09/21/15

BEACON 2015 Look Up! みあげてごらん, 空を仰ぐことの意味

9月13日、岐阜県美術館で開催中の「BEACON 2015」を体験してきました。BEACONは、1999年より断続的に名古屋や京都など、全国で発表・展示されている、映像・音響・理論・美術がひとつとなった作品である。伊藤高志さんの映像、稲垣貴士さんの音、吉岡洋さんのテキスト、小杉美穂子さん・安藤泰彦さん(KOSUGI+ANDO)が担当する美術が相互に影響し合って作り上げられた作品は、回転台の上で撮影された様々な土地の日常風景が展覧会場において同じく回転台の上で投影されるという形態を撮っている。

BEACONはいつも、人間の記憶に関わってきた。それはメディア環境における人間の記憶の問題であったり、日常を生きる我々の記憶の蓄積の比喩としてぐるりと連続する風景を回転台の上で投影することであったり。そこには人々の風景があり、声が聴こえ、光とオブジェがあり、今ここに居ないがいつか出会った人々の痕跡がある。

年のBEACON 2014は展示空間の特殊性が作品に極めて強くコミットしていた。東京都台東区の葬儀場を展示空間とする異例の作品展示、BEACON 2014は »memento »の副題がつけられ、インパクトある形で人間の生死を主題としていた。

今回のBEACON 2015は第7回目の作品発表となるそうだ。副題は »Look Up! みあげてごらん »。
作品中に登場する映像では、美術館のある岐阜、沖縄、福島の「日常風景」が回転しながら投影される。

« Look Up! みあげてごらん »、展覧会のチラシにも掲載された吉岡洋さんのテクストの中で、「みあげる」行為は以下のように説明される。

人はそもそも、どんなときに空を見上げるのだろうか?
 それはたとえば、この世の煩いから離れたいときであり、遠い存在に思いを馳せるときかもしれない。
 またそれは、希望を持とうとするとき、あるいは反対に、絶望したときであるかもしれない(見上げるという行為において、希望と絶望とはつながっている)。
 さらには乗り越えがたい障壁によって、突然行く手を阻まれたとき。それはつまり、自分は今まで閉じ込められていたのだと、知ったときだ。

ここには、みあげる行為の意味が明らかにされるだけでなく、なぜ混在する沖縄と福島と岐阜の日常風景を追体験するこのBEACON 2015という作品が「みあげてごらん」なのか、さらには、なぜBEACONがこんなにも直接的にフクシマの風景や沖縄の風景といったクリティカルな問題を映し出すにもかかわらず、そこに恣意的な声を潜ませることなく淡淡と回転台のプロジェクタが投影するイメージを届けるのか。

みあげることは単純な希望の象徴ではない。人は、絶望したときも空を仰ぐ。そこにはなるほど、「いま、ここ」の限界を痛いほど認識する「わたし」がいるが、そんなものは世界にありふれたことかもしれないし、また明日別の状況に出会うことかもしれないし、「わたし」を今たまたま取り囲んでいるその偶然に満ちた環境によってこれまた偶然にでっちあげられたハリボテみたいなドラマセットに過ぎないのかもしれない。そんなふうに、みあげることは切り離すことであり、あるいは繋がることである。

みあげることは、ある意味で孤独であり、ある意味で本質的に力強い。それは、頼りない表面的な結びつきとか駆け引きなんかに基づく脆弱な人間関係ではなくて、困難に打ち拉がれ途方に暮れて空を仰いだところからのインディペンデントな連帯だからである。

Look Up ! みあげてごらん。
この作品は10月12日まで見られます、そこで福島と沖縄と岐阜の日常を見ることは、いまここを断絶し連携し、今日の私たちの状況について考えに至るキッカケにもなると思う。

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02/25/13

梶村昌世 「物語は水の中へ」/ Masayo Kajimura, « folding stories into water »

梶村昌世さんは、 »二世 »としてベルリンに生まれ、ヴィデオアーティスト、パフォーマーとして国際的に活躍している現代アーティストである。彼女の両親がベルリンに移住し、梶村さんはドイツで生れ、そこで育ち、学んだ。展覧会やパフォーマンスなどの活動を除いて彼女が日本に住んで生活したのは、2005-2006年の岐阜県のIAMAS(Institute of Advanced Media Arts and Sceince/イアマス)で学んだ一年間である。彼女はこの一年間の日本での生活の間の制作を2006年にベルリンに帰国した後の5月にSolo Exhibition « One Year Japan » において、 »genjitsushinkiro »を含む3本の映画作品を発表している。(こちらでプログラムが確認いただけます。) そうした生い立ちから、日本はいつもその外側から見つめるべき存在であるという。しかし一方で、両親や家族を生み育て、彼らの文化や思想やそのほかのすべてを育んだ国としての日本は、自分自身もその内側に含める。梶村さんは、外部の者の視線で外側から日本を見つめると同時に、自分も内包されながら内側からも見つめることができる特殊なスタンドポイントをもってアーティストとして表現活動を行ってこられた。彼女のこの、自主選択に拠らない、産み落とされた瞬間付与されたとも言える運命的なアイデンティティへの問いは、彼女の表現のなかに様々な色彩を帯びて浮かび上がってくる。

 

2013年1月9日、ENSAD(Ecole Nationale Supérieure des Arts Décoratifs)とパリ第8大学(Université Paris 8) の合同カンファレンスのプログラム »Cycle du Japon »という一連の企画の中で、梶村昌世さんを招待し、ご自身の制作や作品について講演していただいた。このブログでも先日アナウンスさせていただいた。 »Cycle du Japon »という企画は、私が所属するUniversité Paris 8(パリ第8大学)の Nouveaux Médias et Arts Contemporains(ニューメディアと現代アート)の教授であるJean-Louis Boissierが担当する2012-13年度の公開カンファレンスで、日本のメディアアートの現在を扱う企画である。このプログラムは、2011年に構想が始まり、メディアアートを巡るフランスにおける日本へ高い関心と、同分野関係者に結びつきが強い日本で2011年3月11日に起きた惨事、それに対してアート領域からどのようなアプローチが可能であるかを考えたいという意志により実現に至った。(私自身この企画と運営には構想時から関わらせていただき、思うこともあり(そのことにかんして)、日本でご活躍される多くの研究者の方々、アーティストの方々にも情報を頂いたりお越し頂くことを検討していただく等、ご協力を頂いた。そのご協力のお陰で当企画の実現に至ったことを心より感謝したい。)

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さて、1月の講演において、梶村さんは、これまでの制作活動を私たちに紹介すると同時に、彼女のもっとも重要なテーマとしての「 水」を、3.11および続くカタストロフィーを引き起こした異型の水としての津波にも結びつけながらより大きなコンテクストのなかへその問題を開いた。勿論これまでも、フランスメディア上で社会的あるいは政治的コンテクストで議論や報道がなされることは多々あった。しかし、日本のナショナルボーダーから飛び出して、この問題の深い部分を捉えながらそれでもなお積極的にコミットする意志を有するアーティストの活動はこれまでたくさんあったわけではない。それ勇気のいることだし、だからこそ、意味のあることだと私は思う。彼女の講演はとても印象的で素晴らしい内容を含んでいた。

 

この記事では、彼女が2010年から取り組んでいるAqua Ephemeraという作品について主に紹介させていただくこととし、このカンファレンスの全貌は、Observatoire des Nouveaux Médiasのサイト(こちら)にある当日の録画ビデオにてご覧頂きたい。英語での講演であるが、梶村さんのご快諾のおかげで、ビデオインスタレーション作品などの貴重なドキュメンタリー映像などもご覧になることが出来るので、ぜひぜひご覧頂ければと思う。

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さて、Aqua Ephemeraは水面下の音とそのイメージを、紙で作られた傘型の立体スクリーンに投影する、音響と映像のビデオインスタレーション作品である。作品は約10分、作曲家である宮内康乃さんとのコラボレーションで実現した。展示室の中はプロジェクションの光と水が作り出す音響で満たされていて、鑑賞者は自由に出入りでき、つまり作品を部分的に鑑賞することもでき、さらには傘のフォルムをしたスクリーンの回りを歩いて映し出された映像を好きなアングルから見ることができる。鑑賞する人に与えられた何にも縛られない動きは、あたかも作品を受け取る人々自身が、留まらず常に流れ続けている水とそれが含む命のありかたを再現しているかのようである。

 

2010年、ポルトガルのNodar Artist Residencyでの滞在中この作品は生まれた。アーティストレジデンスの近くを流れるPaiva川(Paiva River)の水の姿。川の水は澄んで極めて美しく、その水が育む生命の姿もまた視覚的にも聴覚的にも美的なものである。湖底に根を張る水草の姿や健康そうな小魚の群れ。あまりに透明な流れは、湖底から空を見上げたならば鳥たちが羽ばたいてゆくのをかくもありのままに映し出し、あるいは木々の高い位置で枝や葉が風に揺られているのが、流れ自身のゆらぎに強調される様を描き出す。連続しながらも変化する多様な水面下の音は、世界はとても音楽的に創造されていたということを改めて私たちに聞かせるかのようである。この作品は、Paiva川のみならず、氷が溶けたり、水滴が池に滴る音や映像、あるいは我々の身体が発する様々な音もまたそこに含んでいる。強かで透き通り、歌いながらきらめく水。我々はこれに魅了される。

 

しかし、次の瞬間、彼女が語るAqua Ephemeraをめぐる想い出に衝撃を受けずにはいられない。ポルトガル滞在中、この作品の公開が始まろうするちょうどその頃、奇しくも水の「美」に焦点を当てた作品を完成させて発表に至ったそのとき、日本での水を巡る甚大な被害が報告された。大地震、それに続く福島の原子炉での一連の事故を引き起した水の「暴力性」、すべてを押し流した津波。彼女のなかで、水は言うまでもなく様々な姿をもっていて、暴力的でも危険でもあり得ること、そして自然も生命も水の上に成り立っていること、そういったことは理性的にあるいは前提として当たり前でありながらも、この事件には深く心を動かされたと彼女は伝えた。

 

数千キロメートル離れた場所で、ある国の水が全てを押し流し、人間の生活に甚大な被害を与え、人間やその他の動物のたくさんの命を押し流した一方で、また別の場所では、川は昨日と一昨日と同じように流れ、魚たちは戯れて、子どもたちはその浅瀬で水面がキラキラするのを喜ぶ。これは世界の日常である。

 

ふと、水が奏でる音とは不思議なものだと思い直す。水の音は、自らが水に包まれている時にはなかなか水の音を冷静に聴けない。というのも、個人的な経験に基づくが、自分が水の中に潜っている時というのは鼓膜にやってくる圧力のせいか、自分の身体のなかの音を聞いているような錯覚に陥るのである。あるいはその状況こそが水の音を聴く行為であるのか私には解らないのだが、耳のなかの音や、もっと深いところの、心臓の鼓動とか血液が巡る音などが自分の鼓膜に帰ってきて、それを自分の聴神経で受け止めているのではないか、と感じるのだ。だから、私自身は、水の音を自分が水の中で耳にしたことがあまりないように感じてならないのだが、Aqua Ephemeraを聴くと、異なる状況の水の音は自分を圧迫することも怖がらせることもなく、とても心地よく広がっていく感じがする。したがって、Aqua Ephemeraで奏でる水の音とイメージは、そんな兼ねてからの疑問「水の中で聴いたあの音は、自分の身体の中から来るのか、それとも本当に身体の外側にある水の音なのか」という問いは、どちらともつかなくてもよく、むしろどちらでもないということを教えてくれ、私を安心させてくれた。そもそも、水は流れてとどまらず、どこにでもありどこにでもゆく。私たちの身体も七割くらいが水で満たされており、それは、私たちの記憶をそのなかに含めて、流れていく。彼女によれば、それが水の本質である。彼女は自分のもっとも大切なテーマである「水」をそのように明瞭に語るときの彼女の視線はとても素敵だ。

 

ひとたび流れる水に乱れが訪れた後、静寂が戻ってくる。そしてそれは少しずつとても優しく浮かび上がってくる。おそらくポルトガル語で歌い上げられる教会の賛美歌とオルガンの伴奏の響き。この場面の転換は秀逸だ。さらに秀逸なのは、ずっと遠くから聞こえてきた音楽が、また少しずつ先ほどの水面下の音と混ざあうのだが、それは異なるものが混ざっているのではなくて、それはもともと一つであったのではないかと思えるほど自然なのである。私は西洋の宗教音楽ととりわけオルガンという楽器に特別な思い入れがあり、教会で奏でられる宗教音楽には信仰や教義をそっちのけにしてもなお絶対的な赦しの存在を彷彿とさせる何かが潜んでいると感じている。つまり無条件に神様に救われるようなアガペーの象徴みたいなモノなのであり、オルガンという楽器は不完全な人間が神様の絶対性と威厳を無理に真似ようとした努力の結晶みたいないびつな名楽器なのである。子どもたちの歌声とオルガンのハーモニーは、水の音をその中に含めることでより完全なポリフォニーとなり、そうしているうちに、その解釈は実は間違いで、つまり、賛美歌に水の音が混ざったのではなく、それらが水の中から生まれてそこに戻ったということを描き出すようにこの作品は作られている。傘型のスクリーンは流れを移し続け、子どもたちの響きはその中に少しずつ吸収されていく。決して怖がらせることのないように、あたたかく包み込むよう。真っ白な傘がその中にすべてを吸収してしまったところで静寂にもどって、この作品は幕を下ろす。最後にかすかに耳にのこるのは水の呼吸であり、水の呼吸とはすなわち生命の全ての呼吸を意味する。

 

この作品は上述したように、Paiva川の水面下の音や映像をベースに制作されているが、断片的に多くのイメージや音楽がその中に溶けている。 »folding stories into the water », 彼女が本カンファレンスにつけてくれたタイトルである。
水はきっと、いつかは亡びてしまう私たちのかわりに私たちの記憶を持ち去るのだ。そんなふうに思った。

 

クリアーな作品コンセプト、会ってすぐにそれが解った。私が強い印象を受けた別の作品に、Envelopeという彼女の初期ビデオ作品(2002)がある。「ときどき、私たちが記憶と呼ぶものと想像と呼ぶものははっきりと区別できない。」«But sometimes what we call ‘memory’ and what we call ‘imagination’ are not so easely distinguished.»
このビデオ作品はカナダのLil’watという原住民族のドキュメンタリーを含んでおり、彼らが伝統的にどのように鮭を大切に食し、彼らとの共存の中で生きてきたか、彼らの記憶を伝える口頭伝承(storytelling)を記録した作品。鮭の血抜きや幾つかのシーンがあまりにも鮮やかに美しくたちまち魅了される。この作品は、彼女の生い立ちにも触れる問題意識を含んでいる。つまり、より強い支配者によってマイノリティーとなった原住民族たちは彼ら祖先の教えを口頭伝承で伝えることによって命の記憶としての物語を守り続けていくのだが、「移民」としてドイツに生きることは、ディアスポラの経験を体現し、他者性を生きることでもある。彼女はそのことを、多重的に異なる空間、時間のイメージを重ね合わせ、それらをしかしながらリアリティとして関連させることによって自らのアイデンティティに向き合っている。

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最近では、2012年から、ダンサーで演出家である 伊達麻衣子さんとのコラボレーション作品で、Between Islandsを制作、発表されている。上述のサイトodnmでその一部をご覧頂ける。さらに、梶村さんは3月日本に滞在予定で、パフォーマンスをされるとのことである。

詳しくは、サラヴァ東京のサイトでご確認いただきたい。
(パフォーマンス日程詳細)
2013年3月20日 15時および19時開演

参考
Masayo Kajimura : http://artnews.org/artist.php?i=4227
Paivascapes #1 : http://www.paivascapes.org/en/participantes/artistas-residentes/yasuno-miyauchi-masayo-kajimura
Observatoire des Nouveaux Médias : http://www.arpla.fr/odnm/?page_id=13040