11/17/13

Sarah Moon « Alchimies » @Musée Nationale d’histoire naturelle/ サラ•ムーン 『アルケミー』展

Sarah Moon
« Alchimies » – Récits pas très naturels du minéral, du végétal et de l’animal
Jusqu’au 24 novembre 2013
Muséum national d’histoire naturelle
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Sarah Moonは、1941年ユダヤ人家庭に生れ、生まれるとすぐナチスに侵攻されたフランスを離れ、家族と共にイギリスに移住する。そこで1960年から6年間ファッションモデルを務め、写真家として転身したのは1970年のことである。女性の視線を通じたモデルとの独特な関係性と世界観は、ファッション写真の領域ですぐに注目を集めるようになり、Sarah Moonがファッション写真家として評価していたGuy Bourdinが長く所属した雑誌『Vogue(パリ•ヴォーグ)』においても、シャネルやディオールといったメゾンから依頼を受けるようになった。アルル写真祭でもこれまで5回選出されている。
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Sarah Moonの作品で興味深いのは被写体と写真家の関係性であろう。ファッションモデルや若い女、子どもや動物、植物や鄙びた環境、遊園地、一見すると多種多様に見える彼女の主題は、Sarah Moon自身の明確な問題意識によって貫かれている。人々の記憶、遠い子ども時代の想い出、命あるものが滅びること、女という存在、そして生き物の孤独。
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Sarah Moonは写真家であるが彼女の写真はどれ一つとして見えるままに受け取ることを許さない。あるいは、そこに見えるものの語りに耳を傾けるような状況に我々を招き入れる。念入りに作り上げられた画面、小さな物があまりにも引き延ばされてみたことのない様相を示すもの、異化された色彩、見つめると眩暈をもよおすような動き、沈黙した生き物の呼吸すら感じられない静けさ。彼女が写真を通じて表現するのは、複数の「ものがたり」である。ものがたりは、彼女の側から提案されることもあれば、被写体によってもたらされるものもある。激しくピンぼけしたイメージ、その向こう側には何かがあるのだが、それはどれだけ見つめ続けても浮かび上がっては来ない。ただし、我々の目が時々ピンとを合わせることに成功するならば、絵画のような牡丹が出来事を話し始める。モノクロームの画面は我々の時の感覚を麻痺させる。息をひそめてこちらを見つめるライオンの血が通ってその身体が熱をもっていたのはいつの日のことなのか、歴史の中に吸い込まれるように遠ざかっていく。ネガについた細かな傷、それは引き延ばされて大きな斑点となり、それは日常目に見えない光の粒や空気の粒を可視化したそれのように、撮影されたその場所が本当らしくある一方でやはりそれは偽物であるのではないかと疑いを引き起こす。彼女はフィクショナルな状況を自身の表現に導入することを実験的に行い続けてきた。おとぎ話の世界観を作品にしのばせることなどもSarah Moonが得意とする手法である。
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さて、国立自然史博物館で行われた本展覧会 »Alchimies »は、その場所で開催するにふさわしい主題を集めた展示となっている。大きく細部まで露にされた植物、剥製であったり実際に生きている動物、植物園の環境やそこにある建造物の風景。Sarah Moonの提示するイメージには、生き生きとした艶やかな生命よりはむしろ、いつもどこかに乾燥した生命や死、沈黙した物質性が感じられる。植物たちはカラー写真で大きく見せられているが、その色彩はくすんで、ネガの斑点によって距離を保ち、それらが今このときにはすでに存在しなくなっていることを感じる。剥製の動物たちはやってくる光をその深い闇の中に全て吸収してしまう黒い目をして彼らが死んでもなおそこに沈黙していることを訴えている。剥製は、Sarah Moonにとって興味深いテーマである。それはその動物が既に死んでいるということと、そもそも生き物を写真に撮るという行為が一定の共通点を持つからだ。生き物は、瞬間の中に切り取られることによってある空間や媒体の中で凝結するのであり、そこに残るのは次の瞬間には消え失せてしまった何かなのである。
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展覧会タイトル »Alchimies »であるアルケミー(錬金術)は、中世〜16世紀のヨーロッパで盛んに行われた卑金属に化学的な反応を起こすことによって貴金属に作り替えよるための努力であり、現在の科学では勿論否定されているが、そのたゆまぬ探求によって蓄積した知識が17世紀以降の自然科学の発展の基礎を築いたとも言われている。アルケミーは本質的には、雑多な物質を完全な物質に変化させたいという人類の夢に関わっており、不完全な人間の霊魂を精錬して神のそれに近づけるといったような呪術的•宗教的なもくろみすら含んでいた。こう言ったわけで中世ヨーロッパにおける錬金術師はしばしば神話的で魔術的な存在に見なされた。Sarah Moonの織り成す「ものがたり」達は、中世のアルケミーが自らをもその魔法にかけてきた暗室での怪しげな企みを、彼女のひっそりとしたキャビネットの中で、現代の人類の目に再度可視化するような試みであるように思える。
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11/3/13

L’Art à L’Epreuve du monde / アートは世界を移し出す。@Dunkerque

L’Art à L’Epreuve du monde
Dunkerque 2013 Capitale Régionale de la Culture
Du 6 juillet au 6 octobre 2013

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ダンケルク(Dunkerque)は、百年戦争で、ジャンヌダルクの登場によって形成が大逆転した結果、唯一のイギリス大陸領土として残ったカレー(Calais)からほど近い、海岸線に沿って進んだ海の街だ。カレー同様、地理的にイギリス文化の影響を色濃く受けている。パリからはかなり遠いこの地で、François Pinaultのコレクションを中心とする重要な現代アート展覧会が開催された。
展覧会はPaul Mccarthyのクマとウサギが表紙であるカタログのデザインに似合わずなかなかシビアなテーマのだが、本展覧会の章立てを以下に記したい。

『この世界に抗えるアート』
1 死、そこにお前の勝利がある
黙示録 / 忍び寄る死
2 人間は人間にとっての狼である
暴力 / 戦争
3 抵抗
一寸先は戦争 / 抗争
4 平和そして愛
武力の休息 / 生きる喜び

この展覧会は上述の用にフランスの著名なアートコレクターであるFrançois Pinaultのコレクションに拠っている。展覧会はテーマや章立てに見られるように、様々なアーティスト、文化圏や言語圏、時代を異にする芸術家たちが、いかにしてこの世界で生きることを考えて来たのか、という問いかけである。どう生きて、どんな意識で。世界という存在の中で、それに耐えてあり続ける、あるいは耐えて行き続けるために作られるアートとはどのような表現なのか。今回の展覧会に集められた作品はそのような作品たちである。
会場となったLe Depolandはダンケルクの新たなアートサイトとなるべく今回注目された。
チーフキュレータのJean-Jacques AillagonがコレクターであるFrançois Pinaultに象徴的作品を借りられるよう交渉した。そのおかげでダンケルクでは2013年当展覧会が実現することになった。
アートはしばしば理解されないこともあるし、読み解かれない。しかし、アクセスできない作品はない。マラルメの一節に以下のようなフレーズがある。
「アートは人間が人間へと何かを伝達するのに最も近い道である。」

Maurizio Cattelan
Maurizio Cattelanは1960年にパドヴァに生れ、Giottoの著名なフレスコ画のあるScorvegniのチャペルで洗礼を受ける。この問題の作品、 »La Nona Ora »(2000)では、先のローマ教皇Jean-Paul二世が落ちて来た隕石によって地上に固定され、その自由を奪われている。この作品はカトリック諸国すぐさま話題となり、批判を浴びた。 »La Nona Ora »はつまり、9時、キリストが磔刑に処され、十字架に括り付けられた時刻を意味する。死のときに際し、全ての人間はキリストがこう叫んだように、紙に問いかける。「神よ、神よ、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか」(Mt 27,45) 隕石の下でひん死の状態で、カトリック世界の頂点に立つ教皇すら、キリストとそして我々と同様にこの言葉を神に投げかけるだろう。
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Adel Abdessemed
Taxidermy(2010)はフランソワ•ピノーのコレクションに収められているAdel Abressemedの作品である。アルジェリアのコンスタンティン生れで1994年に亡命し、現在パリ、ベルリン、ニューヨークで制作している。アルジェリアでの惨い戦争の記憶、亡命までの恐怖、命の危険、それらは作家の芸術表現の根底を築いており、Abdessemedの作品ではしばしば死がテーマとなる。
Taxidermyは「剥製」と題された巨大な動物の死体の塊である。立方体を形成するため、鉄のロープでぐるぐる巻きにされ、それは次に真っ黒焦げに燃やされる。動物たちは三度殺された。一度は、生命を奪うために。二度目は剥製制作者によって死せる剥製として造形され、三度目は作家自身によって肉の塊として束ねられ、火の中に入れられた。三度殺された動物たちの山は、規則正しい立方体となり、ブロックのように、そこには臭いも無ければ、動物たちの目玉はもはや何も語りはしない。
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Maurizio Cattelan
All (9 sculptures)(2008)は、もう一度Maurizio Cattelanの作品である。9体の死体は、沈黙のまま床に置かれている。大理石彫刻である本作品は、アーティストによって、Gisant(横臥像、墓石の上に飾る人物彫刻で、リアルな大きさで作る像)であると言われているが、それにしては彼らは全て白い布で包まれていて、顔も見えないし、どのような姿であったのかも分からない。その大理石の透き通るような白さは、死者の凍り付くような温度を表しているようでもあり、あまりにもリアルな皺は、その布の中には死んでいない者を隠しているのではないかという予感を引き起こす。
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Josef Koudelka
1938年チェコ•スロヴァキア生れのKoudelkaが1961年以降ジプシーの人々の生活関心を持ち始めてから5年経った頃、1966年に撮影した作品である。若い一人の青年が手錠をされて、共同体を追放されている。共同体の住人が見守り、警察官の姿も見える。彼は一体、犯罪者か容疑者なのだろうか? 実は20世紀ヨーロッパでは、ジプシーはTsiganesやRomsと言った蔑称で呼ばれ、追放と粛清の対象となったのだ。ナチスの民族浄化の名の下に。
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Bruce Nauman
著名なナウマンのViolent Incident(1986)と名付けられたビデオ作品では、人類の心をを普遍的に貫く暴力的要素について焦点を当てている。なぜ人間は暴力的なのか? 暴力的行いはいったいいつからどのように存在し、我々の生活を今日も脅かすのか? 暴力には暴力で応えよといったのはハンムラビ法典だが、法律と道徳のみが、これを制御する方法なのだろうか。ビデオでは二人の男女が食事中に争い始める。その愉しいはずの時間と空間は突如として戦いの場所に一変する。
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Jake, Dinos Chapman
二人のアーティストユニットの構想したFuking Hell(2008)という作品が凄い。フランソワ•ピノーの作品の中でも名作と呼べる大きな作品だ。三万におよぶミニチュアフィギュアたちが所狭しと地獄絵的世界の中にうごめいている。ある者は戦いに破れ、またある者は殺した者の首をかかげて。風景から地形、建物や自然、動物や人間のコスチュームに至るまで、ハイパー•リアリスティックな表現に目を奪われる。この作品は、ヒトラーによって引き起こされたナチの暴挙のその詳細を半永久的に結晶化しようとする試みなのである。
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Jean-Louis Schoellkopt
Liévin, cimetières militaires (1991)はLiévinという産業革命および二回の世界大戦によってその名を知られる街にある軍人墓地を撮影した。整然と並ぶ、大理石の沈黙。軍人墓地というのはしばしばそうであるように、どこの国の者であろうと、死んだ地に埋葬される。死者とはその土地と一体である。
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Paul Mccarthy
Bear and Rabbit on a Rock(1992)は、Paul Mccarthyのスキャンダラスな作品のうちの一つである。ぬいぐるみを使用した表現、これらは子どもたちの大きなぬいぐるみという可愛らしい世界をすり抜け、屈託の無い笑顔を振りまき、セクシュアリティーのタブーをおかす。超えるべきでないものの超越、平和な時代の不穏なものをあらわにする。
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