09/18/17

展覧会「ファルマコン:医療-エコロジーアートによる芸術的感化」Exposition Pharmakon

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ウェブサイト: 展覧会ファルマコン公式ウェブサイトはこちらをご覧ください! @MREXHIBITION.NET/PHARMAKON

「ファルマコン:医療とエコロジーのアートによる芸術的感化」
Pharmakon: Medical-ecological approaches for artistic sensibilization

展覧会:「ファルマコン:医療とエコロジーのアートによる芸術的感化」
Pharmakon: Medical-ecological approaches for artistic sensibilization

企画:大久保美紀
共催:特定非営利活動法人キャズ
協力:The Terminal Kyoto、京都大学こころの未来研究センター
助成:ポーラ美術振興財団、朝日新聞文化財団

会場・日時:
ターミナル京都(2017年12月1日~23日): 〒600‐8445京都府京都市下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町424
CAS(2017年12月2日~23日): 〒556-0016 大阪府大阪市浪速区浪速区元町1丁目2番25号 A.I.R. 1963 3階

オープニング・レセプション
京都会場・大阪会場におきまして、各オープニングの日、アーティストを交えてレセプションを行ないます。フランスから参加のアーティスト達にとっては初めての日本での展示となります。ぜひお越し下さい。
京都会場:2017/12/1  ターミナル京都 18時~21時 参加無料
大阪会場:2017/12/2  CAS 16時~ 参加500円(アーティストトーク17時~)

キュレーション:大久保美紀
アーティスト:Evor, florian gadenne, Anne-Sophie Yacono, Jérémy Segard, 石井友人, 犬丸晃, 大久保美紀, 田中美帆, 堀園美

<展覧会について>
展覧会「ファルマコン:医療とエコロジーアートによる芸術的感化」(Pharmakon : Medical and ecological approaches for artistic sensibilization )は、フランスより5名のアーティストを招き、日本で活躍する3名のアーティストとキュレータ自身を含める9名の作家からなる現代アートのグループ展です。本展覧会は、ターミナル京都(12月1日オープニング)、および特定非営利活動法人キャズ(CAS、12月2日オープニング)にて12月23日まで開催いたします。

本展覧会「ファルマコン」は、今日の芸術表現が有用性や存在意義を厳しく求められている社会的状況の中で、アートという手段によってこそ実現することのできる社会問題・環境問題への対峙と、芸術表現を通じて他領域への問題提起すること、その意識化の可能性を模索することをめざしています。とりわけ、自然環境と人間の営みの相互的関係や、自然の一部としての人間にとっての先端医療や科学技術の持つべき意味について、芸術的アプローチを介して丁寧に見つめ直すための新しいパースペクティブを提案したいと考えます。

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念です。本展覧会のタイトルとしての「ファルマコン」は、治療薬やドラッグ(remèdes, drogues)を意味すると同時に、染色剤や化粧品などの毒性のあるもの(poisons)を意味するこの言葉の語源に沿って、病が肉体に定着する以前に行なわれる不適切な行為(投薬など)が却って状況を悪化させる可能性を喚起しながら、身体の自然治癒能力と環境へのコミットメントのあり方を巡り、身体のより健全な生き方について考えるようわたしたちを導いてくれるでしょう。さらには、芸術表現は、特定のメッセージとして放たれ、個人や共同体や社会に深く享受されたとき、それがひょっとしてある既存の体制にとってラディカルなものであったとしても、将来の生活や環境に現在のあり方を改善し、それをより好ましい傾向へ向かわせるものとして、つまり「毒=薬」としてふるまうことに着目します。

本展覧会が、芸術領域、専門領域、鑑賞体験という個別のフィールドを超え、それぞれを有機的に結びつけながらダイナミックな対話を生み出す「感化的芸術」(Artistic sensibilization)の機会となるよう願っています。

06/1/15

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS » 盛圭太・西澤みゆき・大久保美紀

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、西澤みゆき(新聞女)の作品「ピース・ロード」と、盛圭太による糸をメディアとしたドローイング・シリーズ「Bug Report」におけるコンセプトとモチーフが出会い、ダイナミックに結びつき、分断され、互いが変容する中で生み出された異型の再解釈の提案である。作品コンセプトの構築に関わって、私自身、盛圭太・西澤みゆきと語り合った。
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作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、何よりもまず、世界への積極的コミットを念頭に置いた表現である。平和への希求、端的に要約すればそのことに他ならないかもしれない。しかし我々が体現しようと試みたのは、あくまで現実の中にある幸福の追求に似た行為であるように思う。我々は、自由で豊かな想像の中では、パラダイスのような夢を見たり、理想主義的なディスコースを繰り広げたり、眩くて直視できないほど美しい客体などをでっちあげることが可能だ。カタルシスのようなもの、それはなるほど、芸術の一つのミッションであるのかもしれない。私たちが、盛圭太と西澤みゆきが、シャルリー・エブド襲撃事件から3ヶ月が経過したパリの中心で構築しようとしたのは、しかし、フィクションとしての平和の希求ではない。
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盛圭太のドローイング・シリーズ「Bug Report」とは、ピストル型のノリで糸を固定し、カッターで切断することによって壁やキャンバスに描き出される糸によるドローイングである。盛によって描き出される画面は、あるときは密集した構造を表し、あるときは放っておかれた自由な一本の糸がたるんだまま存続することを許している。また時には、精緻に構築された糸の造形は、アーティスト自身によって、バリバリと音を立てて破壊され、そこには造形の跡としてのノリの欠片や剥がされた紙の毛羽立ちが遺る。シリーズのタイトルである「Bug Report」は、誤謬(Bug)を孕んだ関係性の構築と読むことも出来るし、あるいはその誤謬そのものがオートノミーの性質を持っていて霊媒(fantom)的に客体を結びつけようとする自律的な営みそのものであるとも、読むことが出来る。
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盛のコンセプトが西澤のピース・ロードと結びつくのは偶然とも必然とも言うことができるが、西澤の作品「ピース・ロード」が2001年9月11日のニューヨーク連続テロの世界的衝撃と一瞬にして崩れ去った平和の脆さへの気づきから始められ、世界中を平和の象徴である一本の道で繋ぐことを目指しながら、これまで日本国内はもちろん、ベネチアなど海外でも実践されていることを鑑みれば、出会いは運命的であると感じられる。「新聞による一本の道」は無論メタファーで、断片として世界に遍在しうるし、オートノミーでもあり得る。突如パリの中心にある盛のアトリエを拠点に、これを結ぼうとする参加者によって自主的に道が開かれることも、作品「ピース・ロード」の延長線上にある出来事なのである。
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私たちの日常は、おぼつかない安心の元に拠っている。無根拠な平和への信頼、安全への信用、穏やかな日々は、束の間に失われる。あるいはまた、常に生きにくい人生を生き続ける人だって大勢いる。アートはそのような非常事態において有用性を問われ、直ちに無用であると切り捨てられるか、あるいは傷ついた人々の心を癒すために必要であるとかろうじてセラピストとしての才能を認められるか、高々その程度の評価である。それ以上の意味や有用性が、表現行為にはあるだろう。リアリティを直視しながら、その過酷な世界に、私たちの家族や、恋人や、子どもや子孫たちが置き去りにされていくという事実から目を背けることなく、生き続けるということについて積極的に紡ぐべき表現行為を、共有する術はきっとあるだろう。

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盛のアトリエの壁は、参加者たちによって切り出された昨今の新聞記事の見出しや写真、記事の一部、政界の著名人、経済界のニュース、紛争や戦争のニュースや写真、意味の分からぬ言語を切り抜くもの、偶然裏表が違ってしまったまま壁に貼られたもの、本来の記事の文脈を失ったテクスト、分断されたイメージ、それらが糸によって結びつけられたり、糸によって孤立させられることによって、無数の窓を持つことになった。切り出された各々の平面はつまり、個別のスクリーンとしての役割を果たし、それらは盛がコントロールするレゾーの構成要素となったり、なり得なかったりする。思えば我々の情報の受容とはこのように断片的・主観的でしか有り得ないものなのだが、その情報のピックアップとリエゾンの行為が複数の個人によって同時に行なわれ、共有される空間のなかで、可視的で可触的なスクリーンとして遍在するとき、その意味はもはや別のものになる。

« CORPUS »。盛はこの集積を想像して、こう呟いた。

共有される空間は我々にとっての内側であり、それには外側を想像することができる。共同体が包まれているものをひっくり返したとしたら、新しい内側にもやはり曖昧な結びつきが広がるだろう。情報のアーカイブのような空間としての »CORPUS »、意味があるようで意味のない、関係があるようで関係のない、存在様態の「集積」。それは我々の身体の内側にまでレゾーを引き込むことができる、リアルなあり方なのだ。

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、2015年4月17日、盛のアトリエで生じ、開かれた無数の窓は、潜在的に、閉じない。

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感謝:
アーティスト 盛圭太、西澤みゆき
写真 Manon Giacone
撮影 杉浦岳史
参加者の皆様

05/16/15

少女文字の研究! @日本記号学会 「美少女の記号論」

美少女の記号論、昨日から始まっています!
日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学、今日の朝10時から、少女文字について発表します!

「自己表象としての筆致―書くことと書かれたものへのフェチシズム、現代のスタイルとは何か」
大久保美紀
<要旨>
「書く」行為は、今日の情報化社会において〈電子的に書く〉=〈キーボードを叩いて文字を入力する〉という新たな意味を帯びる以前、長い間、我々の身体的動作と深く結びついていた。研いだ石を用いて石板に傷を付けるのであれ、墨を含ませた筆を木簡に押し付けるのであれ、あるいは、ペンを紙の上に滑らせるのであれ、書く動作は書かれたものを生み出し、書かれる対象は、何らかの不可逆の作用を被る。例えば、ひとたび文字が綴られた石板は何世紀経っても内容を伝え、公的文書が書き記された木簡や巻物は、今日も重要な歴史的資料として保存されている。また、あたかもその不可逆性をキャンセルしてしまう発明のように見える〈鉛筆/消しゴム/紙〉による記述は、なるほど、書いたものを擦り取った後にまたその上から書くことが出来ると言う点で、それ以前の使い捨ての媒体とは一線を画すが、それもまた、鉛筆の筆圧による紙面の物理的変容や消しゴムの摩擦による紙表面の綻びを考慮すれば、伝統的な「書く」行為の枠組みを出ないと言わざるを得ない。

「書く」行為の物理的軌跡である「筆致」がしばしば、個人的で親密な表現と見なされるのは、上に述べたように、この行為が身体性に深く根ざしているためである。日本社会では、個人の筆致(あるいは筆跡)が、ある個人のアイデンティティを確定する一要素であることを越えて、その個人の属するコミュニティーを確定する特徴としての役割を担ってきた。例えば、1980-1990年代に女学生の間で流行した丸文字(丸字)や、2000年代のギャル字、あるいはヤンキー文字やグラフィティー文字。ある特定のコミュニティーのメンバーによって共有されている特定の字体を身体的鍛錬によって習得し、その字体を「書く」ことは、すなわち、自分がそのコミュニティーに属するのだという、外側の世界に向けて意思表明することを意味した。

あるいは、丸文字やギャル字という特定の字体を追求しなくとも、日本社会における個人の「筆致」が、アルファベット言語圏と比較すると、高度にフェティッシュな表現として認識されていることは特筆すべきである。この要因は、日本語の文字の形状的特徴や教育・文化的背景など、様々である。いずれにせよ、個人の「筆致」は、男女問わず、大人になっても自らの字体を恥じ、それを改善しようとペン字を習い、字体を好まぬばかりに筆無精となってしまう状況を生むほど、個人にとってデリケートな問題なのである。さらに、身体的動作によって紡ぎだされた直筆の文章―たとえば手書きの手紙―は、あたかも書く者の肉声を媒介し、その身体的存在を〈いま、ここ〉に具現化するような特別なオブジェとしての役割すら引き受けることができる。字体のみならず、文体(=スタイル)もまた、本来「筆致」の身体性と深く結びついたものであったと考えられる。

本発表では、「筆致」がどのように、書く者の身体的存在を代替するフェティッシュな存在としての役割を与えられ、それを演じて来たのか、伝統的な意味での手書きから、1990~2000年代の丸文字とギャル文字文化における直筆のあり方までを分析しながら明らかにする。そして、今日「書く」行為が引き受けた新たな意味と、それに呼応して起こる、表現としての「書かれたもの」の変容について考察する。

有毒女子通信第16号もでたよ!ここに少女文字について書いてるヨ!
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11/3/14

「死者のための和気あいあいとした儀式」/ Un rite convivial pour la mort

Un rite convivial pour la mort

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11月2日は死者の日でした。日本のお盆もそうですが、この日あるいはこの日が近くなると死者は生きている我々との距離を一時的に縮めるようです。生きている人々も普段の生活の中でなかなか彼らを訪れられないので、一年に一回お墓にお参りをして近況を伝えたり近況を聴いたりします。この日の数日前より今年は普段よりたいそう体調が悪くなったりもしました。もう11月3日になってしまったので、死者の日は終わりました。

9月29日から4日間、ルアーブルの美大での死についてのワークショップに自主Intervenantesみたいな感じで参加してきました。ルアーブルは歴史的な港町で、第一次世界大戦で街全体に壊滅的な打撃を受け、戦後に新しい街として造り直されました。パリからは電車で2時間半くらいです。ジャン=ノエル・ラファルグさんの企画したワークショップで、彼がこのために設置し、たびたび情報を更新し続けているブログLa Mortは充実しているので、関心のある方はご覧になってください。

このワークショップについての記事は、同じく彼のブログ:こちら(http://hyperbate.fr/dernier/?p=31586)に記載されています。参加した学生の作品やコンセプトがラファルグ氏によって解説されています。私は4日間は滞在できなかったのですが、最終日にもう一度参加し、数分のビデオを発表してきました。私のヴィジットについても記事内で触れてくださったので、ご覧ください。こちらに引用もしておきます。

ブログの引用はこちら。
Le dernier jour, Miki Okubo, qui a été en quelque sorte la marraine de cette semaine de travail, est venue nous montrer un petit film sur la mort de sa grand-mère et a nourri tout le monde avec des makis qu’elle a préparés et des cookies en forme de pièces de dix yens comme celles que l’on incinère avec les défunts pour qu’ils paient leur passage vers le monde de leurs ancêtres — un étudiant s’est intéressé à une tradition proche : dans l’antiquité gréco-romaine, on plaçait dans la bouche ou sur les yeux des défunts des pièces destinées à payer à Charon pour la traversée du Styx.

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写真をみると、おやつ食べてるみたいですが、ショートフィルムを見た後にそのストーリーを共有した皆でいっしょに食事を摂るという趣旨でした。タイトルのUn rite convivial pour la mortは、「死者のための和気あいあいとした儀式」という意味で、convivial(和気あいあい)はしばしば、皆で食事を楽しくとって打ち解けるような状態を現します。このビデオは、基本的に全て私の撮影した画像と家族によるイラストを素材とした、祖母の死に関わる、極めて私小説的なストーリーです。時間は8分くらいで、彼女の死をめぐっての一つの不思議な話と死の間接的原因になった食事時の出来事についてあわあわと語っています。10円玉が消えたこと、生きるための摂食は時に生を奪いうること、物語を共有すること、食を共有すること。ストーリーはこのような問題に焦点を当てています。

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Vimeoにアップロードしましたのでこちらでご覧ください。数日間ここに載せておきます。何せ家族が出演し過ぎているので、ご覧になっていただける際は、パスワード2222を入れていただければと思います、お願いします。ワークショップの折りに急いで作成したものなので、何かと無骨ですが、いずれ全体をまた作り直そうと思いますが。さしあたっては多くの方にご覧頂けますように。

2014年11月3日 大久保美紀