04/8/14

「とりいそぎ」について, Expression « Toriisogi »

「とりいそぎ」について

「とりいそぎ」という言葉が嫌いだ。

いや、ちょっと待てよ。ある物事について突如「嫌いだ」なんて書き出す記事にろくな文章がない。好きとか嫌いというのはそもそも書き手の関心にあまりに密着した言い方であって、つまりその後に続くのが、書き手の言いたい放題・書きたい放題ですよ、ということを瞬時に明らかにする、なんとも魅力のない言い方なのだ。筆者の語彙のなさを暴露するような、むしろ恥ずかしい書き出しではないか。それならば、こう言ってみよう。

「とりいそぎ」という言葉はよくない。

このほうがいい。昔学校の先生で、作文を否定形で書くのをやめなさいという人がいた。あるいは、文句を言い人を否定するのは簡単だが、じゃあどうしたらいいか解決策を言って見なさい!なんて教育的な人もいた。あるいはまた、ネガティブは何の役にも立たないのだから、人生常にポジティブに考えなさい!なんて理想主義者もいた。数々の箴言は、それぞれがある文脈において最大限の価値を発揮することを謹んで受け入れた上で、それでも、よいものはよく、よくないものはよくない。そのこともまた本当である。

blg_IMG_1386

「とりいそぎ」という言葉は、家族や恋人、友だちとの間では殆ど使われない。当たり前である。べつに、とりいそぐ必要がないからである。あるいは、とりいそぐ意味もないからだ。「とりいそぎ」という言葉は、文字通り、ある事柄についてだけとりあえずいそいでお返事いたします、とか、他にも色々あるのですがいま時間がないのでとにかく「はい/いいえ」だけ急いでお伝えします、などをひらがな五字の簡潔な表現で置き換えることのできる便利な表現だ。そして、社会生活の中で、つまり仕事における連絡のなかで慣習的に利用されているために、ひょっとしたら違和感なく、礼を欠くことないビジネス表現として、好まれて用いられているのかもしれない。

ことばというのは往々にして、使用される中で慣用的な言葉になるので、「とりいそぎ」という言葉の「取り急ぐ」という意味に戻って、何やら今日的な言葉の使用を批判したいという気はまったくない。言葉というのはそういうものだ。しかしながら、「とりいそぎ」と言ったときには前提として、とりあえず何かをすぐに伝えるけれども他にも何か補うことがある、という含みや、とりあえず急いでイエス・ノーの返答だけするけれどもあとで詳しく連絡をする、などのニュアンスを持っているのは否定できない。この言葉の今日的使用が気持ち悪いのは、その「とりいそぎ」の後にくるべきものが決して補われることなく、補われないことを前提に、それでも「とりいそが」なければならないという状況に人々が置かれているという事実に由来する。先にも述べたように、家族や恋人の間で、とりいそぎ、は必要ない。あまりに仕事的語録に訓練されすぎた人はひょっとしたら家族への連絡でも「わかりました、とりいそぎ」なんてメッセージを書くのかもしれないが、まあ驚きに値する。所詮とりあえずの内容にすぎない、不完全な返事であるにもかかわらず、人々はそれでも即座に返答し、そのことが誠実さや対応の早さ、几帳面さや仕事の速さを計る指標となる。サッサとイエス・ノーを返答しないのは、無礼で愚鈍なのだ。

そして人々は「とりいそぎ」の言葉を発し続ける。「とりいそぎ」のあとに続くのもまた「とりいそぎ」であり、その取り急がれた性急な返答の周辺に置き去りにされたものは、二度と補われることも、二度と振り返られることもない。私たちは、いつも追い立てられていて、うしろをみるために割く時間などもちあわせていないからである。それはそれでいいのかもしれない。なぜなら、置き去りにできる程度のことは、ひょっとして本当はどうでもよかったかもしれないのだから。

どうでもよくないのだとしたら? そこではおそらく、物事に向かう、その各々のときに「とりいそぎ」という言葉で筆を置かないための、ほんの一瞬の躊躇をすればいい。それだけのことである。

blg_IMG_1361