04/8/14

The Act of FLIRTING, Stephanie Comilang / フラーティング, ステファニー・コミラン @京都芸術センター

The Act of FLIRTING
Stephanie Comilang
2014年3月15日 (土) – 2014年4月6日 (日)、京都芸術センター

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京都芸術センターでつい数日前まで展示されていた映像作品「The Act of FLIRTING」を二回見た。「KACアーティスト・イン・レジデンス・プログラム」という若手アーティストや研究者に向けたプログラムで選出されたトロント出身のアーティストStephanie Comilangによる3ヶ月にわたるレジデンス滞在の集大成としての作品である。アーティストは、タイトルにもあるように「flirting」という行為をひとつの手がかりとして選び、この言葉の意味するところやこの行為が日本的な文脈でどのように受け取られ、実践されているのかに光を当てようとした。

芸術センターのサイトには次のようにある。
「flirting」(気になる相手の気をひく方法)をキーワードに、京都での滞在中にさまざまなリサーチを行いました。本展では、それらのリサーチを基に制作した映像作品を発表します。そこには、少しずつ日本と外国の文化や感覚の違いを理解しながら、彼女自身の肌で感じ取った「日本」が描かれています。この作品との出会いによって、人と人との距離感や人間関係を築いていく過程などにまつわる、私 たちが普段は特に気に留めることのないような日本人特有の感覚や意識について、改めて考えさせられることになるでしょう。(引用:https://www.kac.or.jp/events/11103/

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彼女がリサーチを始めたきっかけは、日本語にはフラーティングという言葉にピタリと該当する表現が見つからないという気づきであり、そこから、気になる相手の気を引くときの態度が、日本と西欧では異なるのではないかと予想したことにあるようだ。これは恋人や好きな人の気を引くだけでなく、子どもが親の気を引く、友だちの気を引く、といった広義のフラーティングを含める。その問題意識から、インタビューに出演する、年齢や仕事の異なる日本人に、フラーティングの方法とフラーティングされたことについて質問し、彼らが語ったことを映し出して行く。シナリオの中心に置かれるのは、祇園で舞妓の格好をしてホステスとして働いているという一人の若い女性で、彼女がどのようにお客さんに接し、お客さんの欲するサービスを提供するか、対人関係の中でどのように自分を演出するか、といったことを語りながら、「仕草」「勘違い」「話を聞いて、するべき反応をしてあげる」といったキーワードを散りばめる。そして、ホステスという仕事において期待される典型的なやり取りを演じてみせる。

フラーティングに関わらず、翻訳不可能であったり翻訳することによってニュアンスが変わってしまう言葉などハッキリ言って数えきれない。その発見は何も新しくなく、言うまでもないことであり、その点でこの作品がアイディアとして優れているとは思わない。さらに、インタビューされて語られることの多くは、言い古されたことや誰もがうなづくであろうこと、あるいは、聞き飽きている故につい反論してしまいたくなるようなことである。日本人と西洋人の人間関係の距離感が異なるというのも何ら斬新な気づきではないし、我々日本人にとっては耳にタコができるほど(?)語り尽くされた「日本人論」の外側にでることのないパロールではないだろうか?

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ではなぜこの作品を二回見てしまうのか? いや、実は一人で二回見て、そのあと別の日に一回見たので、全部で三回も見たことになる。シナリオもセリフの一部もリフレインできそうだ。とりわけ、この偽の舞妓ホステスがガラリと広い畳の間で蛍光灯を真っ白に浴びながら歌う一曲の歌は節回しや音程が微妙に低かった瞬間まで克明に覚えている。つまり、この映像はともあれ私を魅了した。言ってみればこの作品をフラーティングの解釈と日本文化におけるあり方として見ることに、私はさほど興味を持たなかったのだが、むしろ、そのように予定して構成されたシナリオと偽舞妓ホステスの証言と演技が、他者との会話に我々が見いだす欲望たるものを鮮やかに描き出す様に魅了されたのだと思う。我々は日々他者と言葉を交わしながら生きている。それも、様々な方法で。言葉を発するに至らない何かであることすらある。ホステスの言い放つ「聞いてあげる」「驚いてあげる」「笑ってあげる」、「ーしてあげる」という言い方に込められたニュアンスや、その実践を演じてみせる様。それらは分かりやすいように強調されているけれども、つまりは私たちの他者との交わりに等しいのである。そしてそれは「空気を読む」「まわりとの関係で自分のキャラクターを作る」など、いわゆる日本人的な特色を規定する言葉が添えられるが、本質的には、どんな異なる二つの個体の接触にも関わる作業の断片であるように思える。この作品の面白かった所は実は、日本文化と西洋文化の比較でもそのいずれの特殊化でもなく、逆説的にそこに見え隠れした変わらないものの存在である。

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