01/4/15

Reiko Nonaka « Double Vie » : la gémellité d’une vie double / 野中玲子「ダブル・ライフ」: 双子性

Intervention de Reiko Nonaka, artiste photographe

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Reiko Nonakaさんは、フランス、パリを拠点に創作・発表をされている写真家でおられ、今回パリ第8大学造形芸術学科の授業 »Exposition de soi »の12月3日の講義にいらっしゃっていただき、ご自身の最近の作品のコンセプトや制作のお話をしていただいた。

主に紹介していただいた作品は「Double vie」(ダブル・ライフ)で、双子のコンストラクティド・ポートレートのシリーズである。モデルは、全て本物の双子である。ご存知のように、双子には、一卵性双生児と二卵性のものがある。(と思ったら、胎盤が融合するパタンなどもあるのですね… というわけで説明はこちらを:site baby twins)野中さんは2013年10月にパリで本作品「Double vie」の展覧会をされている。

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野中さんがモデルとして主に依頼する双子は、一卵性の双子、文字通りの「Double vie」を共有する人々の存在に関心を抱いている。アーティストが関心を抱くのは「双子性」(gémellité)と呼ばれる、双子間の共感や共鳴、同じ家族に産まれるのだから、生後の環境のシェアや教育のシェアは無論言うまでもないが、それ以上の結びつきを証明する「なにか」の存在である。

彼らはしばしば、殆どの時間を共に過ごす子ども時代が終わり、それぞれの道を歩む学生時代、そして、成人してもなお、精神的・身体的な影響の感覚を持ち続けている。それは、もともと一つの細胞から全ての遺伝情報を共有し「ダブル」になったのだから、と想像するのはたやすくロマンティックであるのだが、非双子である人々には経験することのないものが、ダブル・ライフの中には流れているようなのである。そのことを、野中さんの写真は、ある意味で可視化しようと試みる。

Double vie

野中さんは依頼するモデルに出会い、撮影まで、十分な対話の時間をとる。どのようなエピソードがあるか、彼らの双子としての人生の特徴は何か、それぞれの共通点・相違点はなにか、面と向かった彼らから読み取るもの、それら全てを、画面の中に再構成する。作品内のコンポジションは、物や家具、ポーズ、衣服を含め、アーティストが彼らとのやり取りのなかで着想し、構築したものだ。

「双子性」(gémellité)の探求は続く。100組ほどの双子を撮影したいと語るアーティストは、我々に自伝的なヴィデオを紹介した。赤いずきんと青いずきん、お気に入りの絵本を手にしている二人の幼い女の子が並んで座っている写真。
「Double vie」の作者であるReiko Nonakaは自身が一卵性の双子として生まれ、「双子性」(gémellité)について問いながら生きてきた張本人である。

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奇しくも講義受講者内にも双子が二人いた。あるいは皆さんの知る双子もいつか彼女のモデルとなるのかもしれない。

双子としてのダブル・ライフに関わらず、我々は誰一人として自分の人生以外の人生を経験することの出来ない身である。双子同士は双子としての経験を互いに予想するものの、別の双子の人生は経験不可能である。しかし、モデルと語り合い、彼らの双子性を再現するアーティストの試みはなかなかに面白く、それは言わば双子性という不可触のものを世界に開いてみようとする勇敢な試みであるようにすら思える。

Interventionに感謝をこめて。
Reiko Nonaka : website http://www.reikononaka.com

01/4/15

Manger, Boris Charmatz / 「食べること」をダンスする

Manger 

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2014年12月3日にThéâtre de la Ville, Parisでダンス作品「Manger」を鑑賞した。Boris CHARMATSによって構想された作品「Manger」(フランス語の動詞:「食べる」)は、そのタイトルの宣言する通り、人間の「食べる」行為に真正面から焦点を当てた作品だ。今日、非常事態を除いては飢餓による生命の危険に直面しない平和な食生活を送る人々にとって「食べる」とは、日常的で身近で、あえてとるに足らない行為と感じられるかもしれない。もちろん、食事を自由にとれない病気と共に生きている人、アレルギーのある人、止む負えず食事制限している人、その他あらゆる食のトラブルに出会ったことのある人々にとっては、「食べる」行為は自ずとグロテスクでつかみどころのない、奇妙な行為として立ちのぼるかもしれない。

だがじつは、そもそも、口からも異物を摂取し、内部に一時的にであれ一定の時間内包し、それを様々な消化酵素で消化し、吸収して、抽出されたものを自らの肉体の一部と成し、さらには、口から摂食したけれども不必要であり、廃棄できる内容を液体や固体として排泄するという一連のプロセスは、たとえば、植物が、道管と師管から水分や養分を吸収し、日光や二酸化炭素を利用して養分を生成していることに比べると、遥かに生々しく、インパクトある行為ではないだろうか。

異物を体内に受け入れたり、それを内部に同化しようとするのは、たとえば生殖行為にも通じる出来事であるし、つまり「食べる」行為は、よく見ると奇妙であり、もちろんとるに足らずつまらなく、それでもやはり分かりにくい行為なのである。

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「Manger」(2014) は、Boris CHARMATS(Dance Museumのdirector)によって構想された作品で、人間の口が持てる可能性を追求した作品である。口がかなでる音、それを作家は、噛むときのメロディーと表現する。食べものがすりつぶされるときの音や、それらが肌と奏でる音、そして食らう人の声。それらがダンサーの身体を通じて、彼らの感覚を経て、総合的な表現となって、舞台全体で動きのインスタレーションとして提示される。「食べる」人間の肉体と食べられる物との限りなく狭い境界線を具体化しようとしている。

舞台上で繰り広げられるのは、もはやなぜ舞台上でそれを見せ、見せられる観客は硬直してそれを見守らねばならないのか、わけの分からない出来事の塊である。10数名の演技者たちは、破れる際にいちいちよい音のする「白い紙」のようなものを何枚も手にもって、唇や歯、手で破り、それを口の中に含むことを繰り返す。繰り返される咀嚼、次々と破られた紙は口の中に送り込まれる。演技者たちは、異なる音をたて、異なる形でそれを食べ、異なる表情を浮かべて咀嚼する。やがて孤立していた演技者は、歩み寄り、絡み合ったり、影響し合い、食べることを続ける。ちぎりまくられて、口に入れられなかった白い紙は床に散らばり、それを舐めるように拾い集め、あるいは咀嚼の末をれを体外に放り出し、そしてまた、体内に送り込むことを繰り返す演技者がいる。

演技者の行為は、我々の「食べる」行為のあり得べき姿、あるいはあり得る姿をひとつずつ具現化しているようでもあり、しかし単に実験的であるようでもある。そのカオティックな様子は、なるほどリアルである一方、表現として理解されることを期待してもいないようだ。

この作品は、「食べる」行為の多様なesquisse(素描)として、非常によく表現されており、研究されているけれど、ならば「食べる」我々をもっとあるままに肯定するアクションを、私は観劇中ずっと探していたのかもしれない。

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01/4/15

Marcel Duchamp La peinture, même / マルセル・デュシャン ペインティング、さえも

du 24 septembre 2014 – au 5 janvier 2015
Centre Pompidou, Paris, France
Site web : pompidou exposition
9月24日から開催されていて始まった時、行かねば!と思ったのをハッキリ覚えているのに、すっかり3ヶ月が経過してしまったのにはちょっと驚いた。12月31日、2014年最後の展覧会はMarcel DuchampのLa peinture, mêmeです。

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01/4/15

Fondation Louis Vuitton, architecture et expositions / ルイ・ヴィトン財団美術館 

年の瀬、秋より新しくオープンしたFondation Louis Vuittonの美術館に行ってきました。
Bernard Arnaultがアメリカの建築家Frank Gehryに依頼して、2002年ころより昨年のオープンまで10年越しのプロジェクトになったのですね。
Frank GehryとLa Fondation Louis Vuittonのネゴシエーションやその歩みは、「I:50 Confirmation Model」が出来るまでのたくさんのアイディアやマケットの展示によって見て取ることができます。個人的には、下に掲載したモデルと原画が良かったですが。 

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そして、Olafur Eliasson の展覧会「Contact」です。この巨大なスペースにあまりに展示が少ないことで、「???」と思われるヴィジターもいるようなのですが、ファンデーションからの説明では、オープン初期は、何よりもFrank Gehryの建築を体験してもらうのを目的として、ギャラリー/美術館としての機能は後にとっておくそう。Olafur Eliassonは1967年生まれ、アイスランドとデンマークで育った現代アーティストです。絵画・彫刻・写真をあわせたインスタレーション作品で、独自の空間の使い方を模索しています。本展覧会でも、Fondation Louis Vuittonの建築から着想を得て、この特殊性と協働しながら、彼がこれまでテーマとしてきた空間における確からしさや、振動、光と影といった要素を展開させています。

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そして、コレクション(財団収蔵品)の部屋。
今回は15名ほどのアーティストによる作品の展示がありました。そのなかでも、Wolfgang Tillmansの植物の写真は、好きですね。生が勝手にあり、それを満たす光が射し込んで、広がる雰囲気がとてもいいです。
また、Ed Atkins の Us Dead Talk Love (2012)ですね。アバターのような人物が視角的・聴覚的にシュミレーションしながらあるテーマについてモノローグを繰り広げるという、近年の作品のうちのひとつ。
続いては、Rachel Harrison のZombie Rothko (2011)、そしてAnnette Messagerのコレクション展示です。

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新しいアキジションの作品、Cerith Wyn EvansのA=F=L=O=A=T (2014)は、1990年代から作家が取り組んでいる、オーディオ・ヴィジュアルのインスタレーションの試みの一つで、空間の持つ特殊性と空間を満たす音/静寂との関係によってインタラクティブな作品である。20本のフルートは、作家によって作曲された音楽を奏でているのだが、その音楽は、室内のコンポジッションが異なれば、別の方法で共鳴するのである。

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ブローニュの森からはちょうど、ラデファンスが見渡せる。
パリの、気球も。

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