映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »
Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html
アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。
2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。
艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148
「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。
自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。
我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。
私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。
その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。