« livre comme thème artistique »/ 「本」に関わる作品 dOCUMENTA(13) @Kassel

カッセルで行われた第13回ドキュメンタを訪れた。2012年6月9日~9月16日の会期(100日間)であったのだが、私が訪れたのは9月14日~16日の最終三日間にかけて。3ヶ月も続くアートイベントの最後の三日間というのも、もはや作品がくたびれているのでは!なんて予想するが、ドキュメンタに関わる様々な人たちの努力故であろうけれど、まったくそんな印象もなく作品はぴしっとしていた(と思う。)私はざんねんながらドイツ語を話さないし読まないが、基本的には全て英語でも説明されている。しかし、作品によっては、たとえばいちいち字幕が表示されないビデオ作品やテクストを主要な意味として構成した作品等においては、たとえアーティストが個々のテクストや会話内容の不理解が全体としての作品理解に致命的に作用しないと主張したとしても、それでもなお、そこにあるはずの「意味」をキャッチできないという点で、言葉の壁を感じざるを得ず、そのことが作品鑑賞にとってややざんねんな結果を生じさせていたように思う。もちろん、この難しさというのは、何をどこまで説明する必要があるかというレベルの問題に帰着できるに違いないし、このことは、何らかの媒体で表現されたすべてのものが、作り手から受け手に伝わるプロセスの中で本質的に含有する「非理解性」みたいなものである。

 

ヨーロッパにいながら、ビエンナーレ的なものや国際的なアートイベントに積極的に足を運んだこともなく、カッセルのドキュメンタを訪れたのも勿論初めてである。パリのギャラリーやアートフェア、アートイヴェンとには足を運んでいるものの、なかなかヴェネチアビエンナーレに行ったり、カッセルのドキュメンタを訪れたりできなかった。したがって、まず広大な敷地と膨大な作品の量に驚き、カタログの厚さ(というよりむしろ、各々のアーティストについての言及は少ないのに、こんなにページがあるという事実)に驚き、まあ到底ぜんぶ見ることはできないし、見ようと思わないのがよいということがよく解った。

先に既にアルバム化させていただいた写真群(album1, album2)ですら出会った作品のごく一部なのであるが、今回はその中からさらに恣意的に選択、「本」に関係する作品を発表したふたりのアーティストについて書こうと思う。

 

Paul Chan, Why the Why?, 2012

一人目は、Paul Chan ( born in 1973, Hong Kong, lives in New York)。カッセルで発表されたのは、 »Why the Why? » (2012) という作品である。この作品は、作者であるPaul Chanがある日、床に落ちていたショーペンハウアーの著書『余録と補遺』/ Parerga und Paralipomena (1851年)を拾い上げ、突然衝動に駆られてハードカバーの表紙を中のページとびりびりと切り離し、その汚れて埃にまみれたハードカバー表紙を破り割いてしまおうとした。引き裂こうとカバーに手をかけたところで、ふと、このカバーを90℃回転させて、縦長に持って目の前にかざしてみると、それはもう本のカバーではなく、乾燥して埃っぽくガサガサの人の皮膚みたいにみえた、という日常的におけるしかし非常に奇妙な気づきからスタートしている。

 

その後、彼はこの90℃回転させたカバーをキャンバスに見立てて山を描き始める。描かれた山々はこれまで一度も見たことがない様子をしており、それはひとつには、彼がその山を自分の想像に任せて描いたからであり、もうひとつには、描かれるべきでない本のカバーに特別にもうけられた枠組みの中にその山々が描き込まれることで、それらはあたかもキャンバスの表面にゆらゆらと浮かび、そこから逸脱してしまいそうな印象を与えるからであると、Paul Chanは説明する。

次々と本を壊し、カバーをページから引き剥がして行くうちに、山のようなカバーのキャンバスがアトリエを埋め尽くしていく。このときに明らかになったのは、キャンバス(つまり、カバー)によって、表現主義的な絵画作品となったり、自然主義的であったり、モノクロームであったり、様々な表情が生み出されるという。

 

そして、彼はいう。「私はこれら私が引き裂いた本を、一度も読んだことがない。」

Paul Chanというアーティストは、近年むしろメディアアートの領域で活躍し(2009年 Biennale de Venise etc.)、今回のようなマテリアリスティックな作品制作と平行して、デジタル作品を多く制作していた。その彼のキャリアの中でも、「本」というオブジェクトに対する関心は特筆に値する。Paul Chanは2010年、Badlands Unlimitedというアート本としてのデジタルブックを発表した。(この作品についてのインタビューはこちらで読めます。)アーティストが、電子書籍として作品を発表するということについて、安価であること、インターネットアクセスさえあれば遍在的にダウンロードできるということ、ハードカバーの紙媒体の本よりも半永久的に保存されること、そして、紙の本よりも人々にシェアされ、保存される可能性をもっているということを明言した。

 

“the body as a reader, focus as space” and “time as a medium.”

この言葉は、これまでアートブックをe-book化することに取り組んできたアーティストが、本を読む行為の現代的な新たな可能性を含意して述べた言葉である。読書行為そのものが鑑賞者にとって、いまここではない潜在的な芸術体験をつくりだすアートブックは、今日、ページをスライドするような新たなジェスチャー、アニメーションや音声の挿入やウェブサイト的な重奏構造を構築することも可能となり、根本的に異なる経験をもたらす。たとえば、2010年に編集された »Wht is ? »は10冊のオリジナルブックのテクストをもとに写真とテクストがモンタージュされている。(iPad Kindleのデジタル版および、PDF版(無料)はこちらからダウンロードできる)

本はなるほど写真に見られるようにタテに平にしてキャンバスにして壁に貼られれば、哲学書も子どもの絵本もスタンダールの小説もフラットになり、ケイオスをつくりだすのかもしれない。このことは確かに、アーティストのe-bookへの関心を知る以前にも、今日のウェブ2.0の世界でショーペンハウアーと検索すれば、有名な先生によるありがたいご説明とwiki様による説明、そして誰かがブログにちょこっと書いた感想文がごちゃ混ぜに引っかかってくる状況を思い出させる。アーティストがこれらの本を決して読んだことなく、カバーからページを破り捨てて表紙だけになった本の中に、意味を失ってかさかさになってしまった皮膚のような幻想を見ながらこれをコレクションするのも、共感できなくはない。

 

 

さて、もう一人のアーティストは、Matias Faldbakken ( born in 1973, Hobro, Denmark, lives in Oslo)、本彫刻(Book Sculpture)を世界の至る所で作り続けるアーティストだ。もちろん、本彫刻パフォーマンスだけが彼の仕事ではないので、彼のコンセプトを以下に少しだけ見ることにしよう。彼も本や書かれたものの「意味」について問題を提起するがそのアプローチはPaul Chanのものとは大きく異なる。

 

Ecrire […] est la violence la plus grande car elle transgresse la loi, toute loi et sa propre loi. (書くこと、それは最も強力な暴力である。なぜなら、それは法に背く。あらゆる法に背く。ひいては、書くことそのものの法すらも無視する。)(Maurice Blanchot)

このブランショの書く行為に関する言及をもとに2001年から2008年にかけて »Scandinavian Misanthropy »という3部作を書いている。あるいは、「サイコロ一振りは決して偶然(不確定なもの)を排さないだろう」というマラルメの詩集において告白された不確定の非排除性に関して、言葉それ自体よりもむしろ言葉と言葉の間にあるものに注目するために、一貫性のないイメージとあらゆる読みやすさの考慮を排除した空間配置を追求した作品制作も行った。

 

さて、dOCUMENTA(13)では、グーグル検索の結果を利用してまとめた »notebook »、ここではあるテーマについてMatias Faldbakken自身の興味関心による検索がどのようなアルゴリズムを介して成し遂げられたかをたどることができる。

 

Matias Faldbakken, notebook, 2012

 

 

さいごに、ハプニング的な本彫刻のイメージを見てみよう。

私はこの作品が好きである。最初見たときはよくわからなかったが、そしてこのブランショとマラルメのコンセプトとの影響の説明に基づいてもなお理屈として腑に落ちない部分は残されているのだが、ただ純粋に、このパフォーマンスが好きなのである。せっかくなので、少しだけ言葉で説明を試みてみよう。図書館においてきちんと内容とタイトル順に整然と整理されていた本を本棚から根こそぎ引っ張りだして、あるスペースにぐちゃぐちゃに(見えるように)再配置するというのは、なるほど暴力的な行為だ。しかしこのとき起こっているのは、床の上に無造作に重ねられた本がカバーの色彩や厚みや埃っぽい質感や、本がこれまで置かれていたコンテクストや意味を破壊されて、紙やボール紙や布の山としてそこに塊になっているという状況だ。これらの書物は無意味であり読まれることができない。

 

なぜじわじわこの作品が心地よく感じられたかというと、それはひとえに梶井基次郎が短編小説『檸檬』で描写した、丸善に突如出現した「奇怪な幻想的な城」をとてもクリアーに想像させたためだ。このあと主人公はこの奇怪な城の上に、果物屋で買ったとても美しい紡錘形の檸檬を配置して、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」を完成させる。Matias Faldbakkenの作る本彫刻は、まさにこの檸檬を据えられる前のガチャガチャとした混沌とした色と意味の集積であると同時に、檸檬を仕掛けた主人公のもくろみが成功したならば大爆発を起こして吹っ飛んだはずの「気詰まりな丸善」の棚が粉葉みじんになった後に残された残骸のようにも見える。

 

この本彫刻を目にした鑑賞者の心も少なからず、『檸檬』の主人公が「何喰わぬ顔をして外へ出る」心境に似ている。棚からどさどさと落とされた本は、静謐な図書館の中で明らかに異質であり、本来ならば棚に丁寧に連れ戻されることが予期される。わたしたちは、それを何食わぬ顔で、あるいはこの調子でわたしたちが他の本を一冊二冊、そこに加えたとしても、いや、もっとやる気があるのなら別の棚で思い切り100冊くらい本を棚から引きずり落して逃げてきても、アートなのかと思うと、少しだけ、楽しい気分になるのではないか。

 

そして私は活動写真の看板がが奇体な趣で街を彩っている京極を下って行った。(梶井基次郎 『檸檬』)

(わたしの檸檬がすきなことはblog de mimi old postをご覧下さい)

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