アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau
アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau
2013年7月27日、暑い日だった。クラコウでの学会が終わり申し込んでいた見学ツアーのバスに乗る。ホテルを通じて申し込んだ見学は現地で使用言語別の小グループに分散して、私はフランス語で説明を受けられるグループに混ざった。そのグループに説明を与えたフランス語バイリンガルのポーランド人の女性は、家系的にアウシュヴィッツ近郊に代々住む祖父母を持ち、この地で行われたことについて自ら研究してきたことを我々に述べ、私は彼女が語る言葉に何の努力もせずに耳を傾け続けた。それらの言葉は、勿論データとしての数字や客観的事実であったり、この地に来る以前に私が書物によって学んだ事でありもするが、彼女の印象や見解を述べる事もあった。それらには臭いも色もなく、不思議にも、情報であったのだ。
私は1984年生れで、末っ子である父は1949年生れ、親も戦後生の世代である。戦争に行った父方の祖父は私が学校に上がるか上がらない頃に死んだので、私にとっては父が私に話した祖父の話というのが自分におおよそ近い戦争体験のストーリーである。北海道における戦争体験は立て続けの空襲や深刻な本土被害があった本州の戦況とはたしかに別の次元であるのかもしれない。父はとことん、祖父の話したがらない様子について言葉を濁しながら語るのみであるが、その中でも無謀なシベリア出兵や戦後何年も続いたシベリア抑留中に受けた精神的苦痛の記憶は何度も耳にしており、生涯苦しんでいた様子は深く印象に残っている。
戦争とは、非常事態である。それまでアイデンティファイされていた人間がたちまち骨と肉からなる物体として匿名化される。全ては狂ったような信じがたいような事と突き放すことは、万人にとっておそらく可能な手段だが、そのことが紛れもなく繰り返されてきた歴史であり、進行中の現在である。違いを認識し、異物を恐れる営為それ自体は生命の保存のための本能的な防衛である。だが、そのことと、認識した自己と異なる個体を排除するために暴力に訴える事、それが如何なる種類の暴力であれ、その命を奪う事とは絶対的に無関係なのである。そのために毒ガスを用いる事も、核兵器を用いる事も、いかなる説明によっても説明されうる可能性はない。そのような言論は、始めから妄語である。
アウシュヴィッツ-ビルケナウを訪れることとそれについて書く事は、その非常事態の中でどのようなことが起こったかを知るためではなく、その非常事態全体を回避しなければならない必然性を理解するためであり、そうでないならば直ちに消してしまったほうがよっぽどマシであると私自身は考えている。
「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」と書かれた入り口の門。ユダヤ人は、「東の地に移住し、そこで働く」ことを信じて彼らの家を後にした。働いても、自由にはならない。働くために集められたのではない。
オーケストラのコンサートが行われていた場所。収容されたユダヤ人にはプロの演奏家も含まれていた。彼らは飢えや病気で死んでゆく他のユダヤ人が運ばれて行くのを見ながら、美しいクラシック音楽を演奏した。それは一体誰のために。
広域なヨーロッパの国々から人々が強制収容された。28カ国に及ぶ国々、ハンガリー、ポーランド、そしてフランスではDrancyというパリの北郊外の街が強制収容のトランジットの拠点となっていた。41年から始まった強制収容は実際には43年と戦況が絶望的に悪化していた44年にその収容の大部分が実行された。
収容された人々のID書類は敗戦時ほぼ廃棄されたが一部が発見されている。収容された人々の個人情報が完全に把握されていた。しかし「選別」を境に、それまでのアイデンティティを無に帰され、番号を身体の一部に黒インクで刻印されて、管理された。
アウシュヴィッツまでの移動は狭い貨物列車の車両の中に荷物と共に限界まで詰め込まれ、座る事もできないまま一週間や十日にも及ぶ事がしばしばで、衛生的でなく肉体的負担の過剰な移動の途中で多くの年配者や子どもが亡くなった。
生きて辿り着くと「選別」がある。女と子ども、老人や身体能力が重労働に耐えられぬものはガス室に送られた。青年であっても、傷ついた軍人や障害のあるものはガス室に送られた。たった一つだけ手にしてくる事が許された個人の大切なトランクは、下車と共に手放す事を余儀なくされ、それらは彼らが去った後、宝石は盗まれ、再利用可能な金属は戦争続行のために役立てられ、衣類や高価なものも奪われた。
上は近年になって見つかった貴重な写真資料であり、ガス室で殺戮された人々の死体が撮影されている。チクロンBを大量に使用しての殺戮が実際に行われたことを証明する重要な資料である。
補助器具や義足、松葉杖が大量に残されている。これらを携えて貨物列車に詰め込まれた人々はすなわち、「選別」の際に働く事ができないと判断された人々である。
子どもは到着と同時に母親から引き離された。43年以前、14歳未満の子どもはガス室に送られた。収容所で生まれた子どもはビルケナウの16号棟で生活した。飢餓や病気で成長を妨げられていた。
7人の生存者の写真。赤子に見える子どもは2歳、小学生のような小柄な少年は14歳、殺されなかった女性は30キロを下回る危機的状況で発見された。
アウシュヴィッツ第一収容所はその収容キャパシティーを上回るようになり、一階建てのバラックは建て増しされた。煉瓦の色の違いが明らかに見られる。(下)
銃殺刑の壁と拷問器具のある空間。壁は後に人々がこれを忘れないために作り直されたものである。花を供える人々がいる。
ここに毎日10人の犠牲者が見せしめのために殺され、吊るされた。
敗戦時証拠隠滅のため壊されたが当時の様子を再現されたガス室と火葬器具。
ビルケナウの広大な敷地には今日緑が茂り、日光が注ぐ。バラックの中にあった機能していたのか定かではない暖炉と煙突の部分だけが残されている。
ここで人々は肉親と分たれ、たった一つの持ち物であったトランクを奪われ、「選別」され、殺された。
列車は人々を乗せてここに停車し、人々を下ろし、また出発し、そしてまた別の人々を乗せてここに戻ってきて、また下し、そして出発した。
一つの車両には80人から100人もの人々が荷物と共に詰め込まれていたと言われる。
各バラックには中央に暖房設備と両側に三段ベッドがある。三段ベッドは、個人用ではない。わざわざ三段ベッドを作った理由は、かぎられた面積に最も多くの人間を効率よく並べるためである。
穴が空いただけのトイレ。人々は一日2回決められた時間に強制的に使用させられた。清掃はなされず、極めて非衛生的で病気が蔓延した。ここにあるのは当時使用されていたもので、今設置されたばかりであるかのように、きれいに掃除されている。
この場所がこんなに無臭で、真夏でも風が流れてゆき、地面には雑草がびっしりと茂っていることなどは、最も拭いがたい一つの印象である。