気分になるのではないか。

 

そして私は活動写真の看板がが奇体な趣で街を彩っている京極を下って行った。(梶井基次郎 『檸檬』)

(わたしの檸檬がすきなことはblog de mimi old postをご覧下さい)

10/27/12

Toxic Girls Review / 有毒女子通信 vol.10

Toxic Girls Review 有毒女子通信 vol.10

吉岡洋編集の批評誌<有毒女子通信>第10号
「特集:ところで、愛はあるのか?」ついに刊行!!
発行が大幅に遅れましたことを深くお詫びいたします。
本号より36ページに増大・表紙付.中綴です。
勝手ながら年4回の季刊発行、1部¥250に変更させていただきます。
・新刊=第10号「ところで、愛はあるのか?」(2012年10月発行)をご希望の方は、本体*+メール便料金=¥330分の切手をお送りください。あるいはギャラリーにてお求めになれます。

MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/wbr />
〒601-8005京都市南区東九条西岩本町10 オーシャンプリントビル/OAC1階
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY

Photo by JLB, October 26th 2012, Paris, from blog de JLB

salon de mimi, 大久保美紀も
連載 《小さな幸福をめぐる物語》ー第一話 愛と施錠の物語
というエッセイを書かせていただきました。

とてもデリケートなデザインで中をひらくとちょっとピンク色です。ぜひご覧下さいませ。
(ご質問ございましたらサイトを通じてご連絡いただければお返事します)

10/22/12

dOCUMENTA(13) Kassel Photoalbum no.3

dOCUMENTA(13) Kassel Photoalbum no.3 du 14 au 16 septembre 2012

la lumière à travers les arbres, Jardin de Karlsaue, 2012

deux arbres de différent dimension, Jardin de Karlsaue, 2012

la perspective vers l’oeuvre de Guiseppe Penone « Idee di pietra, 2012

un cygne nageant dans le bassin, Jardin de Karlsaue, 2012

un canot sur l’arbre de l’installation de Sinro Ohtake, 2012

trois fenêtres ornées par le vert, 2012

un grand arbre de vie planétaire, Jardin de Karlsaue, 2012

10/22/12

dOCUMENTA(13) Kassel Photoalbum no.2

dOCUMENTA(13) Kassel Photoalbum no.2 (le 15 et 16 septembre 2012)

dOCUMENTA(13), devant la Gare Kassel, Hauptbahnhof

Alter Bahnhof Video Walk, 2012, Janet Cardiff and George Bures Miller

Where to draw the line, 2011-2012, Simryn Gill

Death at a 30 Degree Angle, 2012, Bani Abidi

Dans le couloir du musée de Spohr (Spohrmuseum)

Virtuos virtuell, for the different experience of Spohr’s music, Thomas Stellmach and Maja Oschmann

Untitled ( Book Sculpture), Matias Faldbakken, 2008/2012

(Book Sculpture by Matias Faldbakken)

Aschrott Foutain, Rathausplatz, Kassel, 1987, Horst Hoheisel (Negative copy of the Fountain replaced in 1939 )

A thing is a hole in a thing it is not, 2010, ( new installation for dOCUMENTA in Kassel, 2012), Gerard Byrne

Why the Why?, 2012, Paul Chan

notebooks, 2012

The pack (das Rudel), 1969, Joseph Beuys

Felt Suit, 1970, Joseph Beuys

collection of butterflies cast-offs from the work of Kristina Bush, 2012

Butterflies cast-offs, 2012

a wiper

a wiper

In Search of Vanished Blood, 2012, Nalini Malani

Untitled (Wave), 2000, Massimo Bartolini

paysage de nuit, près de la Gare de Frankfort, le 16 septembre 2012

paysage matinal de Frankfort à Paris depuis le train

10/22/12

dOCUMENTA(13) Kassel photoalbum no.1

dOCUMENTA(13) Kassel photoalbum no.1 (le 14 septembre 2012)

le tapis rouge qui amène les visiteurs vers dOCUMENTA(13)

 

 

Calcium Carbonate (ideas spring from deeds and not the other way around), 2011, Sam Durant

déjà la première bière à Kassel

 

 

Idee di pietra, 2003/2008/2010, Guiseppe Penone

Music of Department Stores, 2012,

Pierre Huyghe

Untitled ( a sculpture whose head is covered with a beehive in a natural environment), 2012, Pierre Huyghe

Mon Chéri : A Self-Portrait as a Scrapped Shed, 2012, Shinro Ohtake

l’Intérieur de Mon Chéri

une voiture « nouvelle Channel » ( New Channel ), dans l’installation de « Mon Chéri », 2012, Shinro Ohtake

M.Yoshioka prend une photo du cygne devant bassin

Strategies of Surviving Noise, 2009, Tarek Atoui

Issa Sambs Atelier, 2010, Issa Samb

Doing Nothing Garden in Peking, 2007-2012, Song Dong

M. Kato, doctorant de l’Université de Kyoto, boit un verre du vin rouge

10/16/12

Sophie Calle : à propos du «capable de voir» et de l’«incapable de voir»

ce texte a été publié dans le site d’ednm, l’exposition « leurs lumières »
« leurs lumières »
Au Centre Culturel de Rencontre de Saint-Riquier – Baie de Somme 
du 13 octobre au 16 décembre 2012

Dans ce texte, j’aborderai la problématique de Sophie Calle qui concerne le «capable de voir» et l’«incapable de voir», traitée depuis les années 80 dans son activité artistique. A travers ce challenge contradictoire, elle tente de résoudre par le langage la question de l’image de la beauté et de la communication humaine.

Sophie Calle, née en 1953 à Paris, a commencé son expérience en tant qu’artiste avec une œuvre intitulée Les Dormeurs, réalisée en 1979, exposée en 1981, constituée de textes et d’images. Elle a été appréciée comme artiste internationale par une œuvre polémique À suivre, entièrement vouée à des actions de filature envers des personnes, au mépris du respect de leur vie privée, ou encore, par une autre œuvre Des Histoires Vraies, dans laquelle Sophie Calle raconte sa propre histoire et les souvenirs intimes de son enfance. Lors de la 52e Biennale de Venise en 2008, en tant qu’artiste représentante de la France, Sophie Calle a présenté son projet très remarqué Prenez soin de vous, avec une scénographie de Daniel Buren. Partant d’un mail de rupture de son amant, se terminant par la formule Prenez soin de vous, elle a réalisé un ensemble de 107 films où l’on voit chacune des 107 femmes choisies par elle, de différentes générations et de différentes métiers, en faire une relecture orale assortie de leur commentaires personnel.

Examinons les caractéristiques de l’art de Sophie Calle que nous pouvons découvrir en regardant une grande variété des œuvres et des expressions artistiques d’une trentaine années de sa carrière. Dans sa première œuvre Les Dormeurs, l’artiste invite ses amis et des inconnus à venir dormir chez elle dans son propre lit afin de filmer des moments de sommeil. Ensuite, elle réalise une série d’œuvres conceptuelles très originales, tels À suivre et Suite Vénitienne en suivant des personnes rencontrées par hasard dans la rue. Son approche artistique se situe complètement à l’opposé des grands artistes qui travaillent sur les sujets fondamentaux et universels comme la vie, la mort, la mémoire de l’humanité, etc. Contrairement à ce type d’approche directe, Sophie Calle choisit une manière très personnelle et intime. Elle nous montre souvent ses histoires et souvenirs personnels, les longues proses d’un inconnu, les souvenirs sentimentaux de son enfance, ou encore, des histoires amoureuses. Ces dernières sont souvent constituées de textes qu’elle écrit et d’images photographiques, et parfois d’objets-témoins des faits et des histoires. L’attitude typique d’appropriation des spectateurs qui découvrent l’art de Sophie Calle les conduit à faire une ré-expérience de celle de l’artiste, voire, «une expérience simulée vécue par l’artiste».

Le fait que la vérité se mêle avec la fiction n’est pas important dans l’art de Sophie Calle. Autrement dit, il faut bien comprendre l’indifférence entre vérité et mensonge qui domine dans son expression artistique, ce sera un premier pas pour apprécier joyeusement ses œuvres. Il ne faut surtout pas chercher la frontière entre le fait et la fiction. Dans tous les cas, les images dans ses œuvres sont reconstituées après l’événement concerné —c’est une reconstruction à partir de la mémoire. Ces images qui sont principalement témoins, insérées dans l’œuvre pour montrer la preuve, sont de manière contradictoire un vrai mensonge. En effet, la véracité d’une histoire ou d’une narration n’a aucune importance dans la constitution de l’œuvre et la réalisation du concept. Comme l’image prise par l’appareil de photo ne représente jamais une seule vérité, l’histoire racontée par une personne ne ressemble guère à un seul vrai récit.

Les Aveugles (1986)
Comme nous l’avons constaté plus haut, l’expérience simulée est une approche modèle pour comprendre l’art de Sophie Calle. Cependant, dans Les Aveugles (1986), l’artiste prend un itinéraire tout à fait opposé. La seule création de l’artiste dans cette œuvre est l’image reconstituée après l’interview des aveugles. Elle a cependant réalisé cette création en poursuivant un processus dans lequel elle fait la ré-expérience —au sens de revivre une situation d’après une expérience vécue par quelqu’un— des histoires racontées par les aveugles.

Les Aveugles est une œuvre polémique dès le départ. L’artiste a demandé à des aveugles de naissance quelle était pour eux une image de la beauté. A partir de leurs réponses, ce fut à l’artiste de recomposer une image de la beauté. Certes, pour sentir le toucher «agréable», ou pour avoir certains sentiments, tel «aimer», nous n’avons pas besoin de la vision «visuelle», mais quant à «l’image de la beauté», il s’agit d’une image visuelle et visible, tel un tableau, ou une photographie. Il est possible d’attribuer le mot «beauté» à une chose agréable au toucher, mais l’image est toujours «visuelle». L’acte de Sophie Calle de reconstruire une belle image à partir du dialogue avec eux est une superposition de l’imagination de l’interlocuteur et de l’artiste, voire, une belle collaboration artistique.

Dans les œuvres de Sophie Calle, le dialogue avec les aveugles, ainsi que la réflexion sur le «capable de voir» et l’«incapable de voir» sont des sujets que l’artiste travaille depuis longtemps. En effet, le dialogue avec les aveugles commença par l’interview réalisée en 1986 quand l’artiste avait 27 ans. Il s’agissait d’une œuvre de collaboration de la visualisation d’images de la beauté.

La Dernière Image (2010)
En 2010, elle rencontra 13 aveugles qui auparavant voyaient puis qui ont perdu la vue, à Istanbul. (La Dernière Image, 2010). Elle leur demanda quelle était la dernière image qu’ils avait vue et a visualisé cette image selon leur témoignage. Leur réponse donne souvent une impression puissante et une émotion violente. Une aveugle qui a perdu la vue à cause d’une erreur médicale témoigne de la couleur blanche du costume porté par son oculiste juste avant l’opération. Un aveugle à la suite d’un accident voit toujours un paysage vert très net qu’il voyait jusque avant l’événement. Un autre aveugle qui a perdu petit à petit la vue se souvient de la salle de séjour de sa maison, du canapé et des meubles, mais affirme clairement qu’il n’a pas de dernière image. Ici, encore Sophie Calle, à travers l’expérience vécue par les aveugles essaye de visualiser leur image «dernière».

 

La dernière image, Aveugle au divan, 2010

 

La dernière image, Blind with minibus, 2010

 

Voir la mer (2011)
En 2011, toujours à Istanbul, une œuvre véritablement significative intitulée Voir la mer a été réalisée, dans laquelle des personnes, qui n’avaient jamais vu la mer, font leur première expérience: voir la mer. Les 14 participants, venus de la région intérieure du Turquie, s’emplissent de l’air marin, du vent et de la musique de la vague, de la couleur du ciel et de la mer, et tournent leur tête vers une caméra qui les filme après ce moment satisfaisant pour chacun. La caméra capte leur expression faciale et même corporelle qui nous transmet leur impression après cette première expérience.

Quelle image de la mer ont-ils saisi? Il est en effet certain que «chacune de leur image personnelle de la mer» saisie lors cette première expérience et «mon / notre image de la mer» (comme Calle la saisit) ne sont pas identiques même si nous partageons le temps et l’espace: ici et maintenant. L’existence de ce décalage absolu met en lumière le fait que la limite de la communication ne se situe pas dans la limite communicative entre le «capable de voir» et l’«incapable de voir». Chaque vision de ce qui est devant nous est une vue subjective propre à chaque individu. De ce fait, la dis-communication ou l’impossibilité de la communication est fondamentalement immanente dans ce niveau-là (cette situation). Nous, êtres humains, ne voyons jamais une image identique avec une autre personne. Ceci semble être une énigme de notre être.

 

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

 

Ce projet artistique de Sophie Calle a été inspiré par la réponse d’un des aveugles :

«Imaginer la beauté, j’y ai renoncé. Je n’ai pas besoin de la ‘beauté’ et de son image dans ma tête non plus. Je ne peux pas voir la beauté, donc j’évite d’y penser jusqu’ici.»

À partir de cette parole d’un aveugle, elle a réussi à approfondir cette problématique en s’éloignant de sa surface pour aller plus loin. Pour elle, le fait qu’elle demande une dernière image s’est fait comme une recherche sur la frontière entre «voir» et «ne pas voir». Par conséquent, l’artiste, qui a déjà vu la mer, arrive à amener au bord de la mer les personnes qui ne l’avaient jamais vu auparavant, afin de partager un même paysage avec eux en temps réel: la mer. De manière contradictoire, l’artiste a compris qu’il est impossible pour l’être humain de partager une image identique de la beauté avec une autre personne au lieu de se contenter du bonheur de pouvoir voir la même chose. En effet, même devant la mer en tant qu’existence absolue, personne ne partage une seule image sur la beauté. Cela est très ironique mais essentiel. Notre perception, passant dans notre système nerveux qui reste toujours un mystère, diffère de celle des autres même si l’on est «ici et maintenant» littéralement ensemble.

Cette conclusion ne nous rendra ni triste ni ne nous donnera un sentiment de solitude profonde, mais juste un sentiment de paix car ce fait est tout à fait logique. À travers la notion de revivre l’expérience de Sophie Calle, nous, en tant que spectateurs, serons impressionnés par son œuvre, tout en sachant que nous faisons une expérience de la variation. Autrement dit, nous entendrons une résonance très faible au fond de notre cœur, comme si cette résonance touchait et faisait vibrer délicatement la corde sensible de notre cœur et celui des autres.

Galerie Perrotin, Sophie Calle « Pour la dernière et pour la première fois », 2012

 

Deux œuvres traitées dans ce texte : La Dernière Image (2010) et Voir la mer (2011), sont actuellement exposée à la Galerie Perrotin (du 8 septembre au 27 octobre 2012). http://www.perrotin.com

 

Rédigé par Miki Okubo, doctorante en esthétique à l’Université Paris 8

Remerciement pour Liliane Terrier pour la correction en français

10/7/12

追記:添い寝/Soine論 少女達のぬくもりを、さがすなかれ。

追記:添い寝/Soine論 少女達のぬくもりを、さがすなかれ。

数日前、ソイネ屋という新たなニッポンの癒し産業についてテクスト(salon de mimi, soine)を書いた。「不穏に感じた」このサービスのまわりをウロウロする幽霊のような存在について、私自身が幽霊のようにしか言及できなかったことを残念に思ったし、そのことに関連して、いただいた感想のいくつかとコミュニケートしてみたいと感じた。私がここに、まだしつこく添い寝考を綴っているのは、そういうなりゆきである。

数日前に当ブログに掲載した添い寝論「添い寝 / soineがなぜ気になるのか」は、次のように締めくくられている。

我々は、あたたかく、やわらかく、いごこちがよく、おだやかで、へいわなものに向かって歩いているようだ。そこにむかう視野が極端に不明瞭であったとしても。

このことについて、ひとつ大切なことを付け加えたい。それは、「おだやかで、へいわな」添い寝は、何がどのように転ぼうと、明日目が覚めたら白亜紀の恐竜達が地球上に蘇っていようとも、そこにセックスの匂いはないということだ。添い寝サービスはとても不穏であるのだが、それは歪んだ欲望のかたちや本来ならば精神衛生上不自然な人と人との距離の均衡をつくりあげるからであって、それが「添い寝」という仮面を被った遊郭@秋葉原であるからでは、けっしてないのだ。

もう一度確認のために暗誦してみよう。
へいわなニッポンの癒しサービスである「添い寝」に、性の匂いを嗅ごうとするのは間違いである。今後まんがいち、このようなサービスをめぐって現実に性的な危機が立ちのぼってきたとしても、それは「添い寝」のほんとうの意味にとって、所詮文字揺れのようなものでしかない。

ニッポンの癒しである「添い寝」のお供は、ホイップクリームとイチゴやベリーがたくさん入った甘くてキレイなクレープみたいなものであり、あるいは、早く食べなきゃ溶けてしまうけれどスプンを入れるのが可哀想なほど素敵に盛りつけられたパフェのようなものである。添い寝にカクテルは必要ないし、ウイスキーの水割りを作る必要もない。私たちは甘いおやつでおなかを満たすのは自由だが、しらふでなければならない。

それから、彼女達が隣にいるからといって、あなたは「可愛い女の子がよこで寝ていて、緊張して眠れない」などと気の効いたセリフを言ってあげる義務もない。あなたは全力で眠ってよく、ワクワクするのもソワソワするのもあなたの自由であるが、その先には何もない。何もないというのは、その期待や欲望にたいして何らかの「行き止り」があるのではなく、文字通り「空虚」なのであるから、あなたの思いがどこかに跳ね返って戻ってきたり、あなた自身がどこかに衝突してしまうこともない。あるのは、ただ、「眠るあなたが独りぼっちではない」という事実だけである。誰かがそこにおり、あなたが眠ることができ、その瞬間あなたは物理的にその空間において独りぼっちではない。求めることができるのは、このことである。

彼女のぬくもりをさがすなかれ。あなたがそこで出会うのは、あなたが世界で一人にならないために、あなたの隣に静かに寄り添う「オンナノコ」なのである。彼女らにぬくもりはなく、その身体の触覚の深いところにある何かを求めても、あなたはもうどこにも行けない。

「少女達のぬくもりを、さがすなかれ。」それはあなたがいつかとても混乱してしまわないための、ひとつの魔法の呪文のようなものなのである。

10/5/12

Sophie Calle / ソフィカル:見えることと見えないことをめぐる3つの対話 1986〜2011年

ソフィカル:見えることと見えないことをめぐる3つの対話 1986年〜2011

『盲目の人々/ Les Aveugles(1986)

『最後のイメージ/La Dernière Image(2010)

『海を見る/ Voir la mer(2011)

 この短いテクストにおいて、ソフィカルが80年代以降引き続き取り組んできた、「見えること」と「見えないこと」にかかわる問題提起と、彼女なりの現時点での結論をあえて言語化してみることにより、美のイメージと人々のコミュニケーションの主題について考えてみたい。
ソフィカル(1953年生、パリ)は、1981年に写真とテクストで構成された『眠る人々/Les Dormeurs』(制作は1979年)を発表し、アーティストとしての活動を始める。物議を醸し出したストーカー行為の『尾行/À Suivre』(1978−)や、自身の想い出や物語を写真とテクストで綴った『本当の話/Des Histoires vraies』が国際的に評価を受ける。2008年の第52回ヴェネツィアビエンナーレでは、フランス代表のアーティストとして選出され、ダニエル•ビュランのキュレーション協力を得て、年齢も国籍も職業もさまざまである107名の女性達にカル自身が過去に交際男性から受け取った別れの手紙を朗読してもらうというプロジェクト『Prenez soin de vous』を発表した。現代では、フランスのみならず世界的のコンセプチュアルアーティストのうち、もっとも重要な作家の一人になっている。

30年間に及ぶ様々な表現行為のコンセプトから垣間見られるソフィカルのアート表現の特徴を確認しておこう。
1980年代前後から、自分のベッドに友人や知人を招待して眠っているところを撮影し(『眠る人々』)、街で見知らぬ人々を尾行して写真を撮影するという一風変わったコンセプチュアルな作品を作る(『尾行』や『ヴェネツイア行進曲/Suite Vénitienne』(1980))。彼女の制作のテーマは、しばしば偉大なアーティスト達がするような、人間の生死や人類全体の記憶という普遍的テーマに正面きって訴えようとする取り組みとは、きっぱりと対照的なアプローチをとる。きわめて個人的で親密な主題の選択。アーティスト自身の身の上話や想い出、見も知らぬ他人のとりとめのない語り、感傷に満ちた家族との想い出、恋人とのストーリー。それらは多くの場合、彼女自身による写真とテクスト、そしてその記憶を証明するオブジェとの組み合わせで展示される。ソフィカルアートにおける鑑賞者の態度の一つの典型は、アーティストの個人体験を追体験することだ。

本当のことと本当ではないことが混ぜこぜになっている事実を「どうでもよいこと」として受け止めるのが、ソフィカルアートに楽しく対峙するための第一歩でもある。どこまでが本当で、どこからがフィクションか思い悩む事は無意味だ。そもそも、彼女の作品の中で提示される写真の大半が後撮り(つまり、記憶からの再発見もしくは再構成)である。物語の真実性を裏付ける目的で挿入されるべき数々の写真はつまり、「証拠写真」でありながら、同時に、あからさまな噓であるのだ。彼女のコンセプトを作品として表現するプロセスにおいて、各々の物語やナラティブの真偽は本質的にどうでもよい。カメラのレンズを通して写真に収められたイメージが「リアル」でありえないのと同様に、ひとびとが思い出し語る物語というものは、いわゆる「たったひとつの真実」とは似ても似つかないものだからだ。

ソフィカル本人の経験を、追体験する事、これはソフィカルアートの一つの典型的方法であったのだが、『盲目の人々/Les Aveugles』(1986)のコンセプトとその実践は、この典型的方法をまったく逆の方向にたどるための試みであると言う事が出来る。盲目の人々の「ことば」によって再構築されたイメージ、これが彼女の唯一の創作であるわけだが、これを得るためのプロセスは、盲目の人々の想像力に基づく「ことば」を、カル自身が追体験しようとすることに依存しているのだから。

さて、『盲目の人々』(豊田市美術館展示2012年salon de mimi みえるもの/みえないもの)はスキャンダラスな作品であった。この作品ではソフィカルが生まれつき盲目の人々に「美のイメージ」を尋ねる。その答えをもとにソフィカル自身がそのイメージを再構成する。イメージというのは、なるほど目で見るものである。好ましい、気持ちがいい、愛するといった感情や感覚のために視覚は要求されない。触りごこちのよいものが美しいものであるということも出来よう。しかし、「美のイメージ」といったとき、それは視覚的な像であり、一枚の絵画や写真のようなものなのだろう。インタビューから得られた盲目の人々の答えから出発し、一枚のイメージを再構築するという行為は、なるほど、アーティストと彼らの想像力を重ね合わせるという点で、素敵な協働作品であると言えないことはない。

ソフィカル作品において、したがって、盲目の人々との対話、あるいは見えることと見えないことをめぐる問題提起は多岐にわたるようにみえるアーティストの表現コンセプトの中でももっとも長い期間取り組まれているテーマの一つである。というのも、盲目の人々との対話は、今をさかのぼる26年前、1986年カルが27歳のときのインタビューに始まる。上述した、盲目の人々が語る美のイメージをヴィジュアル化するといういわば協働作品だ。

2010年にはイスタンブールで13人の、かつて見えていたけれども今は見えない人々に出会う。(『La Dernière Image』,2010)彼らが最後に見たものは何か、という質問を投げかけ、その証言に基づいて、彼らの最後のイメージをヴィジュアル化する。彼らの答えは、しばしば強いエモーションやショックを我々に共感させるものだ。目の手術の医療ミスで見えなくなった人は、手術直前に見た医者の白衣を脳裏に焼き付けており、事故で見えなくなった人は物体が顔面に向かって飛んでくるまで見えていた緑色の風景を鮮明に語る。少しずつ見えなくなった人は、かつてぼんやりと見えていた家のソファや家具の様子を思い出すが、「私には、最後のイメージはありません」とはっきりと述べる。ここでもまた、カルは、彼らの最後のイメージを追体験しヴィジュアル化することを目指し続ける。

La dernière image, Aveugle au divan, 2010

La dernière image, Blind with minibus, 2010

2011年に舞台となったのは同じくイスタンブールの地で、人生の中で一度も海を目にした事のない人々に初めての海を見せるというプロジェクト『Voir la mer』を実現する。トルコの内陸からやってきた、これまで一度も海を見たことのない人々14人が海辺でその風と波の音に包まれたのち、自らのタイミングでこちらを振り返る、という数分間の短いヴィデオ作品14本である。最も長く見ていた人は4分、短い人は1分半ほど、噛み締めるように波の音と風と匂い、そして空と海の色で構成される環境としての「海」に包まれ、それを知り、振り返るときの表情をヴィデオは鮮明に捉える。

いったい彼らが目にしたのは、どんな海だろう。実は、かつて目にしたことがなく初めて海に臨む14人それぞれの見る海は、カル自身が見る海と同一ではない。我々は時間と空間を共有してもなお、同じ視野を持つことがなく、そこにはつねに齟齬がある。この事実はつまり、ディスコミュニケーションが「見えること」と「見えないこと」の間に横たわっているという言説を根本的に打ち消す。見える我々自身が見ていると信じる対象はそれぞれの視覚によって捉えられた主観的なものであり、本質的な意味でのディスコミュニケーションが内在するのはまさにこの段階においてである。我々は誰ひとりとして誰かと同じイメージを「見る」ことが出来ない、という人間の根本的な謎のようなものに接近する。

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

voir la mer, Jeune fille en rouge, 2011

「私が美しいと思うもの、それは海です。視野の果てまで(視覚を失うまで)広がる海です。広がる海です。」
ひとりの盲目の男性のこのような言葉にインスパイアされて始まったカルのプロジェクトは、
「美しいもの、私はそれを断念しました。わたしは美を必要としないし、頭の中でイメージを必要ともしません。自分が美を鑑賞できないので、私はいつもそれを避けてきました。」
という美のイメージを拒絶した男性の言葉を手がかりに、表層を遠ざかることに成功する。最後のイメージを尋ねるその意味は、見えることと見えないことの境界をカルなりに探ろうとした実践でもあった。そして、最終的に、一枚のイメージ(海)の前に、見えていたカルと見えていなかった人々を並べ、そのイメージの共有を試みる事に行き着く。しかしながら、明らかになったのは、我々が一枚の美のイメージの前に、美の存在を共有できるという幸せな幸福ではなく、我々は誰ひとりとして、海という大きな存在を前にしてすら美のイメージを共有する事はないという、皮肉に満ちた本質的な結論であった。我々の認識は、我々自身もよくわからない内部を通り抜け、たとえそこに絶対的に在ると信じられる母なる海を前にしてすら、だれかと分かち合うことはできない。
そのことは、寂しいことでも辛いことでもなく、ごく当たり前であるが故に、とても平和なことである。カルの一連の歩みを追体験する鑑賞経験においてもまた、我々は、それが変奏的追体験のだと納得した上でなお、なにかを感じる。それは、心の深い部分がかすかに「共振」するのを感じるような、繊細な感触なのだ。

*Sophie Calle « Pour la dernière et pour la première fois »
本テクストで取り上げた、二つの作品『最後のイメージ/La Dernière Image(2010)、『海を見る/ Voir la mer(2011)は、現在、Galerie Perrotin201298日〜1027日にかけて開催中の展覧会においてご覧になれます。

Galerie Perrotin: 76 rue de turenne 75003 Paris
 / www.perrotin.com

Galerie Perrotin, Sophie Calle « Pour la dernière et pour la première fois », 2012

10/4/12

添い寝/Soine がなぜ気になるのか

image from http://soineya.net/

そうか、「添い寝」もサービスになったのか。Facebook上で東京のイベント情報をアナウンスするアカウントから発されたリンクが偶然目に飛び込んできて、ふとそう思った。秋葉原という立地、この周縁の文化的なものが築き上げてきたムードを思えば、目新しさも驚きもない、一見すると、既に存在する数々の日本的サービスのヴァリエーションのひとつに過ぎないと見なし、素通りすることもできた。これまでも、日本の風俗産業はおそらく世界のそれよりもクライアントの熱い要望に応えて「癒し」を重視するかたちで、今日まで試行錯誤を続けてきた。ラブホテルひとつとったって、利用者が主たる利用目的以外の部分でも様々な行き届いたサービスが受けられるように細かな気遣いがなされているし、いわゆる売春に関わらない飲食業(そもそも売春は禁止ですから)、たとえばメイドカフェのような空間でも「癒し」がなんたるか不明確なままに、キャッチコピー、およびイメージとしての癒しは追求され続けている。

この添い寝サービスにあえて私が注目したのは、これまでの癒し産業、メイドカフェの手を替え品を替えたあの種類とはどことなく異質で不穏な印象をキャッチしてしまったからである。

(ソイネ屋ウェブサイト→ http://soineya.net/

添い寝サービスを提供するソイネ屋では、ウェブサイトに掲載されている情報によると、アダルトな行為は禁止されており、強制した場合は退場願われるらしい。このことは、各々のお昼寝部屋に落ち度なく監視カメラが設置されており、サービスを受けるお客様たちの行動は全て短期的にあるいは長期的に録画保存され、提供サービス以外の出来事が起こる事態を未然に防ぐ準備があることを明らかにする。お客様は添い寝の恩恵を受ける間中、それが「眠ること」に関わるある程度プライベートなシチュエーションであるにもかかわらず、他者から見つめられ、客観的な方法で管理されている。

サービスの内容を詳細に見てみると、そこには、「女の子と見つめ合う」「女の子になでなでしてもらう」といった添い寝と全く関係ない(横にならなくても可能、という意味で)サービス内容、あるいは「女の子に腕枕してあげる」「女の子の膝枕で眠る」などの身体的接触を伴うサービスも含まれている。
料金プランは特別なサービスを受けた場合に加算されるほか、基本的に添い寝の時間によって決定されていて、20分、30分という短いコース(これは、眠るためでなく、添い寝という恩恵を享受するためのプランと見なすべきである)。および2、3時間という、確かに人が眠ることが出来るであろうシエスタ級のプランもある。問題は、記載コースで最長の10時間というプランである(延長は可能だ)。人が普段眠るときですら、睡眠時間は6時間~8時間であるのだし、10時間という時間の長さは、変な言い方だが生物的におそらくは両者にとってある意味苦痛を伴う長さであるとすら思える。つまり、添い寝という目的で「癒し」効果を放つかわいい女の子と規定されたサービス内容に従って過ごすために、10時間は遥かに長過ぎる時間なのだ。

10時間がどんなふうに長すぎるか、少しだけ考えてみよう。

Les dormeurs, Sophie Calle, 1980

私が作品を調べたり分析しているアーティストに、Sophie Calleというフランス人の現代作家がいるのだが(another posts here, aveugles, salon de mimi)、彼女が1979年に行った変なパフォーマンスに『眠る人々(Les Dormeurs)』(publié en 1980)というのがある。この作品の中で、Sophie Calleは自分のアパートに8時間ごとに28人(母、自分を含める)を招待し、自分が毎日眠っているベッドで8時間、眠ってもらい、彼女はその間彼らの寝姿を撮影する。28人の招待者達は、人と決してすれ違わない日本のラブホテルとは違って、交代がしらお互いに顔を見合わせる。そして、彼らが寝ていたぬくもりの残るベッドに入り、8時間を過ごす。シーツを変えたのはたった数回であるらしいから、シーツも枕も共有することになる。
この作品において、Sophie Calleは彼らと添い寝している訳ではない。しかし、彼女はある意味で、添い寝を仕事として雇われる少女達のように他者として眠る人々の横(à côté)に存在し、彼らを見つめている。「見守っている(observe)」といった方がいいかもしれない。彼女は眠る人々と共にベッドに入ることなく、一定の距離を保ってプロジェクトを遂行するが、それでも、知らぬ人々(4人だけが知人で、見知らぬ人もたくさん含んでいた)の寝息を聴き、寝返りを打つ姿を眺めながら、狭い寝室で8時間という時間の長さを共有することは、「眠る」という行為が本質的にもつ親密さゆえに、奇妙な感情を呼び起こす経験であったことを証言している。

このことは、あなたがもし懐に余裕があって、極度の睡魔を抱えていて、秋葉原に立寄り、10時間コースのサービスを受けた後、10時間もあなたのすぐそばですやすやと寝息を立てていたかあるいはあなたを見つめていたとても若い女の子に、「ありがとう、良く眠りました、ばいばーい」っと言わなければならない瞬間を想像すれば、その奇妙さの類いが伝わるであろう。

添い寝それ自体について、私はこのテキストを夜中の2時に書いていてとても眠いので、当ウェブサイトに写真が掲載されているような、可愛らしい女の子が何も言わず添い寝してくれるなんて、なんと魅力的なサービスであろうかと、おおかた好意的な感想を抱いている。多分昼間に書いていたとしても状況はそう変わらず、依然として想像の範疇では、なんだか気持ち良さそうなものに感じてしまうだろう。添い寝を「癒し」の範疇でとらえるとき、それはウェブページに掲げられたキャッチコピーが象徴しているように、誰かがそばにいてくれるだけでいい、という一言に尽きるのである。「好意的な感想」と述べたことについて、もう少し詳しく説明しよう。

「添い寝」は、人が眠るためには必ずしも必要のないものである。そもそも人は、慣れ不慣れの問題を除けば本質的に、たった一人で立派に熟睡し「眠り」を全うすることが出来る。誰かと眠るということは、それが恋人や家族であれば、日々の繰り返しの中で、お互いのぬくもりと続く呼吸を聞きながら眠ることが一つの当たり前の「習慣」となるのである。したがって、このときはじめて、眠る行為は自分一人のものではなくなり、誰かと触れ合いながら、誰かの存在をすぐ近くに感じながら、あたかもそのことによって安心感を得るから眠ることが出来る、というふうに自分の境界線を越えて行く。

では、人間にとって、一人で眠ることと誰かと眠ることは、いったいどちらが「癒し」なのか。
身も蓋もない言い方だが、一日中獲物を探して走り回ったけれど餌にあり付けなくてボロ切れのように疲れきった動物がようやく行き着いた寝床でばたりと眠りこけてしまうように、人間もまた、言葉もでないくらい身体的にも精神的にも疲弊している時、重要なことは眠ることそのものであり、その疲れを気遣う誰かによって癒されることではない。
いっぽう、その疲れというのが »exhausted »まで到達していないその時、人は添い寝のような癒しをまっとうに享受するキャパシティがあるし、その恩恵を被りたいという希望を持つ。「添い寝」を人が欲する時、それは、ほんの少しであれ精神的肉体的エネルギーに余裕があり、自己と異なる個体であるはずの他者をすぐそばにおいて(se coucher à côté)、眠りを共有したいと思える瞬間である。つまり、添い寝はけっこうオシャレでソフィスティケートされた贅沢な楽しみなのだ。

ただし、人は本質的に一人で眠るという一見動物的なテーズを少しだけ不安にする事例がある。それは、「母の添い寝」である。赤子の時、本人の記憶はないにせよ母はしばしば添い寝をしてやる。赤子はそもそも母の中に生きていたのであり、10ヶ月という期間を母が眠るのを内部で共有し続けてきた。それがある日、突如別の一個体として世界に放り出されたからといって、その後もしばらく彼らが共に眠り続けることは少しも不自然ではないように思われる。添い寝が癒しであり、人は誰かと眠ることにより安心するのだとすれば、我々がその昔母の中におり、生まれてきた後にすらしばしば引きずられた「母の添い寝」によって、我々のソイネ屋利用願望が掻立てられてしまっていると主張しても怒られはしないのだろう。

添い寝に我々が惹かれるのは、ひとえに、その非暴力性と平和なイメージに拠る。添い寝をしてくれるのは、無力で無害な、ただひたすらに可愛らしい少女でなければならない。そこに性的に誘惑するグラマラスな女が介入すべきではない。それはまた異なる次元のおはなしである。
我々は、あたたかく、やわらかく、いごこちがよく、おだやかで、へいわなものに向かって歩いているようだ。そこにむかう視野が極端に不明瞭であったとしても。