10/4/12

添い寝/Soine がなぜ気になるのか

image from http://soineya.net/

そうか、「添い寝」もサービスになったのか。Facebook上で東京のイベント情報をアナウンスするアカウントから発されたリンクが偶然目に飛び込んできて、ふとそう思った。秋葉原という立地、この周縁の文化的なものが築き上げてきたムードを思えば、目新しさも驚きもない、一見すると、既に存在する数々の日本的サービスのヴァリエーションのひとつに過ぎないと見なし、素通りすることもできた。これまでも、日本の風俗産業はおそらく世界のそれよりもクライアントの熱い要望に応えて「癒し」を重視するかたちで、今日まで試行錯誤を続けてきた。ラブホテルひとつとったって、利用者が主たる利用目的以外の部分でも様々な行き届いたサービスが受けられるように細かな気遣いがなされているし、いわゆる売春に関わらない飲食業(そもそも売春は禁止ですから)、たとえばメイドカフェのような空間でも「癒し」がなんたるか不明確なままに、キャッチコピー、およびイメージとしての癒しは追求され続けている。

この添い寝サービスにあえて私が注目したのは、これまでの癒し産業、メイドカフェの手を替え品を替えたあの種類とはどことなく異質で不穏な印象をキャッチしてしまったからである。

(ソイネ屋ウェブサイト→ http://soineya.net/

添い寝サービスを提供するソイネ屋では、ウェブサイトに掲載されている情報によると、アダルトな行為は禁止されており、強制した場合は退場願われるらしい。このことは、各々のお昼寝部屋に落ち度なく監視カメラが設置されており、サービスを受けるお客様たちの行動は全て短期的にあるいは長期的に録画保存され、提供サービス以外の出来事が起こる事態を未然に防ぐ準備があることを明らかにする。お客様は添い寝の恩恵を受ける間中、それが「眠ること」に関わるある程度プライベートなシチュエーションであるにもかかわらず、他者から見つめられ、客観的な方法で管理されている。

サービスの内容を詳細に見てみると、そこには、「女の子と見つめ合う」「女の子になでなでしてもらう」といった添い寝と全く関係ない(横にならなくても可能、という意味で)サービス内容、あるいは「女の子に腕枕してあげる」「女の子の膝枕で眠る」などの身体的接触を伴うサービスも含まれている。
料金プランは特別なサービスを受けた場合に加算されるほか、基本的に添い寝の時間によって決定されていて、20分、30分という短いコース(これは、眠るためでなく、添い寝という恩恵を享受するためのプランと見なすべきである)。および2、3時間という、確かに人が眠ることが出来るであろうシエスタ級のプランもある。問題は、記載コースで最長の10時間というプランである(延長は可能だ)。人が普段眠るときですら、睡眠時間は6時間~8時間であるのだし、10時間という時間の長さは、変な言い方だが生物的におそらくは両者にとってある意味苦痛を伴う長さであるとすら思える。つまり、添い寝という目的で「癒し」効果を放つかわいい女の子と規定されたサービス内容に従って過ごすために、10時間は遥かに長過ぎる時間なのだ。

10時間がどんなふうに長すぎるか、少しだけ考えてみよう。

Les dormeurs, Sophie Calle, 1980

私が作品を調べたり分析しているアーティストに、Sophie Calleというフランス人の現代作家がいるのだが(another posts here, aveugles, salon de mimi)、彼女が1979年に行った変なパフォーマンスに『眠る人々(Les Dormeurs)』(publié en 1980)というのがある。この作品の中で、Sophie Calleは自分のアパートに8時間ごとに28人(母、自分を含める)を招待し、自分が毎日眠っているベッドで8時間、眠ってもらい、彼女はその間彼らの寝姿を撮影する。28人の招待者達は、人と決してすれ違わない日本のラブホテルとは違って、交代がしらお互いに顔を見合わせる。そして、彼らが寝ていたぬくもりの残るベッドに入り、8時間を過ごす。シーツを変えたのはたった数回であるらしいから、シーツも枕も共有することになる。
この作品において、Sophie Calleは彼らと添い寝している訳ではない。しかし、彼女はある意味で、添い寝を仕事として雇われる少女達のように他者として眠る人々の横(à côté)に存在し、彼らを見つめている。「見守っている(observe)」といった方がいいかもしれない。彼女は眠る人々と共にベッドに入ることなく、一定の距離を保ってプロジェクトを遂行するが、それでも、知らぬ人々(4人だけが知人で、見知らぬ人もたくさん含んでいた)の寝息を聴き、寝返りを打つ姿を眺めながら、狭い寝室で8時間という時間の長さを共有することは、「眠る」という行為が本質的にもつ親密さゆえに、奇妙な感情を呼び起こす経験であったことを証言している。

このことは、あなたがもし懐に余裕があって、極度の睡魔を抱えていて、秋葉原に立寄り、10時間コースのサービスを受けた後、10時間もあなたのすぐそばですやすやと寝息を立てていたかあるいはあなたを見つめていたとても若い女の子に、「ありがとう、良く眠りました、ばいばーい」っと言わなければならない瞬間を想像すれば、その奇妙さの類いが伝わるであろう。

添い寝それ自体について、私はこのテキストを夜中の2時に書いていてとても眠いので、当ウェブサイトに写真が掲載されているような、可愛らしい女の子が何も言わず添い寝してくれるなんて、なんと魅力的なサービスであろうかと、おおかた好意的な感想を抱いている。多分昼間に書いていたとしても状況はそう変わらず、依然として想像の範疇では、なんだか気持ち良さそうなものに感じてしまうだろう。添い寝を「癒し」の範疇でとらえるとき、それはウェブページに掲げられたキャッチコピーが象徴しているように、誰かがそばにいてくれるだけでいい、という一言に尽きるのである。「好意的な感想」と述べたことについて、もう少し詳しく説明しよう。

「添い寝」は、人が眠るためには必ずしも必要のないものである。そもそも人は、慣れ不慣れの問題を除けば本質的に、たった一人で立派に熟睡し「眠り」を全うすることが出来る。誰かと眠るということは、それが恋人や家族であれば、日々の繰り返しの中で、お互いのぬくもりと続く呼吸を聞きながら眠ることが一つの当たり前の「習慣」となるのである。したがって、このときはじめて、眠る行為は自分一人のものではなくなり、誰かと触れ合いながら、誰かの存在をすぐ近くに感じながら、あたかもそのことによって安心感を得るから眠ることが出来る、というふうに自分の境界線を越えて行く。

では、人間にとって、一人で眠ることと誰かと眠ることは、いったいどちらが「癒し」なのか。
身も蓋もない言い方だが、一日中獲物を探して走り回ったけれど餌にあり付けなくてボロ切れのように疲れきった動物がようやく行き着いた寝床でばたりと眠りこけてしまうように、人間もまた、言葉もでないくらい身体的にも精神的にも疲弊している時、重要なことは眠ることそのものであり、その疲れを気遣う誰かによって癒されることではない。
いっぽう、その疲れというのが »exhausted »まで到達していないその時、人は添い寝のような癒しをまっとうに享受するキャパシティがあるし、その恩恵を被りたいという希望を持つ。「添い寝」を人が欲する時、それは、ほんの少しであれ精神的肉体的エネルギーに余裕があり、自己と異なる個体であるはずの他者をすぐそばにおいて(se coucher à côté)、眠りを共有したいと思える瞬間である。つまり、添い寝はけっこうオシャレでソフィスティケートされた贅沢な楽しみなのだ。

ただし、人は本質的に一人で眠るという一見動物的なテーズを少しだけ不安にする事例がある。それは、「母の添い寝」である。赤子の時、本人の記憶はないにせよ母はしばしば添い寝をしてやる。赤子はそもそも母の中に生きていたのであり、10ヶ月という期間を母が眠るのを内部で共有し続けてきた。それがある日、突如別の一個体として世界に放り出されたからといって、その後もしばらく彼らが共に眠り続けることは少しも不自然ではないように思われる。添い寝が癒しであり、人は誰かと眠ることにより安心するのだとすれば、我々がその昔母の中におり、生まれてきた後にすらしばしば引きずられた「母の添い寝」によって、我々のソイネ屋利用願望が掻立てられてしまっていると主張しても怒られはしないのだろう。

添い寝に我々が惹かれるのは、ひとえに、その非暴力性と平和なイメージに拠る。添い寝をしてくれるのは、無力で無害な、ただひたすらに可愛らしい少女でなければならない。そこに性的に誘惑するグラマラスな女が介入すべきではない。それはまた異なる次元のおはなしである。
我々は、あたたかく、やわらかく、いごこちがよく、おだやかで、へいわなものに向かって歩いているようだ。そこにむかう視野が極端に不明瞭であったとしても。