04/13/14

ミヒャエル ボレマンス:アドバンテージ ー 生きることの潜在的なかたち/ Michaël Borremans : The Advantage @Hara Museum

ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ
Michaël Borremans : The Advantage

2014年1月11日(土) - 3月30日(日)
原美術館

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東京品川の原美術館で開催されているミヒャエル・ボレマンスの展示をどうにか間に合って見に行くことができたのは幸運である。東京滞在が短かったので実はちょっと迷っていた。むしろ、殆ど行けない様子であった…が、東京在住の友人が薦めてくれたことに感謝している。決して作品数の多くないボレマンスの絵画を集合的に見たのは初めてだったし、部分的印象でしかなかったボレマンスの世界観の奇妙さというものが、言ってみれば理解可能な奇妙さとして立ち現れてくれたような気がする。そのことは、気持ちの良いことだ。

さて、ミヒャエル・ボレマンスは、1963年生れ、ブリュッセルのアートカレッジで学び、現在ゲントで制作をしている。彼が1990年代半ばを機にこれまでの写真家としての活動から歴史的絵画の手法を組み入れた油彩に転向したことは知られている。彼がその伝統的な手法を模倣し、彼の画法に統一的で繊細な印象を与えているのは、ベラスケスやマネ、ドガの世界観であり、奇妙さと不穏なオーラを醸し出させているのは、なるほどシュールレアリスム的主題に似ているものである。ボレマンスは一般的にこのような二つの要素で語られるが、それがなぜあたかも語り得ないような不気味なものとして、あまりにもデリケートに説明されるのかは一度正面から考えてみなければならない。

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たしかに、ボレマンスの絵画は深く物語的である。彼の絵画の中に登場するモチーフは、幾つかの典型的なものを挙げることができるのだが、たとえば、今回の原美術館での展覧会「アドバンテージ」の扉を飾っている作品「Mombakkes II」(2007年, 36 x 30 cm、カンヴァスに油彩)では、白い衣服を纏い、横分けの髪を撫で付けたような一人の人物の表情の奇妙さに目を奪われる。男性とも女性とも見えるこの人物の顔はあたかもピエロのそれのように、強すぎる眉と青いアイシャドウ、艶やかでこぼれそうな頬と真っ赤な口紅に彩られているが、その表面はところどころが光を反射し過ぎており、視線を全体にすべらせるうちに、この鮮やかな顔は作り物であるということが明らかになる。撫で付けられた髪の額と生え際を見てみればそれは、透明な膜のような材質のマスクであることに気づく。そう、ボレマンスの作品には、この透明なマスクの要素、そして、シュルレアルである半透明性による層の重ね合わせと透視が頻繁に顔を見せる。当「Mombakkes II」の脱ぎ捨てられたマスクもボレマンスは描いている。その偽の皮膚は、人間の顔を覆ったときにはこぼれるほどの笑顔を見せたにも関わらず、脱ぎ捨てられて輪郭を失った今、もうちっとも楽しそうではない。マスクは言うまでもなく、覆われた顔の本当の表情を包み隠すのであり、そのことが象徴的に表現するメッセージを現代性へと結びつけるのは容易だ。

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また、先ほど述べた、シュルレアルな半透明性は、世界のレイヤーの重層性を描くような、つまり、有り得たはずの物語と実際に行われた行為の間を我々に想起させる。それは、常に様々な可能性の中から、一つの世界が分岐していくのだが、それは一つが残されて他が消えてしまうという方法ではなく、全てを置き去りに無数に分岐しながら、我々はいまここにあることしか知り得ないという運命を認識させる。あるいは、現在ある世界がそのように見えており我々はそのあり方を目にしているのだが、それが過去や未来において「リアルに」このようではなかったのだという誰一人知らなかったことを暴露する。彼の作品にしばしば見られる、透明な身体や透き通った人物と別の存在の重なりは、このようなインスピレーションに関わる。そして、さらには肉体の一部を欠いたり、テーブルの上に上半身や腰上だけ存在するように描かれた人物像たちもまた、可能な一つの現れ方を提示している。

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劇場としての社会や人間の生を描き出すような試みはボレマンスの作品に連続してみられる。箱のような空間に並べられた人間とそれを見物する存在。その二者は通常何らかの方法で描き分けられていて、例えば巨人と小人、囚われた人間と自由な人間、オブジェ化された存在と権力を誇示する存在など、明確に描き分けられている。今回の展覧会「アドバンテージ」でも公開されたビデオ作品 »The German »(2004-2007)などはその構造はさらに拡張されていて、つまり、画面に大きすぎて写りきらないドイツ人の身振りが映し出される様子を箱の中の鑑賞者が眺めており、その様子を見られるドイツ人と対面するように我々が見つめることになる。

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最近東京で訪れた東京都現代美術館での「驚くべきリアル」展でご覧になった方もいらっしゃるかもしれないが、スナップショット風のコレクティブな絵画の作品である『家族』(The familly, 1999)でエルティ・マルティは、一見すると日常的な家族団らんの一コマや何の変哲もない日々の生活の中に浮かび上がる狂気のようなものを描き出した。私はこの作品はとても面白く或る意味でポジティブに感じたのだが、ボレマンスのそのシュルレアルで不穏な感じというのも、実はそれほど暗闇の中に不可思議なものでもないのではないか、という直観を持っている。なるほど、繰り返される身振りや、非社会的な儀式的なもの、空間や時間の常識に逆らい、それを破壊するようなもの、それらはボレマンスの人間を見る視線を、しばしばフラグメントとして、また或るときはもっと全体的に媒介する。だがそれもまた、一つの実験的な行為であり、描くことはその世界に形を与え、外側にいる私たちをそれを結びつける。ちょうど、箱の中のスクリーンを眺める小人を私たちが目撃し、その時間を共有するかのように。

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コード化された儀式はしばしば意味を失うが、実は、個体の行為や営みにも意味はない。ボレマンスの絵画は、生きることの潜在的な形が、物語る人が言葉を途中でぴたりととめながら、またとめては続くように語られ、とても興味深い。