無秩序の巨匠展/ Maîtres du désordre @Musée Quai Branly

Maîtres du Désordre

「無秩序(Desorder)の巨匠たち」というすごいタイトルの展覧会が、エッフェル塔近くのMusée du Quai Branlyで2012年4月11日から7月29日まで開催されている。
展覧会のイントロダクションにはこのようにある。

「秩序あるものと無秩序なものを巡る終わりなき葛藤は、多くの伝統において表象されてきた。そして、 »秩序 »と »無秩序 »という相反するものが創り出す緊張状態は世界の均衡が保たれるために必要不可欠なものと考えられてきた。この展覧会は3つの軸で構成される。世界における無秩序、無秩序の制御とカタルシス、そして無秩序をめぐる神話と儀式的実践の創造。この3つの軸を通過することで、鑑賞者は、聖なる世界から俗的世界へ連れ出されることとなるだろう。
俗世とは、不完全で無秩序な世界である。世界の不完全さから生み出される不幸な運命から自らの身を守るために、そのアンビヴァレンスで危険な力を抑制する仲介人がふと姿を現す。われわれは、彼らのことを、「無秩序(Désordre)の巨匠たち」と呼ぶ。」

この展覧会を理解するにあたって、まず念頭に置いておかなければならないのは、この展覧会はDesordre/無秩序を集めた展覧会ではない、ということである。イントロダクションから明らかになるように、秩序vs無秩序は西洋的宗教観(といっても差し支えなかろう)に基づく、以下の図式を浮き彫りにする。

聖なるもの/神/完全性=秩序 vs 俗世/人間/不完全で不幸=無秩序

したがって、不完全で無秩序な世界に生きる人間であるわれわれが、その不運な境遇とどのようにうまく付き合い、生きて行くのかという問題に取り組んだ作家達の作品を集めた展覧会である、という主旨である。その作品は一見「無秩序」の表象のように見えたとしても、このコンテクストを忘れてはならないのではなかろうか。

西洋的宗教観、とりわけ全能で完全なる神と俗世界に堕ちてきた不完全な人間という構図に基づくとはいえ、Quai Branlyのキュレータ(Comissaire: Jean de Loisy assisté de Sandra Adam-Couraletら)たちに選ばれた作品群は非常に多岐に渡る。もちろん、Musée Quai Branlyのスペシャリティであるプリミティブなオブジェが数多く展示されていた。

Masque Tomanikはイヌイットのコスモスの神であるシラが強風を起こし、暴力的な大風を大地に吹き起こす。イヌイットにおいて天候を司る神は様々な姿で現れるのだが、とりわけ風を司る神の化身が身につけるのがこのTomanikのマスクだ。

Masque Tamanik (Faiseur de vent), Inuit

また、Quai Branlyらしいコレクションからの出展では、ブラジルのTopuが挙げられる。Topuは雷鳴の神、やはり天候を司るが、とりわけ激しい嵐や雷雨をコントロールしている。Topuはトランス状態のシャーマンに乗り移って彼らを傷つけることすらある。雨期が始まるときやってくる神だ。このTopu像は、人間の身体の形を当てられている。彼らが乗り移るところのシャーマン自身の容姿を模して作られているとても小さな人形だ。

Topu, Brésil, 1960-1972

ふと私たちの良く知る顔を見かける。埴輪。

埴輪, Japon

埴輪はご存知のように、古墳時代に多く作られ、聖域を俗世界と明確に区画するため、死者の身分の高尚性を表すため、死者の霊を悪霊から守るため、など様々な目的で墓に配置され、一緒に埋められたと考えられているが、果たしてこれについて、「無秩序」をコントロールするための媒体としてのオブジェであったとコンテクストづけていいものだろうか。展覧会趣旨からするとやや疑問を投げかけたくなる選択であると言わざるを得ない。Quai Branlyのように、プリミティブコレクションを数多く持つ美術館は、しばしば例えば今回の展覧会のように彼らの美術館収蔵品と、現代アーティストの作品をコラボレーションさせて、たとえば「無秩序の巨匠」のように一貫したストーリーに位置づける。全体としてなめらかに結合させるのはしばしば簡単なことではない。これは、フランスやヨーロッパにある「モノをたくさんもっている美術館」がどうやって若いヴィジターの心をつかみ、新しい展覧会を作って行くことができるかという問題に関わる大切な取り組みだ。

masquesの天井

天井からたくさんのマスクに見下ろされている廊下を通り抜けると、フランス人の女性アーティスト、アネット•メサジェ(Annette Messager)の「リスのパレード」という作品がある。

Parade de l'Ecureuil, Annette Messager, 1994

アネット•メサジェはいのちの記憶、オブジェや動物、人間の個別のおもいでに焦点を当てて表現してきたアーティストだ。彼女のマテリアルは壊れた人形、分解されたぬいぐるみ、そして、動物の剥製など、傷ついた生を思い起こさせるものが多い。重ねられたざぶとんの上に配置されたカラフルなオブジェを纏う死んだリスは、目が粗いけれども決して抜け出すことは出来ない、重苦しい黒いネットに絡めとられている。そしてよくみればリスが装備しているのは他の動物達のからだの断片、足や尾っぽなどではないか。リスはそれでも楽しくパレードをする。その様子は統一感が無く、ごちゃまぜに見えるとしても、メサジェのなかで、このパレードは混沌とした生を表象しながら、それに向き合い戦う小さな彫刻のようなものであるのだろう。リスは、その小さな手を上げ遠いどこかを指差し、黒いマスクを被ってバラバラにされた他の動物達の果たされなかった願いを背負い戦う小さな戦士のようだ。

Paroles d'inities

さいごに、私がインスタレーションとして面白いと思った展示スペースがこちらの電話の受話器から世界中のイニシエ(現代におけるシャーマンたち)の話を聞くというものだ。世界からの画像と声を発信するためにもうけられた14のスクリーンと受話器が設置され、それら機材をぐるっと取り巻くベンチに腰掛けて、人々はそれに耳を傾ける。そもそも今日でもシャーマンと呼ばれる人々はたくさん存在する。14人の現代シャーマンがそれぞれ歌や物語、ダンスによって彼らの身体が開かれていく始終がスクリーン上に映し出され、人々は電話の受話器の音声と合わせて興味深く観察していた。電話の受話器がそれを耳に当てている人にしか聞こえないこと、このインスタレーションがなんとなく洞窟らしい雰囲気でひっそりと設置されていることは有無を言わさず、シャーマン達のトランス状態を「こっそりと盗み見る」態度を鑑賞者に強いる。本来的にシャーマンの仕事は、テレビで報道されたり、美術館で展示されたりする状況とは無縁のものだからだ。

幾つかの疑問や問題を残しつつも、コンセプトとして、楽しむことの出来る展覧会であったのではないだろうか。このエクスポは7月29日まで、Musée du Quai Branlyで開催中である。

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