新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。/ Newspaper Woman, Miyuki Nishizawa

本記事は、第三弾に渡る新聞女レポート&新聞女論の第三弾(最終!)、「新聞女論 vol.3 西澤みゆき – 新聞女はその踊りを醒めない夢の中で踊る。 」です。

「アートで私のこころが自由になった。それは師匠嶋本昭三もそうだし、いっしょにいるまわりの皆もそう。
だから、私たちが芸術を追い求めることで、いま苦しんでいる人たちのこころが少しでも、ひとときでも解放されてハッピーになったらいい。そして、仲間がいっぱい増えて、次の世代の人にもそれが伝わればいい。」
(西澤)

アーティスト西澤みゆきは、具体の精神を引き継ぎ、嶋本ミームを伝承する者として、芸術活動の本質を「精神の解放(/開放)」であると述べる。それはまさに西澤自身が、生きることの苦しみや困難、および長年にわたり心を縛ってきた重たい鎖を、芸術行為によってぶち壊し、粉々にしてしまうことに成功した張本人だからだ。
私の知る西澤みゆきは、いつもニッコニコしている。神戸の記号学会でお会いした際も、グッゲンハイムでも、あるいはSNS上で写真で見かけたりしても、とにかくいつも楽しそうだ。個人的な話だが、私自身は普段からあんまり機嫌が良くない。外出して人に会い、たった数時間頑張ってニコニコしているだけで帰宅すると顔が筋肉痛になってほっぺがプルプルする。だからこそ強く思うのだが、笑っている人はそこにいるだけで本当にハッピーを伝染する力がある。笑っている人は、いつもつまらなく悲しい顔をしている人よりも、個体として生きるエネルギーが断然高い。そして、そのポジティブなエネルギーこそが他の個体に伝染する価値のある唯一のものである。

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西澤みゆきが嶋本昭三のもとでパフォーマンスや制作などの芸術活動を始めたとき、彼女は肉親との関係や世間が強いてくる鋳型のようなものに苦しんでいた。それは、本当に大切なものの前ではひょっとして小さなことであるにも関わらず人が生きるのを息苦しくする、時には人から生きる力を根本的に奪ってしまうほど苦しくさせる、何かとても良くないものであった。身体に合わない服とか、胸から腰までを縛り付けるコルセットとか、刺すような痛みを日夜与え続ける歯列矯正器具の類いとか、目に見えはしないけれども、その良くないものはそれらに少しだけ似ている。

嶋本昭三の作品のひとつに、「女拓(にょたく)」がある。この素晴らしい作品は、彼の芸術行為を真っ向から受け止めることのできない人たちによって、しばしば不当な批難を浴び、日本社会ではスキャンダラスに扱われてきた。あるいはまた、イヴ•クラインの青絵の具を用いたパフォーマンス(Femme en bleuなど)と比較されることがあるが、イヴ•クラインのパフォーマンスが完全にコンストラクティッド(演出され、構成された写真)であるのに対して、女拓モデルの女たちが自由である嶋本の実践は全く性質が異なると言わなければならない。女拓は文字通り、魚拓の女バージョンである。女たちの裸の身体に墨を塗って、色々なポーズを紙に転写する。西澤はアパレル業界で十数年勤務したのち嶋本と再会すると、そこで女拓モデルをするために、全裸になった。女拓は嶋本昭三のアートスペースを利用して行われた。実は、「女拓が行われた」というのはやや語弊がある。実際にそれは生活のように自然に営まれたのである。もはやそれは一過性のパフォーマンスでも拓をとるための準備でもなく、裸で生活することそのものである。我々が作品として目にしてきた墨を塗られた女の裸体の様々な部分が紙の上に再表象されたものは、女拓という営みにおける最も物質的な結果にすぎない。女たちは、全ての纏うものを脱ぎ捨てた生活の中で、すこしずつ何も纏わないことに慣れていく。自分のものとは違う他人の裸、身体部位のかたちや色の違い、肉付きや骨格の違い、傷があったり老いたり子どもであったりする身体。魚拓がそうであるように(つまり、様々な種類や大きさの魚の記録であるように)、女拓もまた、女の生の記録である。それぞれの女たちの、異なる人生の記憶である。西澤はこの女拓生活を通じて、一人一人異なるはずの女たちの身体が、どの裸もおしなべて美しく、それがいわば全ての不要なものを脱ぎ去ったあとの魂のつきあいであることを発見し、それと同時にそれまで自らの心を覆っていた悪いものをバラバラに打ち砕いた。

著名なアメリカの写真家であるベン•シモンズ(Ben Simons)も女拓に関心を抱き、これを撮影した。墨で真っ黒になった裸の女たちの身体。彼は女に何のポーズも表情も要求もしない。女があるままに、裸でそこにいるままに撮った。彼は女拓の女たちの美しさを絶賛する。西澤みゆきはベン•シモンズがとりわけ愛した女拓モデルのひとりだ。生き生きとした命が発するひかりのようなもの。西澤は女拓の生活とベン•シモンズの写真を通じて、ハッピーを伝染するアーティスト「新聞女」となるための強い「たましい」を得た。

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時が過ぎた今、新聞女はいまや一人で立っているだろうか。
新聞女の最愛の師は、彼女と彼女と共にある者たちにチャンスと試練を残し、「現世での活動(を)引退」してしまった。(*「新聞女タイムズ」、特別号外より) 傷ついて繊細だったひとりの女拓モデルは、今やたった独り勇敢にクレーンに吊り上げられ、上空において人々の大喝采を全身で受け止める。彼女は、時にエレガントにまたあるときはゲリラのように人々の前に現れ、彼女自身の音楽を紡ぎ、彼女自身の舞を舞う。出会った人たちにハッピーを伝染するために。すべては、ひとりでも多くの出会い得る人々の「精神の解放(/開放)」と幸せのために。

芸術で精神が解放されました。だから芸術を追い求めてます(西澤)

心を封じ込めていた重い鎧は、再起不能なほどに完全に粉々に打ち砕かれ、もう二度と彼女を脅かしたりしない。そして人々が何かの偶然で悪い鎧を纏ってしまった時、それをどうやってぶち壊したらいいか知っている。新聞女はその芸術を、もう醒めることのない世界のなかでつたえ続ける。
(文:大久保美紀)

*「新聞女タイムズ」、特別号外は2013年3月9日のグッゲンハイム美術館でのパフォーマンスのために佐藤研一郎さんが作成した日本語および英語新聞である。

 

新聞女論vol.1, vol.2, vol.3をお読みいただいてありがとうございました。
お忙しい中メールでのインタビューにご協力いただいたみゆきさんに感謝します。
また新聞女ズひめさんのブログ「日々是ひめアート」を大変参考にさせていただきました。

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