08/17/16

平等を主張し、自由を讃えるということ, Qu’est-ce que l’égalité? Qu’est-ce que la liberté?

10年ほど前に見た以来、忘れがたいイラストがある。
バーナード・ルドルフスキーの著書『みっともない身体』に掲載されていたイラストである。言わんとしていることは実にシンプルで、身体のどこを隠すか、何を恥ずかしいと感じるか、どのような服装が普通と認められるか、そんなことは全て文化によって決められており、我々はそれを当たり前として生きている、ということだ。

何の変哲もないテーズである。

我々は例えば20年前や10年前よりも、ルールのない世界に生きているような気がしているかもしれない。とりわけ私の生活環境であるこの土地では、毎年「テロ」が大きな事件を引き起こし、それらは報道が作る物語として定着し、定型化してさらに語られやすくなったキャッチフレーズは、誰もが口ずさめる流行歌のようにすり切れるまで反復され、認識はそのように、鋳型に収められていく。

自由の国であり、平等の国である。全ての民の人権を、尊重する国だそうだ。
男女は平等であり、異なる宗教を進行する民もまた平等である。肌の色の違う人民も、収入の異なる人々も、教育レベルの異なる人々もまた、同じ権利を持ち、同じように扱われるそうだ。

思うことがある。

果たして、髪の毛をむき出しに道を歩いたことのない人々が、それを露わにすることを強要されたり、膝下なぞ決して見せることなく覆っていた人々が突如そのふくらはぎや足首を露出して、その慣れない不格好な歩みを、誇らしげに闊歩する人々と並べられながらさらけ出さねばならないということを、自由と呼ぶことができようか。

果たして、肉体の露出を自由と信じる民を前に、肉体の不露出こそ自由であると解いたとき、それはあなたが洗脳されているのだとか、文化や教育によって現在そのようにしか思うことのできない不憫極まることだるとか説かれるとき、その人々は肉体を露出することを強要されており、それは実際には強烈に暴力的なことでもあるのだと、想像する想像力を、一方的に自由と平等を主張する民が持っているかどうかは定かでない。

そのように語るとき、全ては構造の中にあるということを、言い放つことは残念ながらできず、それでもなお、確かに不幸な状況の存在を認めることは、世界に幾つものケースがあると思われる。

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08/15/16

Redonne-lui une vie, もういちど球根が花を咲かせるか試すこと

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Redonne-lui une vie.
球根がもう一度花を咲かせるか試すということ。
それはすっかりカラカラになったヒヤシンスの球根がもういちど暫くの期間準備を行なって、水や空気の恩恵を受けながら再び芽吹くのかどうかを知ろうとすること。それを成すために行なわれる全てのオペーレションと、このカラカラになった球根がなるべきだった生というのは、命をコントロールする実験を行なう介入者がその介入を行なわなかったら、というパラレルワールドの中にしか思うことができない。あらゆる生は、動物的な生も、とりわけ我々の人間的な・社会的な・文化的な生も、我々が既に認識することから突き放されている数多くの異なる場合的世界の中で、「なるべく」過ぎていくことができているのかもしれないことを想像するのは自由だ。

Quand on fait n’importe quelle expérimentation: pensons que nous essayons de donner à une bulbe gravement séchée jusqu’à la perte de vie, quand nous voulons savoir si elle est capable de revivre encore l’année prochaine pousser, fleurir, grâce à l’aide de l’eau et de l’air du sol riche, tout en attendant l’éventuelle renaissance, il ne serait plus possible de visionner une vie « telle quelle », comme elle était sans intervention du pouvoir l’un ou l’autre, nous ne pourrions plus savoir comme cette bulbe séchée pose la fin de sa vie si toute opération extérieure ne la amenait pas vers une déviation proposée.  « La vie telle quelle » n’existe que dans un monde parallèle, un monde qui alors n’est pas choisi. Toutefois nous sommes tout à fait libre d’imaginer, soit sur la vie végétale soit sur la vie animale, notamment celle humaine, « la vie qui vit comme elle est destinée de nature », bien que nous soyons souvent forcés à nous éloigner de toute cognition humaine, sociale et culturelle, à propos de ce sujet.
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08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
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写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1

08/2/16

応用哲学学会サマースクール:装うことのモダリティ:身体意識を変容するファッション、表象するファッション

装うことのモダリティ:身体意識を変容するファッション、表象するファッション

 

 今日私たちが纏うこと、あるいは脱ぐこと。それはもはや単なる「衣服の着脱」を意味しない。ある衣服は我々の身体を物理的に変形し、別の衣服はこれを抽象的に作り替える。ある人はファッションを自己表現の手段と見なし、別の人は無意識的にそのファッションの持てる身体意識を表す。私たちの身体意識は、ファッションによって変容し、これを通じて表象される。本講演では、普遍的テーマである「装うことの意味」を、メディア化された現代社会における状況とそれによってもたらされる特徴的な身体様態に焦点を当てて考察することを試みる。今日私たちの肉体と「装う行為」は、どのように共鳴しているのだろうか?

 
纏うことを哲学する応用哲学学会サマースクールにおいて、8月31日講演します。纏うことと身体意識に焦点を当て、身体意識を変容するファッション、表象するファッションに関してのお話をしたいと思っています。関西の方、テーマにご関心があられる方、ぜひお越し下さい。

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08/2/16

The modality of contemporary narratives in the digital era

I share another presentation I did in the 20th International Congress of Aesthetics, Seoul National University, on 27th july 2016.
This study concern the act of writing via digital devices such as smartphone or social networking platform such as blogs. I focus on its objectives and utilities or positive impacts on the contemporary society.

If you are interested in the topic and in discussing further more, please contact me (garcone_mk atmark yahoo.co.jp). I will be happy to make collaborative projects or possible experimental works.

Abstract:
The modality of contemporary narratives in the digital era
Miki OKUBO

Narratives written not only by artists but also by amateurs have never been so easy to carry out, exhibit and share. Individual engagement in writing personal narratives has become a mundane, commonplace undertaking. We have a vast array of means available to realize our intimate storytelling, including traditional and modern medias and advanced technologies: keeping a diary or a blog, writing a novel (either traditionally or for Twitter or Smartphones), making notes on Facebook then sharing them with “friends”, “tweeting” frequently via Twitter, creating a visual novel, and so on.

Despite this ease of access to platforms and the disposition of media, authors have no chance of becoming a celebrated author. In our highly information-oriented society, it is extremely difficult for individuals to manage to have their writing read by numerous readers. That is why today ordinary people engage in excessively intimate writing (about family situations, love, illness or mental affliction, etc.) without causing a scandal, making a strong impact nor even embarrassing others. Determined confessions are viewed with indifference by others. All that these ordinary “authors” can expect to gain through their personal, self-centered writings is a kind of auto-therapy or satisfaction for their human narcissistic desire.

In this study, we also observe an important current trend in narrative structure. As Hiroki Azuma mentioned in his book, The birth of realism like games (2007), contemporary literature has been gravely influenced by video games or online games and shares several characteristics: emphasizing characters’ presence, recycling repeatedly stereotypical scenarios, combining fragmented scenes. The novels have been written similarly to games, adopting their dramaturgy and staging. In other words, the changes undergoing modern writing concern not only ordinary, individual people but also the literature domain. The influences are complementary to each other; literary works and digital writing.

Through my presentation, I will construct a new aesthetic theory of contemporary narratives in the digital era, referring to what we observe on the Internet through different realizations via new media in order to understand the utility and the signification of the act of writing.

Keywords: digital, writing, blogs, social media, character, twitter novel, keitai culture, narrative.

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08/2/16

Aesthetics of “robotized body” in the representation of Aidoru’s (popular singers’) costumes

Here I share the abstract of my presentation I did in the 20th ICA july 2016 about the robotized costume regarding of the recent trend of body consciousness. If you are interested in the topic, you are very welcome to contact me for further discussion! (to garcone_mk atmark yahoo.co.jp)

The 20th International Congress of Aesthetics, July 24-29 2016, Seoul National University
Intervention by Miki OKUBO, 26 july 2016

Abstract:

Aesthetics of “robotized body” in the representation of Aidoru’s (popular singers’) costumes
MIKI OUBO

In the new media environment developed over these past few decades, our body consciousness, from ontological, aesthetic and sociological points of view, has been radically modified. Throughout diverse experiments (virtual reality, augmented reality, video games, simulation, avatars, etc.), our body image today differs vastly from that of previous eras. Cyborgs, humanoids and humanlike-robots that were classic imaginations of SF films have become real thanks to advanced technologies.

In my presentation, I would like to investigate one emerging “ideal body” trend in our mass cultural environment. The observation of costumes of popular singers called “Aidoru” will allow us to understand what human beings consider “an ideal” body shape.

“Aidoru” is a Japanese word meaning “young star singer(s).” These performers, strategically staged commercially since the 1970s, are characterized by their particular style of dance, music and costume. One pioneer example of Aidoru wearing a robot-like costume is the female duo, Pink Lady, popular in the second half of 1970s. The metallic colored costume for one of their hits, UFO, featured mechanized body traits reminiscent of a spacesuit. We can also think of cone-shaped bra designed by Jean-Paul Gaultier for Madonna in the 1990s, which brings to mind a strange humanlike robot. As for a more recent example, the dance style of trio Pahyumu (Perfume, is characterized by unique, inhuman, and unnatural mannequin-like movements. Their costume also resembles spacesuits and their music is electro. There is no need to look for particular singers specifically oriented to the robotic style, this costume trend is shared by a large number of Aidoru.

This trend of aspiring towards a robotic-like body is worrisome. It doesn’t just signify an appreciation for simple physical imitation of cyborgs through costume games, but ontological pursuits of self-image. Analyzing these costumes will help us understand the signification of human body representation from aesthetic and anthropological points of view. Throughout my presentation, I will construct a theory of body consciousness and its representation to reveal the strangeness of idealized body image.

Keywords: robotized body, idol, aidoru, cyborg, humanoid, android, Pink Lady, Lady Gaga, costume, cosplay, character, body image, body consciousness.

LadyGaGa-Metropolis Perfume 4 TR-5