09/22/19

ホメオパシー(同種治療)について13 ホメオパシーとファルマコン 2

ホメオパシー(同種治療)について 13(2019年9月20日)
ホメオパシーとファルマコン 2

前回の記事では、ファルマコンの概念について触れながら、「身体に悪いものを摂取する」際の認識が果たす役割について考えてきた。ここで、前回立てた次の問題に立ち戻ってみたい。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ホメオパシーの実践にあたって、リメディーを服用する者が自己の身体に毒を与えていると認識することは意味のあることだと思われる。ホメオパシーは、身体の持つある種の<生来の記憶>に訴え、適切な刺激を与えることにより、身体の自然治癒力に期待して、病や症状を治そうとする療法であった。また、世界に存在する多くの物質は「ファルマコン」(毒にも薬にもなる)としての性質を持っていて、つまり、同じ物質がある人/時/環境では毒にも薬にもなりうる事実は、食養生やファルマコン についての記事において言及した通りである。ホメオパシーもまた、元来、微量の毒の摂取が、適切な症状に施される限りにおいて薬に変化するという考え方であった。(そして、同じ毒は、健全な人が服用した場合、その人の健康を害し、病気にしてしまうと考えた。=「類似性の原則」)ただし、今日のホメオパシー実戦の中では、ホメオパシーのリメディーはその毒としての意味を失い、あるいは希釈によって物理的に毒がかなり弱まり、かつての<錬金術的>な側面をしばしば失ってきていると言っても良いだろう。

さて、ホメオパシーは<錬金術的>な思想であると思う。理由は、ホメオパシーのリメディーに使用する原料は、病気や症状をもたらす毒そのものであることは稀で、それらは通常、<同質>/<同種>とホメオパット達が考えた(定義した)毒によって代わられているからだ。代替物であるなんらかの毒が、身体の自然治癒力のおかげで適切な刺激となって病や症状を改善し、身体の状態をよりよくすると考えた。原因そのものでないが同種のものから、身体での反応を通じて、結果を得ようとした。

ホメオパシーにおいて、同種の毒を摂取し、身体においてある種の錬金術的な反応を引き起こそうとする意思を、リメディーの服用者が持っていることは、それだけで異なる身体への影響を及ぼしたと思われる。それは、結局は慣習的な医療において「エビデンスがない」と打ち捨てられている部分で、月並みな言葉で「精神は身体に影響する」など言うほかなかなか適切な表現のないフィールドであり、そして、それは単なる偽薬効果(プラセボ)とも明らかに異なる。

これまで三週間、比較的密なリズムでホメオパシーを巡って様々な考察を行ってきた。まだまだ深まり切らない謎や問題が山積みだが、ひとまずここまでの13回で連続する記事は一回休憩して、またいろいろなことを書きながら、引き続きホメオパシーの毒の問題については考え続けて行きたいと思う。続編の再開の時にはまたお読みいただいて、ご意見などコメントしていただけると大変励みになり、有り難く読ませていただいている。

再開の折には引き続きお読みいただければ大変嬉しく思う。

*因みに、明日からは、12月上旬から神戸のギャラリー8で展示予定のフロリアン・ガデンの巨大ドローイング « oe »について、数回にわたって連載するのでどうか、Pharmakonのサイトもチェックして見てください!

09/19/19

ホメオパシー(同種治療)について12 ホメオパシーとファルマコン 1

ホメオパシー(同種治療)について 12(2019年9月19日)
ホメオパシーとファルマコン 1

これまで脱線を含めたら長々と11回に渡って記事を綴ってきたのだが、ここにきて、ふと、ホメオパシーの<毒>性が気になった。今更ながら、私は過去に二回企画した展覧会を「ファルマコン」と題しており、ある物質の毒にも薬にもなる両義性がもたらす重要性に着目して、社会や環境、生命について再考する試みを続けており(展覧会ウェブサイト)、とりわけ、摂食(あるいは嗜好品やドラッグを含め摂取すること)を通じて身体があるときは同じ物質に対して非常に異なる反応をすることに関心を持っている。したがって、ホメオパシーが同質の毒を用いることによる治療である限り、ホメオパシーそのものの私たちの身体への<毒>について、再度考えてみる必要があると思った。

ファルマコン について:

薬理学の語源であるギリシャ語ファルマコン(Pharmakon=φάρμακον, Greek)は、「薬」=「毒」の両面的意味を併せ持つ興味深い概念である。この言葉は一般的には「薬」=「毒」=「生け贄の山羊」(古代ギリシャのカタルシスの儀式において差し出される動物に見立てられた生け贄あるいは動物)という三つの意味が知られる。この概念は従って、第一義的に物質的含意を持ち、元来は医療用語での使用が認められるが、プラトンがPhèdreにおいて哲学的とりわけ精神のカタルシスとの関連で展開したことがきっかけとなり、より発展的・抽象的な含意を与えられることとなる。1976年のジャック・デリダの論文La phramacie de Platon (La dissémination, 1993)、Ars industrialisの主宰のベルナール・スティグレールも、エクリチュール(書くこと/書かれたもの)とレクチュル・オラル(声に出して読むこと/口頭伝承)の優越に関する考察にファルマコンを用いている。

また、私は研究及び芸術実戦において、この概念を、使い方によって薬にも毒にもなりうる様な物質や処置、あるいは多くの物質や処置が持っているその様な性質と理解し、応用を試みている。

また、私が2017年12月に開催した展覧会「ファルマコン」の成果をまとめ編集したカタログに寄せて、吉岡洋さんは次のように言及している。

ファルマコンという言葉はギリシア語だが、同様の概念は近代以前の諸文明に広く見出すことができる。たとえば古代中国で完成された漢方医学は、あらゆる薬物、鍼灸や指圧などの刺激が、生体の状態に応じて様々に異なった作用を及ぼすという認識を基に作られている。同じ物質や刺激が、ある場合には人を死から救い、別な場合には人を死に至らしめる。そこではファルマコンは自然認識においてもっとも基礎的な概念なのである。(吉岡洋『ファルマコン』、2018)

ホメオパシーのリメディーには原材料となった毒性は失われていて、しかも大概の場合、副作用もない。あれ?ホメオパシーは<優しい医療>と言われ、妊産婦に処方されてきている通り、実は慣習的な医療における薬よりも無毒な存在となってしまっていることに気がつく。ホメオパシーのリメディーそのものには<毒性>がない。これは大変奇妙なことで、なぜならホメオパシーは<毒を持って毒を制す>メソッドであったはずだからである。かつてのホメオパシーは、希釈による毒性の喪失はもっと不明瞭で、もっと明確にいえば、まだ毒であるそのものを摂取することによって症状を改善しようという、同種治療としてのアイディアが生きていたと思われる。だが、今日ではホメオパシーは、原材料がなんであるか知られていないこともしばしばで、おおよそ毒を摂取している(象徴的な意味で、あるいは原理的な意味で)認識はさらさらない。

果たして、ホメオパシーにとって、毒を摂取しているという認識そのものは大事だったのだろうか?

<毒を摂取している>という認識それ自体が、我々の身体になんらかの影響を及ぼすことはあるのだろうか。

ここでは、ホメオパシーのリメディーを、慣習的な医療で処方される薬と同じような、それを服用すれば症状が良くなるモノとみなすような今日浸透している一般認識のことは一度置いておいて、ホメオパシーがそもそも同種治療であり、同種の毒によって侵された身体をケアすることができるとする大変挑戦的でアグレッシブなメソッドであることを思い出しながら考えを進めたい。かつてそうであった、というだけでなく、そのかつてそうであった認識は今日もなお効力を持ちうるのかどうかを考えて見たい。

<毒を摂取する>という認識が我々の身体の状況をよりよくするのを助ける状況とは、どんな状況だろうか? 私たちは普通身体にいいものを摂取して、身体がより健康になり、心がより元気になると理解しているはずである。だから、いつも健康食品とか、無農薬や減農薬の食べ物とか、病気に効く食材とか、そんなものでメディアは情報を溢れさせている。では、毒を摂取することで、我々がポジティブな効果を期待する例はあるだろうか。例えば、タバコ、お酒、合法ドラッグ(合法でないとそもそも摂取自体が社会的問題となるためこの記事においてはさしあたりこれを<合法>に限定しておく)、あるいはコーラやファストフードなど、消費者は<身体に悪い>ということを知りながら摂取する一部の食品など。これらの摂取は、摂取そのものは身体にネガティブな効果をもたらす、あるいは物質そのものは身体にとって<毒>であるというのが一般的理解であるにも関わらず、用い方によっては、それを消費する者の心身にポジティブな働きかけを行い、あるレベルある範囲において望まれた結果をもたらす。

「体に悪いものはウマイ」(良薬口苦しの言い換え?)というのは、たまに食べる(あるいはコッソリ食べる)カップラーメンとかすごい塩辛いツマミとか油っぽいサラミやピーナッツなんかがすんごくウマイのだ、と言いたいときに父親がよく言っていたセリフであるが、ここでは、普段はこれら油っぽいもの、塩辛いもの、人工的な旨み成分が配合されているものは「体に悪いから」という理由で<我慢>しているのだが、やっぱり我慢している限りで心の底では食べたいことに変わりないので、時々その<我慢>から自己を解放し、そんなものを食べるとものすごくウマイ!!!と感じるという話だ。あるいは、マクドナルドのハンバーガー(+ポテト+コーラ)を食べる人たちは、食べている側から「これは私の体に良くない」と思いながら食べることを繰り返していることが知られている。また、タバコやお酒や合法ドラッグに至っては、そのもう一度欲しくなるシステムが明確にわかっており、それは<依存性>という言葉でしばしば定義されている。マクドナルドも、30日間三食マクドナルドを食べ続けるという体を張ったドキュメンタリー « Super Size Me »を撮影したMorgan Spurlockの分析によると、食したのち直ちに興奮に似た快感で満たされるので、短期的な視点ではある種強い喜びをもたらすが、長期的には、肥満や体調不良など身体の不調のみならず、精神的に落ち込みやすくなったりするなどの結果を報告している。ここでは、これら「体に悪い食べ物」は、「体に悪い」という認識のために、普段多くの人が量や頻度が制限しているからこそ、ひとたび欲望を解放してそれを摂取した時の快感が、それ自体が持っているある種の興奮/快感効果や依存性を助長する形で快感として認識されてしまい、結果、「体に悪いものを摂取しているが、それってすごく気持ちいい」と感じてしまう。

「<自分へのご褒美>としての体に悪いものの摂取」が成り立つのは、この、普段我慢していることを解放する快感ゆえである。記事の冒頭で、同じ物質が毒にも薬にもなる「ファルマコン 」の概念について触れたし、先の記事においても引用した食養生の考え方において、嫌いなものを我慢して食するよりも(たとえ一般に体に悪いと思われているものであっても)心が喜んで食べるのであれば、結果体は元気になる(こともある)、ということが示しているのは、物質そのものの薬性や毒性に時に先行して摂取する者がそれをどのように認識しているかが重要になることがある、という事実である。

今のところホメオパシーとの接点までうまく行き着いていないので、引き続きこの「体に悪いものの摂取」について引き続き考えてみることにする。

09/17/19

ホメオパシー(同種治療)について11 <食養生ー毒と共存する>

ホメオパシー(同種治療)について 11(2019年9月17日)
<食養生ー毒と共存する>

昨年2018年12月に京都の想念庵で展覧会「ファルマコン 2 毒×アート×身体の不協的調和」を開催した一環で、京都大学こころの未来研究センターにておこなったシンポジウムに、『からだと心を整える「食養生」』の著者、辻野将之さんに「毒と共存する食養生」という大変興味深いご講演をいただいた。

「食養生」とは、東洋医学に基礎をおいた健康な生活のための実践であり、大変歴史的な健康のための食実践の一つでありながら、現代社会を生きる私たちの食の問題かかわってとても重要な示唆を与えてくれる。

辻野さんは著書のまえがきで以下のような問題を指摘する。

インターネットの発達で、今はあらゆる情報が容易に手に入る情報化社会です。健康に関する情報も、誰でも簡単に手に入れることができます。にもかかわらず、生活習慣病や摂食障害を患う人が増え続けているのはなぜでしょうか。(略)健康マニアの人ほど不健康になる、という法則があるように感じています。健康になろうとして様々な健康法を次々と試したあげく、結局体を壊してしまうのです。おそらくコマーシャルやテレビの情報に踊らされて、自分に合っていない健康法なのに無理して取り組んでしまった結果でしょう。(『からだと心を整える「食養生」』、p.5)

食養生の実戦において、まず、健康のために大切な5つの項目を示し、<食>はそのピラミッドにおいて最も重要性が低いことを強調する。五つの項目とは、重要な順に<心>、<太陽>、<空気>、<水>、<食>。食が重要でないということではもちろんなく、それ以上にその四項目が大事だということで、<心>はそのまま私たちの心の状態、<太陽>は光を浴びて生きる私たちの生活リズム、<空気>は田舎の良い空気云々よりも深い呼吸をすることの重要さを示しており、<水>はどのような水をどれだけ飲むかという問題に関わる。

さて、それら四項目の重要さを認識した上で、食について、本書で強調されるのは「身土不二」と「一物全体食」の二つの原則だ。「身土不二」は、身(今までの行為)と土(身の拠り所とする環境)が切り離せないことを意味する仏教用語に基づき、住んでいるその土地の、その季節の食べ物を食べることが健康に良い、とする考え方で、これは、季節に関わらず世界中の食べ物が入手できる今日の食文化を生きる我々にとっては知っておかないと簡単にこの原則に背いた食を実践してしまい調子を損ねかねない。また、「一物全体食」では、食べることは命をいただくこと、と考え、その際にはあまり手を加えず、より自然のままの状態でいただくことが良いとする。ここでは、たとえ無農薬や栄養面で優れているとされていても、加工されていたり、品種改良を経た商品であったりすれば、むしろ身体は喜ばないということを明らかにする。

さて、ここまで理解した上で私たちの食をめぐる現状を考えると、しばしばメディアがもてはやすような<健康にいい>とか<オーガニックの>とか、調子のいい響を鵜呑みにしてなんでも試してみることがちっとも身体のためでないことがわかる。なぜなら、「身土不二」と「一物全体食」に基づけば、食べ物はパーソナライズドされた処方みたいなもので、どんな体質のどんな生活リズムのどこに住んでいるどんな人にとっても万人に対して<効く>ようなヘルシーフードなんてあり得ないことがわかる。それよりむしろ、自分に合ったものを知らずに(あるいは無視して)身体に合わないものを食べることによる不調を招きすらする。

食養生の、全体を見る(globalité)メソッドや個人化されたもの(personnalized)であるべき点は、私たちがこれまで見てきたホメオパシーの主要な思想とも一致する。

身体に合わないものを食べることは、たとえ別の文脈でその食べ物が「健康にいい」と定義づけられていたとしても、ある人にとって<毒>として働きうる。体調を悪くし、心の状態を不安定にしてしまうかもしれない。そして身体に合っている食べ物(必要なもの)を摂取すれば、それは<薬>として身体の状態を改善する。このように、ある食物は<毒>にも<薬>にもなりうるアンビバレントなものであり、食養生もまた、東洋医学を基礎としているので陰陽思想を根底に持っており、対になるものとの均衡で健康を定義しているのではないかと私は理解している。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について9脱線2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

ホメオパシー(同種治療)について 9(2019年9月13日)
脱線 その2 「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」

そういえば、せっかく乳腺炎がらみで処方されるホメオパシーをひたすら列挙したついでに、処方箋には記載されないのだが、とにかく勧められたケアについて、この機会に書き留めたいと思う。実は、この記事はホメオパシーについて書いているけれども、この(ちょっと冗談みたいな)脱線2はそこそこ大事な話だと思っていて、なぜなら、個人化された医療であるホメオパシーはひたすら繰り返している通りエビデンスがなくプラセボ同等とみられているけれど、そもそも一人一人が異なる個体である個人の身体をさらにはその生活習慣や環境まで全体を見渡して処方を行うホメオパシーでは、リメディーが効いたか効かなかったか、結局その個人でしか実験不能なところがあって、つまり、実践したその人にとって効果があったと認識されれば、それは薬が症状に働いたというに十分なのである。したがって、以下に書くキャベツの話は、それこそ日本ではコテンパンに言われてきた民間療法だけれども、今日でも大真面目に推してくる助産師がいて、一定数以上の授乳中の女性がキャベツでケアしたことがあり、そのうちの一定数以上の患者が「キャベツ湿布は効く」ことを経験していることを踏まえ、白菜でも小松菜でもチコリの葉でもなく、「キャベツ」がなぜ乳腺炎で湿布に使えと言われるのか、いや、別にキャベツが他の野菜に対して特殊だということを言いたいのではなく、むしろ、ただのキャベツがどうやって一定数以上の痛がってた女性を救ってきたのか、考察してみたい。

話を始める前に、「は?なになに、キャベツキャベツってさっきからなんの話?」という方のためにざっくりキャベツにまつわる歴史的な療法を紹介しよう。

一聞すると、風邪の時梅干しをおでこに貼るといいとか、ネギを首に巻いて寝るといいとか、おばあちゃんの知恵袋ちゃうん?と思えるのですが、「乳腺炎の時(乳房が腫れて熱を持っているとき)キャベツの葉を乳房に貼りなさい、炎症が取れて乳の出が良くなるよ」というのがあるのです。おばあちゃんの知恵袋じゃなくて、医療のプロである助産師に大真面目に言われる。え、キャベツ?ときき返そうものなら、目の奥をまっすぐ見つめて、「葉脈が浮き出ているタイプのキャベツを買いなさい。」と彼女は言う。はあ、葉脈の浮き出てるタイプのキャベツ、あれね。(画像を参照。普通の白キャベツじゃなくて、葉っぱがもこもこと盛り上がってヴォリュームのあるやつだ。)

キャベツによる療法とは、熱を持っている乳房に冷やしたキャベツの葉を湿布することで、熱や痛みを緩和し、乳腺の詰まりを解決しようとするものだ。さて、調べても、なぜキャベツが(他の葉菜じゃなくて、どうしてもキャベツが、しかもどんなキャベツでもいいわけじゃなくて葉脈のもこもこのキャベツが)優れた効果をもたらしてくれると断言されてるのか、どうやって乳腺の炎症を取るのか、乳腺の詰まりがどんなからくりで開通するのか、キャベツが私の乳に何をしてくれるのか、正直一切わからない。(葉脈のモコっとしたキャベツじゃなくても白キャベツでもいいと言う人もいる)あまりにわからないので、探求は続く。そうすると、日本でもキャベツ湿布は助産師のカリキュラムの中に登場するほどポピュラーな療法であることを知ったけれど、同時に、それはエビデンスの無さから今日ではだいたい「こんなものを真面目に薦めるなんてありえん」と一掃されていることも知った。(さらには日本のキャベツ湿布は乳首の部分は穴を開けて貼るように指導しているらしいことも知った!)

疑問は尽きない。

・葉は一回きりで効き目がなくなってしまうので次々新しい葉を使うべきなのか、それともなんども使えるのか。

・何度も使い回しできるとして、どうしたらいいのか。冷やしたら効き目がチャージされるのか。

・何分くらい乳房に当てていればいいのか。

・何という成分がどう炎症に作用するのか。

彼女は自信満々に言った。「処方したホメオパシーはもちろん、キャベツはむちゃくちゃ効くから、帰り道キャベツを買ってすぐに実践しなさい!授乳前に毎回貼るといいわよ!葉脈のモコっとしたやつね!」

キャベツだけに優れた乳腺の炎症を取るための成分があると、私は思っていない。ひょっとしたらパラレルワールドではキャベツじゃなくてアスパラだったかもしれない(いや、棒状の形状では胸に貼れないし不便だからそれは無理か…)同時に、大真面目な助産師さんたちと助産師さんたちに「いや~、こないだ教えていただいたキャベツ湿布、めっちゃ効きましたよ!」とキャベツ湿布サポーターとなった患者さんたちが嘘を言っているわけでも、物事の効果を見極められなくなっているわけでも、非科学的な物事が大好きなわけでも、ないと思う。彼女らにとって、キャベツ湿布は窮地を救ってくれた代物だったのだろう。つまり、<効いた>と認識されたんだろう。その限りで、キャベツ湿布は、その役目を十分にになったことになる。例えば、何の客観的エビデンスがなくて、成分とか効能が立証されてなくて、全く効き目がないと述べる人がたくさんいたとしても。

ちなみに、効く効かないの前に、別に毒はなそうなキャベツ湿布を批判するもっとも説得力ある説明だと、野菜の表面には多数の細菌が付着している可能性があって、生野菜をまだ食べないし腸内細菌の発達や消化機能が未発達の新生児や乳児が、キャベツ湿布のせいで乳房に付着していた悪い細菌(リステリア とか)を摂取してしまったら危険だ、と言うもの。キャベツにどんな細菌がついている可能性があるのか、詳しくないのだが、何とも恐ろしくなる説明である。

まとまりのないキャベツ湿布談義になってしまったが、私の結論は以下である。

キャベツには、乳腺炎に効く成分があるわけじゃないと思う。ただし、キャベツ湿布に救われた切羽詰まってた女性がたくさんいるのは馬鹿げたことじゃなく本当だと思う。キャベツ湿布のポイントはキャベツの葉っぱのちょうど素晴らしい形状とひやっとする温度と、(葉脈がモコっとしたタイプならなおさら素晴らしい)ひんやり感を効果的じわじわに乳房に伝えるテクスチャーだと思う。キャベツ湿布の効き目は以下のように分かれる:

キャベツ湿布実践の結果、

①ひんやりして気持ちが良かった・熱が取れた・実践しているうちに乳腺炎が落ち着いた(偶然、タイミング的に)=キャベツはすごい!

②良くならない・症状が悪化した=キャベツなんか効かねーよ!

このいずれかである。ネガティブフィードバックは助産師の個人のキャビネットではなかなか吸い上げにくいだろう。なぜなら、全然効かなかったら、同じ医療者のところに戻ってこないかもしれない可能性が多いから。一方で、効いたら、そのプロのところにまた戻るから。だから助産師たちはポジティブフィードバックをこの件に関しては耳にしやすいと私は予測する。

今回キャベツの話ばっかりだったのだが、効き目の判断の下りなんかは、特に、効く人と効かない人の両方がいて、どちらも嘘つきなんかじゃないと言う点については、私たちは割といろいろなことを、一つが正しければもう一方は誤っていると言いがちな価値観を植えつけられていることを思い出して、そうとも限らんと一歩後ろに下がって考えてみるために、意味があるのではないかと思う。

09/12/19

ホメオパシー(同種治療)について8 リメディーの原料と効き目の例

ホメオパシー(同種治療)について 8(2019年9月6日)
リメディーの原料と効き目の例

ヒキガエル、というのだろうか。フランス語ではアマガエルのような小さいやつじゃなくてこういうドッシリしたカエルをクラポー(crapaud)という。小さいカエルであるグルヌイユ(grenouille)よりもキャラが立っていて、個人的には雨が降った後の田舎道で車に轢かれて残念な感じになっていることの多い、アイツである。

個人的な話になるが、夏からの数回の助産師診察のたびにホメオパシーをたくさん処方されたのだが、その中の一つに、上のヒキガエルから作られるリメディーRana Bufoがあった。Rana Bufoのホメオパシー利用とその効能について詳しく説明した論文も見つけて、読んで見た。ものすごい多岐にわたる効能が期待されていることがわかった。あまりに長い論文だったので簡潔にいうと、背の方から分泌される毒を抽出して作られており、皮膚の化膿やリンパ系の炎症、コントロール不能な性的興奮、知的活動の衰え、感情の制御不能など行動に関する問題にも効くらしい。

あとは、ヨーロッパ蜜蜂の全身をすりつぶしたものが元になっているApis mellifica。蜜蜂が使われているというので、主なる効用は、虫刺されのチクチクする痛みや晴れ。蜂に刺されたのと似たような症状が現れる水膨れの類。このリメディーは、即効性があるけど長くは効かないので、頻繁に摂取しないといけないらしい。

また、Phytolacca decandraは、アメリカブドウとして知られ、ブドウのような実がなるが、毒性が強い。実は子供や動物にとって毒であるが、根も茎も葉も樹液も毒を持っている。大人でも、妊娠中の女性は摂取すべきでないとされる。中毒になってしまったら、吐き気、唾液過剰、下痢や血便、呼吸困難、痙攣、死ぬ恐れもあるとか。この植物はホメオパシー的には、女性の生理不順や乳房の問題、リュウマチの炎症に使われる。特に、授乳期の女性の胸の痛みや炎症(化膿の始まり)、乳首の傷などに効くことになっているので、複数の助産師が乳腺炎のケースでこれを処方していた。

それからBryoniaは中央ヨーロッパの高地に生息するヒョウタン科の植物。耳鼻咽喉の炎症を抑える効果があるほか、肺炎にも効くとか。また炎症ということではリュウマチに効き、便秘にも効く。そして乳腺炎にも。母乳が出るようにもなるとか。この植物を食べると炎症が起こるとか、どのような毒性があるのかまだ調べられていない。

Belladonnaはイタリア語でズバリ「美しい女性」。ナス科オオカミナスビ属の植物で、小さい丸いナスっぽい実がなる。根と茎に毒性があり、葉には油が浮いていて触れただけで酷くかぶれる。トロパンアルカロイドを含み、中毒を起こすと、嘔吐、異常興奮、死に至ることすらあるらしい。恐ろしい。ちなみにこの植物はベラドンナコンという薬品として実用化されている。ホメオパシー的には、熱や炎症に関わる症状に効く。粘膜の乾燥や肌のかぶれ、更年期の体の火照りにも効くらしい。ちなみに、「美しい女性」以外にもたくさん呼び名があって、黒いボタン、怒りのナス、悪魔のさくらんぼなどと呼ばれる。中世の女性はこの毒ナスを目元のお化粧するのに使用していたらしい。

この辺りはしばしば乳腺炎を含む授乳の問題に関する外来で助産師が処方するホメオパシーである。症状や処方する助産師にもよるが、だいたい1日に3回、5粒くらい飲んでくださいということだとして、4、5種類あった場合、普段飴とか甘いお菓子とか食べないので、舌下に20粒くらいの砂糖玉をダラダラ舐めてること自体が相当甘ったるく、蜂とかカエルのことを想像してみても希釈のことがあるのでやはり甘さだけが口の中に戻ってきてしまった。たとえヒキガエルエッセンスを摂取していようとも、粉々になったミツバチのカケラを水溶液の記憶程度に飲み込んでいようとも、<毒によって毒を制す!>イメージとは程遠い甘ったるい体験なのである。

(もしホメオパシーの他のリストをご覧になる場合、http://www.doctissimo.fr/sante/homeopathie/souches-homeopathiques こちらに一覧がある。)

09/4/19

ホメオパシー(同種治療)について 3

ホメオパシー(同種治療)について 3 
(2019年9月5日)
ホメオパシー(homéopathie)の基本的な考え方とリメディーの生成について、今更だが言及しておきたい。これらの内容についてはより専門的で網羅的な情報を手にいれる手段があり、これから書くことは一応、私のような非専門家が端折ってまとめているに過ぎないとご理解いただいた上でお読みいただければと思う。

ホメオパシーは、同種治療つまり、病や症状を引き起こす原因となるもの(と似たもの)を微量摂取することによって、これを治療することができるとする考え方である。スルーしてはいけない。「え?待て待て、それってどういうこと?」とすかさずつっこむべきだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなるの?と。ここにホメオパシー最大の仮説あるいは魅力的思想が横たわっていると思われる。それは、「身体は知っている」原則なのである。それは直ちに、ジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が1988年にNatureに発表した論文のテーズ 「水の記憶」(« Mémoire de l’eau »)が言ってのけた、「水は憶えている」を思い起こさせる。バンヴェニストの「水の記憶」についても、のちの考察の過程で言及するつもりだが、この論文が発表された時、フランスの、いや世界のホメオパット(ホメオパシー専門家)たちは大変喜んでこれを支持したのはもっともなことだ。今回の話題に戻るが、ホメオパシーの最大のポイントは、私たちの身体が生まれながらに持っている自然治癒力たるものへの全面的な信頼(と信仰)なのである。
つまりこういうことだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなる。なぜならば、身体はもともと病や不調が起こった時にそれを治癒する力を持ち合わせていて、しかし身体の不調においてはそれが忘れられているに過ぎない。それを思い起こさせてやるためには<適切な>刺激を与えることこそが必要であり、その刺激というのが、身体の不調の原因となった<毒>を超微量摂取することなのである。

次の図は、doctissimoというフランスの医療関係のウェブサイトにあるホメオパシーの原理を説明する記事から借用した。図は、絵を見ての通り、
<健康な人> + <希釈されていないホメオパシーのリメディー> = <不調がある人>
<不調がある人> + <適切に希釈され準備されたリメディー> = <健康な人>
という単純明快な方程式を表している。


また、以下の図も同様の記事から借用したものだが、ホメオパシーのリメディーに記されている「(数字)CH」「DH(数字)」という記号が、どのような希釈濃度を表していることを説明している。これはホメオパシーの創始者であるハーネマンの名にちなんでおり(ハーネマン式100分希釈、la dilution Centésimale Hahnemannienneあるいはハーネマン式10分希釈、la dilution Décimale Hahnemannienne)、1CH数字が上がるとそれは1/100に希釈される。リメディーにもよるが、処方されるリメディーでよく見るのは、7CHとか9CHとかが多く、5CHというのもあったが、それでも原液の100の5乗分の一の濃さなのでかなり希釈されていると言える。

ホメオパシーのリメディーの原材料は、植物、動物、ミネラル由来の三種類があり、そのうち60パーセントは植物由来のため、なんとなく身体に優しく自然なイメージがつきまとう。調べていくと、虫を丸まんますり潰したものとか、カエルとかイカスミとか、ウソ〜、希釈されててもなんだか摂取が憚られるよ?といった原料にも出会う。リメディーの原料と効果リストもかなり興味深いのでこの話題はまたのちにとっておきたい。今日のところは、ホメオパシーのリメディーがどのように作られているかごく簡単にまとめた。以下の図は同様のdoctissimoよりホメオパシー原料を説明する記事より引用した。お分かりのように、延々と希釈されたのちにそれはショ糖や乳糖と合わされて、あの色とりどりのプラスチックケースに入っている甘い小さなつぶつぶになるのだ。砂糖玉は舌下において溶けるまでゆっくり待つことによって摂取される。

さあ、この原材料から遠く遠く希釈されていく様子をご覧ください!原材料はすり潰したり濾されたりしたのち、アルコールに混ぜられる。三週間ほどアルコール漬けにされる。そして、濾されて、濾されて、ここでやっと上の希釈方法の図に出てきた原液が完成する。説明が前後してしまったが、材料となった物質が、リメディーには一分子も含まれていないのはどうやら本当で、この長い希釈の過程を経て、患者が摂取するリメディーが作られているのだ。

子供の時の薬が甘いシロップが多いからだろうか、この甘ったるい砂糖玉を舐めていると、嫌が応にも精神がリラックスして、この「優しい医療」(médecine douce)の毒?にあてられる気がする。この薬には恐るべきあるいは苦しむべき副作用もなく、苦くて嫌な味もなく、なんと私の身体に優しいことか!

09/3/19

ホメオパシー(同種治療)について 2

ホメオパシー(同種治療)について 2 
(2019年9月3日)

ホメオパシー(homéopathie)について、前回の記事で、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きないことを書いた。それ自体に心身への害はない単なる砂糖玉であるリメディーを処方することについて、どのような理由で厳しく批判があるのだろうか。プラセボ(偽薬)は医療としても適切に用いられることについてはその効果が認められているのだから、もしただの砂糖玉であったとしても、それがなんらかのポジティブな働きかけを患者に対してしうるとすれば、処方を全面的に禁止するまでの批判が出るまい。

戦後のホメオパシー実践では、いくつかホメオパシーによるリメディー処方による死亡事故が起こっている。日本でホメオパシーの問題について語られる時必ず引かれるのが、2010年に起こった新生児死亡事故である。これは、新生児は出血時に血液凝固の働きを助けるビタミンKを十分に持たず、母乳でもこれを補うことはできないことから、稀にある消火器や頭蓋内出血を防ぐため、今日は産院で出産するとビタミンK2シロップを処方され、これを新生児に飲ませることになっている。新生児死亡事故では、適切に与えられるべきビタミンK2シロップの代わりにホメオパシーのリメディを与えたことにより、新生児ビタミンK欠乏性出血症により新生児が死亡してしまった。

また、イタリアではホメオパシーの処方のみを受けていた7歳の子供が中耳炎を悪化させ脳に炎症が及び死亡したという事件が2017年に起きている(http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2017/05/27/97001-20170527FILWWW00072-homeopathie-l-italie-s-emeut-de-la-mort-d-un-enfant.php)。この悲惨なケースでは、子供の両親は3歳からホメオパシーのみそれ以前も耳鼻咽喉の不調を治療してきており、中耳炎についても過去にホメオパシーのリメディーで治療したことがあったが、二週間も熱が下がらず緊急病院へ連れていったという。子供にホメオパシーを実践する親の数は決して無視できない中で、ヨーロッパでのホメオパシー見直しが厳しくなるきっかけとなる一件であったことは間違いない。

上述のような極端なケースでなくとも、反対派の主要な主張としては、ホメオパシーのリメディーを与えられて、患者がホメオパシーのみで治療が可能であると信じることによって、癌や他の病など急を要する治療に取り組むことが遅れてしまい結果的に重篤な事態を招きうるのだから、ホメオパシーに基づく処方を患者が信じてそれのみで病気が治ると考えてしまうことは危険だ、というものだ。

ここまで考えてみると、<実はこんなにも危険な(可能性のある)>ホメオパシーが一体どのようにして広く利用され、公的に処方され、その効果が信じられるところでは信じられ続けている状況が今日もあるのか、わからなくなるかもしれない。

これ以上考察を進める前に断っておきたいのが、私自身がここで行いたいのは、ホメオパシーがいいか悪いかを議論することではないということだ。ホメオパシーの実践者に対して、あるいはホメオパシーの非実践者に対して、個人的な意見の介入や批判をすることは全く目的ではない。私が心に刺さっているのは言ってみれば、「今日私たちがだいたいは信じ切っている科学的なことでは証明されない療法であるホメオパシーを、自立させ得ているものの正体はなんなのか?」、「科学的見地に基づく医療を超えた力みたいなものを、私たちは再度味方にすることができるのか?」、「その力は私たちをよりよく生き抜くいこと可能にするのか?」そんな好奇心に満ちた疑問なのである。

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。