04/2/14

Young Pioneer’s Presentation vol.3

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Young Pioneer’s Presentation (YPP)Facebook YPP page

2014年3月22日、Young Pioneer’s Presentationに発表者として呼んでいただいた。この会は、京都大学交響楽団に所属していた折りお世話になっていた阿曽沼くんがオーガナイズしているこの会で、毎回複数の発表者(今回は二人)が自信の研究分野について話をし、共通ディスカッションを行っているそうだ。今回は、現代アートのコンセプトについて喋る私と、同期のヴァイオリニスト大谷くんの化学と折り紙の発表。阿曽沼くんが会の冒頭にも言っているように、私たちはなるほど、予想されている共通知識みたいなものを全く共有しない聞き手を前に話す機会にはそう恵まれてはいない。研究会も学会も、たとえば私のトピックでいえば、「芸術とは何か」、「作品とは何か」という問題そのものを話すことは稀であるし、それについて語るときにはそれに集中するかもしれない。しかし、具体的な作品について語りながら、それを捉える様々なシステムについても語るということはあまりない。感じると言うのがどういうことかそのものをあるレベルで定義しながら、ある特定の対象をどのように解釈するかを展開するのは、なるほど、七色に輝く小魚だらけの浅瀬の海の景色を3色の太いペンだけで描こうとするような、そんな思いがした。つまりは、相当悩んだ果てに、現代アートにおけるコンセプトと作品の鑑賞というトピックに関して、仕組みそのものを展開するよりは、普段わたしがこのブログを通じてお話しているようなことを、喋ることにした。

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さて、事前にFacebookのイベントページに掲載された私たちの発表内容は以下である。

【発表者】
・大久保美紀
パリ第8大学非常勤講師。美学。同大学大学院芸術学科博士後期課程、ニューメディア美学専修。批評のウェブサイト »salon de mimi »に展評•作家評•エッセイを多数掲載。研究テーマは現代の自己表象。ソーシャルメディアにおける自己語りと日記の関係性、現代アート、ファッションにおける身体意識・身体的表象に着目する。

・大谷亮
京都大学大学院工学研究科合成・生物化学専攻北川進研究室博士後期課程三回生。日本学術振興会特別研究員(DC1)。錯体化学、超分子化学。趣味は折り紙とヴァイオリン。餃子と寿司が好き。最近はピザも好き。前向き。小さじ1杯の悪意。笑う門には福来たるのかをこの人生で検証中。「何とかなると思うんだけどなー」が口癖らしい。

【発表内容】
大久保美紀
「コンセプチュアルなアートとその鑑賞 ー つくる人、みる人、かたる人」
皆さんは現代アートが好きですか?
現代アートは難しくて分からない、一体何がアートなの? ――私にもはっきりとは分かりません。
それらの疑問は、現代アートがしばしば概念的(コンセプチュアル)であることに由来します。
展覧会や作品のコンセプトは一般に、作品を理解するためのカギとして重要視されますが、 »提示された作品それ自体 »と »説明された複雑怪奇なコンセプト »があまりに隔たっている場合には、鑑賞者は困ってしまうでしょう。一方で、そんなふうに鑑賞者を煙に巻かない素敵な作品も必ずあります。本発表では、「難しくて分からない現代アート」のその不親切さを前に肩を落とさず、楽しく現代アートを体験する方法についてお話したいと思います。そこではつくる人とみる人、かたる人が相互に関わります。今日注目されている美術家の活動にも触れながら、現代アートについて一緒に考えてみましょう。

大谷亮
「趣味から始まるChemistry~折り紙と錯体化学、と私~」
皆さん、鶴は折れますか?
日本の文化、折り紙。小さい頃に遊びつつも次第に忘れられてしまう折り紙。しかし、現在「超複雑系」と呼ばれる折り紙が発展しています。知る人ぞ知る現代”折り紙”の一端に触れて頂きます。
更に、本発表者の専門である”錯体化学”とは。錯体は、ユニット折り紙のように構成分子を自在にくみ上げることで作られる物質群です。どのようなコンセプトから錯体化学研究が行われているのか、錯体化学研究の基礎から最新トピックスまで、ものすごーーーーくざっくりと分かりやすく説明します。

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紹介した作品は、ソフィ•カルの作品より『Les Dormeurs』『Prenez soins de vous』。ここでは、コンセプチュアルなアートの一つの例として、アーティストのつくるゲームのルールのようなものを第三者がパフォーマンスとして遂行した結果を、テキストや写真、ヴィデオなどの記録を通じて鑑賞者に総合的に追体験させるようなものを紹介した。(参考:添い寝がなぜ気になるのか)あるいは、作品としての「モノ」を作っているにも関わらずその主題や問題提起によってしばしば「なぜこれがアートなのか?」という問いを投げかけられる会田誠さんの作品『シリーズ:犬』について、私自身の解釈を提示し、『自殺未遂マシーン』についても考えた。(参考:会田誠「天才でごめんなさい」)最後に、1980年代をニューヨークで過ごし、コンセプチュアルアートの手法を研究したアイウェイウェイの最近の作品、ヴェネチアビエンナーレで公開された二つの『Dispositions』について論じた。(参考:アイウェイウェイ3つのストーリー映画『アイウェイウェイは謝らない』

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アイウェイウェイの作品を紹介するのは、Young Pioneer’s Presentationのように「現代アートとは何か?」という問題意識を持って話を聞きにきてくださった人の中には、現代アートは単に「コンセプチュアルで難しい」というだけでなく「奇異なもの」「突拍子のないもの」、更に、そうあらなければならない、と感じている人もおられたからである。現代アートは勿論複雑でなくていいし、分かり易くて構わないし、ヘンでなくてよろしい。つまり、力のある現代アートは眩しくないかもしれない、大切なことを伝える表現は必ずしも複雑怪奇な暗号に自らを隠してない。世界を良くするようなメッセージがミラーボールのような輝きを放っている義務などない。それは、くすんでさびていても、重苦しく目立たなくても、それらが現代アートというからには、現代の社会、現代の世界の問題に関わり、それに出会う私たちに何かを考えさせ、あわよくば勇気づけたり、生きることは良いと感じさせる。その意味で、表現をすることは意味があり、それを享受することにも意味があるのだと思う。私が考えていたのは、そのようなことである。

02/21/13

ICOMAG 2013「批評」のテーマから考えたこと/reflexion on the aim of ICOMAG 2013

先日、文化庁主催のメディア芸術コンヴェンションが東京六本木で開催された。私は遠方におり、非常に関心があったにもかかわらず参加することが出来なかった。しかし、海外でメディア芸術に携わるアーティストや研究者からもこの会議のコンセプトについてのコメントをもらうという座長吉岡洋さんの提案のおかげで、第3回メディア芸術コンヴェンションのテーマ(icomag site)について、すなわちハイブリッドカルチャーにおける批評の可能性について、パリ第8大学のジャンルイボワシエさんおよび彼のセミナーに所属する数名の研究者と意見を交換することが出来た。日本で行われたリアル会議とは別の文脈であるが、日本のポピュラーカルチャーについての考察(あるいは、一般的に文化の越境という現象を考えること)にかんして、あくまで私自身が日頃抱いている問題をまとめながら、この議論のことをこのブログに記録したい思う。

今日よく知られているようにフランスは、世界的で日本に次ぐマンガの消費国である。パリでは毎年(昨年は20万人を動員)ジャパンエクスポや、大規模なコミケ、パリ•マンガサロンなどが盛況を収め、日本のマンガは、彼らのオリジナルカルチャーであるバンド•デシネ(Bandes desinées)を経済効果の点で遥かに上回って(しまって)いる。日本のアニメやゲームの人気も高い。その勢いは日本食、日本語教育、伝統文化も一緒くたに波及し、ジャポンは、所謂「クールジャパン」でプロモーションされてきたセクターのみならず全体的にクールである。こういったファンタジー的憧れは、ワンダーランドとしての遠き島国を思い描く想像力がいかにも簡単に紡ぎだしそうな物語のひとつである。そしてこのシステムは、日本に対してのみ向けられる特異な視点を裏付けるものでは全くないのであり、むしろ、日本のガールズが花の都パリ(死語?)に憧憬の念を抱く際の一生懸命さ(およびそれを支える日本のコマースとツーリズムの努力)のほうがよほど素晴らしいし、この程度のファンタジーは世界中に溢れている。ただ、日本を巡る物語についてやや驚くべきことがあるとすれば、そのファンタジーが今日においてもまだ機能するという日本のしつこいワンダーランド性である。

座長吉岡洋さんが昨年の3月にブログに掲載した「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか?」を先日フランス語に翻訳し、ウェブに掲載した。( text in French on salon de mimi, on blog by Hiroshi Yoshioka, original text in Japanese is here.) その記事の末尾は「「メディア芸術」をめぐる過去2回の国際会議の企画とはわたしにとっては、日本におけるポスト植民地主義を目指す文化的闘争であったのだ。」と結ばれている。このテクストは、1980年代に成熟し90年代には既に海外で積極的に受容されたマンガやアニメを、生みの親である日本がなぜ、2000年代後半になるまで自らのナショナルな文化と認め、外交戦略化しなかったのかをクリアーに説明する。(なるほど、そういえば精華大学におけるマンガ学部設置は2006年、京都マンガミュージアムの会館も2006年、外務省のポップカルチャー発信士/通称カワイイ大使任命は2009年である。)このテクストは、さらに、なぜ海外で日本人としてポップカルチャーを発信する際になんとなく後ろめたさが伴うのだろうという私個人の内省的体験にも、ひとつの解釈を提示してくれた。(このことは自分のブログでゴシックロリータの装いで文化レクチャーをすることを綴った記事や、高嶺さんの展覧会を論じた記事でも書いた。) 私はこのテクストを次の二つの点で重要と見なし、日本語以外の言語に訳される意義を見いだしている。一つ目は、日本人が日本のポップカルチャーをに対して抱いている「恥ずかしさ」(「恥ずかしい」というのはつまり、何らかの後ろめたさやそれを認めたくないとする気持ち)の存在を率直に肯定したこと。二つ目は戦後日本の植民地主義/意識を巡る問題について、日本社会がこの問題を隠蔽し直接対峙することなく現代まで先延ばしにしてきたという筆者の考えを通じて正面から文章化したことである。もちろんこの二つの点は互いに強く関係し合っていて切り離すことは出来ない。

まずは、「恥ずかしさ」を切り開らくことから始めよう。

当たり前のことだが、我々日本人がクールジャパンを恥ずかしく思っているなどということは、特定の社会的コンテクストを共有しない外国人には知られておらず、この内実は理屈で理解されることは可能であれ、いささか複雑化され過ぎており、日本人自身が言語化しきれずにいるという事実がある。ともあれ、そんなことは彼らの日本現代文化への熱意を邪魔もしなければその魅力を傷つけもせず、つまりは比較的どうでもいいことですらある。つまり、日本の外(あるいは内)でサブカルで括られる表現活動を受容吸収する多くの若者(あるいは若くない人々)にとって、異種混交的文化(hybride culture)とは、ある程度国際的で一般的な状況に収集できる事態である。誤解を恐れず言うなら、大きな流れとして今日の世界は、日本でもヨーロッパでも共通の枠組みに置かれていると見なしうる。文化の商業化•脱政治化傾向もまた、国際的なコンテクストで語られ得る。

それはそれでよいのだと私は考えている。日本固有の社会•歴史的背景に基づき、日本的ハイブリッドの特殊性を分析し、それを語ることは繊細で丁寧な仕事であり、必要不可欠なプロセスである。一方、日本でしばしば議論されてきた「メディア芸術/Media Geijutsuとは何か?」に代表される問いはとても厄介である。なぜなら、「メディア芸術」という言葉をMedia ArtではなくMedia Geijutsuと英訳すること自体がややもすれば対話を拒絶する姿勢の表明であると解釈されかねないからだ。このことはもっと丁寧に説明されるべきであり、ひょっとしたら語弊があるかもしれないが、私は「メディア芸術とはなにか」とか「メディア芸術のどの点をもって芸術なのか」という命題の答えを定めることに重要性を感じていない。むしろ、芸術という日本語の言葉が予め持っている特性に関わりすぎることに拠って、もっと大きなものが見えなくなる恐れがある。こういうのこそ実は、潜在的にotaku-likeな言説の一つになりかねない議論であり、言語ゲームに終始するならばただのdis-communicationに陥ってしまう。

オタクは「彼らが属するコミュニティー内では社会的態度でふるまうが、その社会性はコミュニティー内部に限られる」という側面がその意味の核を作っており、オタク的○○あるいはotaku-likeな○○という表現に応用されることによって、マンガ•アニメのフィールドに関わらず、広く使用できる。たとえば、メディアートを語るための専門的でテクニカルな言葉、科学の研究者が使う一般人の理解を全く期待しない専門用語、あるいは、(言語の壁までもその対象になるとすれば)、日本人にしか理解しがたい議論、それをあたかも翻訳不能であるかのように努力もせずに語る態度はすべてotaku-likeである。じつは、日本のマンガやアニメ、ゲームの領域が自己再生産的に成長できる自給自足のシステムをもっていることが、この領域の批評の難しさの本質をついている。フィールドのオタク的なあり方それ自身が、自らが理解される可能性を自己閉鎖していると言えよう。専門化したフィールドに対話の可能性を見いだしていくのが批評だとすれば、そのプロセスは、そのフィールドの内側にある言葉を大切にし、その言葉を通じる言葉(もっと意味のある言葉)に言い直すことから始まるに違いない。

現代のハイブリッドカルチャーにおける批評可能性は、したがって、通じる言葉で語る人々とそれに心静かに対応するotオタクの人々のやりとりを活性化することにある。私はotaku-likeな言説それ自体を否定しない。なぜなら、otaku-likeな語りこそ、各々の表現活動の現場にもっとも違い場所で生まれて語られる言葉だからだ。それらはただ、開かれて相互理解可能になればいい。

また、マンガやアニメ、ゲームが堂々と日本文化の仲間入りするのを長年妨げた日本的思想に「文化や芸術を経済•産業に結びつけるなんて、なんだかはしたない!」という暗黙の了解がたしかにある。(「クールジャパンはなぜ恥ずかしいのか」で指摘された通りである。)マンガやアニメ、ゲームの強力な経済活動との結びつきに批判的な目を向ける考え方だ。この妙にエレガントで日本的な思想は話し合いの参加者を驚かせることとなり、いわゆるハイアートであっても本質的に経済活動のコンテクストから逃れられないのだから、その点をもってハイとローの文化•芸術を分けることは出来ないという結論に至らせた。このハイとローの価値観、カルチャーとサブカルチャーといった対比そのものが今日やや時代遅れの議論ではないかという率直な感想も上がった。

ポピュラーカルチャー(大衆文化)の意味するところは、4つある。大衆にさし向けられる文化、大衆が消費する文化、既存のものを覆すために大衆が生みだすアヴァンギャルド的な文化、そして、消費者の大衆が生産者も兼ねるような過渡段階に位置する文化。ポピュラーカルチャーと言う時、一般には大衆が消費する文化をさす場合が多いのだが、上述の4つの意味を考えるならば、なるほど、現在いわゆるハイカルチャーと考えられているフィールドだって一定時間よりも以前、オリジナルのものが大衆により「日本化」したこともあるし、既存のものを破壊する芸術運動から作り出されたものだって含まれる。そう思ってみれば、この区別も線を引くことに目くじらを立てずともよろしい。たしかに我々は、誰から教わったのか今となっては思い出せない超謙虚な姿勢を美徳として共有している。日本のハイカルチャーにはオリジナリティがなくていつも西洋の真似をしてきた、マンガとアニメくらいしかソフトパワーになってない、という考えがその典型だ。この考え方はいささかペシミスティックすぎる。

さて、otaku-likeなパロールの(悪)循環は、各々のフィールドのみならず、「日本語」という言葉すらその仕組みのなかにそのまま含むことができてしまう。どういうことか。特定の社会や文化についての共通知識を前提として要求するような話(存在する殆どの議論はもちろん何らかのコンテクストをもっているが)では、デリケートな内容はなかなか翻訳されにくいので、そこには高い言葉の壁があるように見える。あるストーリーが言語間を越境する困難はあっていい。それがうまく伝わらないのも、理解が難しいと受け止められるのも、いい。ただ、それを自己を防御し他者を攻撃する手段として利用するようなくだらないスタンスがあるとすれば、それは直ちに放棄するべきだと思う。非日本語話者に解らないからとインターネット上で日本語で誹謗中傷すること。水戸芸術館における高嶺さんの展覧会「高嶺格のクールジャパン」の「自由な発言の部屋」という大事な章は、日本社会のそういった問題にも焦点を当てる。ネットの言論は本来すべからく誰の目にも触れ、誰にも理解される可能性を孕む。今日明日ではなく、いつまでも。なぜなら、それはひとたび書かれたものだからで、ネットに接続された世界で生き、そして書き、そこで何かを語るクリティークという行為は、すべてそういう性質を請け負う。展覧会「天才でごめんなさい」の会田誠さんが、膨大なツイートを無許可転載し作品に利用したことがたいそう騒がれたようだが、そんなことに目くじらを立てることほどナンセンスなことはなく、現代における発言とはもはやそのようなものだと諦め認めて、むしろそれを慈しむ「おしゃべり/talkative」な語り手になることが、異種混交文化の中で「生きた」批評をすることに繋がるのではないかと今のところ信じている。

 

02/10/13

会田誠 « 天才でごめんなさい » / Makoto Aida « Monument for Nothing » @Mam

会田誠:天才でごめんなさい/ Makoto Aida « Monument for Nothing »
@森美術館/Mori Art Museum

November 17 (Sat), 2012 – March 31 (Sun), 2013
museum’s site here

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「天才でごめんなさい」とはなにごとか。この人は、いったい誰に対して、何を謝っているのか?アーティストが天才で何が悪い。天才でないほうがあやまって欲しいくらいではないか?

とは言ってみたものの、本当はこの謝罪、もっと丁寧に説明されなければならないのだろう。「会田誠は天才である」。このことは半分くらいは本当で残りの半分は噓である。会田誠という表現者は、天才的な直観を持ち、その有無を言わさず天から勝手にやってきたインスピレーションを、どうすれば最大限のインパクトを以て社会に提示できるのかということを本能的に知っているという点で、やはり才能に恵まれた人である。ただし、この人が抱えている(かもしれない)迷いや悩み、葛藤みたいなものがあまりにも人間臭くて俗世の我々にも響いてくるので、この人もまた普通の人であるような気もしてくる。

そうはいっても、この展覧会タイトルを聞くと、1)なるほど、会田誠は天才なのか。それならひとつ見てみましょう、あらほんと凄いわね、とジーニアス•テーズを丸呑みする、あるいは、2)ウンコやらセックスのどこか天才じゃ、なんでこんなもんが芸術かと憤慨する、はたまた、3)神妙な顔で難しい言葉を使いながらウンコでもやはり素晴らしいアートなのだと頑張る。ざっとこのようにして、会田誠の表現しているものの周縁で煙に巻かれてしまう。それこそがナンセンスなことである。ナンセンスでもいいのだが、「面白」もしくは「気持ち悪」という率直な印象に耐えて、もう少しだけその絵(など)を凝視してみる必要がきっとあろう。

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私は日頃、相当しつこくフェミニストっぽい立場を表明しているので、キングギドラとか犬シリーズなどは、「女性や少女にそんな目を向けて、だから会田誠という美術家サイテーじゃないの」とどうせ非難するんだろうと思われるかもしれない。だが実際にはそうでもなくて、キングギドラの絵はあまりに素晴らしくてあまり長い時間見ると泣き崩れそうになってしまうし、犬シリーズに至っては、「こんなもん見たない」とおっしゃる殿方にこそ「よくよく見ました」とおっしゃるまで凝視してほしいと願い願って止まない次第なのである。ミキサーの中にぎっしり詰められた少女たちが少しずつ鮮やかな赤色を帯びていく「ジューサーミキサー」などは見ていて気持ちが良くなり、ついうっとりしてしまうほどである。

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キングギドラに犯され突き破られる大きな絵も、四肢が切られて首輪で結ばれた犬シリーズも、ギュウギュウ押された少女のお腹からつややかなイクラがポロポロひりだされる「食用人造少女・美味ちゃん」なども、直球である。あまりに正直にそれが包括する問題を提示するが故に、目も当てられない鑑賞者がいることは確かだ。ただし、描かれたものに虚偽は無い。ここにあるのが少女や女性やセックスそのものをとりまく日本社会の一つの局面あるいは一つの実在する視線を浮き彫りにしたものである。会田誠がたまたまここに形を与えたヘンタイとか飼育とか暴力に関わるようなものは、フェティッシュな趣味を持つ限られた個体だけに冷ややかな視線が注がれればいいという問題ではなく、大げさだが、人間の欲望の通奏低音として鳴り響き続けているような、しかしそれが様々な要因の生で歪曲した形で表出したものなのである。それを断固として見ないのはひょっとして、言ってみれば、自分だけ永遠のヴァージンであると信じているくらい高尚で愚かしいことである。(もちろん、ヴァージンはただの比喩であり、老弱男女みんなの話をしております)

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このようにして、会田誠の描き出す世界にはリアルな問題がたくさん具現化されているように思えるけれど、それらはユーモアとアイロニーとニヒリズムで構成されているだけではない。希望だってある。

イデアという作品がある。壁に書かれた大きな「美少女」という文字に向かって、素っ裸の会田誠ご本人がマスターベーションに励む。お部屋が寒かったことや素っ裸直立であったことなど、不慣れな環境におけるこのパフォーマンスは、シナリオコンプリートまでに1時間以上かかったらしい。素晴らしい。何時間かかってもよろしい。この作品は美少女を陵辱するものではなく、美少女を永遠にイデア界に解放する儀式の録画でもあり、さらには少女時代(少年時代)というしょうもない人生の時間を過ごしている世の中の個体を潜在的•永久的に救済する儀式ですらある。つまり、肉としての美少女なんて本当はどうでもいいのである。壁に文字を書けばいいのである。犬としての少女の絵を見たり、伊勢エビと交わる少女の写真を見たりすればよろしい。IDEAは、美術家自身は勿論プラトンのイデアのことを言っているのであるが、これは同時に一つの「アイディア=理想」を描きだす重要な作品なのである。

この他にも個人的には英語コンプレックスに関わる作品や難しい哲学コンプレックスに関わる作品は今回の記事では触れられなかったのでまたの機会に書いてみたいが、これらは会田誠という表現者の天才的なところと普通の人っぽいところが出会うためにハンパ無くエネルギッシュな作品群である。そして、最後に、「自殺未遂マシーンシリーズ」に触れて終わりにしよう。自殺マシンではなく、あくまでも自殺未遂のためのマシンであるこの何とも言えないアナログの装置は、裏も面も無く、自殺の国の日本国民にこの問題を朗らかに提示する。試行者は、頑丈そうでちょっとやそっとじゃ切れそうも無い輪に頭を突っ込み、意を決して段から飛び降りる。彼は(不運にも/幸運にも)自らの肉体をを伴ったまま、バラバラと分解するマシンとともに床に崩れ落ちる。「自殺未遂マシーン」の体験を通じて人々が得られるのは、「あかん、こんなマシンでは到底死ねん。」という途方もない事実である。こんなに絶望的で希望に溢れた試行の存在を知っただけで、芸術の表現っていうのはやはりあっていいのだ、と思える。