06/27/15

SOUTENANCE DE DOCTORAT, Miki OKUBO

AVIS DE SOUTENANCE DE DOCTORAT
(Arrêté ministériel du 7 août 2006)

École doctorale Esthétiques, sciences et technologies des arts
Discipline
Esthétique, sciences et technologies des arts – spécialité arts plastiques et photographie

Miki OKUBO

Titre de la thèse
Exposition de soi à l’époque mobile/liquide

Membres du Jury
Monsieur Jean-Louis BOISSIER (Directeur de recherche)
Monsieur Olivier LUSSAC
Monsieur Hiroshi YOSHIOKA
Monsieur Mario PERNIOLA

Mardi 30 juin 2015 à 14h00

UNIVERSITÉ PARIS 8
2, rue de la Liberté
93526 SAINT-DENIS cedex 02

Salle des thèses
Espace Deleuze
Bâtiment A, 1er étage (Face à l’Amphi A2)

06/15/15

AYAKOさんの「パリの朝 〜 エールフランスのパンと一期一会」と親切を申し出ること

次の文章は、パリ在住の画家のAYAKOさんが6月5日にご自身のフェイスブックに載せていらっしゃった記事をご本人の許可を得て転載させていただいたものです。
***

「パリの朝 〜 エールフランスのパンと一期一会」

エールフランスでフランス人の乗務員に「明日の朝のために、少しパンを分けてくださいませんか。夕方ブランジェリーに行けないの。」とおねがいしたら、「近所にパン屋さん、ないの?」と聞かれた。
「私、目が見えないので、夕方買い物するのはちょっと無理なんだ。」と答えると、乗務員は私が目が見えないことに気づいておらず、少し驚いたようだった。離陸のとき、杖をたたんでくださいと言われて、しまっておいたから。

その乗務員がエレガントで親切で、親しみ深く、朗らかだったこと。間食にお菓子をたっぷり持って来てくださったりと、サンパティックだった。彼女がなぜ、私が失明者だと知らなかったのかというと、もともと私のシートは、日本人の乗務員の仕事のエリアだったためだ。その日本人の乗務員も既に充分に親切にしてくれていた。話したところ、私の友達の乗務員の知り合いだし、とてもリラックスしてた。

少しして、フランス人の乗務員が、余った小さなフランスパンを袋に入れて私に下さった。チーズやバターも入れてくださったとのこと。後でその日本人乗務員に、彼女の親切を伝えると、チーフパーサーなのだという。飛行中は、ファーストクラスやビジネスクラスの仕事で忙しいはず。ホスピタリティーを全ての人に分け隔てない、そのスピリットはすばらしく、素敵である。

飛行機は無事着陸する。今度はフランス人のアシスタントの手引きでトランクを取りに行き、出口に向かう。
私のトランクは年季が入りすぎて、ほとんど壊れかけているのですぐわかる。空港出口で、前もって予約していた乗り合いタクシーの運転手をさがす。家の前の通りに着いたら運転手がドアのところまで荷物を運んでくれる。住民に見つけられ、トランクをエレベーターに乗せてもらう。1996年から住んでいるアパート。小さなアトリエ。

翌朝、もらったフランスパンがひとつずつティッシュに包まれているのに気づく。そのチーフパーサーはめったに日本行きには乗らないのだと言っていた。パンに霧吹きで少し水分を含ませてオーブンで焼きながら、見えぬ一期一会を感じる。

***
他者に親切にすること、あるいは親切を申し出ることについて、時々思うことがあります。レベルの違う話や時と場合によること、一概に言うことが出来ないトピックでもあります。私はお祖母さんが大きな荷物を引きずって歩いていたり階段を登れずにいたら声をかけます。私自身が大きなスーツケースを持って、エスカレータのない駅で立ち往生してしまった時、大抵誰かが助けてくれます。それは男の人が軽々とスーツケースを持ち上げてくれることもあるし、女の人が声をかけてくれ、一緒に運んでくれるときもあります。言うまでもないことですが、基本的に独りで移動できない荷物は持ってはならないのが鉄則なので独りでも切り抜けることは勿論可能なのですが、手伝ってもらえば肉体的にとても助かるのは言うまでもありません。無論いつでも人を助けることが出来る訳でなく、自分がとても具合の悪いときなど、急いでいるときなど、どうしても出来ないこともあるのは事実です。

あるとき日本に帰国して、時々はエスカレータのない長い長い階段を30キロ近いスーツケースを持って一段一段上がっていると、ジロジロ見られるのですが、お願いしない限り相手のほうから声をかけてくれるということはないことに気がつきました。お願いすると、迷惑そうな顔をされたり、無視されたことももちろんありますが、手伝ってくれることもあります。どうして声をかけないの? と知人に訊ねてみたことがあります。すると、男性が女性に声をかけたり、手伝いを申し出ると不審に思われたり、警戒されたりしてしまうから、そういった反応を受けるのが嫌だから、困っていそうだとしても他者には話しかけないのだ、と。

文化的な違いは勿論大きい。パン屋でもレストランでも展覧会でもわりとそこら中話しかけるフランスと、店や飲食店は愚か、マンションのエレベータで隣人と出会っても会話をしない日本では、親切を申し出るためのハードルが全然違うのかもしれない。

そうはいっても、誰かにとってとてもたいへんなことは、別の誰かにとって全く簡単であることもあるし、独りで引きずるとしんどい荷物は、二人で持てば軽いかもしれないのだから、やはり残念なことだなあと思う。

AYAKOさんのお話では、最近では日本でも親切を申し出る人が多くなってきたというお話もお聴きした。親切を申し出て、その人が必要じゃないならそれで別にいいじゃないか。それを必要としている人のたいへんさが、時々は物凄く助かったりすれば、それでいいじゃないか。そう思う。自分が少し元気で究極に急いでいないとき、親切を申し出ることは、とてもよいことだとおもう。それが例え、迷惑だ、と投げ捨てられても、時々は、ありがとう、と言われることがあるかもしれないから。
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06/1/15

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS » 盛圭太・西澤みゆき・大久保美紀

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、西澤みゆき(新聞女)の作品「ピース・ロード」と、盛圭太による糸をメディアとしたドローイング・シリーズ「Bug Report」におけるコンセプトとモチーフが出会い、ダイナミックに結びつき、分断され、互いが変容する中で生み出された異型の再解釈の提案である。作品コンセプトの構築に関わって、私自身、盛圭太・西澤みゆきと語り合った。
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作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、何よりもまず、世界への積極的コミットを念頭に置いた表現である。平和への希求、端的に要約すればそのことに他ならないかもしれない。しかし我々が体現しようと試みたのは、あくまで現実の中にある幸福の追求に似た行為であるように思う。我々は、自由で豊かな想像の中では、パラダイスのような夢を見たり、理想主義的なディスコースを繰り広げたり、眩くて直視できないほど美しい客体などをでっちあげることが可能だ。カタルシスのようなもの、それはなるほど、芸術の一つのミッションであるのかもしれない。私たちが、盛圭太と西澤みゆきが、シャルリー・エブド襲撃事件から3ヶ月が経過したパリの中心で構築しようとしたのは、しかし、フィクションとしての平和の希求ではない。
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盛圭太のドローイング・シリーズ「Bug Report」とは、ピストル型のノリで糸を固定し、カッターで切断することによって壁やキャンバスに描き出される糸によるドローイングである。盛によって描き出される画面は、あるときは密集した構造を表し、あるときは放っておかれた自由な一本の糸がたるんだまま存続することを許している。また時には、精緻に構築された糸の造形は、アーティスト自身によって、バリバリと音を立てて破壊され、そこには造形の跡としてのノリの欠片や剥がされた紙の毛羽立ちが遺る。シリーズのタイトルである「Bug Report」は、誤謬(Bug)を孕んだ関係性の構築と読むことも出来るし、あるいはその誤謬そのものがオートノミーの性質を持っていて霊媒(fantom)的に客体を結びつけようとする自律的な営みそのものであるとも、読むことが出来る。
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盛のコンセプトが西澤のピース・ロードと結びつくのは偶然とも必然とも言うことができるが、西澤の作品「ピース・ロード」が2001年9月11日のニューヨーク連続テロの世界的衝撃と一瞬にして崩れ去った平和の脆さへの気づきから始められ、世界中を平和の象徴である一本の道で繋ぐことを目指しながら、これまで日本国内はもちろん、ベネチアなど海外でも実践されていることを鑑みれば、出会いは運命的であると感じられる。「新聞による一本の道」は無論メタファーで、断片として世界に遍在しうるし、オートノミーでもあり得る。突如パリの中心にある盛のアトリエを拠点に、これを結ぼうとする参加者によって自主的に道が開かれることも、作品「ピース・ロード」の延長線上にある出来事なのである。
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私たちの日常は、おぼつかない安心の元に拠っている。無根拠な平和への信頼、安全への信用、穏やかな日々は、束の間に失われる。あるいはまた、常に生きにくい人生を生き続ける人だって大勢いる。アートはそのような非常事態において有用性を問われ、直ちに無用であると切り捨てられるか、あるいは傷ついた人々の心を癒すために必要であるとかろうじてセラピストとしての才能を認められるか、高々その程度の評価である。それ以上の意味や有用性が、表現行為にはあるだろう。リアリティを直視しながら、その過酷な世界に、私たちの家族や、恋人や、子どもや子孫たちが置き去りにされていくという事実から目を背けることなく、生き続けるということについて積極的に紡ぐべき表現行為を、共有する術はきっとあるだろう。

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盛のアトリエの壁は、参加者たちによって切り出された昨今の新聞記事の見出しや写真、記事の一部、政界の著名人、経済界のニュース、紛争や戦争のニュースや写真、意味の分からぬ言語を切り抜くもの、偶然裏表が違ってしまったまま壁に貼られたもの、本来の記事の文脈を失ったテクスト、分断されたイメージ、それらが糸によって結びつけられたり、糸によって孤立させられることによって、無数の窓を持つことになった。切り出された各々の平面はつまり、個別のスクリーンとしての役割を果たし、それらは盛がコントロールするレゾーの構成要素となったり、なり得なかったりする。思えば我々の情報の受容とはこのように断片的・主観的でしか有り得ないものなのだが、その情報のピックアップとリエゾンの行為が複数の個人によって同時に行なわれ、共有される空間のなかで、可視的で可触的なスクリーンとして遍在するとき、その意味はもはや別のものになる。

« CORPUS »。盛はこの集積を想像して、こう呟いた。

共有される空間は我々にとっての内側であり、それには外側を想像することができる。共同体が包まれているものをひっくり返したとしたら、新しい内側にもやはり曖昧な結びつきが広がるだろう。情報のアーカイブのような空間としての »CORPUS »、意味があるようで意味のない、関係があるようで関係のない、存在様態の「集積」。それは我々の身体の内側にまでレゾーを引き込むことができる、リアルなあり方なのだ。

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、2015年4月17日、盛のアトリエで生じ、開かれた無数の窓は、潜在的に、閉じない。

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感謝:
アーティスト 盛圭太、西澤みゆき
写真 Manon Giacone
撮影 杉浦岳史
参加者の皆様