11/18/15

2015.11.18.  13日以降の生活のこと 大久保美紀

土曜日の出来事から5日経ち、確かに現地の生活は「生活」レベルで影響を受けている。

土曜の夜、21時までパリ市内で仕事をした後、シャヴィルという郊外へ2日後に控えたオーケストラのコンサートの練習に向かった。乗り番の曲の練習を終えて、友人を地下鉄駅まで車で送り、23時過ぎに帰宅する。友人は事件により混乱するパリの東部へ向けて移動を開始しており、下ろしたばかりの友人の安否を思う。友人はiPhoneですぐさま情報を得ており、迂回して帰宅し無事だった。
非常事態宣言を受けて翌日の仕事は全てキャンセルになり、教育機関や文化施設が閉鎖、パリ市内ではないがシャヴィル市長の決断により、コンサートは中止となった。ポンピドーセンターでの多数イベントも中止、私の勤めるパリ第8大学はサン・ドニ市にある。サッカースタジアムの近くだ。周辺に住む学生も多い。彼らの不安を思う。

思考が停止したりよくない方向に立ち止まることを避けて、外の世界と繋がりながら自分を勇気づけ続ける土曜日と日曜日が経過するうちに、マス・メディアやソーシャルメディアでは「連帯」の名の下に、逆説的にも、無邪気な暴力的な言葉が連なったり、的を得ない論争が繰り広げられるのを目の当たりに、テレビやソーシャルメディアを介して情報を得続けなければならない必要の一方、心底辟易させられる。それはメディアの性質である。ディスコースを演出し、まったくそれがクリティカルでない人々すらも闘牛の舞台に連れ出してスペクタクルが盛り上がるのを勇気づけるような、レシの自動生成装置のような性質が、今日のソーシャルメディアには、ある。

情報は手に入れて身の危険を避ける一方で、ずっと釘付けになってメディアの宇宙に住み続けないように、人に会ってリアルに喋り、目を見たり肩を抱いたり、肉声に鼓膜をふるわせ、自分もまた相手にとってリアルな会話相手となるように、気をつけなければならないと告げた。

丹念に準備されたイベントが次々と中止になる中、恩師であるジャン=ルイ・ボワシエの講演会がポンピドーセンターで11月16日月曜日に開催された。シネマ2の部屋は殆どの席が埋まり、彼の50年分の積み重ねられた時間が詰まったカンファレンスはパリのど真ん中で、それを観たいと足を運んだ人と2時間の時間を共有し、大成功に終わる。深夜のメトロに走って飛び乗り、駅で自転車をピックアップし、急いで漕いで帰宅する。

私は一昨日から開催予定で予定通りのプログラムを維持していた研究集会「記憶としてのアーキテクチャ」に出席している。サッカースタジアムの事件があり、今朝警察による作戦があったサン・ドニへは毎日赴いている。今日も参加予定だった。今日はさらに自分の講義もサン・ドニのパリ第8大学で行なう予定で、土曜日から特に辛い状況を過ごしてきた学生もいるだろうと心苦しく思いながら、教員の誰もが心を込めて行なうように、そしていつもよりもなおさら、今日の授業の準備を夜な夜な何度も見直した。

今日目が覚めると友人から一通のメッセージがあり、朝のニュースで詳細を確認する。早朝の出来事であるため、オフィシャルな決定についての情報にも先行して、必要があれば何らかの方針や学生の身の安全のための情報を伝えるのは、一部、教員の責任である。すぐに登録学生100名以上に、しかし多すぎて一斉には送れないので何通にも分割して、市や大学からの情報や決定があるまでは決して大学に赴こうとしないように告げるメールを泣きながら書いた。泣いても仕方のないことだが、どうしても涙が出たし、出るものは仕方がない。今年の年始からの状況に不安を抱かなかったことはないが、涙が出たのは今朝が初めてだった。9時過ぎに交通機関の停止を再確認、10時に大学側より講義中止と図書館の閉鎖の情報が発表され、再度学生にコンファームする。共有ブログを通じての記事提出などで質問や問題のあった学生とメールでやり取りをしたり、学生が受けることのできなかった授業内容について、なんらかのフォローを考える。彼らの心が今日も明日も強くあること健やかにあり続けることを祈りながら。

出来事の近くにおり、自己満足のために言葉を発すること、有用でないと思われる情報について言及することを先週末より制御してきた。この文章も、その点で、なんら役に立つ情報を含むテクストではないとは思う。そんな文章をわざわざ公開することを決めたのは、出来事に関して何を言うか、どのような配慮をするか、誰に対して発するか、を熟考した上でならば、人々が何かを「発話する」「声に出して誰かに何かを言う」「生きている状況を共有する」行為を支持したいと思ったからである。しかるべき表現行為を支持するために、私は自分自身に過度に表現を「制限」する沈黙を破る。

幾つもの満たすべきコンディションを尊重した上で、人は、表現することを必要としているし、表現する人を受け入れ、勇気づけるべきであるし、共に感じ、共に生き続けようと思考するセンスを持っている。

如何なるコンテクストにおいてすら、単なるヘイトスピーチや攻撃的な言論や漠然とした印象に基づく不確かな誹謗中傷は、実質的な状況改善の装置となり得ない。

「連帯」という状況がもしそのシステムに結びつけられていない何らかの他者を自ずと敵として想定することなしに存続できないのなら、「連帯」は即ち永遠に我々を救わない。

肉体というマテリアルな存在である我々人間は、どれだけ高度情報化社会にあってもユビキタスな存在では有り得ない。遠くの出来事を想像し思いを馳せ共感することはとてもかけがえのない行為であると同時に、どうか国内の状況あるいは現在の国際的な状況に対して自国のとりうる対応やそれが与えうる身近な生活環境への具体的影響・潜在的影響にも最大限注意深くあってほしいと心から思います。そのことは今最も伝えたいことです。

土曜日以降声をかけてくれた友人・知人の皆様どうもありがとう。私はまいにち元気で走りまわり喋りまくっています。

2015年11月18日 大久保美紀

写真:サッカースタジアム周辺(11月16日撮影)、パリ第8大学図書館窓より(11月17日撮影)