« leurs lumières », Exposition @ Abbaye de Saint-Riquier
« leurs lumières »
exposition du 13 octobre au 16 décembre 2012
Abbaye de Saint-Riquier Baie de Somme
site de l’exposition
Abbaye de Saint-Ruquier
Jean-Louis Boissier が巨大なSaint-Riquierの修道院を、メディアアートの展覧会開場に作り変える。展覧会タイトルは「leurs lumière/ their lights」である。パリおよびアミアンやジュネーブで活躍するメディアアーティストたちがそれぞれ、「彼らの光」を自身の感性と経験に基づいて解釈、表現する。
本展覧会でキュレーターを務めたJean-Louis Boissier(メディアアーティスト、パリ第8大学教授、国立高等装飾学院講師)によって書かれた展覧会についてのテクスト(本展覧会カタログ掲載)は、『彼らの光:照らし出すこと、光を失うこと』(« Leurs Lumières : illumination et aveuglement », texte on the site)。光がある場所には、必ず影が存在する。そして、光の届かない場所には闇があり、あるいは強すぎる光は私たちの目を失明させる。さらに、光がありすぎる場所では逆説的にもわれわれは、何も見えないと感じるだろう。これは、闇といったいどう異なるのであろうか。この展覧会では、参加アーティストのそれぞれがまさに彼ら自身の光とそれと共にあるものについて個性的な取り組みをしている。ボワシエ氏による全体のキュレーションのストーリー展開が秀逸であること、そして作品それぞれの視点が非常に興味深いこと、この両面から、とても素晴らしい展覧会であると思った。(私自身はカルチュラル•メディエータとしてレセプションツアーの企画などに関わらせていただいた, blog de mimi)
この展覧会コンセプトのもっと詳しいこと、およびキュレーター•インタビューは次回の記事に送ることとし、さっそく各々の作品を見てみよう。
天使探知機 /Détecteur d’anges
ー沈黙して、光の中心を見つめてごらん。ほら、天使がとおり過ぎて行ったでしょう?ー
« un ange passe »はフランスのことわざで、沈黙が訪れた時、「天使がとおり過ぎた!」という。我々の忙しく雑然とした現代的な社会生活において、なるほど、沈黙はめったに訪れない。つまり、天使もめったにやってこなくなってしまった?このランプはその部屋にいる人がおたがいにシーッといいながら静寂を作らないと、決して光を灯さない。ひとたび静寂が訪れた時、ランプはそのあたたかい明かりの中に天使を誘い出すように静かにまたたく。
私を照らしだして/ Light my Fire
クリーム色の壁にかかれた文字は部屋の蛍光灯がよい角度で当たるか、あるいは自分が壁に近づいて斜めから文字を眺めてみるか、とにかく黙っていては読めないようだ。このテクストはジョルジュ•バタイユのLa Part maudite(1949)からの引用でトートロジー的ディスクリプションを大文字•小文字、様々な字体が入り交じり、織り上げられたテクストである。周りの明かりが全てが静かに消えた時、Julie Morelが細心の注意を払って繊細に配置構成したバタイユのテクストが、緑色の炎のように浮き上がる。
マッチ売りの少女/ La Petite Fille aux allumettes
荘厳なサン•リキエの石造りの修道院での展覧会に際し、キュレーターのJean-Louis Boissierが演出全体を通じて選んだ色ははっきりとした青である。ところどころ欠けたりごつごつとしている石の壁の様子が時間の流れを感じさせることや、10月半ばとなれば夜になるとかなり寒いことなど、すべてのシチュエーションが、ずっと昔にどこかの国でとても貧しくひとりぼっちでマッチを売り歩いた、小さな女の子の少し心細くて身にしみる寒さを訪れる人に感じさせる。
Mayumi Okura(大蔵麻由美さん)は、物語とその世界観をもっとも繊細な方法で鑑賞者に追体験させる。彼女はこれまでも、メディアアートのなかでも、テクストの意味をどのように見せるか、あるいは見せないか、物語やテクストの意味はどのようにして新しく体験され、まったく異化された行為となりうるのか、ということに焦点を当てた素晴らしい作品を多く発表している。(artiste website)
この展覧会で展示されているマッチ売りの少女は、アーティストが2007年から継続的に取り組んできた主題のひとつである。鑑賞者は、マッチ箱から一本のマッチを取り出して、擦る。石の壁の少し肌寒い世界に、ぱっと橙色の火が灯る。鑑賞者はそれを大切にもう片方の手で守りながら、向かいに設置されたスクリーンに目をやる。すると、マッチの炎を中心にしてその明かりが灯った部分に、童話『マッチ売りの少女』のお話が、2行、3行、すこしずつ現れる。私たちは、それを読もうと目で追う。しかし、その物語の断片はふわふわとどこかへ遠くへ行ってしまうので、私たちはそれに追いつくことができない。やがて、小さなマッチの火は消えてしまう。
そのとき、私たちはもう一度マッチを擦るだろう。ちょうどマッチ売りの少女が、寒くて凍えるクリスマスの夜、天国に行ってしまった優しかったおばあちゃんを思い出して、その想い出を探しながら何度もマッチを擦るように。幸いにも、私たちは、マッチ売りの少女が彼女の最後のマッチをつかってそうしたように、大きな炎を得るためにマッチを束にして燃やす必要はない。私たちは、マッチをたくさん擦っても彼女に追いつくことはできない、ただそこにあるのは、小さな女の子の物語の断片なのである。
ー「その手は、かわいそうに、ほとんど寒さでこごえていました。」
カメラ1、ショット8
Marion Tampon-Lajarrietteは映像作品を数多く作ってきたメディアアーティストである。スクリーンいっぱいに映し出された海の様子は、一見するとほんとうの海のようだが、映像をよく見るにつれ、その波の様子に目をこらせば凝らすほど、何らかの法則や計算によって作り出された「イメージ」であることが明らかになる。したがって、この海は見たことがあるようでないような様相をしており、深く霧がかかっておりどんよりとした空に押込められている。波はかなりの高さを持って大きくうごめいている。波の高い部分や波同士がぶつかって打ち消された部分が白い筋となって見えているが、じっと見ていると描かれた写実的なタブローのようであり、あるいは彩色された写真のようでもある。
実はこのカメラワークは1948年に発表されたヒッチコックの映画『La Corde』のあるシーンに置けるカメラワークを下敷きにしてアーティストが修正を加えて作り上げたものである。そのシーンとは、この映画の冒頭でブランドンとフィリップはデイビッドをアパートの中で絞殺するシーンである。修道院の中に、銃声とデイビットの叫び声が響き、この映像作品は幕を閉じる。映画におけるカメラの目線と重層的に音声を重ねること、そしてその人間の営みに、関係もあるはずのない超自然としての海が共鳴してうごめくようなことは、なるほど鑑賞者を奇妙な思索に招き入れる。
気ままに気にせず/ S’abstraire
アミアンのボザールで教員をしているDonald Abadは2011年飼い猫と三日間の冒険に出た。三日間という時間は、獣医に相談した結果、アーティスト自身にも猫にも健康上負担がない限界の時間であることから定められた。冒険とは、三日間猫と二人(?)っきりで、できるだけ平で、向こうの向こうまで世界の水平線が見えるような場所にキャンプし、自炊し、歩き回るという冒険だ。あまりに何もない場所にいくので、猫がずっと遠くに行き過ぎてしまわないように、あるいは野良犬や他の山の動物に危害を加えられたりしないように、二人を結びつける長い長いロープが猫の首輪に結びつけられた。このロープはほんとうに長いので、猫は実に自由だ。アーティストは猫にお願いしてカメラマンになってもらう。冒険のビデオ映像は猫が撮影したものだ。猫の背の高さから撮影され、猫が歩くように左右に大きく揺れながら、右へ左へ「視線」が動いて行く。何もないだだっ広い場所なので、太陽が沈み、やがて太陽が昇る光を彼らは前身に受け止める。猫の撮ったビデオも、たくさんの光を収めている。
アーティストの猫は、生まれながらにして盲目である。右に左にゆらゆらと歩き、飼い主の居場所は音や匂いで確かめている。太陽が沈む景色に対峙し、だだっ広い草原の中を大きな目を開いて興味深く歩いて、この猫はビデオを撮影した。その映像を私たちはあたかも猫の視点を追体験するかのようにして目にしていた。しかし、ほんとうは猫は見ていない。猫の目は光を見ないし、飼い主の顔も、沈む太陽も見ていない。視線を共有したのは、猫と私たちではなく、鑑賞者としての私たち自身である。
聴こえないものは聴きたくなり、触れないものは触りたくなる。見えないものは、どうしても見たくなる。Tomek Jarolimのインスタレーション「目を閉じてください」は、そんな押さえ難い欲求に訴えかける。鑑賞者は椅子に腰掛ける。正面には明らかに何色ものバリエーションのある照明の集合がある。そうか、これから何やら光のパフォーマンスを見せてもらえるのだと期待する。しかし、そこでは何も起こらない。もう一度、インストラクションに目をやる。
「目を閉じて。」
日食/ Éclipse Ⅱ(série Cosmos)
真に丸いスクリーンが壁に浮かんでいる。この作品は、série Cosmosのなかの一作品、ビデオ彫刻である。アーティストがこの作品において問題にしているのは、人がものを見る時のプロセスと、視野を形成する上での条件である。不動に見える日食の円形スクリーンに映されたプロジェクションは絶えず回転し続けており、天体物理学的現象への思索を見る人に提案する。なるほど、鑑賞者がどこにいるかによって、この日食の光や影の有様が全く異なる。
ブラインド•テスト/ Blind Test
2センチの赤レザー光線が、直径1.5センチの壁穴からのぞくという作品だ。二つの強烈なレザー光線は向かい合った壁に一つずつ隠すように配置された。壁には危険を示す注意書きが。
「これらの穴を決してのぞき見てはいけない。そのときあなたの目は標的になってしまうから。」
パラレル/ Parallèles
8m四方の白い部屋に入ると、その中心に白い台と球が据えられている。このやや大掛かりな装置はインタラクティブ•エンヴァイロメントとして構築されており、鑑賞者が球体を動かすと白い部屋の外に設置されている照明装置がコンピュータ•プログラムを経て動き、部屋に差し込む光の角度や強さが変化する。白い部屋の中に差し込んでくる平行な光線は、ある瞬間における太陽のポジションから地球に注がれる光線に対応している。
ルソーの光/Lumières de Rousseau
ルソーのテクストからの80カ所の引用は、哲学的なもの、政治的なもの、あるいは自伝的なもの、様々な主題にわたる。タブレットの画面に映し出されるルソーの引用テクストを見れば、光に関する言葉ー光、太陽、影、照明、闇、きらめき、といった言葉ーが浮かび上がっている。鑑賞者はこれらのテクストを表示するiPadを手に取り、ちょうど本を読むように目の高さにこのディヴァイスを位置づけて、展覧会会場を歩きながら、このテクストを朗読するように期待されている。鑑賞者がiPadを手に取って朗読を始めると、もう一つのディヴァイスは朗読者の顔を映し出し、もっと別の鑑賞者にそのイメージを伝える。このコンセプトは、2011年7月京都の大覚寺で行われた展覧会および、2012年5月にジュネーブのルソーにまつわる通りや地区でコレージュ•ルソーの生徒達の協力により実現したプロジェクトにも先行されたものである。(Emeri website here)
本展覧会は、2012年12月16日まで開催中です。
今回は展示作品とアーティストをご紹介しました。次回は本展覧会キュレーションについておよびキュレーター•インタビューを掲載します。お楽しみに!