09/22/15

ディン・Q・レ「明日への記憶」/Dihn Q.Lê: Memory for Tomorrow

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森美術館で開催中のDihn Q.Lê: Memory to Tomorrow展(ディン・Q・レ「明日への記憶」,http://www.mori.art.museum/contents/dinh_q_le/)を見ました。ディン・Q・レはベトナムの伝統的なゴザ編みから着想を得た、写真のタペストリー「フォト•ウィービング」シリーズ(Photo waving series)で世界から着目されました。ベトナム戦争やハリウッド映画という象徴的イメージを自国の伝統工芸品の手法によって作品として織り成し、イメージは溶解、混合、再構成され、鑑賞者の前に再び突きつけられます。
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また、象徴的イメージを50メートルにも引き延ばした写真作品では、もはやそこに何が表象されていたのか分からないにも関わらず、マテリアルである写真はなおもそこにあり、何かを現し続けるという矛盾が生じている。
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ヘリコプターは実は、第二次世界大戦時には軍事に実用されなかった乗り物である。無論、1900年代初頭にフランスのモーリス•レジぇらが開発に成功しており、大戦末期に米軍が試用した実例はあるものの、実用化は1950年代以降、ターボシャフトエンジン搭載後のことで、さらに補助任務に留まらない本格的運用は、ベトナム戦争が初めてなのである。
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1964年ケネディ政権、1965年からのジョンソン政権のアメリカ政府が大規模介入を行なう。地上戦の険しさより、上空からの部隊展開を行なったのだ。これ以降ヘリコプターは地上戦が困難な際の主力兵器としての地位を獲得する。北ベトナム軍は山地を逃げ、ヘリコプターがこれを追う。軍人だけではない。一般の村民もまた、この上空からの脅威に怯えた。
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ディン・Q・レのヘリコプターに関わる作品は、ベトナム戦争の象徴的兵器としてのヘリコプターが人々の心に刻まれたトラウマとなっている事実と、それは今日農業を助け、人々の生活を格段に楽にする道具としての可能性を訴える人々のことばを三枚の連続するスクリーンに投影する。それぞれの思い出と、パロールと、ヘリコプターの脅威と可能性は、混ざり合い、拮抗して、流れる時間のことを考えさせる。
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枯れ葉剤の及ぼした健康被害は重大である。除草剤の一種でダイオキシン類を非常に高い濃度で含む薬品である。1961年から75年まで散布され続けた。1969年には明確に先天性奇形の出産異常が確認されていたにも関わらず、75年まで散布され続けたのである。
日本で分離手術を受けたベトちゃんドクちゃんで知られる結合性双生児のような癒合した双生児が数多く出産された。ディン・Q・レはこれに焦点を当て、Damaged Gene(1998)と名付けられた公共プロジェクトを発表。
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「人生は演じること」という作品は、それが日本人の軍服オタクの青年の<アイデンティティ探求>に関わる表現行為、と説明されるものの、そして数あるディン・Q・レのユーモアのエスプリが効いた作品であると納得しようと試みたとしても、喉に何かが詰まってうまく、飲み込むことができない。戦争も大災害も悲劇の記憶も、明日に向かって、明後日に向かって、そして百年後に向かって、その直接的な傷痕と、もだえるような痛みは風化されるのだろう。そしてそこに、物語が付与されたり、憧れる者が語り継いだり、共感する者が哀れみ続けたりすることによって、「明日への記憶」が形成されていくだろう。この作品を見ることは、容易くはない。
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09/22/15

夷酋列像, the image of Ezo 北海道博物館 Hokkaido Museum

夷酋列像 the image of Ezo

『夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界』展が、現在、北海道博物館開館記念特別展で開催中です。本博物館は、北海道開拓の村http://www.kaitaku.or.jpという広大な敷地内にある1971年会館の北海道開拓記念館と道立アイヌ民族文化研究センターを統合し、2015年4月にオープンしたばかりの博物館である。http://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/about/アイヌの歴史や文化、北海道のあり方に関する研究組織であり、学芸員や研究職員が所属する国内でも重要なアイヌ文化の研究機関である。

ちなみに北海道開拓の村は、北海道百年を記念して設置された、極めて「和人」的な、つまり和人のフロンティア征服の栄光を讃える的な匂いのしそうな施設と思われるかもしれないが、私の幼少からの経験では、北海道という土地の人民は、なんというか、アイヌの文化に対して今日エキゾチズムの視線でこれを高覧することもないし、過度にうやうやしくこれを「保護」しようと胡麻をすることもないし、北海道民自身は、この歴史と文化について、現代ではごく自然なリスペクト以上のものを振りかざしはしない、というのが率直な印象である。

これには幾つかの理由がある。

アイヌ民族は、研究により、続縄文文化、擦文文化を継承して独自の文化(アイヌ文化)を作り上げた民族だが、和人は歴史上ご存知のように、15世紀(1457年)、志海苔(函館)での接触をキッカケに戦闘に発展したコシャマインの戦いや、数々の戦いで彼らと衝突し、武力によって彼らを利用したり殺害したりしてきた。17世紀(1669年)に十分に北海道内陸である日高の静内で起きた松前藩とアイヌ民族の戦闘であるシャクシャインの戦い、これ以降、和人はアイヌ民族を強制労働者として利用したり、経済的に困窮させたことにより、ついにはクナシリ・メナシの戦い(1789年、ちなみにこれはフランス革命と同じ年)、北海道東部までアイヌ民族を追いつめての戦争、後に紹介する12人のアイヌの偉人の一人であるクナシリ首長ツキノエの留守を狙って大規模な殺害を濃なった悲惨な事件である。あまりに残虐な歴史であり、彼らの歴史や文化を研究するといえども、今日、アイヌ民族の人口は非常に少ない。

そしてこの「和人」の運命自体も着目すべきである。松前藩廃藩以降の、1871年に明治政府により官庁として設置された開拓使では、「蝦夷地之儀ハ皇国ノ北門」、言うまでもなくロシアの脅威の北方の壁となるべく身体を張って<「内地」(皇国)を守る>ことが使命であった。歴史の中で、どんな運命をたどるか、どんな興亡を見るかという、かなりのパーセンテージが実は、その地理的要因に拠るのである。北海道は、北方四島と樺太以北をめぐって、そのマージナルな地理を抱え、アイヌを利用しながら、ロシアと向き合い、内国の和人のエスプリと少しずつ確執を深めながら、この地に一世紀と数十年の歴史を築いてきた。北海道の冬は冗談でないほど大変である。たとえば暖かい国からやってきた農民だとか、たとえ東北出身者でもそれほどの厳しい冬を知らない移住者であれば、冬を越すことができなかったでしょう。政府は、越境のためにあまりに予算を食い過ぎる予想外の事態に、そそくさと予算を打ち切って断念しています(嵯峨藩士島義勇の島の計画)。

内地(皇国)のために矢面になるという役割は大正、昭和を通じて変わることはなく、悪名高いスターリン政権が武装解除した軍人を強制労働させたシベリア抑留が最大で11年に渡って行なわれ、日本人も50万人が抑留されたが、これはヤルタ協定での千島列島・南樺太の占領のみならず北海道の一部占領を要求したスターリンへのトルーマンからの対策だったのではないかと見る説もある。

今でもとてもワクワクする記憶として鮮明に思い出すのが、小学校のときの社会科の学習の一貫で、北海道の歴史を学んだ経験である。そこでアイヌ文化の紹介があり、アイヌ語のいくつかの言葉の紹介がある。北海道の地名や言葉のアイヌ語における意味が説明される。初めて出会う外国語に限りなく近い、しかし日常生活に密着した言葉の数々である。
「アーント!蟻!」「ペン!ペン…」と唱えていた嘗ての英語学習に比べたら、「さっぽろ」が、つまり「サツ・ポロ・ペツ」渇いた大きな川(そうです、豊平川のことでした!)であると知ったときの、あの喜びはなんとも心が踊る経験である。

さて12人の列像は、しかし「和人」によって描かれたものであるから、和人の文法を正しく使って、エンブレムを散りばめながら、作法に従って描かれたものである。例えば縄文人的な容貌、「一眉深眼、髪髭ながふして総身毛の生たる事熊のごとし」(坂倉源次郎が18世紀に記した『北海道随筆』における典型的描写)や、「三白眼」という黒目部分の非常に少ない眼の描き方、アザラシのブーツ、射た雀や鳥をベルトに結び、矢を引き、熊を犬のように連れ、仕留めた鹿を背負い…、彼らはそうやって、偉人(異人)伝説に登録されてきたのである。

げにいとめつらに気うときかたちしたり まゆは一文字につづきてまぶたのうへにおほひ ひげは三さかばかりありて口つきも見へず

なんてこった、昔の人の、異なる人を区別する視線は!
そんな風に、可笑しく思うかもしれないけれど、わたしたちは、
今日でも未だに、こんなことを世界のあちこちで、しています。

展覧会は巡回します。
日本のこと、和人と国の四隅で矢面になる各地の人々のこと、世界の異文化と異人のこと、考えるキッカケになると思います。

マウラタケ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。ポーズは仙人の図像集である『列仙図賛』を参考に描かれたもの。
ainu expo マウタラケ

チョウサマ
ウラヤスベツ(斜里町)の首長。同様に仙人図を参考にしたポーズ。アイヌの宝器を携えている。
ainu expo チョウサマ

ツキノエ
クナシリ(国後島)の首長。蝦夷錦の上に西洋の外套を纏っている。ポーズは中国三国時代の武将関羽に類似。
ainu expo ツキノエ

ションコ
ノッカマップ(根室)の首長。クナシリ・メナシの戦い終息のためにアイヌを説得したとされる。ノッカマップは、戦いに参加した多くのアイヌが処刑された場所である。
ainu expo ションコ

イトコイ
アッケシ(厚岸)の首長。紺の錦に赤い上着を羽織り、槍を携えている。
ainu expo イトコイ

シモチ
アッケシ(厚岸)の首長。弓術の名手として知られ、『和漢三才図会』はじめ多くの百科事典などに登場する弓をいるアイヌのモデルとなっている。
ainu expo シモチ

イニンカリ
アッケシバラサン(厚岸)の首長。白と黒の幼いヒグマを連れている。これは、弘法法師を高野山中で導いたとされる白と黒の犬を連れた狩人の図によると思われる。
ainu expo イニンカリ

ノチクサ
ノッカマップのシャモコタン(根室)の首長。鎌倉時代の武将、源平合戦の際に愛馬を担いで絶壁を駆け下りたという武士の怪力と野蛮さの象徴を象徴する畠山重忠の逸話を思わせる図である。
ainu expo ノチクサ

ポロヤ
ベッカイ(別海)の首長。右の襟を上に重ねる着方によって、和人の着物の着方との区別をしている記号的図像である。犬は洋犬として描かれている。
ainu expo ポロヤ

イコリカヤニ
ツキノエの末子。捉えた鴨を抱え、後ろに振り向いている。
ainu expo イコリカヤニ

ニシコマケ
アッケシ(厚岸)の首長。弓を抱えている。アザラシ皮の靴が、置かれることによって一層強調されている。
ainu expo ニシコマケ

チキリアシカイ
イトコイの母。ツキノエの妻という説もある。異国より手に入れた敷物のうえに毛皮を敷いて座っている。
ainu expo キチリアシカイ

蠣崎波響
蠣崎波響(1764−1826)は、松前藩主、松前道広の命を受け、クナシリ・メナシの戦いで功を奏したアイヌ首長12人の図を作成した。12人の絵に「夷酋列像序」という序文を持参して上洛し、多くの文人・貴族に披露した。さらに、光格天皇の目にも触れ、これらの列像は多く模写されることとなった。

09/22/15

考えを述べる人の勇気を 浅はかだと嘲笑するのを止め 勇気づけることはできないだろうか。

私たちは、

他の人にどう思われるかとか、
他の人に迷惑がかかってしまうとか、
他の人はどう考えているのかとか、
他の人はどうすれば嬉しいのかとか、
私はヘンじゃないだろうかとか、
私の言ってることはマズくないかとか、
私は誰かから批判されないだろうかとか、
私のせいで家族が悪く言われないかとか、
会社に知られたら良くないだろうかとか、
学校では隠しておいたほうがいいのかとか、
就職に悪影響を及ぼさないかとか、
昇進に不利に働くことはないだろうかとか、

色々と気を配るデリケートな人民であり、
つい「そんな恐ろしい目に遭うくらいなら」
つい「そんな面倒なことになるくらいなら」
押し黙り、流れに身を任せてしまう
こころ優しい人民であるからこそ

敢えて何かを言おうとしている
無理をして声をあげ意見を述べようとしている
慣れない憤りなんかを露にしている
たとえ不自然でもポジティブシンキングを訴える
不安に耐えて思うことを伝える
人々をあざけることの無いように。

何も知らずに馬鹿なことを。
勉強して出直してこい。
まったく的を射ていない、浅はかな考え。
ああいうやり方は好きじゃない。

写真が晒されて誰か分かるよ。
あとでいろいろマズイんじゃない。

そうやって、口を噤ませて、
あとは雪崩のように、流れる川のように、
みんなで「歴史は繰り返す」を実感するのですか。

私たちはやはり民族として、
連帯しやすく相互監視をしやすい性質を持っている。
そのことは、良きも悪きも本当である。

そもそも確認しておかねばならないことは、
もちろん、主張する人は謙虚に学ぶべきである
ただし、誰もが一夜にして専門家になれはしない
門外漢が発言してはならないのか
だとすればそれは民主主義ではない

民主主義とは、
ーこれは民主主義のディレンマをまことに現しているだろうー
専門家ではないわたくしと、
専門家であり深い考えをお持ちのあなたとが、
同じ一票をもっているということなのである。

私は、我々の持つ性質である、
ーそれは良く機能することも悪く働くこともあるー
相互監視の末、発言する人をはじき出してしまう
そんなことは真面目に少し怖いのである。

何はともあれ、考えを述べるのは良いと、
黙ってムッツリしている人々よりも
あの子は発言するから少しは良いと
言おうじゃないか。

情報統制も 検閲も 非民主主義的諸処の出来事も
現実です、噂じゃなく、無視できないことです。

人類は繰り返すというのは歴史上真なのだが
歴史を知る我々が敢えて繰り返すのを避けられるのに
それを避けることを人々は「反省」と呼び
歴史を学ぶ意義であると認識してきました。

考えを述べる人の勇気を
浅はかだと嘲笑するのを止め
勇気づけることはできないだろうか。

09/21/15

BEACON 2015 Look Up! みあげてごらん, 空を仰ぐことの意味

9月13日、岐阜県美術館で開催中の「BEACON 2015」を体験してきました。BEACONは、1999年より断続的に名古屋や京都など、全国で発表・展示されている、映像・音響・理論・美術がひとつとなった作品である。伊藤高志さんの映像、稲垣貴士さんの音、吉岡洋さんのテキスト、小杉美穂子さん・安藤泰彦さん(KOSUGI+ANDO)が担当する美術が相互に影響し合って作り上げられた作品は、回転台の上で撮影された様々な土地の日常風景が展覧会場において同じく回転台の上で投影されるという形態を撮っている。

BEACONはいつも、人間の記憶に関わってきた。それはメディア環境における人間の記憶の問題であったり、日常を生きる我々の記憶の蓄積の比喩としてぐるりと連続する風景を回転台の上で投影することであったり。そこには人々の風景があり、声が聴こえ、光とオブジェがあり、今ここに居ないがいつか出会った人々の痕跡がある。

年のBEACON 2014は展示空間の特殊性が作品に極めて強くコミットしていた。東京都台東区の葬儀場を展示空間とする異例の作品展示、BEACON 2014は »memento »の副題がつけられ、インパクトある形で人間の生死を主題としていた。

今回のBEACON 2015は第7回目の作品発表となるそうだ。副題は »Look Up! みあげてごらん »。
作品中に登場する映像では、美術館のある岐阜、沖縄、福島の「日常風景」が回転しながら投影される。

« Look Up! みあげてごらん »、展覧会のチラシにも掲載された吉岡洋さんのテクストの中で、「みあげる」行為は以下のように説明される。

人はそもそも、どんなときに空を見上げるのだろうか?
 それはたとえば、この世の煩いから離れたいときであり、遠い存在に思いを馳せるときかもしれない。
 またそれは、希望を持とうとするとき、あるいは反対に、絶望したときであるかもしれない(見上げるという行為において、希望と絶望とはつながっている)。
 さらには乗り越えがたい障壁によって、突然行く手を阻まれたとき。それはつまり、自分は今まで閉じ込められていたのだと、知ったときだ。

ここには、みあげる行為の意味が明らかにされるだけでなく、なぜ混在する沖縄と福島と岐阜の日常風景を追体験するこのBEACON 2015という作品が「みあげてごらん」なのか、さらには、なぜBEACONがこんなにも直接的にフクシマの風景や沖縄の風景といったクリティカルな問題を映し出すにもかかわらず、そこに恣意的な声を潜ませることなく淡淡と回転台のプロジェクタが投影するイメージを届けるのか。

みあげることは単純な希望の象徴ではない。人は、絶望したときも空を仰ぐ。そこにはなるほど、「いま、ここ」の限界を痛いほど認識する「わたし」がいるが、そんなものは世界にありふれたことかもしれないし、また明日別の状況に出会うことかもしれないし、「わたし」を今たまたま取り囲んでいるその偶然に満ちた環境によってこれまた偶然にでっちあげられたハリボテみたいなドラマセットに過ぎないのかもしれない。そんなふうに、みあげることは切り離すことであり、あるいは繋がることである。

みあげることは、ある意味で孤独であり、ある意味で本質的に力強い。それは、頼りない表面的な結びつきとか駆け引きなんかに基づく脆弱な人間関係ではなくて、困難に打ち拉がれ途方に暮れて空を仰いだところからのインディペンデントな連帯だからである。

Look Up ! みあげてごらん。
この作品は10月12日まで見られます、そこで福島と沖縄と岐阜の日常を見ることは、いまここを断絶し連携し、今日の私たちの状況について考えに至るキッカケにもなると思う。

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09/21/15

鈴木理策「意識の流れ」展 / Risaku Suzuki Stream of consciousness

鈴木理策さんの個展「意識の流れ」は東京オペラシティーであと2日、9月23日まで開催中です。

ウェブサイト:http://www.operacity.jp/ag/exh178/

鈴木理策さんは80年代より大判の写真作品で知られ、とりわけ熊野を撮影した写真や海や山などの自然を限りなく鮮明に、しかしそれは絵画のようにも映像のようにも見える作品を制作しています。今回の展覧会では写真作品が100点、映像が3点と大きな規模の回顧展と言える展覧会だと思います。
写真はいつから、ボケていてはいけないことになったんでしょうね。隅々まで鮮明に、できるだけ遠くを、できるだけ近くを、っというオブセッション。しかし我々の視野はもっとざっくりとしたもので、見えているけど見ていないものだらけだったりします。ぼうっとながめているとき、それらはぼやけているでしょう。焦点があっていない時だってあります、だからこそ写真の展覧会ではそのつややかな表面に、『ウォーリーを探せ!』と言わんばかりに塗り籠められた細部を見るのに大変疲れてしまうのです。
鈴木理策さんの写真は、そのピンぼけと鮮明さの両極の特徴で知られています。たしかに、「自然」に感じられるイメージという印象がある。自然に、というのは、がんばったり抵抗を乗り越えたりしなくてもよい、というような意味です。
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09/1/15

レクチャー&ワークショップ 「アーカイブと自己表象」

レクチャー&ワークショップ 「アーカイブと自己表象」@鹿児島大学法文学部 メディアと現代文化コース

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明日9月2日午後、レクチャーとワークショップを行ないます。テーマは「アーカイブと自己表象」。アーカイブとは、パブリックな目的で収集・分類・保存される資料を想像させますが、その公的な有用性以前に、歴史的・文化的なレベルではきわめて個人的なコレクションが起源となったのは明らかです。芸術領域では、情報化社会との相互作用やインスタレーション的な作品が数多く創造されるにいたり、「アーカイブ」を手法とする作品の現代アートにおける重要性は無視できないものです。

本レクチャーでは、アートにおけるアーカイブ、アートの手法としてのアーカイブの意義について考察し、具体的作品分析を行ないながらこの問題に対峙します。つづくワークショップでは、「私の思い出」(あるいは個人的コレクション)を作品化するプロセスと方法をめぐってレクチャー内容を踏まえて実験的な作品作りを行なう経験を通じて、アーカイブの公共性と親密性について参加者と共に考えたいと思います。

鹿児島でお待ちしています。s

ちなみに!

私の明治期の祖先は明治20年の初代屯田兵として鹿児島県(薩摩藩)より北海道は札幌の琴似に屯田兵として開拓使として派遣されました。以降、大久保は薩摩より琴似、のちに新琴似という大根畑の広がる土地に根付くことになりました。

大学生になって初めて鹿児島県を訪れました。西郷どんの像や、霧島アートの森を訪れて感激したことは言うまでもありません。

この度、鹿児島に再度訪れ、しかも鹿児島大学で自らの研究テーマである自己表象についてお話させていただける機会をいただいた中路先生、太田先生に感謝しつつ、明日はみなさんとの出会いを楽しみにしています。

アンケートご協力いただいた皆様、ありがとう!またこちらでご報告させていただきます。

大久保美紀