01/13/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.2

本記事は、12月28日および12月30日に大阪の日常避難所511において開催された、miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)です。講演前半においては、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flânerie »(そぞろ歩き)に関して、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索が主題となり、Robert Filiouや谷崎潤一郎、Francis Pongeらの思想からの引用を紹介しながら、考察を行ないました

講演会の後半では、このような制作の背景を踏まえた上で、具体的に作品とそのコンセプトを解説しながら、「モノの記憶」、「身体の記憶」、「物々交換」、「動物―植物ー無機物間のインタラクション」という主題について考察しました。

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Objets cultes 

« Culte »は、宗教的な「カルト」である以前に第一義的に、崇拝や敬愛を表す。Objets cultesはしたがって、モノに対する崇拝、あるいは注意を払われるべき物に関する一連のコレクションである。関心を向けるのは、我々が普段思いを寄せることすらほとんどない道具のくたびれた様子だとか、使用によってほころびた状態、人々のエネルギーが物体に何らかの変化をもたらした形跡や、時間の経過をそのヴォリュームに留めた数えきれない「オブジェ」たち。

たとえば摩耗しきったスコップや、人々の流れを記憶に留めるメトロの出口(最も人が通るドアの表示がすり減っている)、歩き方のクセが現れる靴の底や、画家が筆を洗い続けたことによって穴の空いた石けん。それらのオブジェは、何らかのエネルギーを受けて、変形したり摩耗したり本来の機能を失ったりしている。

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*「物々交換」の実践

« flânerie »(そぞろ歩き)の二つ目のシチュエーションに、se perdre(道に迷う)があった。宛もなく歩き、見知らぬ人に出会う。目的地への最短ルートを急ぐことと対極にある、彷徨い歩いて見知らぬ人々と出会って会話をするような行為。Objets cultesとしてコレクションされている物には、アーティストがオブジェの持ち主と交渉して物々交換した物が幾つも含まれている。アーティストは持ち主に、くたびれたオブジェを模倣して作ったレプリカあるいはオブジェの弱点を修正して作った補強されたレプリカとオブジェを交換してくれないかと提案するのだ。「物々交換」については、またの機会に焦点を当ててじっくりと考察してみたい。

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Expérience hasardeuse

偶然的体験は、化石や動物の骨の鋳型、絵の具の軌跡、動物の骨や奇妙な環境下に栽培された植物などを含む。このコレクションは、インスタレーションとして展示された。

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Chitine-kératine-céllulose

chitineは生き物の抜け殻を構成しており、kératineは髭や爪のような死んだ表皮細胞を構成している。アーティストは、蝉の抜け殻をコレクションした。蝉の種類にもよるが、一般に知られているように、蝉は成虫としては非常に短い期間だけを生き、それ以外の生の大半は、脱皮をしながら木の中で過ごす。アーティストはこれについて、木と蝉の一生のアナロジーを見いだし、インスタレーションとして展示した。また、2013年より三年間、12ヶ月ずつ髭を伸ばし続け、各年のケラチン質をラボラトリーで分析するために保存している。ケラチン質は、食生活や生活環境、ストレス状況など心身の状態を反映する他、金属(水銀、銅など)や放射能の影響を受けることが知られている。生の記憶が身体から切り離された形で、解読を待っている。

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cellule babélienne

“ alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues (en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

バベルの塔としての細胞は、デッサン、石彫刻など多様な作品形態をとりうる、バベルの塔という一つのコンセプトを共有する作品群である。人類は世界中で異なる言語を話すにもかかわらず、遺伝子のコード、つまりは塩基配列のパタンが基本構造となっている遺伝情報を翻訳する「自然の言語」は異なる言語を話す人々の間でも共通なのである。遺伝子言語は、RNAおよびDNAに基づいていて、それは太古から変わらない化学のバベルの塔を形成する。
lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed. albin michel 1986.

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デッサンは、50cm×60cmのものと、さらにカオティックで複雑なバベル的細胞の建造物を表した2m×1.5mの巨大なデッサンがある。石彫刻では、植物―動物ー無機物のインタラクションが象徴的あるいは物理的に実験されており、2015年より生き続け、現在も変化し続けている作品である。

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miki okuboとflorian gadenneによるカンファレンスの報告(後半)をお読みくださって有難うございました。十分に言及できなかった「物々交換」や「禅」的思想と表現の関係については、また番外編で掲載したいと考えています。

フェイスブック、Twitterやブログを通じて、もしご質問やコメントがあればどんどん声をかけてくださいね。

最後に、今回企画を引き受けてくださった日常避難所511リーダーの田中さん、28日オーガナイズを中心にしてくださったみゆきちゃん、30日の段取りをたくさんしてくれた阿曽沼くん、またお料理や設営などたくさんお仕事をしてくださった皆々様、お越し下さった皆様、本当に有難うございました。 miki okubo & florian gadenne

florian gadenne :  http://floriangadennecom.over-blog.com
miki okubo :  http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/

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01/11/17

conference : miki okubo & florian gadenne vol.1

miki okubo & florian gadenne

2016.12.28 and 12.30

12月28日および12月30日、大阪の日常避難所511において、miki okuboとflorian gadenneによるトークイベントを行ないました。講演において主題となったのは、florian gadenneの制作においてキーワードでもある »flâner »(そぞろ歩き)に関する考察、またそぞろ歩き的思考によって可能となる表現の模索。

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flâner, flaneur, flanerie ぶらぶら歩く、そぞろ歩きをする人、そぞろ歩き。

今日の生産性を重視し時間を無駄にしない事を善しとする社会では、目的なくぶらぶら歩くことは否定的に捉えられる典型的な行為の一つでしょう。時間を無駄にしないために、予め目的地までのルートを調べ、交通手段を調べ、最短の乗り換えを調べ、インストラクションを遂行する。私たちの日常はそのような最短距離の目的地間移動によって構成されています。そぞろ歩きによって私たちは何をするのか。これについて、florian gadenneは3つのシチュエーションを見いだしています。

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FLÂNER, verbe intransitif.:ぶらぶら歩く、そぞろ歩きする (仏、他動詞)

Étymologie. et Histoire. :語源と歴史
1.1638 « paresser, perdre son temps » (D. Ferrand, La Muse normande, éd. A. Héron, t. 2, p. 177):ダラダラする、時間を無駄にする
2. 1808 « se promener sans hâte, au hasard » (Hautel).
« marcher, se précipiter étourdiment » (De Vries Anord.)
« se promener » (Falk-Torp, s.v. flane). :急ぐことなく散歩する、偶然に任せて歩く /焦らないで歩く

そぞろ歩きをめぐる3つのシチュエーション:
シチュエーション1 見知らぬ場所を発見する ー散歩、自分を取り囲んでいる環境の観察(表面上の観察→細部の観察)、ものの時間の経過による摩耗、しみやよごれ、あらゆる物が時間と空間においてどのように摩耗しくたびれるのか。

シチュエーション2 Flanerie(そぞろ歩き)は、perdre le temps(時間の無駄) ー現代社会において私たちは日々「時間を無駄にすべきでない」「時は金なり」といった強迫を生きているが、se perdre(道に迷う)ことを本質とする“そぞろ歩き”は、金銭を基準としないかつての物々交換に似た事なるechelle(価値観)に基づく。

シチュエーション3 このような “そぞろ歩き”の一つの結果は、環境(山、自然、都市)から探し集めて来た様々な物がごちゃごちゃと堆積するAtelier(アトリエ)の形をとりうる。動物の骨、すっかり乾燥した物体、死骸、泥の塊や出来事の軌跡を私たちに伝えるオブジェ。それらの集積は、意味を成し、詩的なヴィジョンを私たちに与える。

以下に、このそぞろ歩き的思考によって導かれる表現活動についての解釈、あるいは芸術行為と我々の生死についての考察を、幾つかのテクストを引用することを通じて表す。

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Notion de la participation:参加の概念
« La principale différence est que je ne suis pas un peintre qui à l’ aide de pigments va créer une peinture. J’utilise le lait et j’utilise le pollen ou la cire d’abeille, que je n’ai pas créé. Je participe aux plus belles choses dans le monde, que je ne pourrais jamais créer. Je ne pourrais jamais créer cette beauté du pollen. Donc, la tragédie pour moi serait si je tentais de faire une peinture de pollen. »
Wolfgang Laib

私は、絵の具の力をかりて、“peinture”(絵画)を作る“peintre”(画家)ではない。私は、牛乳や花粉や蜜蝋を使って描くがそれらは私が創り出したものではない。私は世界に存在するもっとも美しいものに“参加”しているのであり、それらを産み出しているのではない。例えば、花粉の美しさなどは私には到底作り得ないものだ。だから、もし私にとって最も悲劇的なことがあるとすればそれは、花粉の画料を産み出そうとすることであろう。
Wolfgang Laib

Signification de l’art:芸術について
« l’art c’est ce qui rend la vie plus intéressante que l’art »
Robert Filiou

芸術とは、芸術そのものよりも人生を興味深いものにしてくれる何かである。
Robert Filiou

mémoires du temps, ou effets du temps:オブジェの記憶
« effets du temps », voilà certes qui sonne bien, mais, à dire vrai, c’est le brillant que produit la crasse des mains. les chinois ont un mot pour cela, « le lustre de la main » ; les japonais disent « l’usure », le contact des mains au cours d’un long usage, leur frottement, toujours appliqué aux mêmes endroits, produit avec le temps une imprégnation grasse ; en d’autres termes, ce lustre est donc bien la “crasse des mains”. »
junichiro tanizaki – éloge de l’ombre.

われ/\は一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳かげりのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人工の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。尤も時代のつやなどと云うとよく聞えるが、実を云えば手垢の光りである。支那に「手沢」と云う言葉があり、日本に「なれ」と云う言葉があるのは、長い年月の間に、人の手が触って、一つ所をつる/\撫でているうちに、自然と脂が沁み込んで来るようになる、そのつやを云うのだろうから、云い換えれば手垢に違いない。
陰翳礼讃、谷崎潤一郎

égard et regards des objets:モノによる配慮、モノによる視線
« Nous ne sommes pas seuls ici. Nous sommes loin d’être entre nous. Permettez-moi, Mesdames et Messieurs, d’invoquer, en même temps que je vous invoque, toutes les choses présentes dans cette salle, ces choses à qui une fois de plus nous avons ôté leur silence, ces choses que nous traitons, que nous avons traitées jusqu’à présent avec la désinvolture et la brutalité coutumières à cette espèce de sauvages à leur égard que nous sommes.  Je ne sais pas si je me fais bien comprendre; je parle de ces murs, des lattes de ce parquet, je parle des clefs que vous avez dans vos poches, de tous ces objets qui nous ont accompagnés, et qui nous ont attendus ici, et qui sont ici avec nous, et qui doivent par force se taire – peut être à contrecœur – et dont nous ne tenons compte jamais, vous le savez, jamais. » 
                                             Francis Ponge, Méthodes, Tentative Orale, 1983, pp. 250-251. 

我々は全く持って我々自身で存在しているのではない。我々だけで自律してるのでもない。この部屋にあるあらゆるオブジェ(モノ)は、少なからず我々がその沈黙を破った事のある対象であり、我々が普段は習慣化から思うままに時には乱雑に扱ったり利用しているモノであると同時に、我々がモノたちの配慮の対象になっているとも言えるのである。例えば、壁や床の木の板、ポケットの中の鍵など。それらは我々と共にあり、沈黙するように強いられ(時には嫌々)、そして我々はその事実について盲目であり、絶対に知り得ないことなのである。
Francis Ponge

Le Zen, comme non-raison ou raison inopérante:非理性あるいは無益なものとしての禅
« Le Zen ne se saisit pas par la raison. Il est avant tout du côté du non sens, en affirmant la présence simultanée des contraires (ordre-désordre, vie-mort, nécessité-hasard, etc.). De cette manière, la pensée Zen est porteuse de paradoxes qu’elle dévoile constamment comme inopérant. » 
Ullrike Kasper – Écrire sur l’eau – L’esthétique de John Cage

禅とは、理性によって摑みとることのできないものである。それは何より先に、意味を成すものにあらず、今ここにある相反するものの存在を肯定する。例えば、秩序ー無秩序、生ー死、必然と偶然など。このように禅を考えたならば、禅とは、矛盾を孕んでおり、それ自体として役に立たないものである。
Ullrike Kasper 

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講演会では活発な質問や議論が行なわれ、参加していただいた皆様には非常に感謝しています。
次回の記事では、この前半の部分に続く講演会後半の作品紹介についての記事を掲載します。どうぞお楽しみに。

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01/10/17

recent pictures – jingo temple, mt. atago – kyoto 2016 dec.

年末2016年12月29日に愛宕山にお邪魔しました。雪がふわふわに積もって、すれ違う人々はスカートと普通の靴で斜め掛けの鞄を持って山を歩く私にしきりに上のほうは寒いからと注意を促し、愛宕山に登るのは三回目でしたが久しぶりでとても嬉しくて、何よりも真っ白な山が嬉しくて。

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神護寺を訪れたのは2016年12月28日、到着の次の日です。神護寺は私は夏と冬に時間をゆっくり過ごすのが好きです。シダ植物やコケ植物、地衣類の素晴らしい様子は、秋の色鮮やかな赤色や黄色よりも私にとって大切です。緑色の多様性のことなど。生命の形の面白い事など。

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01/1/17

ことしもよろしくお願いします meilleure année 2017

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今年もみなさんとみなさんの大切な人に素敵なことと幸せが溢れますように。これからもどうぞよろしくお願いします。
年末より帰国し、大阪でたくさんの方にお世話になり、パートナーと共に活動を紹介するイベントを行なわせていただいたのち、故郷札幌で年を越しました。上の写真は三歳まで住んでいた生家で撮影されたもので、このたびの帰省で初めて目にしました。下の写真は愛宕山の4分の3地点くらいまで登った際にあまりに美しかったので撮影したものです。元旦は人生初めてスノーボードを手稲ハイランドで滑りました。滑っていると言うよりは、人生にこれほど短時間でこんなに激しく転ぶ(転がる、飛ぶ、落ちる、打つ、滑る)経験がこの先にもあろうかいやあるまい。という素晴らしい経験で幕を開けました。もうしばらく滞在したのちまたフランスに戻ります。どうか楽しく幸せなお休みをお過ごしください。

Happy new year to dear my friends. I hope your smiles, happiness and chances for this new year 2017 and hope your and your dears’ healths and peaceful lives.
Returned in my country several days ago, realized small conferences in Osaka with my partner about our activities thanks to kind friends help. We climbed up Mt. Atago and encountered this beautiful landscape covered with snow… For starting new year, I experienced for the first time snowboarding in Mt. Teine. In fact, not exactly snowboarding but rather sliding, falling, rolling on the New Year’s Eve, we arrived in Sapporo. For starting new year, I experienced for the first time snowboarding in Mt. Teine. In fact, not exactly snowboarding but rather sliding, falling, rolling on the ski slopes. I had never fallen so many times in a short time in my life!
Before returning in France, we will stay extra some days here.
This picture above was taken in the house where I was born and lived until 3 years old, that I had never seen before this visit with my parents 🙂
I hope your excellent holidays and peaceful moments!
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