09/22/19

ホメオパシー(同種治療)について13 ホメオパシーとファルマコン 2

ホメオパシー(同種治療)について 13(2019年9月20日)
ホメオパシーとファルマコン 2

前回の記事では、ファルマコンの概念について触れながら、「身体に悪いものを摂取する」際の認識が果たす役割について考えてきた。ここで、前回立てた次の問題に立ち戻ってみたい。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ホメオパシーの実践にあたって、リメディーを服用する者が自己の身体に毒を与えていると認識することは意味のあることだと思われる。ホメオパシーは、身体の持つある種の<生来の記憶>に訴え、適切な刺激を与えることにより、身体の自然治癒力に期待して、病や症状を治そうとする療法であった。また、世界に存在する多くの物質は「ファルマコン」(毒にも薬にもなる)としての性質を持っていて、つまり、同じ物質がある人/時/環境では毒にも薬にもなりうる事実は、食養生やファルマコン についての記事において言及した通りである。ホメオパシーもまた、元来、微量の毒の摂取が、適切な症状に施される限りにおいて薬に変化するという考え方であった。(そして、同じ毒は、健全な人が服用した場合、その人の健康を害し、病気にしてしまうと考えた。=「類似性の原則」)ただし、今日のホメオパシー実戦の中では、ホメオパシーのリメディーはその毒としての意味を失い、あるいは希釈によって物理的に毒がかなり弱まり、かつての<錬金術的>な側面をしばしば失ってきていると言っても良いだろう。

さて、ホメオパシーは<錬金術的>な思想であると思う。理由は、ホメオパシーのリメディーに使用する原料は、病気や症状をもたらす毒そのものであることは稀で、それらは通常、<同質>/<同種>とホメオパット達が考えた(定義した)毒によって代わられているからだ。代替物であるなんらかの毒が、身体の自然治癒力のおかげで適切な刺激となって病や症状を改善し、身体の状態をよりよくすると考えた。原因そのものでないが同種のものから、身体での反応を通じて、結果を得ようとした。

ホメオパシーにおいて、同種の毒を摂取し、身体においてある種の錬金術的な反応を引き起こそうとする意思を、リメディーの服用者が持っていることは、それだけで異なる身体への影響を及ぼしたと思われる。それは、結局は慣習的な医療において「エビデンスがない」と打ち捨てられている部分で、月並みな言葉で「精神は身体に影響する」など言うほかなかなか適切な表現のないフィールドであり、そして、それは単なる偽薬効果(プラセボ)とも明らかに異なる。

これまで三週間、比較的密なリズムでホメオパシーを巡って様々な考察を行ってきた。まだまだ深まり切らない謎や問題が山積みだが、ひとまずここまでの13回で連続する記事は一回休憩して、またいろいろなことを書きながら、引き続きホメオパシーの毒の問題については考え続けて行きたいと思う。続編の再開の時にはまたお読みいただいて、ご意見などコメントしていただけると大変励みになり、有り難く読ませていただいている。

再開の折には引き続きお読みいただければ大変嬉しく思う。

*因みに、明日からは、12月上旬から神戸のギャラリー8で展示予定のフロリアン・ガデンの巨大ドローイング « oe »について、数回にわたって連載するのでどうか、Pharmakonのサイトもチェックして見てください!

09/19/19

ホメオパシー(同種治療)について12 ホメオパシーとファルマコン 1

ホメオパシー(同種治療)について 12(2019年9月19日)
ホメオパシーとファルマコン 1

これまで脱線を含めたら長々と11回に渡って記事を綴ってきたのだが、ここにきて、ふと、ホメオパシーの<毒>性が気になった。今更ながら、私は過去に二回企画した展覧会を「ファルマコン」と題しており、ある物質の毒にも薬にもなる両義性がもたらす重要性に着目して、社会や環境、生命について再考する試みを続けており(展覧会ウェブサイト)、とりわけ、摂食(あるいは嗜好品やドラッグを含め摂取すること)を通じて身体があるときは同じ物質に対して非常に異なる反応をすることに関心を持っている。したがって、ホメオパシーが同質の毒を用いることによる治療である限り、ホメオパシーそのものの私たちの身体への<毒>について、再度考えてみる必要があると思った。

ファルマコン について:

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念である。この言葉は一般的には「薬」=「毒」=「生け贄の山羊」(古代ギリシャのカタルシスの儀式において差し出される動物に見立てられた生け贄あるいは動物)という三つの意味が知られる。この概念は従って、第一義的に物質的含意を持ち、元来は医療用語での使用が認められるが、プラトンがPhèdreにおいて哲学的とりわけ精神のカタルシスとの関連で展開したことがきっかけとなり、より発展的・抽象的な含意を与えられることとなる。1976年のジャック・デリダの論文La phramacie de Platon (La dissémination, 1993)、Ars industrialisの主宰のベルナール・スティグレールも、エクリチュール(書くこと/書かれたもの)とレクチュル・オラル(声に出して読むこと/口頭伝承)の優越に関する考察にファルマコンを用いている。

また、私は研究及び芸術実戦において、この概念を、使い方によって薬にも毒にもなりうる様な物質や処置、あるいは多くの物質や処置が持っているその様な性質と理解し、応用を試みている。

また、私が2017年12月に開催した展覧会「ファルマコン」の成果をまとめ編集したカタログに寄せて、吉岡洋さんは次のように言及している。

ファルマコンという言葉はギリシア語だが、同様の概念は近代以前の諸文明に広く見出すことができる。たとえば古代中国で完成された漢方医学は、あらゆる薬物、鍼灸や指圧などの刺激が、生体の状態に応じて様々に異なった作用を及ぼすという認識を基に作られている。同じ物質や刺激が、ある場合には人を死から救い、別な場合には人を死に至らしめる。そこではファルマコンは自然認識においてもっとも基礎的な概念なのである。(吉岡洋『ファルマコン』、2018)

ホメオパシーのリメディーには原材料となった毒性は失われていて、しかも大概の場合、副作用もない。あれ?ホメオパシーは<優しい医療>と言われ、妊産婦に処方されてきている通り、実は慣習的な医療における薬よりも無毒な存在となってしまっていることに気がつく。ホメオパシーのリメディーそのものには<毒性>がない。これは大変奇妙なことで、なぜならホメオパシーは<毒を持って毒を制す>メソッドであったはずだからである。かつてのホメオパシーは、希釈による毒性の喪失はもっと不明瞭で、もっと明確にいえば、まだ毒であるそのものを摂取することによって症状を改善しようという、同種治療としてのアイディアが生きていたと思われる。だが、今日ではホメオパシーは、原材料がなんであるか知られていないこともしばしばで、おおよそ毒を摂取している(象徴的な意味で、あるいは原理的な意味で)認識はさらさらない。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ここでは、ホメオパシーのリメディーを、慣習的な医療で処方される薬と同じような、それを服用すれば症状が良くなるモノとみなすような今日浸透している一般認識のことは一度置いておいて、ホメオパシーがそもそも同種治療であり、同種の毒によって侵された身体をケアすることができるとする大変挑戦的でアグレッシブなメソッドであることを思い出しながら考えを進めたい。かつてそうであった、というだけでなく、そのかつてそうであった認識は今日もなお効力を持ちうるのかどうかを考えて見たい。

<毒を摂取する>という認識が我々の身体の状況をよりよくするのを助ける状況とは、どんな状況だろうか? 私たちは普通身体にいいものを摂取して、身体がより健康になり、心がより元気になると理解しているはずである。だから、いつも健康食品とか、無農薬や減農薬の食べ物とか、病気に効く食材とか、そんなものでメディアは情報を溢れさせている。では、毒を摂取することで、我々がポジティブな効果を期待する例はあるだろうか。例えば、タバコ、お酒、合法ドラッグ(合法でないとそもそも摂取自体が社会的問題となるためこの記事においてはさしあたりこれを<合法>に限定しておく)、あるいはコーラやファストフードなど、消費者は<身体に悪い>ということを知りながら摂取する一部の食品など。これらの摂取は、摂取そのものは身体にネガティブな効果をもたらす、あるいは物質そのものは身体にとって<毒>であるというのが一般的理解であるにも関わらず、用い方によっては、それを消費する者の心身にポジティブな働きかけを行い、あるレベルある範囲において望まれた結果をもたらす。

「体に悪いものはウマイ」(良薬口苦しの言い換え?)というのは、たまに食べる(あるいはコッソリ食べる)カップラーメンとかすごい塩辛いツマミとか油っぽいサラミやピーナッツなんかがすんごくウマイのだ、と言いたいときに父親がよく言っていたセリフであるが、ここでは、普段はこれら油っぽいもの、塩辛いもの、人工的な旨み成分が配合されているものは「体に悪いから」という理由で<我慢>しているのだが、やっぱり我慢している限りで心の底では食べたいことに変わりないので、時々その<我慢>から自己を解放し、そんなものを食べるとものすごくウマイ!!!と感じるという話だ。あるいは、マクドナルドのハンバーガー(+ポテト+コーラ)を食べる人たちは、食べている側から「これは私の体に良くない」と思いながら食べることを繰り返していることが知られている。また、タバコやお酒や合法ドラッグに至っては、そのもう一度欲しくなるシステムが明確にわかっており、それは<依存性>という言葉でしばしば定義されている。マクドナルドも、30日間三食マクドナルドを食べ続けるという体を張ったドキュメンタリー « Super Size Me »を撮影したMorgan Spurlockの分析によると、食したのち直ちに興奮に似た快感で満たされるので、短期的な視点ではある種強い喜びをもたらすが、長期的には、肥満や体調不良など身体の不調のみならず、精神的に落ち込みやすくなったりするなどの結果を報告している。ここでは、これら「体に悪い食べ物」は、「体に悪い」という認識のために、普段多くの人が量や頻度が制限しているからこそ、ひとたび欲望を解放してそれを摂取した時の快感が、それ自体が持っているある種の興奮/快感効果や依存性を助長する形で快感として認識されてしまい、結果、「体に悪いものを摂取しているが、それってすごく気持ちいい」と感じてしまう。

「<自分へのご褒美>としての体に悪いものの摂取」が成り立つのは、この、普段我慢していることを解放する快感ゆえである。記事の冒頭で、同じ物質が毒にも薬にもなる「ファルマコン 」の概念について触れたし、先の記事においても引用した食養生の考え方において、嫌いなものを我慢して食するよりも(たとえ一般に体に悪いと思われているものであっても)心が喜んで食べるのであれば、結果体は元気になる(こともある)、ということが示しているのは、物質そのものの薬性や毒性に時に先行して摂取する者がそれをどのように認識しているかが重要になることがある、という事実である。

今のところホメオパシーとの接点までうまく行き着いていないので、引き続きこの「体に悪いものの摂取」について引き続き考えてみることにする。

09/17/19

ホメオパシー(同種治療)について11 <食養生ー毒と共存する>

ホメオパシー(同種治療)について 11(2019年9月17日)
<食養生ー毒と共存する>

昨年2018年12月に京都の想念庵で展覧会「ファルマコン 2 毒×アート×身体の不協的調和」を開催した一環で、京都大学こころの未来研究センターにておこなったシンポジウムに、『からだと心を整える「食養生」』の著者、辻野将之さんに「毒と共存する食養生」という大変興味深いご講演をいただいた。

「食養生」とは、東洋医学に基礎をおいた健康な生活のための実践であり、大変歴史的な健康のための食実践の一つでありながら、現代社会を生きる私たちの食の問題かかわってとても重要な示唆を与えてくれる。

辻野さんは著書のまえがきで以下のような問題を指摘する。

インターネットの発達で、今はあらゆる情報が容易に手に入る情報化社会です。健康に関する情報も、誰でも簡単に手に入れることができます。にもかかわらず、生活習慣病や摂食障害を患う人が増え続けているのはなぜでしょうか。(略)健康マニアの人ほど不健康になる、という法則があるように感じています。健康になろうとして様々な健康法を次々と試したあげく、結局体を壊してしまうのです。おそらくコマーシャルやテレビの情報に踊らされて、自分に合っていない健康法なのに無理して取り組んでしまった結果でしょう。(『からだと心を整える「食養生」』、p.5)

食養生の実戦において、まず、健康のために大切な5つの項目を示し、<食>はそのピラミッドにおいて最も重要性が低いことを強調する。五つの項目とは、重要な順に<心>、<太陽>、<空気>、<水>、<食>。食が重要でないということではもちろんなく、それ以上にその四項目が大事だということで、<心>はそのまま私たちの心の状態、<太陽>は光を浴びて生きる私たちの生活リズム、<空気>は田舎の良い空気云々よりも深い呼吸をすることの重要さを示しており、<水>はどのような水をどれだけ飲むかという問題に関わる。

さて、それら四項目の重要さを認識した上で、食について、本書で強調されるのは「身土不二」と「一物全体食」の二つの原則だ。「身土不二」は、身(今までの行為)と土(身の拠り所とする環境)が切り離せないことを意味する仏教用語に基づき、住んでいるその土地の、その季節の食べ物を食べることが健康に良い、とする考え方で、これは、季節に関わらず世界中の食べ物が入手できる今日の食文化を生きる我々にとっては知っておかないと簡単にこの原則に背いた食を実践してしまい調子を損ねかねない。また、「一物全体食」では、食べることは命をいただくこと、と考え、その際にはあまり手を加えず、より自然のままの状態でいただくことが良いとする。ここでは、たとえ無農薬や栄養面で優れているとされていても、加工されていたり、品種改良を経た商品であったりすれば、むしろ身体は喜ばないということを明らかにする。

さて、ここまで理解した上で私たちの食をめぐる現状を考えると、しばしばメディアがもてはやすような<健康にいい>とか<オーガニックの>とか、調子のいい響を鵜呑みにしてなんでも試してみることがちっとも身体のためでないことがわかる。なぜなら、「身土不二」と「一物全体食」に基づけば、食べ物はパーソナライズドされた処方みたいなもので、どんな体質のどんな生活リズムのどこに住んでいるどんな人にとっても万人に対して<効く>ようなヘルシーフードなんてあり得ないことがわかる。それよりむしろ、自分に合ったものを知らずに(あるいは無視して)身体に合わないものを食べることによる不調を招きすらする。

食養生の、全体を見る(globalité)メソッドや個人化されたもの(personnalized)であるべき点は、私たちがこれまで見てきたホメオパシーの主要な思想とも一致する。

身体に合わないものを食べることは、たとえ別の文脈でその食べ物が「健康にいい」と定義づけられていたとしても、ある人にとって<毒>として働きうる。体調を悪くし、心の状態を不安定にしてしまうかもしれない。そして身体に合っている食べ物(必要なもの)を摂取すれば、それは<薬>として身体の状態を改善する。このように、ある食物は<毒>にも<薬>にもなりうるアンビバレントなものであり、食養生もまた、東洋医学を基礎としているので陰陽思想を根底に持っており、対になるものとの均衡で健康を定義しているのではないかと私は理解している。

09/16/19

ホメオパシー(同種治療)について10 少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

ホメオパシー(同種治療)について 10(2019年9月16日)
少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

突然だが、インドのマウリア朝時代の説話である毒娘について話したい。毒娘とは何者か、『有毒女子通信』第8号掲載の吉岡洋さんのエッセイの中で詳しく語られているのでそれを引用する。

「毒娘(Visha Kanya)」という話がある。インドのマウリア朝時代(紀元前317 – 180年頃?)に遡るとされる説話らしいが、現代でもインドの文学や映画などには登場する。毒娘とは、生まれながら暗殺者として育成される少女である。古代インド版「最終兵器彼女」とでも言うべきか。女の子に、赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与える。たいていの子はそれで死んでしまうが、中には毒に対して完全な耐性を持った子供が育つ(ありえないと思うけど)。その子が美しい娘に成長した頃には、彼女の体液は恐ろしい猛毒と化しており、ちょっとでもそれに触れた人間は即死する。その少女を首尾よく敵の王家に妻として嫁がせることができれば、新婚初夜が哀れな王子の最後の夜となる、というわけである。

昔、はじめてこの話を聞いたとき、「幸福な王子」とはまさにこのことかもしれないな、と思った(オスカー・ワイルドのあの説教くさい「幸福な王子」には辟易していたので)。生きながらえて王位を継承し、支配者としての重荷はもとより、いずれ避けがたい老死の苦しみをゆっくりと拷問のように味わわされるかわりに、若く美しい花嫁との初めての交わりの瞬間に死ねるとは、世にこれにまさる幸福があるだろうか! してみると毒娘とは、それを用いる策略家にとってはたしかに兵器に違いないが、それによって暗殺される犠牲者にとっては、至福をもたらす女神ともいえるような存在である。その王子は、本当にその娘が暗殺者だと気づかなかったのだろうか。実はすべてを知っていて受け入れたのではないだろうか、と疑いたくなるほどである。

さて、「体液は恐ろしい」というのが、この説話の教訓だろうか? それとも「女は恐ろしい」ということだろうか? ともに否。本当の教訓は、「生きることは恐ろしい」ということだ。なぜなら、生きることは究極的には「自分という体液の状態を維持すること」であり、しかも体液というのは、自分ではどうにもコントロールできないものだからである。毎日の食事において、また人や環境との交わりにおいて、いつ、どんな異物がそこに混入し、死に至る病へと発展するか分からない。この恐ろしさを受け入れるということが、とりもなおさず生きるということにほかならない。何か分からないものを「受け入れる」ことこそ、生き物の最も驚くべき能力ではないだろうか――ちょうど、あの王子が毒娘を受け入れたように。(略)ブログ Tanukinohirune より https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2012/02/毒娘.html

インドの逸話で毒娘というのがあるのだと、『有毒女子通信』の体液特集で吉岡洋さんが紹介しているので知った。(ここではスルーするが、『有毒女子通信』は、体液特集とか、結構踏み込んだ特集をこれまでしてきたので、関心がある方はぜひフィードバックしていただければ、情報など差し上げます。)赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与えていくと、子供は毒に対して耐性を獲得して行き、赤ん坊が美しい少女になる頃には毒に完全な耐性を持ち、その体液は猛毒であるような少女が出来上がるという恐ろしい説話である。そもそも微量から与えていったところで皆が皆毒に対して耐性を持つわけではなく、ほとんどは死んでしまうとある。そりゃそうだろう。この説話において、毒は子供の体液を侵食し、それを作り変えてしまう。体液は毒によって侵され、それ自体が毒となる。

体液を重視する考えは、このようにインドでは古代の医学からも伝統的に見られた。アーユルヴェーダは、起源を5世紀とか6世紀まで遡るような歴史的思想で、これは病気を相手とする医療にとどまらず、健康を増進してどのように幸福な人生を追求するかといった哲学的思想を含んでいる。考えの根本には、トリ・ドーシャ(三体液、三病素)の均衡を保つことが健康な状態であり、病とはその均衡が崩れた状態であるとしている。トリ・ドーシャ(三体液、三病素)は、全ての生命を支配する三要素であるトリ(風=運動エネルギー、熱=変換エネルギー、粘液=結合エネルギー)、ドーシャは土、水、火、風、空で構成される。このドーシャとは「不純なもの、病気を引き起こす原因」を意味するが、つまりは体液の異常が病気の状態と定義されていることは興味深い。

毒娘の例で言えば、体液そのものを変質させて猛毒化してしまうので、均衡を保つ考えそのものがないが、アーユルヴェーダの体液概念のように体液の状態そのものが心身の健康状態を反映しているとすると、以前の記事で議論した「水の記憶」(ホメオパシーについて4:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=5573)的に、様々なことを記憶しているのは私たちの「体液」であり、体液に対して働きかける(刺激する、微量の毒を加える、浄化する、など)ことこそが、心身が健康に至るためにすべきことであると言える。

蛇足となるが、ヨーロッパの霊になるが、瀉血(しゃけつ)も体内をめぐる液体(体液)としての血液の手入れをするという点で、ある意味の体液療法と言えなくもない。瀉血は、体内に溜まった扶養物質や有害物質を血液とともに体外に排出することで症状を改善し、健康を回復する治療法である。炎症が起こったところや皮下に溜まった膿を排出するということであれば現代の我々にも想像のつくところであるが、瀉血ではそれに止まらず、血液のよどみが病の原因として、頭部など割と危険な部位の血管も豪快に切開した。不調の時は体内に霊的なものが住み着いたためとし、これを排出するために神秘主義者や呪術医によって汎用された瀉血も、体液信仰と関わるのではないか。

さて、ホメオパシーは、アーユルヴェーダの体液思想に通じるところがある。つまり、同種の毒を身体に与えることによって私たちの体液は、ちょうどいいバランスを自ら思い出して、その内容を調整するといったイメージだ。そんなことは、体液が何から構成されているか、化学的に分析して、その部分部分に焦点を当ててルーペで見つめる方法においては、言うまでもなく無根拠な空論にすぎないのだろう。だが、今日のサイエンスでも、心身については説明しきれないということを認めた上で、「体液」を一つ全体を見るためのカギとして復習してみたならばどうだろう、と思うのだ。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について9脱線2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

ホメオパシー(同種治療)について 9(2019年9月13日)
脱線 その2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

そういえば、せっかく乳腺炎がらみで処方されるホメオパシーをひたすら列挙したついでに、処方箋には記載されないのだが、とにかく勧められたケアについて、この機会に書き留めたいと思う。実は、この記事はホメオパシーについて書いているけれども、この(ちょっと冗談みたいな)脱線2はそこそこ大事な話だと思っていて、なぜなら、個人化された医療であるホメオパシーはひたすら繰り返している通りエビデンスがなくプラセボ同等とみられているけれど、そもそも一人一人が異なる個体である個人の身体をさらにはその生活習慣や環境まで全体を見渡して処方を行うホメオパシーでは、リメディーが効いたか効かなかったか、結局その個人でしか実験不能なところがあって、つまり、実践したその人にとって効果があったと認識されれば、それは薬が症状に働いたというに十分なのである。したがって、以下に書くキャベツの話は、それこそ日本ではコテンパンに言われてきた民間療法だけれども、今日でも大真面目に推してくる助産師がいて、一定数以上の授乳中の女性がキャベツでケアしたことがあり、そのうちの一定数以上の患者が「キャベツ湿布は効く」ことを経験していることを踏まえ、白菜でも小松菜でもチコリの葉でもなく、「キャベツ」がなぜ乳腺炎で湿布に使えと言われるのか、いや、別にキャベツが他の野菜に対して特殊だということを言いたいのではなく、むしろ、ただのキャベツがどうやって一定数以上の痛がってた女性を救ってきたのか、考察してみたい。

話を始める前に、「は?なになに、キャベツキャベツってさっきからなんの話?」という方のためにざっくりキャベツにまつわる歴史的な療法を紹介しよう。

一聞すると、風邪の時梅干しをおでこに貼るといいとか、ネギを首に巻いて寝るといいとか、おばあちゃんの知恵袋ちゃうん?と思えるのですが、「乳腺炎の時(乳房が腫れて熱を持っているとき)キャベツの葉を乳房に貼りなさい、炎症が取れて乳の出が良くなるよ」というのがあるのです。おばあちゃんの知恵袋じゃなくて、医療のプロである助産師に大真面目に言われる。え、キャベツ?ときき返そうものなら、目の奥をまっすぐ見つめて、「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」と彼女は言う。はあ、葉脈の浮き出てるタイプのキャベツ、あれね。(画像を参照。普通の白キャベツじゃなくて、葉っぱがもこもこと盛り上がってヴォリュームのあるやつだ。)

キャベツによる療法とは、熱を持っている乳房に冷やしたキャベツの葉を湿布することで、熱や痛みを緩和し、乳腺の詰まりを解決しようとするものだ。さて、調べても、なぜキャベツが(他の葉菜じゃなくて、どうしてもキャベツが、しかもどんなキャベツでもいいわけじゃなくて葉脈のもこもこのキャベツが)優れた効果をもたらしてくれると断言されてるのか、どうやって乳腺の炎症を取るのか、乳腺の詰まりがどんなからくりで開通するのか、キャベツが私の乳に何をしてくれるのか、正直一切わからない。(葉脈のモコっとしたキャベツじゃなくても白キャベツでもいいと言う人もいる)あまりにわからないので、探求は続く。そうすると、日本でもキャベツ湿布は助産師のカリキュラムの中に登場するほどポピュラーな療法であることを知ったけれど、同時に、それはエビデンスの無さから今日ではだいたい「こんなものを真面目に薦めるなんてありえん」と一掃されていることも知った。(さらには日本のキャベツ湿布は乳首の部分は穴を開けて貼るように指導しているらしいことも知った!)

疑問は尽きない。

・葉は一回きりで効き目がなくなってしまうので次々新しい葉を使うべきなのか、それともなんども使えるのか。

・何度も使い回しできるとして、どうしたらいいのか。冷やしたら効き目がチャージされるのか。

・何分くらい乳房に当てていればいいのか。

・何という成分がどう炎症に作用するのか。

彼女は自信満々に言った。「処方したホメオパシーはもちろん、キャベツはむちゃくちゃ効くから、帰り道キャベツを買ってすぐに実践しなさい!授乳前に毎回貼るといいわよ!葉脈のモコっとしたやつね!」

キャベツだけに優れた乳腺の炎症を取るための成分があると、私は思っていない。ひょっとしたらパラレルワールドではキャベツじゃなくてアスパラだったかもしれない(いや、棒状の形状では胸に貼れないし不便だからそれは無理か…)同時に、大真面目な助産師さんたちと助産師さんたちに「いや~、こないだ教えていただいたキャベツ湿布、めっちゃ効きましたよ!」とキャベツ湿布サポーターとなった患者さんたちが嘘を言っているわけでも、物事の効果を見極められなくなっているわけでも、非科学的な物事が大好きなわけでも、ないと思う。彼女らにとって、キャベツ湿布は窮地を救ってくれた代物だったのだろう。つまり、<効いた>と認識されたんだろう。その限りで、キャベツ湿布は、その役目を十分にになったことになる。例えば、何の客観的エビデンスがなくて、成分とか効能が立証されてなくて、全く効き目がないと述べる人がたくさんいたとしても。

ちなみに、効く効かないの前に、別に毒はなそうなキャベツ湿布を批判するもっとも説得力ある説明だと、野菜の表面には多数の細菌が付着している可能性があって、生野菜をまだ食べないし腸内細菌の発達や消化機能が未発達の新生児や乳児が、キャベツ湿布のせいで乳房に付着していた悪い細菌(リステリア とか)を摂取してしまったら危険だ、と言うもの。キャベツにどんな細菌がついている可能性があるのか、詳しくないのだが、何とも恐ろしくなる説明である。

まとまりのないキャベツ湿布談義になってしまったが、私の結論は以下である。

キャベツには、乳腺炎に効く成分があるわけじゃないと思う。ただし、キャベツ湿布に救われた切羽詰まってた女性がたくさんいるのは馬鹿げたことじゃなく本当だと思う。キャベツ湿布のポイントはキャベツの葉っぱのちょうど素晴らしい形状とひやっとする温度と、(葉脈がモコっとしたタイプならなおさら素晴らしい)ひんやり感を効果的じわじわに乳房に伝えるテクスチャーだと思う。キャベツ湿布の効き目は以下のように分かれる:

キャベツ湿布実践の結果、

①ひんやりして気持ちが良かった・熱が取れた・実践しているうちに乳腺炎が落ち着いた(偶然、タイミング的に)=キャベツはすごい!

②良くならない・症状が悪化した=キャベツなんか効かねーよ!

このいずれかである。ネガティブフィードバックは助産師の個人のキャビネットではなかなか吸い上げにくいだろう。なぜなら、全然効かなかったら、同じ医療者のところに戻ってこないかもしれない可能性が多いから。一方で、効いたら、そのプロのところにまた戻るから。だから助産師たちはポジティブフィードバックをこの件に関しては耳にしやすいと私は予測する。

今回キャベツの話ばっかりだったのだが、効き目の判断の下りなんかは、特に、効く人と効かない人の両方がいて、どちらも嘘つきなんかじゃないと言う点については、私たちは割といろいろなことを、一つが正しければもう一方は誤っていると言いがちな価値観を植えつけられていることを思い出して、そうとも限らんと一歩後ろに下がって考えてみるために、意味があるのではないかと思う。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について8 リメディーの原料と効き目の例

ホメオパシー(同種治療)について 8(2019年9月6日)
リメディーの原料と効き目の例

ヒキガエル、というのだろうか。フランス語ではアマガエルのような小さいやつじゃなくてこういうドッシリしたカエルをクラポー(crapaud)という。小さいカエルであるグルヌイユ(grenouille)よりもキャラが立っていて、個人的には雨が降った後の田舎道で車に轢かれて残念な感じになっていることの多い、アイツである。

個人的な話になるが、夏からの数回の助産師診察のたびにホメオパシーをたくさん処方されたのだが、その中の一つに、上のヒキガエルから作られるリメディーRana Bufoがあった。Rana Bufoのホメオパシー利用とその効能について詳しく説明した論文も見つけて、読んで見た。ものすごい多岐にわたる効能が期待されていることがわかった。あまりに長い論文だったので簡潔にいうと、背の方から分泌される毒を抽出して作られており、皮膚の化膿やリンパ系の炎症、コントロール不能な性的興奮、知的活動の衰え、感情の制御不能など行動に関する問題にも効くらしい。

あとは、ヨーロッパ蜜蜂の全身をすりつぶしたものが元になっているApis mellifica。蜜蜂が使われているというので、主なる効用は、虫刺されのチクチクする痛みや晴れ。蜂に刺されたのと似たような症状が現れる水膨れの類。このリメディーは、即効性があるけど長くは効かないので、頻繁に摂取しないといけないらしい。

また、Phytolacca decandraは、アメリカブドウとして知られ、ブドウのような実がなるが、毒性が強い。実は子供や動物にとって毒であるが、根も茎も葉も樹液も毒を持っている。大人でも、妊娠中の女性は摂取すべきでないとされる。中毒になってしまったら、吐き気、唾液過剰、下痢や血便、呼吸困難、痙攣、死ぬ恐れもあるとか。この植物はホメオパシー的には、女性の生理不順や乳房の問題、リュウマチの炎症に使われる。特に、授乳期の女性の胸の痛みや炎症(化膿の始まり)、乳首の傷などに効くことになっているので、複数の助産師が乳腺炎のケースでこれを処方していた。

それからBryoniaは中央ヨーロッパの高地に生息するヒョウタン科の植物。耳鼻咽喉の炎症を抑える効果があるほか、肺炎にも効くとか。また炎症ということではリュウマチに効き、便秘にも効く。そして乳腺炎にも。母乳が出るようにもなるとか。この植物を食べると炎症が起こるとか、どのような毒性があるのかまだ調べられていない。

Belladonnaはイタリア語でズバリ「美しい女性」。ナス科オオカミナスビ属の植物で、小さい丸いナスっぽい実がなる。根と茎に毒性があり、葉には油が浮いていて触れただけで酷くかぶれる。トロパンアルカロイドを含み、中毒を起こすと、嘔吐、異常興奮、死に至ることすらあるらしい。恐ろしい。ちなみにこの植物はベラドンナコンという薬品として実用化されている。ホメオパシー的には、熱や炎症に関わる症状に効く。粘膜の乾燥や肌のかぶれ、更年期の体の火照りにも効くらしい。ちなみに、「美しい女性」以外にもたくさん呼び名があって、黒いボタン、怒りのナス、悪魔のさくらんぼなどと呼ばれる。中世の女性はこの毒ナスを目元のお化粧するのに使用していたらしい。

この辺りはしばしば乳腺炎を含む授乳の問題に関する外来で助産師が処方するホメオパシーである。症状や処方する助産師にもよるが、だいたい1日に3回、5粒くらい飲んでくださいということだとして、4、5種類あった場合、普段飴とか甘いお菓子とか食べないので、舌下に20粒くらいの砂糖玉をダラダラ舐めてること自体が相当甘ったるく、蜂とかカエルのことを想像してみても希釈のことがあるのでやはり甘さだけが口の中に戻ってきてしまった。たとえヒキガエルエッセンスを摂取していようとも、粉々になったミツバチのカケラを水溶液の記憶程度に飲み込んでいようとも、<毒によって毒を制す!>イメージとは程遠い甘ったるい体験なのである。

(もしホメオパシーの他のリストをご覧になる場合、http://www.doctissimo.fr/sante/homeopathie/souches-homeopathiques こちらに一覧がある。)

09/10/19

ホメオパシー(同種治療)について7 脱線その1 胎盤食について

ホメオパシー(同種治療)について 7(2019年9月10日)
脱線 その1 胎盤食について

ホメオパシーについて書き始めたとFacebookで報告した時、何人かコメントをくださって、そこで胎盤食について数名の方々とやりとりした。胎盤は、出産時、子が出てきたのちに役割を終えて脱落するため、後産として産み落とすことになっている見た目非常にグロテスクな代物であるが、そもそも妊娠期間は子宮に形成され母体と胎児の連絡器官として機能する。哺乳類は一部を除いてその多くが胎盤を作る。重さはだいたい500グラムくらいあるらしい。形状は平べったく丸いため、プラセンタ(=胎盤)は平らなケーキという意味らしい。えー、ケーキかあ…。ともあれ、この胎盤、現在ではそもそも胎盤そのものを意味する「プラセンタ」という呼び名で医薬品とか健康食品になって出回っているらしい。私は日本でそういった商品を消費したことがないのだが、ググってみると、健康食品の典型的フレーズが出てくる出てくる。<美肌><アンチエイジング><美白><体調改善><更年期障害に効く>…。そのうち、「馬の方がいい、豚の方がいい」という文字が目に入る。ええ?!やっぱり健康食品となると加工品なので、そもそも人の胎盤からすらも遠ざかってしまうようである。

胎盤食は人においては象徴的意味が大きい。人以外の哺乳類ではクジラやラクダなど例外を除いて霊長類を含め胎盤を食べる。栄養的な面と出産の形跡を消す二つの意味があると調べると書いてある。非常に腑に落ちる二つの解釈だなあと思う。(ただ、はっきりとそうだとは断言されておらず、面白いのだからどなたかちゃんと調べればいいのになあとか思ってしまう。)

人間は出産はどうせバレバレでじっくり行うし、産み落とした直後に証拠を消さなければならないほど切羽詰まった状況もないので、栄養面のメリットから胎盤食について考えることにする。

よく言われる更年期障害防止は、産み落とした後更年期になるわけじゃないから、なんとなくこじつけっぽい。まあなんとなく<雌=産む動物>としてのパワーが満ちてそうだから、理屈は理解できるが、更年期って、そういった雌性から身体が変化していくのだから、逆戻りしようと胎盤を食べるのってなんだか違う気がする。母乳分泌に効くとか、産後の貧血に効く滋養強壮とか、出産後に即戦力になるような効能がある方が納得がいく。うつ対策というのは、なんとなく胡散臭いが、ひょっとしたら、産後の体で新生児のお世話があまりに大変で気が遠くなるのを防止してくれる、とかだったら分からなくもない。が、ちょっと(笑)って感じだろう。そしてちょっと面白いと思ったのが、胎盤摂取がオピオイドを増大させ痛覚脱失を起こす研究があるらしいことである。(ちょっとつまらないのが、ヒトではそれが証明されておらず、ラットで、というところなのだが、、、)オピオイドというのは、手術や癌の疼痛を管理するために使用される鎮痛作用のある物質で、アヘンの類の麻薬であるため、摂取量によっては陶酔作用がある。なぜだろう。なぜ一般的に大変痛い出産時じゃなくて後産で産み落とす胎盤を食べて出産後にアヘンでふわふわになる必要があるの?と思うが、よく考えたら痛いのは出産時だけじゃない。その後も相当痛い。個人的な記憶では出産後の方が色々とよっぽど痛かった。しかしながら、実際のところなぜ胎盤にオピオイドが含まれているのか、私にはよく分からない。

胎盤のことを考えていたら、今日の出産では胎盤をどうしますか?なんて聞かれることがないので10ヶ月の妊娠期間を経てしか生成されない大変貴重な代物であるのにほとんどの人が産後自分の胎盤がどこに回収されたかわからない状態であるが、時々いらっしゃる、川とか森とか(そこまでせんでも自宅のお風呂とか)で極力自然に分娩する方々なんかの中には胎盤食を実践する人もいるんだろう。500グラムの「平たいケーキ」を出産直後に完食するって、見たことないけど想像するだけで生きる力がみなぎってて素晴らしいし、カッコイイだろうなあとちょっとうっとりする。

09/9/19

ホメオパシー(同種治療)について 6  ホメオパシーは妊産婦の味方?

ホメオパシー(同種治療)について 6 
ホメオパシーは妊産婦の味方?(2019年9月9日)

こだわりや詳細な知識あるいは信仰を持たずに、ひょっとするとそれがなんであるかさほど疑問視することもないままにホメオパシーを試したことがある人の中には、それが妊娠と出産をめぐるコンテクストだったという人も多いはず。ホメオパシーは、フランスでは2019年現在で、なんと半数ほどの大学の医学部や薬学部で教えられている。つまりそこでは、ホメオパシーを専攻してディプロむを取得することが可能だ(http://www.psychomedia.qc.ca/sante/2019-07-06/homeopathie-enseignement-universitaire)。しかし、これまでも述べてきたように、現行の実験ではホメオパシーがプラセボ(偽薬)以上の効果がないことなどを理由に、「似非科学」「似非治療」と罵る厳しい批判の声が尽きず、複数の大学でホメオパシー教育に終止符を打って、全面的に廃止する動きが起きている。

一方で、ホメオパシーを処方する助産師(sage-femme)の数は増え続けており、2011年処方が合法化された当初、24%であったホメオパシーを主として処方する助産師は、2013年では42%まで増加している。この背景には、人手不足かつキャリアが正しく認められていなかった助産師の社会的権利と医療実戦における権利の見直しと拡大がある(http://www.doctissimo.fr/html/grossesse/accouchement/15349-droits-sages-femmes-elargis.htm)。あまり知られていないが、助産師になるためには5年間の専門教育が要求され、これは一般医や歯科医と同様であるのに関わらず、助産師は薬の処方や処置の点でかなり限られた権利しか持たない。そこで2011年以降何度か起こった権利見直しのための運動の結果、助産師は新たに、妊婦の胎児の問題に関わる抗生物質、授乳の痛みや問題に関わる治療薬、つわりや頻尿の問題、生理痛の問題、産後の避妊などについて、ホメオパシーのリメディーを含め、薬の処方の拡大が認められたのだ(助産師が処方できる薬のリスト:https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000024686131)。

この権利拡大のきっかけとなった助産師たちの運動の背景には、妊産婦から薬処方の強い要求があるにも関わらず何も処方できない状況があった。妊娠中、あるいは授乳中は、食生活、経口薬はもちろんのこと、塗布薬に至るまで制約がある。私自身の妊娠期の経験では、つわりの症状が強く出て、それも2ヶ月ほど続いたので、産婦人科医が検診のとき、「症状を抑えるような薬は何にも飲めないし、つわりに薬なんかないのよ、そのうち治るんだから大丈夫よ」と彼女が言い放った際、本気でイラっとした。そして、そんなことがあって良いものかと本気で思った。そこから、たとえ薬の処方がデリケートだったとしても今日こんなにも医療が多方面に発達し、研究が進んでいるのだから、女性の妊娠期の不快感(時に悠に不快感を通り越して、苦痛といっても過言でない)に対して何も対処しようとしないのは、産む女性を「苦しむべき存在」と見なすような、「産み出すのは苦しくて当たり前」と古臭いマッチョな美徳をなおも押し付けるような恥ずべき実状じゃないのか!と深く憤るまで感情が高まったのを熱さが喉元過ぎた今ですら全然忘れていない!世の中の女性たちよ、<当たり前>、<仕方ない>、<そういうもの>、とか甘んじてないで奮起しようよ!絶対ちゃんと効くお薬が人類には作れるよ!と本気で思った。というか今も思っている。現状は絶対(苦しんで生むべし美学に基づく)怠惰の結果なのである。しかし、女性は妊娠期の直後(つまり出産の後)新生児を抱えてたちまち大変忙しくなってしまうので、残念ながら(あるいは怠惰でマッチョな人たちには幸運なことに?)、過ぎてしまったつわりの苦しみや妊娠期の不調に対して今後の人々のためにマニフェストするエネルギーも時間もないのだ。そうして、今日まで「苦しむのが当たり前でしょ」というフレーズがまかり通っている。ホメオパシーの話題からちょっといやだいぶ逸れているが、もう一度言いたいのだが、女性は(あえて苦しみたい場合を別にして)生むために苦しまなくてもいい、と思う。

さて、この話で何を言いたかったかというと、妊産婦は摂取できる薬が大変限られた(あるいはほとんどない)状況におかれているので、心身の不調をきたした時、これまでいとも簡単にお薬を飲んで不調をサクッと改善して生きてきた人々は、かなりパニクる。なすすべがないなんて?苦しいまま過ごさないといけないなんて?そこに、ホメオパシーが提案される。完璧なシチュエーションである。これしかない、というわけだ。産婦人科医は処方しないだろうが、そこで困って助産師に相談しに行けば処方してもらえるというわけだ。

ちなみに、また繰り返して申し訳ないが、私はホメオパシーを馬鹿にするためにこれを書いているのでない。困った時にホメオパシーを処方されて症状が緩和した、助かった!という人やそもそもホメオパシーを実践している人の肯定的な証言を無下にする気は無い。症状が改善したなら良かったし、効かなかったら残念だと思うだけだ。

ただ、強調するのは、ホメオパシーは妊産婦に処方される時、それは唯一の可能な投薬として処方され、彼女らはしばしば妊娠という非日常的で(多くの場合慣れてもいない)身体の異常事態に直面してしばしばパニクっているので、ホメオパシーはこのタイミングで、なんていうか、もうあるだけでたいそう有難い代物として登場する。よく知らない人も疑い深い人も、本当に困っている時の唯一のお薬として提示されたホメオパシーをやってみないわけにはいかないだろう。だってやって損はないのだから。だって本当に困っているのだから。そういうわけで、思うに、ホメオパシーの居場所が妊産婦の体調管理であり助産師による処方が主流なのは大変わかりやすいなあと思う。

09/9/19

ホメオパシー(同種治療)について 5 <個人化された医療><優しい医療>というイメージ

ホメオパシー(同種治療)について 5 
<個人化された医療><優しい医療>というイメージ
(9月9日)
ホメオパシー(homéopathie)は、代替医療(médecine douce)の一種であり、原材料から抽出した原液をかなり希釈した上で砂糖玉と合わせて仕上げているために副作用がほとんどなく、その処方は個人の体質、生活環境に対応している。ホメオパシーは、患者の<全体>(globalité)を見ることを原則とする。症状が観察できる部分だけでなく、患者がどのように症状を訴えているか、よく症状の周辺を観察するのはもちろんのこと、患者の精神的状況やこれまでの生活について、さらにはどのような生活環境で日々を送っているのか、患者の<全体>を見極めた上で最もあったリメディーを選択する。遺伝による病や、体質的にかかりやすい病気などの素質を熟知した上で、病になることを避けるための予防すら行うことが可能だ。この点は、現行の医療で処方される薬が基本的には予防ではなく治療を目的としているのと大きく異なる。(私が以前取り組んだmédecine personnaliséeのプロジェクトのことも思い出される。)

ホメオパシーの重要な特徴の一つは、個人化された医療であり、ありうる病を見極めてそれを予防しようとする医療だということである

この点がいかに魅力的であるか、現行の医療と比較すると直ちに明らかになる。現行の医療はしばしば、上に述べたように、症状が現れてから、あるいは病気になってからの治療を目的とした投薬や処置しか行うことができず、将来なるかもしれない病気に対して手を打つために医者にかかるというのはあまりない。さらには、もちろん体質に合わない薬や、飲んでいる他の薬と合わない薬を処方されるということは今日あり得ないにせよ、現行の医療においては患者が副作用を受け入れることはある程度当たり前の現状がある。「選択肢がない」と説明されてしまう場合には、相当キツイ副作用すら我慢してくださいということが当たり前のようにある。

そもそも、19世紀すでに怪しげだと言われていたホメオパシーを信仰していた人々が魅力を感じた理由が、ホメオパシーが「優しい医療」だったことは知られている。その当時は今よりもずっと、医療は痛みを伴う恐ろしい経験だったのだ。確かに、昔の治療は想像するだけで痛そうである。その当時、痛い治療や手術もせずに、微量の毒(しかも超希釈されていて害はない)を服用すれば病が良くなるとすれば実践しない手はない。それがきちんと効果を上げて病が治るのならば!

今日ホメオパシーを信仰するためには、もう少し別の理由があるだろう。

抗生物質のように、世界中で大量に処方されているけれど、副作用があったり、病の原因である細菌以外の最近にも作用してしまうことで体内常在菌にダメージを与えて、結果的に体調を崩すことがある投薬など、化学療法には、ある病を治療するために身体の何かしらが犠牲にされるか、ダメージを受けることを甘受するようなシチュエーションがよくある。また、乱用が耐性菌を生み出すことによる問題もある。化学的な経験により、我々の身体は<変容>してしまう。ある時は望まない意味で不可逆的な変化を遂げるかもしれない。治療の<前>と<後>では元の身体は戻ってこないかもしれないのだ。一方で、私たちの身体がもともと持っているという<記憶>に訴えかけ、これを呼び起こすに過ぎないホメオパシーでは、身体を象徴的な意味で<変化させ>、<傷つける>ことなく体調を整えることができることになる。

身体の自然治癒力を信頼すると同時に予防のための医療であることも重要だろう。ここでは、中国の医者にまつわる逸話を思い出すことができる。東洋医学や中医もまた、伝統的に<全体を看る>ことが重要視されており、問診は時間をかけて大変丁寧に行われ、病気や症状のある部分だけでなく患者の全体を見渡し、予期される病や症状が出ないようにするための気配り(ケア、治療、soins)を促す。逸話では、医者は患者が病にならずに健康を保っている間は報酬をもらえるが、一度体調を崩すと報酬を受け取らない。何故なら、患者が健康を維持することが医者の任務であるので、患者を病ませてしまったことが医者の責任であるという。興味深い話ではある。ホメオパシーも、<全体をみる>という点では、こういった東洋医学と共通する思想があるのだろう。

一方、ホメオパシーは現代ヨーロッパ(日本でも)コテンパンに言われることが多いが、東洋医学はなお重視されていたり、正当性が認められている。西洋でも中医を学ぶのはちょっとブームになってさえいるのはやや皮肉に思われる。何故なら、<科学的であるかどうか>というスタンダードでは、東洋医学の基礎となっている人体論や陰陽論は「科学的」ではないだろう。中医はそのエキゾチズムによって西洋人を魅了し続けることができている気がするが、東洋医学が今日も有効だとされているのはエキゾチズムのせいだけではない。となれば、違いは効果が認められているかどうかだろうか?

09/4/19

ホメオパシー(同種治療)について 3

ホメオパシー(同種治療)について 3 
(2019年9月5日)
ホメオパシー(homéopathie)の基本的な考え方とリメディーの生成について、今更だが言及しておきたい。これらの内容についてはより専門的で網羅的な情報を手にいれる手段があり、これから書くことは一応、私のような非専門家が端折ってまとめているに過ぎないとご理解いただいた上でお読みいただければと思う。

ホメオパシーは、同種治療つまり、病や症状を引き起こす原因となるもの(と似たもの)を微量摂取することによって、これを治療することができるとする考え方である。スルーしてはいけない。「え?待て待て、それってどういうこと?」とすかさずつっこむべきだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなるの?と。ここにホメオパシー最大の仮説あるいは魅力的思想が横たわっていると思われる。それは、「身体は知っている」原則なのである。それは直ちに、ジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が1988年にNatureに発表した論文のテーズ 「水の記憶」(« Mémoire de l’eau »)が言ってのけた、「水は憶えている」を思い起こさせる。バンヴェニストの「水の記憶」についても、のちの考察の過程で言及するつもりだが、この論文が発表された時、フランスの、いや世界のホメオパット(ホメオパシー専門家)たちは大変喜んでこれを支持したのはもっともなことだ。今回の話題に戻るが、ホメオパシーの最大のポイントは、私たちの身体が生まれながらに持っている自然治癒力たるものへの全面的な信頼(と信仰)なのである。
つまりこういうことだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなる。なぜならば、身体はもともと病や不調が起こった時にそれを治癒する力を持ち合わせていて、しかし身体の不調においてはそれが忘れられているに過ぎない。それを思い起こさせてやるためには<適切な>刺激を与えることこそが必要であり、その刺激というのが、身体の不調の原因となった<毒>を超微量摂取することなのである。

次の図は、doctissimoというフランスの医療関係のウェブサイトにあるホメオパシーの原理を説明する記事から借用した。図は、絵を見ての通り、
<健康な人> + <希釈されていないホメオパシーのリメディー> = <不調がある人>
<不調がある人> + <適切に希釈され準備されたリメディー> = <健康な人>
という単純明快な方程式を表している。


また、以下の図も同様の記事から借用したものだが、ホメオパシーのリメディーに記されている「(数字)CH」「DH(数字)」という記号が、どのような希釈濃度を表していることを説明している。これはホメオパシーの創始者であるハーネマンの名にちなんでおり(ハーネマン式100分希釈、la dilution Centésimale Hahnemannienneあるいはハーネマン式10分希釈、la dilution Décimale Hahnemannienne)、1CH数字が上がるとそれは1/100に希釈される。リメディーにもよるが、処方されるリメディーでよく見るのは、7CHとか9CHとかが多く、5CHというのもあったが、それでも原液の100の5乗分の一の濃さなのでかなり希釈されていると言える。

ホメオパシーのリメディーの原材料は、植物、動物、ミネラル由来の三種類があり、そのうち60パーセントは植物由来のため、なんとなく身体に優しく自然なイメージがつきまとう。調べていくと、虫を丸まんますり潰したものとか、カエルとかイカスミとか、ウソ〜、希釈されててもなんだか摂取が憚られるよ?といった原料にも出会う。リメディーの原料と効果リストもかなり興味深いのでこの話題はまたのちにとっておきたい。今日のところは、ホメオパシーのリメディーがどのように作られているかごく簡単にまとめた。以下の図は同様のdoctissimoよりホメオパシー原料を説明する記事より引用した。お分かりのように、延々と希釈されたのちにそれはショ糖や乳糖と合わされて、あの色とりどりのプラスチックケースに入っている甘い小さなつぶつぶになるのだ。砂糖玉は舌下において溶けるまでゆっくり待つことによって摂取される。

さあ、この原材料から遠く遠く希釈されていく様子をご覧ください!原材料はすり潰したり濾されたりしたのち、アルコールに混ぜられる。三週間ほどアルコール漬けにされる。そして、濾されて、濾されて、ここでやっと上の希釈方法の図に出てきた原液が完成する。説明が前後してしまったが、材料となった物質が、リメディーには一分子も含まれていないのはどうやら本当で、この長い希釈の過程を経て、患者が摂取するリメディーが作られているのだ。

子供の時の薬が甘いシロップが多いからだろうか、この甘ったるい砂糖玉を舐めていると、嫌が応にも精神がリラックスして、この「優しい医療」(médecine douce)の毒?にあてられる気がする。この薬には恐るべきあるいは苦しむべき副作用もなく、苦くて嫌な味もなく、なんと私の身体に優しいことか!