Edvard Munch
L’oeil moderne
21 septembre 2011 – 9 Janvier 2012
Centre Pompidou
エドワード•ムンク展を訪れた。
パリのポンピドー美術館で2011年9月から開催されていたのだが、ぼうっとしていたら見逃してしまいそうだったので、年が明ける前にと慌てて訪れた。実は草間弥生展も平行して開催中である。こちらの展覧会については別の記事でご紹介したい。
エドワード•ムンクは1863年に生れ、1880年頃から絵を描き始めている。象徴主義や前表現主義の枠組みの中で捉えられ、20世紀の画家というよりはむしろ19世紀末の画家として認識されることが多いのだが、彼の著名な作品の多くは1900年以降に制作されている。1944年に没するまでの長い芸術家人生の中で、エドワード•ムンクは絵画の他にさまざまなジャンルを広く越境しながら、彼の主要なテーマである人生の孤独や愛というものを多様に表現してきた。
今回のポンピドーセンターにおける展覧会 »L’Oeil Moderne »では、ムンクの絵画作品だけではなく、彼が興味を持っていた映画製作や写真、雑誌やラジオという多岐にわたる表現活動も視野に入れることにより、ムンク作品のモダニティの性質と彼の問題意識について我々を考察に誘うことになる。
この展覧会の門をくぐると、我々はまず最初に、ムンク自身の撮影による映像作品を目にすることになる。
展覧会は、『叫び』とそのほか僅かの作品しかムンクの世界としてイメージを持たない鑑賞者にも丁寧に多様な作品世界を開くようにしてスタートする。
『思春期』は原題で文字通り「変わり目」。少女の背後には不定形のしかしはっきりとした影がある。ムンクはこのテーマをのちにも描いているが、やはり暗色で少女の内なる変化を具現化した形でのなにかを絵画上にはっきりと描いている。
『二人の人間、孤独』(1905)、一人の男と女が距離を保ったままお互いの足で地面に経っている。後ろ姿からはその二人の視線は見えない。二人の人間は男女であるけれどもその二人の間にはなんの関係性も会話も聞こえてこない。向こう側には渦の巻く海のような世界が見え、二人を取り囲む空気は不安定で心もとないニュアンスがある。ムンクは孤独をテーマにした作品を後にも作っているが、この作品は後のものに比べて背景や地面のタッチに質感が感じられる。孤独であるけれども描かれた空気や地面の質感によって少し救われている感じがするのだ。
主要なテーマの反復はムンクの回顧展を一周すれば明らかである。たとえば、孤独、嫉妬、病む少女といったテーマは何十年にわたりしばしば繰り返されている。テーマの反復は、アーティストの関心の深いことを表しているのだが、別の見方をすることもできる。テーマの反復性は作品の複製可能性も意味する。10年後に同じテーマに着いて別の視点で全く新しい作品を制作するというのではなく、構図や色彩がほぼ同じものとしてのテーマの反復は、ムンクが写真や映画というメディアに関心を持っていたことを鑑みれば、19世紀末ロダンがすでに彫刻を鋳型で量産することで実施していたような芸術作品の量産への関心を期待させる。
繰り返されるテーマの作品をまとめた第一章「反復」を終えると第二章は写真メディアを通じたムンクの「自伝」へと導かれる。
ムンクは自画像も多く撮影しているが、私にとって興味深かったのは、自己の展覧会の様子を多く撮影していることである。展覧会場に人が居ない様子や、額におさめられた「病める少女」など絵画作品を撮影し、写真メディアという形で記録をのこしている。とりわけこの写真では、会場の様子や訪問者を含めて撮影したのではなく、作品をフレームいっぱいに収めている。つまり、現代であればカタログを制作する際にすべて作品はイメージ化されるというプロセスが、アーティスト自身により行われたという点で興味深い。アーティストは自身の絵画が写真となることによってより軽やかな記録となることを知っていたのだ。
ムンクは若いとき美男子であったらしい。「通りかかったら人が振り返るほどの」なんてステレオタイプな形容がフランス語でされてあった。それだから、か、それなのに、なのかムンクは幸せな恋をあまりしなかったらしい。この裸婦の絵は、部屋いっぱいに彫刻を含め、さまざまなフォーマットで展示されていた。よく見れば、女性は涙を流していた。
吸血している女性も反復されたテーマの一つである。ムンクは神経を病み、入院生活を送ったこともあるそうだが、吸血鬼の絵を何度も反復してみせられると、その絵の具を運ぶタッチも生々しく感じられる。このようにウエイトのあるテーマをもって描かれた作品は再び描かれても、やはり重々しく辛いのであり、ここでは、テーマの反復はアーティストの世界を明確に描き出しており、上述したような作品の複製性とはほぼ関係がないようにすら思える。
彼の自画像における表情の描き方には特色がある。とりわけ、何らかの感情をテーマとしている作品において、彼自身が登場するけれど、はっきりと悲しいとか怒っているとか、そのような単純な表現ではないのだ。そこにあるのは、「放心」の類いであり、「欠落」の表現である。かの有名な「叫び」を見て、感情を述べよと言われても述べづらい。それは欠落しているゆえにそこに取り巻くすべての暗色を担うことのできる表情だからである。
ここに嫉妬のムンクがいる。彼は怒っているのではない。泣いているのでもない。ただ、部屋の隅にどうにか居続けることができているけれどもうすこしのところでなにかが壊れていきそうな、そんな頼りないオーラを感じさせるのだ。
後年に彼が描いた自画像。ちなみにやはり空虚な表情をしている。
老年期のムンクの自画像だ。掛け時計とベッドの間に自分の老いた姿に望みを失ったかのような彼自身が居る。時計は言うまでもなく時間を刻むものだ。彼に残された時間を歯に衣を着せることなく刻々と告げていく。ベッドは彼が息を引き取るべき場所だ。そこには時間の終わりがある。
この展覧会に「叫び」はやってきていない。「叫び」がなくとも、ムンクの制作の全体像が小説を読むように丁寧に構成されているような展覧会であった。とりわけ、彼の写真や映画、雑誌という20世紀メディアへの強い関心と作品への影響について考えてみることは興味深い経験となった。
展覧会はあと8日間、2012年1月9日までの開催である。
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