Musée Centre Pompidou/ ポンピドーセンターでの草間弥生展を訪れた。
Centre Pompidou Yayoi Kusama
2011.10.10 — 2012.1.9 Galerie Sud
美術館に入って右手にあるエスカレーターを登っていくと南ギャラリーにつく。草間弥生の作品のいくつかはポンピドーがコレクションとして所蔵されているし、大きな彫刻がパリ以外の幾つかの都市にもある。フランス人にもヤヨイ・クサマの名はもちろん知られている。
とりわけカタログの表紙にもある赤と白の水玉のイメージは、こともあろうに、半で押したようなkawaii概念と結びつけられ、その繊細さやポップさゆえに日本文化の香りを感じさせるものとして捉えられている現実に出会うことがあり、ぎょっとする。草間弥生がドットモチーフを取り入れ始めたのは1960年代に遡るわけで、2000年のジャパンポップ的なkawaii概念と接続されてしまうという事自体ショッキングである。ましてや、執拗なドットの取り憑かれたような焦燥はちっとも可愛らしくなんかない。むしろおぞましくさえある。
下の絵画 Infiniry Net/ アンフィニティネットやDots/ドット、水玉に代表される永遠に繰り返される幾何学模様のイメージは、それらの色や表面の凹凸を見つめれば明らかであるように、ちっとも愛らしいものなんかではない。執拗な反復は、その細部までが無限に続けられていて、キャンバスの縁に来てすら終わりがない。
Infinity Netは、ネットなのである。ペインティングという方法で編まれたネット。細い糸で限りなく編み続けられたネットは本来ならば穴が開いている部分から向こう側が透けて見えそうなのだけれども、私達が一層だと信じているネットはじつは、向こう側に終わりなく続いており、だから私達はそこから何も見出すことができない。
こちらは1960年に製作された、Infinity Nets Yellowである。このとき彼女は30歳。彼女が幼少期から幻覚に悩まされ、水玉や動くもの、永遠に続くイメージによるオブセッションと精神的な問題を抱えていたことは知られている。彼女はできるだけ安定した状態で制作を続けるために現在もアメリカの精神病院において生活をおくっている。
彼女の表現する反復のイメージは、見つめるほどに不安に駆られる何かを見るものに伝えている。非常に個人的な見解であるが、私は芸術家、作家、音楽家といった表現者は表現するべき衝動によって表現しているのであり、表現することによって幸福を得ているのだというストーリーが好きである。裏を返せば、表現せずに自分のうちに秘めておくことによって不幸になり、病気にすらなってしまいかねない。表さないといけなかったのであり、何かを少しでも解決するために表すことが絶対に必要であった。そしてそれは表現者の自己満足ではない。なぜなら、問題は他者によって受けとめられ、共有されたとき初めて、解けるからである。
男根状のモチーフは草間弥生の作品に頻出するテーマのひとつ。
性に対する恐怖、とりわけファルスに対する恐怖をそれで埋め尽くしてしまうことによって乗り越えようとするアプローチは今も昔もなく絶対的に前向きなものだと思う。それを拒絶するでも貶めるでも傷つけるでもなく、ソフトスカラプチャーの男根がうごめく空間に包まれることによって恐怖を昇華する。なんて高貴なセラピーだろうと思わざるを得ない。
ミラーで囲まれた部屋には終わりがない。もちろん部屋は閉じられているけれど、反射されて広がる空間には終わりがない。やがて映っているのがこちらの世界なのか私がいるのが映っている世界なのか、きらめく色彩のなかで、うっとりし、途方にくれてしまうだろう。
I’m here, but nothing. このインスタレーションはポンピドーでの展覧会の冒頭に設置されていた。私はここにいる、けれどなにも、ない。ドットだけがそこにあり、ありふれた生活空間がそこにあるけれど、そこには確かに誰もいない。でもそこには誰かおり、何かがあった。
草間弥生展といえば、現在国立国際美術館で2012年4月8日まで地下3階で開催されている「永遠の永遠の永遠」展も注目である。この展覧会では草間が2004年から新たに取り組んできた「愛はとこしえ」と、それに続く「わが永遠の魂」の連作に焦点を当てているほか、新作の彫刻も展示されるとのことである。見逃すことができない。
国立国際美術館 B3 永遠の永遠の永遠
さいごに、こちらは12月にリールの鉄道駅すぐの広場で発見した草間彫刻。パリでの回顧展は1月9日で終わってしまったが、チュイルリー公園では3月まで草間弥生のお花の彫刻が見られるらしい。
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