09/16/19

ホメオパシー(同種治療)について10 少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

ホメオパシー(同種治療)について 10(2019年9月16日)
少しずつ毒に対する耐性を高めていき、体液を猛毒にする?

突然だが、インドのマウリア朝時代の説話である毒娘について話したい。毒娘とは何者か、『有毒女子通信』第8号掲載の吉岡洋さんのエッセイの中で詳しく語られているのでそれを引用する。

「毒娘(Visha Kanya)」という話がある。インドのマウリア朝時代(紀元前317 – 180年頃?)に遡るとされる説話らしいが、現代でもインドの文学や映画などには登場する。毒娘とは、生まれながら暗殺者として育成される少女である。古代インド版「最終兵器彼女」とでも言うべきか。女の子に、赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与える。たいていの子はそれで死んでしまうが、中には毒に対して完全な耐性を持った子供が育つ(ありえないと思うけど)。その子が美しい娘に成長した頃には、彼女の体液は恐ろしい猛毒と化しており、ちょっとでもそれに触れた人間は即死する。その少女を首尾よく敵の王家に妻として嫁がせることができれば、新婚初夜が哀れな王子の最後の夜となる、というわけである。

昔、はじめてこの話を聞いたとき、「幸福な王子」とはまさにこのことかもしれないな、と思った(オスカー・ワイルドのあの説教くさい「幸福な王子」には辟易していたので)。生きながらえて王位を継承し、支配者としての重荷はもとより、いずれ避けがたい老死の苦しみをゆっくりと拷問のように味わわされるかわりに、若く美しい花嫁との初めての交わりの瞬間に死ねるとは、世にこれにまさる幸福があるだろうか! してみると毒娘とは、それを用いる策略家にとってはたしかに兵器に違いないが、それによって暗殺される犠牲者にとっては、至福をもたらす女神ともいえるような存在である。その王子は、本当にその娘が暗殺者だと気づかなかったのだろうか。実はすべてを知っていて受け入れたのではないだろうか、と疑いたくなるほどである。

さて、「体液は恐ろしい」というのが、この説話の教訓だろうか? それとも「女は恐ろしい」ということだろうか? ともに否。本当の教訓は、「生きることは恐ろしい」ということだ。なぜなら、生きることは究極的には「自分という体液の状態を維持すること」であり、しかも体液というのは、自分ではどうにもコントロールできないものだからである。毎日の食事において、また人や環境との交わりにおいて、いつ、どんな異物がそこに混入し、死に至る病へと発展するか分からない。この恐ろしさを受け入れるということが、とりもなおさず生きるということにほかならない。何か分からないものを「受け入れる」ことこそ、生き物の最も驚くべき能力ではないだろうか――ちょうど、あの王子が毒娘を受け入れたように。(略)ブログ Tanukinohirune より https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2012/02/毒娘.html

インドの逸話で毒娘というのがあるのだと、『有毒女子通信』の体液特集で吉岡洋さんが紹介しているので知った。(ここではスルーするが、『有毒女子通信』は、体液特集とか、結構踏み込んだ特集をこれまでしてきたので、関心がある方はぜひフィードバックしていただければ、情報など差し上げます。)赤ん坊の頃から少しずつ薄めた毒を与えていくと、子供は毒に対して耐性を獲得して行き、赤ん坊が美しい少女になる頃には毒に完全な耐性を持ち、その体液は猛毒であるような少女が出来上がるという恐ろしい説話である。そもそも微量から与えていったところで皆が皆毒に対して耐性を持つわけではなく、ほとんどは死んでしまうとある。そりゃそうだろう。この説話において、毒は子供の体液を侵食し、それを作り変えてしまう。体液は毒によって侵され、それ自体が毒となる。

体液を重視する考えは、このようにインドでは古代の医学からも伝統的に見られた。アーユルヴェーダは、起源を5世紀とか6世紀まで遡るような歴史的思想で、これは病気を相手とする医療にとどまらず、健康を増進してどのように幸福な人生を追求するかといった哲学的思想を含んでいる。考えの根本には、トリ・ドーシャ(三体液、三病素)の均衡を保つことが健康な状態であり、病とはその均衡が崩れた状態であるとしている。トリ・ドーシャ(三体液、三病素)は、全ての生命を支配する三要素であるトリ(風=運動エネルギー、熱=変換エネルギー、粘液=結合エネルギー)、ドーシャは土、水、火、風、空で構成される。このドーシャとは「不純なもの、病気を引き起こす原因」を意味するが、つまりは体液の異常が病気の状態と定義されていることは興味深い。

毒娘の例で言えば、体液そのものを変質させて猛毒化してしまうので、均衡を保つ考えそのものがないが、アーユルヴェーダの体液概念のように体液の状態そのものが心身の健康状態を反映しているとすると、以前の記事で議論した「水の記憶」(ホメオパシーについて4:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=5573)的に、様々なことを記憶しているのは私たちの「体液」であり、体液に対して働きかける(刺激する、微量の毒を加える、浄化する、など)ことこそが、心身が健康に至るためにすべきことであると言える。

蛇足となるが、ヨーロッパの霊になるが、瀉血(しゃけつ)も体内をめぐる液体(体液)としての血液の手入れをするという点で、ある意味の体液療法と言えなくもない。瀉血は、体内に溜まった扶養物質や有害物質を血液とともに体外に排出することで症状を改善し、健康を回復する治療法である。炎症が起こったところや皮下に溜まった膿を排出するということであれば現代の我々にも想像のつくところであるが、瀉血ではそれに止まらず、血液のよどみが病の原因として、頭部など割と危険な部位の血管も豪快に切開した。不調の時は体内に霊的なものが住み着いたためとし、これを排出するために神秘主義者や呪術医によって汎用された瀉血も、体液信仰と関わるのではないか。

さて、ホメオパシーは、アーユルヴェーダの体液思想に通じるところがある。つまり、同種の毒を身体に与えることによって私たちの体液は、ちょうどいいバランスを自ら思い出して、その内容を調整するといったイメージだ。そんなことは、体液が何から構成されているか、化学的に分析して、その部分部分に焦点を当ててルーペで見つめる方法においては、言うまでもなく無根拠な空論にすぎないのだろう。だが、今日のサイエンスでも、心身については説明しきれないということを認めた上で、「体液」を一つ全体を見るためのカギとして復習してみたならばどうだろう、と思うのだ。

08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
ありあまるごちそう2

写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1

09/1/14

有毒女子通信 No.13 & No.14

みなさまこんにちは。
9月ですね!9月1日です。今日は有毒女子通信編集長の吉岡洋さんのお誕生日だそうです!おめでとうございます!!!今後もますますの有毒女子興盛に向けて、みなさま、編集長が現物を持って布教(普及)に訪れた際には、あたたかい受け入れをどうぞよろしくお願いします!

今年の夏はとても久しぶりに8月の本州(京都、大阪、東京、横浜)に数日滞在し、あれっ?思いのほか活発に過ごせるではないか!と自身を付けて戻ってきたのですが、どうやら、雨が多くて例年よりも全然気温が低かったみたいですね!どーりで、元気いっぱいだったわけですね!蝉がたくさん居るのには感動しました、蝉の大合唱、あれはあそこにしかありません。

reduit_japon 2014 ete 023

さて、みなさま、有毒女子通信 No.13 特集「秘密なんて、ない」とNo.14 特集「まだ間に合う、同性愛」が続々刊行されています!

publication photo 01

No.13 :「秘密なんて、ない」の対談(吉岡洋×松尾恵)は、ショッパナのサブタイトルが「秘密漏洩の恍惚」。秘密漏洩は恍惚、ですよね、そうでしょ? そして松尾さんの気になるエッセイ「自衛隊と床下の壷」も収録。だいじょうぶかしら、だいじょうぶです。どうかお手に取ってお読みください!

publication photo 02

No.14 : 「まだ間に合う、同性愛」は、よくわからない系特集タイトルだが、ようするに、まだ遅くない、ということである。お二人の対談は「みんながおばさんになれば、かさばらない」と名付けられており、相変わらずスゴい。いつものエッセイたちに加え、今回は、せがわ奈央さんの「有毒女子のためのBL入門」と編集委員である廣田ふみさんのエッセイ「のぐちくんへの返答」が収録されています!!!わたしは性懲りもなく、お尻の話をしています。お尻への愛の話です。

さて。めっちゃ真剣な不定期発行批評誌有毒女子通信、日本内外で読まれ中。私の親愛なる先生ジャン=ルイ・ボワシエ氏も近年の刊行分は全号持ってる!本人いわく「だって、定期購読メンバーだから!」 みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

「有毒女子通信」購読のご案内については、こちらをご覧ください。
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w
http://www.voicegallery.org/home.php

p.s.
ところで、日本滞在中に、こんなものを見つけました。毒蛇エキス。毒は美にいい?
これぞ毒娘への道?
japon 2014 ete 026

01/2/14

有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

res_DSC04199

有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
MEGUMI+VOICE GALLERY (click!)
TOXIC GIRLS REVIEW on Twitter (click!)
Media Shop (click!)(予定)

res_DSC04197

07/9/13

受肉した少女 – 有毒女子通信 vol.11 now on sale

SONY DSC

有毒女子通信第11号が出た。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる名前通り非常に可愛らしい雑誌で、私はデザインが一新された先号より「<小さな幸福>をめぐる物語」と称してピースフルなエッセイを連載させていただいている。

第10号は、愛と施錠についてのおはなし。愛と施錠と言えば、貞操帯(ていそうたい)という詩的なオブジェクトについて、書いた。(「愛と施錠の物語」/ PETITS RÉCITS SUR LE BONHEUR EPISODE 1 click!)まだお読みになられていない方!売り切れちゃうよ♡ お気軽にご連絡ください!

第11号は、特集が「少女たちの行方」であったので、「ぱんつを売る少女」について書いた。リクエストにこたえて、大サービスで三行だけマル秘公開。続きは、全国の書店(ルビ:ヴォイスギャラリーおよび編集長)でお買い求めください♪ グラビア付きだよ!!(ホントかいな…。真偽はご自身でお確かめください)

 

「ぱんつを売る少女」は本当にいた。しんしんと粉雪の舞う静かな夜、凍える小さな手を吐息で温め、燐寸はいりませんかー、と道行く人に声をかける燐寸売りの少女を尻目に、ぱんつを脱ぎ捨てそれを売り、彼女は生きた。少女はなぜ、大切なぱんつを脱いだのか。   (『有毒女子通信第11号』より)

 

さて、少女はぱんつを売っても売らなくても、肉体を売っても売らなくても、ものごとの本質は微動だにしない。生身の人間としての少女は、思い悩むひつようも、傷つけられるひつようもない。

いつの頃からこの国には、生身の少女とまったく関係のない、いたいけな一人の少女がたくましく育ち、やがてあらゆる人々の思考を蝕み尽くした。蝕まれた思考は蜘蛛が巣を広げてゆくように、ネットワークを拡大し、そこに迷い込んでくる哀れな蚊だと蛾だとかを一度捕まえたらもう二度と逃がさなかった。少女はあまりに印象深いので、世の中の人々はやがてどの女性を見ても、その少女と脳裏で重ね合わせるようにして、いや、むしろ、その少女のようにみることしか、できなくなってしまったのだ。

 
要するに、イメージの問題である。
我々は、たかだか、バーチャル少女の終わりなき遊びに翻弄されているだけなのである。
繰り返すが、要するに、イメージの問題なのだ。

 

女性の坊主がなぜそんなにスキャンダルなのか?なぜそれをウェブ上の動画で見ることが、某アイドルに対して同情をあおることにつながり、あるいはドラマチックな展開に胸を痛めたり、はたまたそれを見てしまったこと自体にばつの悪さや罪悪感を感じるのだろうか。女は、少女の遊びのために、自らの肉体を貸し与えたに過ぎないのに。

 

アイドルやスポーツ選手や子どもタレントだった少女が、煙草を吸ったり、外泊したり、ドラッグで捕まったり、予想外に妊娠したりすると世間から過剰なほど憤慨され、嫌われ、疎外されるのはなぜか?それくらいのことは、彼女らよりもずっとずっと身近な知り合いのあいだで絶えず繰り広げられている他愛もないことなのに。そもそも、そのナイーブで平凡な理想をかかげることは、あなたの思考があの少女に乗っ取られていることを暴露する以外のなにものでもないというのに。

 

少女が受肉し、楽しく遊ぶのはすばらしい。
自らの肉体を貸し与える女たちは勇敢である。
蜘蛛が編んでゆく精緻な巣の構造はあまりにうつくしい。

 

有毒女子通信
MEGUMI+VOICE GALLERY (click!)
TOXIC GIRLS REVIEW on Twitter (click!)
Media Shop (click!)