アール•ブリュットは現代アートにおける新しい動きや芸術的な傾向を語る上で非常に重要なカテゴリーである。なぜなら今日、型にはまった芸術的教育を受けていない芸術家の活躍が注目されたり、テクノロジーの発展によって素人であるにもかかわらず写真や音楽を簡単に加工したりすることができるようになった結果、そもそも、「プロフェッショナルな芸術」とは一体何か、という根本的な問いが投げかけられるようになってきている為である。
芸術的教育を受けていないけれど彼らの制作が芸術領域で重要なものとして注目されている作家たちを「アウトサイダー」と呼んだりもする。遡れば、彼の死後に大量のデッサンが自宅から発見されて有名になったヘンリー•ダーカー/Henry Darger(1892年生)は日本的な「かわいい感性」に合致する為か日本で大変有名である。
ヘンリー•ダーカーは自身の中にある子どもの王国のイメージを制作し続けた。裸の少女にはしばしば男性器が見受けられる。それらは彼が19歳から構想を練っていた大長編小説、非現実の王国にて(In The Realms of the Unreal : The Story of the Vivian Girls, in What is Known as the Realms of the Unreal, of the Glandeco-Angelinnian War Storm, Caused by the Child Slave Rebellion)の本人による挿絵である。
彼が引きこもってこの長編物語を執筆していたことは知られている。
彼のイラスト的な絵画を当時のものとして斬新と捉えたり、大きな文脈での重要性を発見することは自由だが、彼はおそらく自分の持ちきれないイメージを体現化するためのひとつの手段として、この長編小説を執筆していたのだろう。そして、目に見える風景を挿絵として描いていたのだろう。
アウトサイダーアートとして彼が有名になることはアウトサイダーアートというカテゴリーを必要とする現代のアートムードの都合でしかないのだ。
先日、アール•ブリュットを専門とするパリのギャラリーであるgalerie christian berstにおいてクリスティアン•ボルタンスキーとギャラリスト、フィリップ•ダジェンによる鼎談が行われた。テーマは、「アール•ブリュットは現代アートのなかにとけ込むことができるのか?/L’art brut est-il soluble dans l’art contemporain?」。議論は全体として、ボルタンスキーが自分自身を現代アートの文脈の中にどう位置づけているか、そしてアウトサイダーアートと自分自身の制作をどう位置づけているか、というラインを軸に進められた。
そもそも今日あいまいであるプロフェッショナルなアーティストとアマチュアの境界線。さらにはもっと曖昧であるアウトサイダーの定義。美大のディプロム、アーティストとしてのフォーメーションを経ていないと言う点でボルタンスキーは自身をアウトサイダーであると言わざるを得ないようだ。しかし、2010年のドキュメンタ、数々の展覧会に代表されるアート界第一線における活躍はいわゆるアウトサイダーアートの典型的な姿ではもちろんない。
もう一方にあるアウトサイダーアートの強烈なイメージは知的障害者や精神障害者によるアート、あるいは彼らの治療としてのアートセラピーという形。ボルタンスキーはこのことに引きつけて、付け加える。自分自身が精神的に大きな問題を抱えていたこと、芸術作品の発表という形でその問題を外側へ向けて解放してきたことによって、作品を制作する以前に比べて幸福な人生を送っているということ。必要不可欠な行為としての芸術表現行為を明言するのである。
アール•ブリュットはパリにもこのジャンルを専門にしているギャラリーが複数存在するほどに、現在モードのアートジャンルの一つである。しかし、その発見と発表については、彼らを大きなコンテクストの中に巧みに位置づけ、イントロデュースするギャラリストやキュレーターといった第三者の貢献が大部分を占めているように思える。
たしかに、さまざまな芸術的コンテクストを知らなければまったく理解することのできないような複雑きわまりない作品に頭を悩ませる状況からすれば、しばしば、子どもの絵やアウトサイダーの絵は非常に新鮮であり、斬新である。なぜだろう。それはしばしばストレートであり、またあるときは秘密無く「意外」だからである。
ここに、60歳を持って初めて定期的に絵を描き始めた私のよく知る一人の男性の一連の作品をあげる。絵というよりは、クロッキー帳になにげなく描かれたイラストのようだ。
私にとって、組み合わされたイラスト的要素や、多視角的な描写、色彩の組み合わせ方は非常に興味深い部分であるが、そのことについて論じることが大切である気はあまりしない。名作とアウトサイダーの作品、素人の作品と子どもの絵、これらにどのように言葉を与え、評価することができるのか、と考えてみることはわくわくするが同時にとても難しい。